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第13話 ここは私の家です

 電話が入ったのは、七月半ばの土曜、昼を回ってすぐだった。  取り次がれた受話器の向こうで、泉堂(せんどう)やよいは淡々と用件だけを言う。 「これから伺います、雛菊(ひなぎく)さんもご一緒です。だいたい三十分後ぐらいにそちらへ着きます」 「……わかった」  電話を切った山桜桃(ゆすら)は壁時計を見やり、竹川(たけかわ)へ振り返った。 「客間を。それから茶菓子を用意させてくれ。妹は甘いものを食べる」 「かしこまりました。若旦那さまにもお伝えしてまいります」  一礼して竹川は階段を上がっていった。賀久(がく)は朝から書斎にいる。  山桜桃は襟元に手をやって、しばらく思案した。やよいひとりが実家へ帰るのならば頷けるが、雛菊を連れて来る真意がわからなかったからだ。  土曜であることも引っかかった。やよいと山桜桃はお互いを利用しあっているのだし、平日を選べば当主のいない時間に山桜桃と接触ができるだろう。つまり賀久に会いに来たということだ。  車が到着したと告げられ玄関に出ると、麻素材のベージュのパンツスーツを着たやよいと、レモンイエローのサマーニットを着てベレー帽を被った雛菊が降りてきた。  雛菊は山桜桃を見て、パッと笑顔になる。その無邪気な様子だと、妹はやよいの腹のうちも知らされていない。そっと腰を抱かれる仕草からも、大事にされているのだろう。  雛菊をこの件に巻き込みたくはないが、デートのついでに来たというのならそれでもいい。    ◇  客間にふたりを通すと、やよいは椅子に座る前に部屋をひとまわり見た。 「壁紙が変わりましたね。母がいたころは緑でした」 「……そうか」 「ここに立つのは四年ぶりです」  言いながら腰を下ろす。雛菊はその隣に、膝を揃えて座った。  賀久が来たのは、紅茶が出てからだ。  扉を開けて、妹を見て、それから雛菊を見る。眉がわずかに動いた。 「急にどうしたんだ」 「ここは私の家ですよ? 寄りつかなかっただけです」 「そうか」  賀久は大して反応せずに向かいの椅子に座り、女中からカップを受け取る。  山桜桃は、この男が妹を遠ざけているのだと思っていた。財団の仕事を与えはしても、会社には近づけない。食事会でも一言も交わさなかったし、距離があるのは事実である。いま見ている限り、賀久にとっては血を分けた妹すら関心がないのだ。 「兄さん、泉堂製薬周年のパーティーですが」  やよいはカップを持ち上げて、一口飲んでから言った。 「財団の受け持ちを、もう一度整理させてください。当日の会場構成と装飾、それから記念展示です。ホールの大書は榊原(さかきばら)先生に決まりました。前金も入っています」 「ああ、聞いている」 「問題はロビーのほうです。現代美術家の三隅遼(みすみりょう)に頼みました。承諾は取ってあります」  賀久の指が、カップの縁で止まった。 「メトロポリタンに常設展示されている作家だぞ」 「うちの財団が四年かけて口説き落としたんですよ。パーティー後は泉堂美術館のコレクションとして末長く展示されるでしょうね」  やよいは驚く兄の反応を見て、誇らしげにカップを置く。 「結晶を主題にすると言っています。天井から吊る形になりますから、ロビーの照明を全部落として組み直す必要があります。図面は引きました。施工は八月の頭から入ります」  生家の壁紙を見回していた声色とは違う、ややぴりりとしたトーンでやよいは話す。やはりこの女は賀久の妹なのだな、と実感させられた。 「三隅先生は気難しい方なので、私がアテンドしなければ。開催される九月までそう時間がない。人手が足りません」  そこで、やよいは山桜桃を見る。 「なので、山桜桃さんに入っていただきます」  賀久の視線が、初めてこちらへ動いた。 「山桜桃さんは元議員秘書ですよ。会場も名簿も扱い慣れていらっしゃる。剣崎(けんざき)筋のご招待客も呼べます。五十周年に剣崎の名が一軒も並ばないほうが、よほど不体裁でしょう」 「支度は去年から動いている。山桜桃ひとりがなんの戦力になるんだ」 「なりますよ。決まったものを並べ直す人手が要る段階です。財団が運営と設営を任されたからには、手抜きはしません」  やよいは山桜桃から目を離さない。 「いいでしょう?」  賀久には向けられていない問いだった。