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【R18】第15話 偽りの頂上
兄への電話は本社の一階でかけた。
正面玄関を入って右手、階段の脇に公衆電話が二台ある。来客の使う場所だから、社員が並ぶことはない。受話器を上げて番号を回すと、秘書が取り次ぎ、雪彦 へと代わった。
「どうした」
「泉堂 製薬の本社にいます。九月に五十周年の式典があって、その手伝いです」
雪彦はしばし受話器の向こうで黙っていたが、ながて椅子が鳴る音がした。
「おまえが、会社に出入りしているのか」
「今回の運営を任されている泉堂やよいに引き込まれた。俺に名簿を整理してほしいと」
「泉堂賀久 は許したのか」
「妹からの頼みです。あいつも断れなかった」
報告しながら、山桜桃 は経緯を選びながら喋っていることに気づいた。やよいの目的も、二階の広間で渡されたものも、兄へ言う気になれない。またひとつふたつと、隠し事が増えてしまった。山桜桃は忠実な弟という役割でしか、剣崎 家で存在を許されなかったというのに。
「報告が三つあります」
「待て。書く」
紙を引く音がした。
「ひとつ目、エルダー製薬。本社はスイス。泉堂の招待客に去年から入っている。今年の卓順は五番」
「ほう、高待遇だな。しかし、聞かない名だ」
「一昨年までは名簿にはありませんでした。二年で八番から五番に昇格しています。この会社は五十年、席の並びをほとんど変えていない」
「……上げたということは、取引が増えたということか」
「俺はそう読んでいます」
兄が書いている音が続いている。
「ふたつ目、久我原重成 。三十年の間、ずっと一番卓だったのに去年から招待されていません。突然、名簿から名前が消えている」
書き留める音が止まった。二秒ほどか、それより短かったかもしれない。
「……久我原 先生か」
「兄さんは当然、知っているでしょう」
「もちろん、骨身に染みてな」
声の高さは変わらなかったが、苦々しい物言いだった。
「製薬の周年で一番卓に座るのは政治家です。認可も、輸出の許可も、最後は人の顔で決まるものです。三十年招待されていた人間が二年続けて消えるのは、経路が切れたということでしょう」
「……三つ目はなんだ」
「委任状の写しを見ました。代表権が当主から泉堂賀久へ移っている。日付は平成元年一月十七日。当主はその日、病室にいました」
「写しをどこで手に入れた」
「……言えません」
兄は追及しなかった。
「平成元年付近に、三つとも起きているわけだ」
「そうです。当主の権限が賀久へ移り、馴染みの政治家が消え、外国の会社が現れた」
しばらく、紙の音だけがしていた。
「よくやった」
その二文字を、山桜桃は聞き慣れている。数年、この男の下で働いた。
「こちらで当たる。エルダー製薬と泉堂賀久の経路については調べよう。久我原先生のほうは……別筋で確かめる」
「頼みます」
「山桜桃」
受話器を置きかけて、止めた。
「おまえは動くな。会社に出入りしているというのは聞かなかったことにする。あとは任せて、夫の機嫌でも取ってやれ」
「……承知しました」
電話を切った。
十円玉が二枚落ちてきて、返却口で鳴る。硬貨の乾いた金属音。それを拾って、封筒を上着に戻す。
五分もかかっていない。
◇
正面玄関へ歩きかけて、足が止まった。
ロビーの脚立の下で、作業員が金具を天井へ打ち込んでいる。乾いた音が三度続く。その音を聞きながら、山桜桃は自分の行動を反芻した。
いま渡したものがなにを引き起こすかは分かっている。兄へ渡した以上、賀久への追求は避けられないだろう。山桜桃は剣崎の次男として与えられた任務をこなし、正しく遂行してみせた。泉堂次期当主の妻としては、どうだろう。その前に賀久の伴侶として、これが最善だったのだろうか。ひと目でもいいから夫の顔が見たいと、柄にもなく思う。
答えが出せないまま、じっと動くことができない。回転扉が回ったのは、そのときである。
外の光を背にして、四人が入ってきた。先頭が賀久だ。両脇に社の人間が二人、半歩後ろにもう一人。外回りから戻ったばかりらしく、四人とも上着を腕にかけている。
