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第11話 食事会

 礼服は、食事会の三日前に届いた。  箱を開けた竹川(たけかわ)が肩の線を確かめてから、衣桁(いこう)に掛ける。銀座の主人は言葉どおり間に合わせてきた。袖を通すと、身体のどこにも余りがない。ここまで合わせるには寸法を何度か測り直すはずだが、採寸は一度きりである。さすがは泉堂(せんどう)家お抱えの仕立て屋である。 「よくお似合いでございます」  竹川の声には半月前にはない、柔らかな変化があった。泉堂家の跡取りを産むかもしれない山桜桃(ゆすら)への期待を滲ませた態度だ。 「竹川。今日の席では、体調の話は出さないでくれ」  鏡越しに言うと、家令は目だけを伏せた。邸宅の者たちは山桜桃が生まれつきオメガだと信じている。必ず子を宿せる貴重な母体が嫁いで来たのだと。竹川は賀久(がく)が雇った山桜桃の監視役だから、その限りではないだろう。 「若旦那さまより、そのように仰せつかっております。剣崎(けんざき)のお家には、なにも」  背筋が、わずかに冷えた。山桜桃の嘘を知っている男が、その嘘を守る手配を先に済ませている。誰よりもその可能性がないことを理解している男であるのに。  鏡の中の首筋を確かめる。痕は消えていた。ネクタイをきつめに締めたが、襟を立てる必要はない。    ◇  会食は洋館の食堂で開かれた。  長いテーブルに八つの席。時雨(しぐれ)が上座に着き、その隣に雪彦(ゆきひこ)と兄の妻、下手に雛菊(ひなぎく)。向かいに賀久、やよい、そして山桜桃である。給仕は三人、扉の脇に控える者がひとり。山桜桃は席に着いて三十秒で、この部屋の出入り口と人の流れを頭に入れた。癖のようなものである。  時雨は和装だった。隠居の身とはいえ、こういう席では髪をきちんと結い上げてくる。雪彦は多忙であろうに「他ならぬ泉堂家のお誘いなら」とさらりと言って参加した。久しぶりに顔を見た兄の妻は今日も物静かで、挨拶のあとは会話に加わろうとしない。番町(ばんちょう)に残してきた長男の話を、時雨に一言二言訊かれて答えるだけである。甥が検査に連れて行かれるまで、まだ二年ある。  雛菊は淡い水色のワンピースだった。膝の上で手を組んで、背筋を伸ばしている。  泉堂やよい。  初めて見る義妹は、黒い髪をひとつに結い、飾りのない濃紺のワンピースで席に着いていた。二十四という年より落ち着いて見える。挨拶は完璧だった。姿勢も、声の高さも、目の合わせ方も。そして食事が始まってから最後まで、隣の兄と一言も交わさなかった。  賀久同様に整った顔立ちであることはわかるが、髪も目も黒く、肌の色も日本人のそれである。並んでいても兄妹には見えないだろう。それでも、話しているうちに妙な既視感を覚えた。目と目の間隔が同じなのだ。鼻筋から唇までの距離も、顎の線も、造作の置き方がそっくり同じである。同じ父という遺伝子から、それぞれ半分ずつ受け取ったものらしい。  泉堂の側は、この二人だけだった。先代は病院にいることになっている。その妻は鎌倉に住んで、長らくこの家に戻っていないと聞いた。欠けた席は、どれも埋まる見込みがない。  話は当たり障りなく進んだ。両家の近況、季節の話、財団の展覧会の話。雪彦がバース医療の予算について水を向けても、賀久は数字を二つ三つ返しただけで受け流す。  時雨が盃を置いたのは、皿が三つ替わった頃である。 「先代のご容体は、その後いかがです」  部屋の温度は変わらなかった。少なくとも、大人たちの側は。 「おかげさまで、落ち着いております」  賀久の答えは滑らかだった。医者の名前も、病院の名前も出さない。出さないことに気づく者は、このテーブルに一人しかいない。 「面会もいまはご遠慮いただいておりまして。