賀久がどう言おうと、やよいは山桜桃を引き入れる腹づもりらしい。当主がいる日にちに来訪した目的がようやくわかった。  山桜桃はカップを置いて、静かに頷く。 「……夫の会社のことだ。妻として断る理由がない」 「では決まりです」  賀久はなにも言わなかった。指が肘掛けの上で一度だけ動いて、止まる。 「それと、雛菊さんに絵をお見せしたくて」  やよいは遠慮することなく、次々と言葉を続けた。豪胆なところも賀久そっくりだ。顔立ちは似ていないのに、こういうところで血の繋がりを見せられる。 「二階の広間に、父が集めたものが掛かったままでしょう。財団に移す前に、一度きちんと見せて差し上げたいから」 「好きにしろ」  賀久は立ち上がった。扉のところで一度だけ振り返る。 「山桜桃。案内してやれ」  扉が閉まった。  やよいがしてやったり、と笑いを噛み殺している。いたずらっ子のような表情だった。    ◇  二階の広間には、絵よりも先にピアノがあった。  黒い蓋を閉じたまま、窓際に置かれている。弾いてくれるものがいないことは、鍵盤の上の埃で分かった。  雛菊が絵の前を歩いていく。額は八枚、いずれも西洋の風景だった。妹は一枚ずつ丁寧に見ている。 「お兄さま」  立ち止まって、雛菊が振り返った。 「あの、お屋敷の方が……おめでたと」  声が小さかった。訊きにくいことを訊く子どもの声である。  玄関を上がってから、使用人の誰かが漏らしたのだろう。この邸宅の内側では、それはもう半月前から既定の事実になっていた。  山桜桃は妹の目を見た。  雛菊の顔から、遠慮が消えていく。代わりに出てきたのは、疑いですらない。ただ、そんなわけがない、という顔だった。妹は兄の身体のことをなにひとつ知らないが、それでも一緒に育っている。この兄が、そういう形で誰かの子を宿す人間かどうか。  口を開きかけた雛菊の肩に、山桜桃は手をそっと置いた。  妹の肩が一度上がって、下がる。  それきり、雛菊はなにも言わなかった。目だけが山桜桃の顔を探って、やがて伏せられる。剣崎の家に生まれた娘だ。父が軍にいて、兄が政にいる家で育った子どもは、訊いてはいけない質問をわきまえている。 「……ご無理は、なさらないで」  妹はそう言って、次の絵の前へ歩いていった。  山桜桃は自分の手のひらを見た。  妹に嘘をつかずに済んだが、罪悪感は拭えない。    ◇  やよいがピアノの前に立ったのは、そのあとである。  蓋を上げ、鍵盤に指を置いた。低いほうの音を四つ、確かめるように鳴らす。なんの曲かはわからないが、ゆっくりとした途切れない旋律だった。  雛菊が窓際で足を止め、風景を眺めている。 「山桜桃さん」  やよいは手を止めず、喋り始めた。音に紛れる程度の小さな声だ。 「上着の内側に」  山桜桃は絵のほうを向いたまま、椅子の背に掛けてあったやよいの上着に手を伸ばした。畳んだ紙が一枚、内側の隠しに入っている。 「泉堂製薬の委任状の写しです」  そっと広げて見ると、書式は事務のそれである。代表権に関する委任、受任者の欄に泉堂賀久の名。委任者の欄には、泉堂の当主の署名があった。  日付に目を落とす。  平成元年一月十七日。  山桜桃は、その数字をまじまじと眺めて考えた。  三日間の裏取りで作った表が頭にある。当主が入院したのは前年の十一月で、面会が止まったのは十二月の頭だ。一月十七日、この男は病院の中にいた。 「原本は本社にあります。私が触れるのは写しまでです」  旋律が続いている。雛菊は絵に戻っていた。 「署名が本物だろうか」 「分かりません」  やよいは首を振らなかった。滑らかに鍵盤を動いている。 「筆跡が似ていることは分かります。父の字は癖が強いので、真似るのは難しいはずです。ただ、真似られないとは言えません」  紙を畳んだ。  この一枚が言えることは、ひとつしかない。病室に閉じ込められ、署名などできようもない人間の名前で、権限が動いた。それだけである。誰が動かしたのかも、なぜ動かしたのかも、この紙には書いていない。 「当主は署名ができるほど意識がはっきりしているのか、それとも寝たきりか?」 「父の容体はわかりません」  やよいは、そこで初めて指を止めた。  音が消えて、部屋が静かになる。窓の外で蝉が鳴いていた。 「ただそれが証拠らしきものであろう、とは思います。