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第14話 お飾りの仕事

 泉堂(せんどう)製薬の本社は日本橋にある。  石造りの正面玄関を入ると天井が高く、床の大理石に足音が響いた。ロビーの中央では作業員が脚立を組んでいる。八月の頭から入るという三隅の施工は、もう始まっていた。  案内されたのは五階の総務部である。部屋の入り口で、山桜桃(ゆすら)は襟に指をやった。今朝、鏡の前で首筋の痕を隠そうと三度試している。夏物のシャツの襟はもともと低いからか、どう立てても隠れなかった。 「若奥さま、こちらへ」  通されたのは奥の会議室で、長机に椅子が八つ。案内した若い社員は、扉を開けてすぐ下がっていった。  五分ほどして、女がひとり入ってきた。  肩の張ったロイヤルブルーのスーツ。指や首で主張している派手好みのアクセサリー。髪はきっちりと立ち上げられていて、香水が扉から三歩ぶん先に届いた。歳は五十ほどか。 「総務の江崎(えざき)と申します」  両手で名刺を差し出し、頭を下げる。スプレーで固められた前髪はきっちりと崩れていなかった。 「泉堂です。……このたびは、世話になる」  江崎は椅子を引いて座り、書類の束を机に置いた。山桜桃の首を一度見て、それきり見ない。 「九月二十一日の当日は、正面の三番テーブルにお座りいただきます。開宴の三十分前にお越しいただければ結構です。ご挨拶は社長がなさいますので、奥さまはお立ちにならなくて構いません」 「……準備には」 「もう終わっております」  紙が一枚、こちらへ滑ってきた。  来賓名簿の最終版だった。上から順に社名と氏名と肩書き、右端に卓番号が振ってある。三百人を超えている。 「お目通しだけ。もし剣崎(けんざき)家のほうでお加えになりたい方がいらっしゃいましたら、今週中に。それ以降は席が動かせません」  江崎は面倒な仕事を増やして、と不満げに立ち上がりかけた。 「江崎さん」  名を呼ぶと、眉をひそめて女は動きを止める。 「去年と一昨年の名簿はあるか」 「……ございますけれど」 「見せてほしい」  江崎は座り直した。上から下まで見るような目つきをしてから、口の端をわずかに動かした。 「若奥さま、これはお座りいただくお仕事ですよ」 「知っている」 「招待客は三百人ですよ。うちは五十年やっているんです。並びは決まっております」 「決まっているものを見たいと言っている」  沈黙が数秒あった。  やがて江崎は立って、扉を開け、廊下の誰かに二言三言だけ言った。戻ってきても、座らない。 「少々お時間をいただきます」    ◇  過去の名簿は、思ったより厚かった。  周年でなくとも、この会社は毎年秋に賀詞交歓(がしこうかん)の会を開いている。その分の名簿も一緒に出てきた。昭和六十二年から平成元年まで、三年分。  山桜桃は上着を脱ぎ、長机に三枚を並べた。  議員会館にいたころ、同じことを何度もやった。名簿は挨拶のためのものではない。誰がどの位置にいるかを、その組織が公式に認めた記録である。位置は動かない。動かせば失礼にあたるし、動かす理由もない。だから、動いたところだけが目立つ。  卓番号を指でなぞっていく。  一番から順に、政界、官庁、金融、同業、取引先。三年とも大きな変化はなかった。日本橋の会社が五十年かけて作った並びは、三年程度ではびくともしない。  三枚目で、指が止まった。  平成元年の名簿に、見覚えのない社名がある。  エルダー製薬株式会社。卓は八番。  一昨年の名簿を見る。ない。その前も、ない。  今年の最終版に戻る。ある。卓は五番に上がっていた。 「江崎さん」  女は壁際に立ったままだった。若奥さまを一人にはしない。名簿を読むあいだ、ずっとそこにいる。 「エルダー製薬というのは」 「あちらさまは去年が初めてでございます」 「外国の会社か」 「本社はスイスだったかと。うちは外国のお客様をあまりお呼びいたしません。ですから去年は、席をどこにするかで揉めました。前例がございませんと、決められないものですから。八番はそういう経緯でございます」 「今年は五番だ」 「さようでございますね」  声の高さが変わらない。 「そこは私が決めたのではありませんので」  誰が決めたのか、とは尋ねなかった。この女なら答えただろうが、答えを渡されればその先を自分の頭で組まなくなる。  山桜桃は三枚の紙を見た。  周年の席は、社が公式に認めた序列である。動かなかった並びの中に、二年で八番から五番まで上がった外国の会社がひとつある。上がったということは、この一年で取引が増えたということだ。  泉堂製薬が外国の製薬会社と取引をするにしても、ぽっと出てきた会社を大事な場で目立つ席順に置かないだろう。  