賀久がこちらを見た。
足が止まる。後ろの三人も止まった。
「……山桜桃」
「社長の奥さまだ」
誰かが小さく言った。若い社員がひとり、慌てて鞄を持ち替えて頭を下げる。もうひとりが「どうして」と言いかけて、隣の男に肘で止められた。空気がぴりりと動いたのが分かる。この会社の人間にとって、社長の妻がロビーに立っているというのは、社員にとっても想定外なのだろう。
山桜桃は自分の上着を見た。内側に封筒がある。
この階の公衆電話でなにをしていたかと訊かれる前に、なにか言わなければならなかった。
「……会えると思って、待っていた」
声が思ったより静かに出る。
嘘ではない。会いたいと足を止めて、すぐ玄関へ向かわなかった。根気よく待ち続けたわけではないが、願ったのは事実だ。
言ってしまってから、山桜桃は自分の言葉に追いつかれた。
待っていた。そのとおりだった。理由を並べ替えても、残るものは同じだ。
賀久が黙っている。
三人の目がこちらを見ていた。妻としてここに立っているのなら、妻らしく振る舞わねばならない。
山桜桃は一歩踏み出して、賀久のネクタイに手を伸ばした。
結び目が右に寄っていた。指をかけて中央に戻し、襟の下を整える。布の硬さと、その下の体温が指に伝わった。
賀久は動かなかった。
されるままになっている。両手は上着を持ったままで、退きもしなければ、こちらの手を掴みもしない。青い目だけが山桜桃の顔にある。夫の表情を読み取ることは山桜桃にとって難しい。
自分がなにをしたのかを、離してから理解した。この男の身なりに触れたことなど一度もない。しかも人前である。指先が熱を持っていて、それを隠すために上着の合わせを直した。
「……帰りを待っている」
言えたのはそれだけで、賀久は一秒ほど動かなかった。
それから、後ろの三人を振り返らずに歩き出した。
「戻りは八時だ」
すれ違うときに、それだけ言った。
四人の足音がエレベーターのほうへ遠ざかっていく。若い社員がもう一度こちらを振り返って、頭を下げてから追いかけていった。
山桜桃はしばらくロビーに立っていた。
天井で、また金具の音が三度鳴った。
◇
邸宅に帰り着いたのは、五時過ぎだった。
賀久が戻ったのは、宣言通り八時過ぎである。
夕食は二人で摂った。賀久は昼のことに触れず、淡々としている。庭の百日紅が咲いたという話をして、皿を下げさせた。
山桜桃は自室に戻って風呂を使い、日誌を開いたまま手が止まる。今夜もやはり書くことがない。
扉が叩かれたのは、十時を回ってからだった。
「入るぞ」
返事の前に開くのは、いつものことだ。賀久は寝間着のままだった。灯りを背にして立っている。
山桜桃は日誌を伏せた。
この二晩、この男は理由を持ってやって来た。一晩目は嘘を暴くため、二晩目は印をつけるため。今夜はなにを山桜桃に与えようとしているのか。
「なんの用だ」
「用がなくてはだめか?」
賀久は扉を閉め、寝台の縁に腰を下ろした。それきり、なにもしない。
山桜桃は立ったまま、その背中を見ていた。
気がついたら寝台へと足が動いていた。賀久の前に立って、手を伸ばす。そっと薄茶の髪に触れた。指の間を通る感触が、思っていたよりやわらかい。
賀久が顔を上げた。
青い目が、灯りの下でこちらを見ている。この男がひどく驚いている様子を山桜桃は初めて見た。
髪から頬へ、手を下ろす。傷ひとつない滑らかな肌を、するすると撫でる。
ふた月と少し、この男に触れられ続けてきたが、触れたことは一度もなかった。いつも扉を開けたのはこちらだが、そこから先はいつも向こうの手が動く。
なぜ今夜なのか。そんなことはわかりきっている。罪悪感だ。賀久を陥れてしまうかもしれない。潔白であって欲しい。もし黒であったなら、山桜桃はどうしたらいいのだろう。
膝を折った。
絨毯に片膝をついて、寝間着の下履 きに手をかける。喉が渇いていた。指が思うように動かず、二度やり直した。やがて下着の布地が割れ、覗いた肌に熱が立ち上っている。
やり方は知っている。アルファであり名家の山桜桃は誘惑も多い。知識としてなら、軍にいたころに嫌でも耳に入っていた。実際にやったことは一度もない。
