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【R18】第12話 お望み通りに

 七月に山桜桃(ゆすら)が検査を受けてから、邸宅の様子が変わった。  食堂の献立から生の魚が消え、階段では竹川(たけかわ)が半歩先に立ち、手のひらで段の縁を示す。廊下の花瓶は高い位置へ移され、庭師は薬剤の散布を先送りにした。  山桜桃は嘘をひとつも口にしていない。  言ったのは、体調が優れないという事実だけである。それだけ子が待望であるということだ。腹の中身は空っぽだと知ってしまった使用人たちの落胆する様を想像するのは、わずかに申し訳ない気持ちになる。  再検査は二週間後に入っている。この嘘が終わるまでのあいだ、邸宅は若奥さまを腫れ物のように扱うだろう。ただし、監視の質が変わるのだ。見張る目から、庇う目へ。  庇う目には死角がある。  足りるかどうかは分からない。分からないまま、山桜桃は数字と日付を頭に積んでいる。    ◇  賀久(がく)が山桜桃の寝室に来たのは、その夜だった。  このふた月、一度もなかったことだ。多忙な夫を寂しく待つ新妻、という茶番は使用人たちの同情を買うには役に立っていた。  扉が二度叩かれ、返事の前に把手(とって)が回る。 「……いつの間に妊娠した?」  山桜桃は書きかけの日誌を伏せて立った。電気スタンドの灯りが、薄茶の髪の輪郭だけを拾っている。声は平坦で、いつもの賀久だ。 「屋敷中が知っている。夫の俺がなぜか最後だ」  賀久は扉を閉め、後ろ手に錠を落とした。そんなはずはない、と山桜桃は反論せずに黙る。夫婦のくせに、ふたりは真実を口にしたことがない。 「大した役者だな、山桜桃」 「疑っているのか?」 「おまえがいちばん良く知っているだろう?」  喉の奥が乾く。山桜桃は息を吐いてから口を開いた。正面切って嘘をついたということはできない。疑う夫を受け止めるしかなかった。 「体調が悪かったのは本当だ。避妊具も百パーセント安全ではないだろう。過信しすぎだな」  賀久は動かない。思案するように腕も組み、扉のそばに立っている。 「その理屈で、竹川は納得したか」 「訊かれていない」 「訊かれる前に、答えなかったわけだ」  簡単にこちらの作戦を言い当てられた。二週間、山桜桃がやったのは、口を開かないことだけである。嘘は一語もない。ないからこそ、剥がれにくい。  柔らかな絨毯の上を、一歩ずつ賀久が歩いてくる。 「なぜだ」  院内の電話の前に立つ時間が要る、とは言えない。これまでの作戦が露見してしまえば、山桜桃が剣崎(けんざき)の名と性を変えてまでやって来た理由がなくなってしまう。兄の失望した顔をあまり想像したくはない。  黙っていると、賀久の目の色が変わった。賀久からすれば慎重にやっていたのに、手のひらを返されたのだ。苛立って当然だった。 「子が欲しかったのか」  小さく首をふる。考えたこともないので、嘘ではない。 「それとも、いらない子を口実にしたか」  これは嘘がつけない。賀久の青い目を見つめたまま、じっと黙った。窓の外で、庭の木が風を受けて鳴っている。二十年前、同じ庭で同じ音を聞いた覚えがあった。  賀久は上着を椅子の背に掛け、ネクタイを緩めた。 「どっちでもいい。——お望み通りにしてやろうか」    ◇  賀久の瞳の奥には狂おしいほどの熱と、ずっと抑え込んでいた飢えのようなものが揺れている。  カフスを外し、袖を丁寧に折り返す。この男はいつも無理強いをしない。あの薬を飲んだのも、ヒートに耐えきれず扉を開けたのも、全部こちらの選択だった。今夜も同じで、ただ待っている。  ずるい男だと思いながら、山桜桃はシャツのいちばん上の釦に手をかけた。  ゆっくりと外していく。二つ目、三つ目。指先が思ったより素直に動いた。象牙色の滑らかな肌があらわになる。  今夜は賀久から罰を与えられるのだろう。ありもしない子を口実に使い、邸中を巻き込んだのだ。詰られてもいいし、突き放されてもいい。腹を立てた男がすることは知っている。軍にいたころ、拷問に耐える訓練を受けた。痛みには段階があり、段階ごとに息の吐き方は決まっている。  だから寝台の縁に腰を下ろしたとき、山桜桃の身体は勝手に身構えていた。  けれど近づいてきた賀久の手つきには、荒々しさなど欠片もない。  熱はなく発情期でもない夜に触れられるのは初めてだった。ヒートの夜は身体が先に溶けていて、意思が追いつく前に膝が落ちる。今夜は違う。皮膚が皮膚のまま、他人の指を他人の指として認識している。  首筋を慎重に辿る手が、鎖骨をなぞり、胸へ下りる。指の腹でやさしく撫で上げられ、山桜桃は喉の奥で息を止めた。ぞわりと反応する身体の素直さに反して、頭の中は困惑で真っ白になっていく。なぜ怒らない。なぜ、こんなにも大事そうに触れるのか。 「なんだ、その顔は」 「……いや、なんでもない」 「手ひどく抱かれると思ったのか? そんなことするかよ」  賀久が枕元の引き出しを開け、冷たい潤滑剤を指に取る。望みもしていないのに、自室にこのたぐいのものが置かれていることは知っていたが、あえて考えないようにしていた。今から使うのかと思うと、恥ずかしさに顔が熱くなる。  口づけをされながら、ゆっくりと入り口を広げられていく。ヒートのときのように都合よく濡れたりはしないため、指が入るたびに内側が強く圧迫された。