それでも、兄がやったのかと言われたら……」  振り返らずに、鍵盤に手を置いたまま言う。 「兄が父を閉じ込めたのは事実です。けれど製薬のデータを売るためが理由ならば、あの人は父を生かしておかないでしょう。賀久兄さんはそういう始末の付け方をする人です」  冷たい言い方だった。家族の話をしているとは思えない声である。 「だから、確かめてほしいんです。あなたに」 「……俺は、あなたの兄を疑うために来た」  やよいはピアノの蓋を下ろした。 「承知していますよ。途中でやめないでくださいね。あなたも私も首を突っ込んだからには、やり遂げる義務があるでしょう」  山桜桃は紙を上着にしまう。動かざる証拠という重さに比べて、薄くて軽い紙一枚。 「私たちは父をよく思っていません。兄と私の唯一の共通点と言っても過言ではないけど、復讐したいなんて矮小(わいしょう)な理由だったらがっかりです。もちろん、あなた方が疑っている理由だったとしても」 「ではどんな理由ならば納得するんだ?」 「相変わらず鈍い人ですね。あなたのために決まっているでしょう」  即答され、言葉に詰まった。相変わらず、理解できないことばかり言う人だと返したいのに。  賢い女だ。財団の名で本社に人を入れ、名簿にも書庫にも手が届く場所へ置く。八月の頭から施工が入るということは、その前に人を通しておけた。よく練られている。  自分の胸のうちに、思っていたものとは違う形のものが座っている。この紙を手に入れたのならば、悪事の尻尾を掴み兄へ報告できると安堵しなければいけない。  本心では白であってほしい、と思っている。  その願いの持ち主が自分であることを、山桜桃は認めるのに少し時間がかかった。  白なら、この手で証明する。  黒なら、この手で落とす。  どちらにしても、他人に預ける気はなかった。    ◇  二人が帰ったのは、日が傾いてからだった。  車が門を出るとき、雛菊が窓を下ろして手を振る。察しの良すぎる妹の顔を、山桜桃はしばらく見送った。  夕食のあいだ、賀久は周年記念パーティーのことをいっさい話題にしなかった。妻が加わることについても、ひとことも出さない。天気の話をして、皿を下げさせて、書斎に戻る。  風呂を使い、日誌に今日の日付を書いた。やはり書くことは一行も思い浮かばない。  扉が叩かれたのは、十一時を回ってからである。  返事の前に把手(とって)が回った。賀久は二晩続けてこの部屋に来たことになる。 「短時間でやよいと親しくなったな」  山桜桃は日誌を伏せた。賀久はどことなく苛立っている。この態度には覚えがあった。 「やよいさんは雛菊とも仲が良い。俺も絵画は好きだ。……嫉妬しているのか?」 「ああ、そうだ」  言い淀みは一秒もない。幼い頃から、賀久は山桜桃が誰かと親しく喋るたびに大袈裟に怒っていた。許嫁であったときは「誰と親しくなろうが、賀久が俺の夫になる」と言えば、たちまち黙ってしまう。  相手は自分の妹なんだぞ、と山桜桃はからかってやろうとして、口を閉じた。青い目が夜の暗がりで砥がれたナイフのように光っている。この男はけっして誤魔化さない。  賀久が歩いてくる。灯りの外へ出て、輪郭だけになった。  手が伸びて、首筋に触れた。  指の腹が皮膚をなぞる。位置を測るような動きだった。逃げなかったのは、逃げる理由を思いつかなかったからである。  次の瞬間、噛まれた。  声が出た。深くはない。皮膚の上を歯が滑って、そこで止まる。痛みより先に、身体の芯が引き攣れるような感覚が走った。うなじではない。首の横だ。この男は一度もうなじに歯を立てたことがなく、今夜も立てなかった。  外して噛んでいる。  わざとだと分かるのに、分かったところでなにひとつ楽にならなかった。 「賀久」 「おまえが誰のものなのか、忘れるなよ」  耳のすぐ後ろで囁かれる。  歯が離れたあと、つっと舐められた。びくりと反応する山桜桃を満足気に見やり、賀久はそれ以上は触れずに扉のほうへ歩いて行ってしまう。  扉が閉まってから、山桜桃は首筋に手を当てた。  歯の跡が残っている。明日、襟で隠れる位置かどうかを考えて、隠せない位置だと気づいた。  上着の内側で、畳んだ紙が胸に当たっている。  平成元年一月十七日。  その日、あの男がなにをしていたのかを、山桜桃はまだ知らない。

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