父も気弱になっておりますので」 「そうですか」  時雨は頷いて、それ以上は訊かなかった。話は次へと移る。  山桜桃はやよいの手をじっと見ていた。フォークを持つ指が、兄の答えている最中は止まり、話題が変わってから動き出した。二秒ほどの空白である。  その二秒を、他の誰も見ていない。    ◇  雛菊と話せたのは、給仕が下がった短い間だけだった。 「お風邪はもう、よろしいの」  妹は本気で案じる顔をしている。門前で追い返された理由を、まだ信じているのだ。 「ああ。心配をかけた」 「顔色は悪くないみたい。安心しました」  それだけで会話は終わった。竹川は部屋にいない。いないことが、かえって気になった。  賀久が席を立ったのは、その直後である。給仕が近寄って耳打ちし、電話が入ったらしいと分かった。失礼、と短く言って扉を出ていく。  時雨と雪彦は政局の話に入っていた。幹事長派の人事がどうの、次の内閣がどうの。雛菊は雪彦の妻に話しかけている。  テーブルの向かいで、やよいが立ち上がった。こちらへ向かってくるので、驚きながら見つめる。接触するタイミングを見計らっていたというのに、対象がみずから飛び込んできた。 「山桜桃さん、テラスで夕涼みしませんか?」    ◇  テラスに出ると、庭の暗さが目に沁みた。  池の向こうで蛙が鳴いている。食堂の窓から漏れる灯りが、石畳を四角く切り取っていた。やよいは手すりまで歩いて、背を向けたまま口を開く。 「先に申し上げておきます。私は雛菊さんと結婚するつもりです」  言葉が意味として届くまでに、間があった。  庭の音が遠のいて、それから戻ってくる。驚きを顔に出さない訓練は、嫌というほど積んできたはずだった。それでも返事のひとつも出てこない。  雛菊と、この女が。 「……妹と、付き合っているのか」 「秘密の関係です。雛菊さんとは長年、お互いを想い合っています。プロポーズはまだですよ。いまは時期ではありませんから」  断られる心配をしている顔ではなかった。 「ですから、あなたと兄には添い遂げていただきたい。離縁ということになれば、剣崎のご当主は恥も外聞もなく、また雛菊さんを泉堂へ差し出します」  振り返った顔には怯えがなかった。事実を告げる者の顔である。  六月の応接室で、妹はやよいの話をしながら頬を緩めていた。お互いを姉妹だと笑い合ったと。あのときの表情を思い出そうとしたが、うまくいかない。妹は裏表がなく、山桜桃に隠し事などしない。急に雛菊がわからなくなった。 「……なぜ、それを俺に」  やっと出た声が、思ったより掠れていた。 「あなたも雛菊さんを守りたかった。違いますか」  山桜桃は答えなかった。答えないことが答えになるのは分かっていたが、口が動かなかった。 「ご自分の意思でここへいらしたようには見えません。あの方を守ること以外にも、目的がおありでしょう。どうです、話してみません?」  それにも答えずにいると、やよいは手すりに肘を置いた。所作だけが、少し兄に似ている。急かす気配はない。こちらが黙るぶんだけ、向こうは手札を並べていくつもりらしい。 「あなたのお家が私を嗅ぎ回っていることも知っていますよ。目白の界隈で、財団の関係者にあれこれ訊いて回った方がいらしたそうで。私も自分の身はかわいいので、そのあたりはきちんとしているんです」  脅しの声ではなかった。無防備な令嬢ではないと、最初に示しているだけである。  どこまで届いているのか、と山桜桃は考えた。相手の底を測らずに、こちらの底を見せるわけにはいかない。 「ひとつ訊くが、この婚姻をあなたはどう聞いている」 「家同士の縁組だと。兄がどうしてもと言い出したのでしょう。かつてあなたと婚約破棄になった理由も存じています。子を望まないご縁もありますから、そういうものだと思っていました」  澱みのない答えだった。作った答えではない。  