だが賀久は急がない。二本目、三本目と、時間をかけて山桜桃を解し、身体が慣れるのを辛抱強く待っている。丁寧すぎる手つきが、かえって山桜桃の胸を締め付けた。 「痛いか」 「……あっ、や」 「平気そうだな、力を抜けよ」  なぜそんな声を出す。  囁くような、宥めるような声だった。偽りの妊娠を盾にして自分を騙そうとした男に対する扱いではない。この機会をずっと待っていた男の手つきだった。妊娠したということにしたいなら本当にそうしてやろうか、と言わんばかりの、甘く深い執着がそこにはある。  押し付けられる体温と、丁寧に解されて芽生える熱に、山桜桃の思考は完全に麻痺していく。軍で習った痛みの流し方など、ひとつも役に立たない。優しさに翻弄され、声が勝手に漏れ出た。 「そんな……ところ、触らないでくれ……っ、う」  獣が交尾するように尻を突き出し、後ろを解されながら、前をゆっくりしごかれる。いやらしい水音が耳へ届いた。するすると優しく、むずがる子供を慰める手付き。涙をこぼしている山桜桃の先端は、撫でられるだけ悦んだ。 「孕みそうなほど優しく抱いてやる。かまってほしいなら、素直にそう言えばいい」 「ちがっ、う……あぅ、んっ」 「山桜桃はもう後ろでしかイケないだろ、焦れったいか?」  否定をしたくとも、はしたない嬌声(きょうせい)でしか返事ができない。じわりじわりと奥を探られる心地よさに身体が震えた。賀久の長い指が的確に快い部分を突いているが、指だけじゃ足りない。  もう我慢も限界のところで、背後から袋の破れる乾いた音が響く。  避妊具を取り出す音だ。お望み通りに、と言いながらも、賀久は最後まで線を越えない。山桜桃の身体を傷つけることも、望まない妊娠を強制することもしない。どこまでも安全な範囲で、しかし逃げ場を塞ぐように覆い被さってくる。  言ったくせに。  思った瞬間に、内側を満たされた。 「つ、……っ、」  指とは比べものにならない質量が奥まで収まる。腰をしっかりと掴まれ、だが潰されないよう片肘で体重を逃がされている。絶妙な加減に、山桜桃は敷布に額を押しつけた。 「……山桜桃」  名前を呼ばれるたびに、内側が勝手に締まる。  賀久の動きは一定で、極めて慎重だった。浅く二度、深く一度。山桜桃の反応を確かめるように、一つ一つのストロークに恐ろしいほどの愛惜が込められている。 「あ、っ……く、ふ……」  声が溢れる。抑えようとしても、奥を突かれるたびに背中が跳ねた。  おかしい、と頭のどこかで理性が叫んでいる。これは罰のはずだ。策を弄した自分への仕置きのはずなのに、受け取っているのは過剰なまでの情愛と熱量だ。賀久の息が首筋にかかる。歯は立てられない。傷ひとつ残さないよう、壊れ物を扱うように抱かれている。  怒れよ。怒って、投げ倒せばいい。  こんな優しさで満たされたら、拒む理屈が失われてしまう。二か月で積み上げた警戒も、軍人としての冷徹さも、賀久の甘い手つきと深いストロークの前に溶けて消えていく。  律動が速まる。熱が急上昇し、思考の輪郭を焼き尽くしていく。背中を撫で上げる手のひらが、あまりにも温かい。 「っ、あ、賀久——」  混乱と快楽の果てに名前を呼ぶと、賀久の動きが一瞬強まり、一気に奥を貫かれた。  白い閃光が弾け、なにも考えられない時間が訪れた。    ◇  賀久が抜くとき、山桜桃は目を閉じていた。  処理をする気配、そっと背中と腿をタオルで拭ってくれる手の感触。この男の丁寧さは、いつも余計なことばかり考えさせられる。  衣擦れの音がして、賀久が服を着る。  寝台の脇に立った気配があった。山桜桃は目を開けない。 「体調が悪いのは本当なんだろ」  言われて、まぶたが震えた。 「無理はするな」  扉が閉まる。錠が戻る音は、しなかった。  山桜桃はしばらく動かずにいた。天井の漆喰(しっくい)の模様が、灯りの角度で影を作っている。  泉堂(せんどう)やよいの声が、いまごろ耳の奥に戻ってきた。テラスの手すりに肘をついて、あの女は取引の値段をつけるような口ぶりで言ったのだ。兄が欲しがっているものは、たぶん、あなたが思っているものではありません。  剣崎と縁を結ぶことが目的なら、子ほど確かな証文はない。剣崎の血を引く子が泉堂の籍に入れば、この婚姻は二度と壊せなくなる。半年で切れる薬に頼るより、ずっと容易い。愛のない政略結婚であろうが、泉堂の利益を優先にする男ならば。  なのに、一度も。  であれば、この男が欲しいのは——そこで思考が止まった。  止まったというより、続きを考えることができなかった。薬を作り、父を病院に押し込め、財閥を丸ごと手に入れた男の目的が、それだけであるはずがない。あるはずがない、と山桜桃の常識が拒む。妹との結婚を拒んで山桜桃を指名した、別の理由があるはずだ。そうあって欲しい。そうでなければ、これはなんだ。  寝台を降りて、伏せておいた日誌を開いた。  発作の日付、間隔、体温、痛みの部位。軍にいたころと同じ書式で、六月から付けている。数字は嘘をつかないし、数字は感情を持たない。あとで検診の記録と突き合わせるための、ただの帳面だ。  ペンを取って、今夜の日付を書いた。  そこから先に書くことが思いつかない。  窓の外が、わずかに白み始めている。山桜桃は日誌を閉じ、ペンを置いた。

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