「……やめろ」
まだ勃ち上がっていないそれを口に含もうとして、肩を掴まれた。
力は強くない。押し戻されて、山桜桃は膝をついたまま賀久を見上げた。掴む指先がかすかに震えている。
「嫌だったか?」
答えはなかった。
賀久の手が肩から腕へ下りて、そのまま引き上げられる。立たされて、寝台へ座らされた。山桜桃はされるままになっている。
なにか拙かったのか。そういうことをさせたくないのか。それとも自分にその資格がないと思っているのか。
どれもこわくて訊けなかった。
賀久が膝をついた。
絨毯の上に、さっきまで山桜桃がいた場所である。
薄茶の頭が下がっていくのを、山桜桃は理解できずに見ていた。
寝間着の下履きが割られて、太腿の内側に熱い息が吹きつけられる。それだけで腰の芯が収縮した。
「っ、ま——」
止めようとした手が、髪を掴んだだけで力にならない。指の隙間を薄茶の毛髪が滑る。
割れ目のやわらかい先端に直接、唾液で湿った熱い粘膜が押し当てられた。
あ、と声の塊が喉を塞ぐ。
財団の次期当主が、泉堂製薬という企業のトップが、絨毯に膝をついて自分の下にいる。
幼馴染であっても、元婚約者であっても、あり得ない光景だった。
あり得ないものを見ているのに、身体は恐ろしい精度で反応している。口内に深く含み込まれ、濡れた舌が繊細な筋を舐め上げるたびに腰が跳ねた。逃げようとするのに、両太腿の裏を硬い手でしっかりと押さえ込まれて固定される。
「あ、つ……賀、久っ……」
舌尖が硬い突起を弾き、吸い上げるたびに、下腹から痺れのような熱が全身へ波及した。舌の平で面を擦り、ついで尖らせて裏側の溝をくまなく辿る。喉の奥まで呑み込まれ、温かい粘膜に密着される感覚に、山桜桃の足先が引きつるように丸まった。
乱暴なところがひとつもない。ただ丁寧に、山桜桃が最も声を殺せない場所を正確に選び取り、甘く吸い寄せてくる。
「賀久、やめ……っ、ぁ」
言葉にならなかった。
軍にいたころ、下に置かれることには慣らされている。命じられ、殴られ、耐えることには対処できた。上の人間が自分の下に降りてきて、その舌で屈服させに来る事態に、対処できることはひとつもなかった。
羞恥が快感より先に来て、それから容易く追い抜かれた。
口腔の熱に圧迫されるたび、先から溢れた粘液が賀久の唇を濡らしていく。ぐちゅ、と粘り気のある音が耳に届くたび、山桜桃は正気を削られた。
背中が反る。腰が浮いて、押さえつけられて、それでも熱の波が止まらない。頭の中が白く濁って、賀久がなにを考えているのかを知りたいのに、思考が先に落ちていった。
◇
寝かされたとき、山桜桃はもう自分の呼吸を数えられなくなっていた。
身体が寝台のシーツに沈む。賀久の手がていねいに、しかし抗えない力で膝を開かせた。腿の裏を撫で上げる指先が熱い。
ボトルが傾けられ、冷たい潤滑剤が粘膜に垂らされた。冷たさに身震いしたのも束の間、指が入ってくる。
ヒートでもないのに、身体は前に抱かれたときよりはるかに早く、密やかに濡れて開いた。覚えているのだ。この男の指の形を、入ってくる角度を。
「あ、っ……」
声を押し殺す理由が、今夜は思いつかない。
賀久の指が深く届き、壁を押し広げる。すぐに二本目が重なり、内側のやわらかい肉を押し分けた。浅いところを幾度も優しく擦られ、指の関節が刻む刺激に身体が勝手に震える。それから、さらに深く奥を暴かれた。
指の先端が、特定の肉の隆起に触れた。
「っあ!」
当てられた場所で腰が跳ねると、賀久はそこを覚えて、同じ角度で指を曲げた。二度、三度。押し潰すような圧迫と、引き抜く際の粘膜の擦過音。堪えようとするたび、堪えきれない声が出る形に変えられていく。
汗が耳の後ろを伝った。
指が抜き去られ、避妊具を破る音がする。山桜桃は呼吸を整えながら、その瞬間を待つ。太い質感が割れ目に押し当てられた。
入ってきたとき、山桜桃は自分から賀久の背に手を回していた。
初めてだった。しがみつくつもりはなかったのに、腕が勝手に動いている。賀久の背中が汗で滑って、指の跡がついた。ぎゅっと爪を立てると、賀久の息が低く喉で鳴る。