薬価の決まった風邪薬程度の取引では、この席順は動かせない。  山桜桃は、無意識に自分の腹の上へ手をやっていた。  バース医療。妊娠しない身体を妊娠する身体に変え、男の身体を子を宿す身体に変える技術。国内で第二性の転換に成功した例は、記録の上ではひとつもない。ないことになっている。  エルダー製薬の席順が登り始めたのが平成元年。やよいから託された委任状の日付は、その年の一月十七日。  同じ年だった。    ◇  名簿をもう一度、上から読み直した。  二度目に見るときは、あるものではなく、ないものを探す。  議員会館で叩き込まれたのはそちらのほうだった。招待客の名簿から誰が消えたかは、誰が加わったかより雄弁である。加えるのに理由は要らないが、外すのには理由が要る。  一番卓から見る。製薬会社の周年で一番卓に座るのは政治家だ。薬は認可がなければ売れず、認可の速さは人の顔で決まる。国の外へ出すとなればなおさらで、輸出の許可を出すのも止めるのも、最後は政の側にいる人間である。  昭和六十二年、一番卓。  久我原重成(くがはらしげなり)。民和党。  六十三年、一番卓。久我原(くがはら)重成。  平成元年。ない。  今年の最終版。ない。  山桜桃は紙を裏返して、また表に戻した。見落としではなかった。 「江崎さん。久我原幹事長は」  壁際の女が、こちらを見た。  初めて、この女の目が動いた。 「……よくお気づきになりますね」 「毎年一番卓だ。二年続けて名前がない」 「そうなんですよ」  江崎は机のそばまで来た。声が少し低くなっている。 「久我原先生は、私が入った年からずっと一番でございました。前の社長の代からのお付き合いです。三十年、毎年いらしていました。それが去年、名簿から外れまして」 「理由は」 「存じません」  嘘をついている顔ではなかった。 「上からお名前が消えていた、それだけでございます。うちのような会社で一番卓のお客様が消えるというのは、本当はとんでもないことなのですけれど。なにかあったのだろうと、みな思いました。ただ、誰も口には出しません」  江崎は名簿を揃えて、机の端に寄せた。 「訊いてはいけないことが、どこの会社にもあります」  この女は三十年、席を割り振ってきた。誰を上座に置くかを毎年決めるということは、社が誰とどうなっているかを毎年確かめるということだ。それだけの年数を重ねた人間が、去年から二つのことを知らずにいる。外国の会社を五番に上げた理由と、三十年来の客が消えた理由。  どちらについても、自分が決めたのではないと言った。    ◇  昼を回ってから、山桜桃は名簿の写しを取らせてもらった。  江崎はなにも言わずに応じた。若奥さまが名簿を持ち帰る理由を尋ねない程度には、この女もわきまえている。  廊下に出ると、窓から日本橋の交差点が見えた。  最上階に社長室がある。今日ここへ来てから、一度も上へ上がっていない。上がる用がなかったし、上がったところで扉は閉まっている。賀久(がく)の予定は総務にも回っていた。午前は来客、午後は外出、夕方から会議。妻が名簿を見に来ていることは、この男の耳に入っているはずだった。それでも降りてこない。  エレベーターの前で、山桜桃は写しを封筒に入れた。  平成元年に、三つのことが起きている。  当主が病室にいるあいだに、代表権が息子へ移った。三十年のあいだ上客だった幹事長が、名簿から消えた。そして外国の製薬会社が、初めて招かれた。  一年のうちに、権限の持ち主が替わり、古い経路が切れ、新しい相手が現れている。順番はその通りだ。売り先を替えるのに、前の代の政治家を残しておく理由はない。  兄の見立ては、金の流れの影と人の出入りの影だけだと言っていた。影の輪郭が、いま名簿の上で人の形になった。  それでも、この三枚が言えることはここまでである。  エルダー製薬はなにを扱う会社で、去年なにをしたのか。久我原がなぜ外れたのか。あの日の署名が誰の手によるものなのか。ここから先は名簿を読んで分かることではなかった。公の記録と人の口を、会社の外で当たる必要がある。この家の中にいる人間にできることではない。  兄はこちらから材料を渡しさえすれば、しかるべき調査をする男だ。  封筒の口を折る。  白なら、この手で証明する。二週間前にそう決めた男が、初めて手に入れた材料を他人へ預けようとしている。  しばらく、封筒を持ったまま立っていた。  エレベーターの扉が開いて、また閉まった。  一階まで降りて、正面玄関を出る。ロビーの脚立の下で、作業員が天井を見上げていた。なにが吊られるのかは、まだ誰にも見えない。

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