熱い塊が、隙間なく肉を押し広げて奥へ突き刺さる。みちみちと内側が押し広げられる圧迫感に、山桜桃は顎を跳ね上げた。
律動は深く、ゆっくりしていた。急がない。奥まで届いてから戻るまでのあいだが長く、そのあいだじゅう内側を引き延ばされる。ゆっくりと抜かれ、粘膜どうしが擦れ合う微細な感触が肉の奥まで伝わる。そして再び、ゆっくりと根元まで沈められる。声が途切れずに漏れ続けた。
この抱き方を、山桜桃は説明できない。
乱暴にされるならわかる。所有を示すならわかる。今夜のこれは、そのどちらでもなかった。
愛していなければできない。
その言葉が頭をよぎって、山桜桃は目を閉じた。
だとすれば、なぜ。
夫婦になるだけなら、俺をオメガにする必要はなかった。婚約を解いた十五の年に言えばよかった。名を並べるだけなら、あんな薬は要らなかった。
言えなかった。言えば、自分がそれを望んでいたことになる。
そして今日、この男を兄へと売る材料を電話で渡した。
考えたくない。
やめたというより、続きを保持する力が残っていなかった。奥を突かれるたびに思考の端が削れて、削れた分だけ楽になっていく。楽になっていく自分が恐ろしくて、それも次の一突きで流された。
腰を掴む賀久の手のひらが、熱い。突き入れられるたび、ふたりの身体が触れ合う水音が部屋の静寂に響く。
敷布に額をつけたまま、首を横へ倒した。
なぜそうしたのかは分からない。差し出そうと思ったわけではなかった。ただ、そこに賀久の息がかかっていて、身体が勝手に角度を作っていた。
うなじを晒す姿勢。オメガがアルファに番の刻印を求める、本能の形。
動きが止まった。
賀久の呼吸が、うなじのすぐ上で乱れている。歯が触れた。皮膚の上に、硬いものが当たる感触。
噛まれる、と思った。
噛まれれば、もう逃げられない。完全な番となり、精神まで屈服する。
賀久は止まった。
歯が離れる。触れただけで、離れていく。
「なぜだ……?」
自分の声が、遠くで聞こえた。熱に浮かされていて、平時なら決して口にしない問いが出ていた。
答えはなかった。
代わりに、腰を抱え直された。
深く入ってきて、それから、これまでのどれとも違う抱き方になった。急がず、外さず、山桜桃が息を吐く場所を全部知っているような動きだった。うなじには二度と近づかず、その分だけ背中や腰や、髪の生え際に手が置かれる。
痛いほど愛されている。その事実だけが、刃のように肉へ刺さった。
こちらから愛そうとすれば拒む。首を差し出せば噛まれない。それなのに与えられるものだけが増えていく。受け取り方が分からず、拒む理由も見つからず、山桜桃はただ声を上げた。
「賀久、賀久」
名前しか出てこなかった。
呼ぶたびに動きが深くなる。返事はない。返事がないまま、抱き方だけがやさしくなっていく。
最奥を強く突かれ、激しい熱の波が下腹から駆け上がった。
白く視界が弾けたとき、山桜桃はひとすじ、涙を流していた。
自分が泣いていることに気づいたのは、賀久の指が目尻を拭ったからである。
◇
しばらく、どちらも動かなかった。
賀久が抜いて、いつものように処理をして、身体を拭く。丁寧な手つきである。今夜は、その丁寧さを疑う気力も残っていなかった。
寝間着を着る音がして、寝台の脇に立つ気配がした。
山桜桃は目を開くことができない。
なにか言われるのを待っていた。ひとことでいい。今夜のあれがなんだったのか、この男の口から出てくれば、それを持って明日を生きられる。
「もう寝ろ」
それだけだった。
扉が閉まる。
しばらくしてから、山桜桃は寝返りを打った。天井の漆喰 が、灯りの角度で影を作っている。
今夜中にも兄が動き出し、山桜桃が差し出したものが調べられ、いずれ裏が取れる。このふた月あまりで初めて、山桜桃は自分の役目を果たした。
すべて上手くいっているのに、寝返りを打つたびに心の置き場が見つからない。
うなじに手を当てた。歯の跡はない。首の横の跡は、まだ消えていなかった。
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