知られていない、と山桜桃は判断した。名簿の書き換えも、薬のことも、この女の耳には届いていない。竹川と病院の口の堅さが、こんなところで役に立っている。  安堵と同時に、値踏みも済んだ。やよいの情報網は、この家の内側の深いところまでは通っていない。それでも、内側にいる人間には見えないものがある。 「……なぜ、俺を信用する」 「雛菊さんが、あなたのことを家の中でたったひとり信じられる人だと言っていたからです。あの方がそう言うのなら、私はそれを信じます」  迷いのない言い方だった。他人の判断をそのまま自分の判断にできる人間は珍しい。それができるのは、その人間を疑ったことが一度もない者だけである。  妹の名前で、二度目の札を置かれた。  こちらも置くしかない。置かなければ、この線は今夜で終わる。兄に告げた二週間のうち、すでに三日が過ぎていた。 「……剣崎は、泉堂を調べている」  言葉にすると、思ったより短く済んだ。 「バース医療の技術が、国の外へ出ようとしている。国はそう見ている。俺はそれを確かめるために、この家にいる」  やよいは驚かなかった。庭のほうを見て、それから小さく息を吐いた。 「……兄が主導しているとは思えません」 「なぜだ?」 「あの人は有能です。家のためなら、冷たい判断もします。ただ、あなたに嫌われるようなことだけは、決してしないでしょうから」  思いがけない答えだった。 「そんな企みに加担して、それが表に出たとします。あなたは軽蔑なさるでしょう。あの人にとっては、たぶんそれが一等こわいことです」 「……買いかぶりだ」  山桜桃は首を振った。 「そこまで好かれる理由が、俺には分からん。名指しをされた意味も、いまだに分からんままだ。子供の頃から、特別なことをしてやった覚えもない」  やよいは、そこで初めて声を立てて笑った。  夜の庭に、若い女の笑い声が短く響く。 「失礼。……あなたのそういうところも、きっと好きでたまらないのでしょうね」 「……答えになっていない」 「ええ。私が申し上げる筋のことではありませんので」  笑いを収めた顔は、もとの落ち着きに戻っていた。教える気がないのではない。教えるのは自分の役目ではないと決めている顔である。 「それに、あの人は結婚だけはしませんでした。見合いの話はあなたとの破談から今まで、雨後の筍のように出ましたがすべて断っていました」  視線が、こちらへ戻ってきた。 「それが急に、あなたとの縁談話が戻ってきて、あれよあれよという間にあなたは妻になった。原因を察するのも馬鹿らしいくらいです。あなたが欲しかったのね。哀れな賀久兄さん」  哀れ、という言葉の選び方に、軽蔑はなかった。 「あの人の関心は、たぶん国にも会社にもありません。それでも、あなたが探しているものが本当にあるのなら、私も知りたい」 「手助けをしてくれるということか」 「ええ。泉堂が潰れれば、結婚どころではありませんので」  迷いのない私情である。この一族は、と山桜桃は思った。傲慢なことは日常茶飯時、天下の泉堂財閥の子供たちである。 「協力しますよ。なんでも」  やよいは食堂の窓を一度見て、声を落とした。 「手付けとして、一つ差し上げます。兄は父を、病院から出しません。私も一年、会わせてもらえていない。娘の私がです」  三日間の裏取りで掴んだ空白に、内側からの声が刺さった。灯りのつかない病室、外された名札、方々で生きている署名。 「……なぜ、そこまで」 「さあ。ただ、あの人が父にああするのは、憎いからではないと思います」  やよいは手すりから離れた。 「兄が人を閉じ込めるのは、手放したくないからです」    ◇  食堂の扉が開いたのは、そのときだった。  賀久が戻ってきて、テラスの二人を見た。窓越しの灯りを背にして、表情は読めない。妹と妻が並んで立っている光景に、なにを思ったのかは分からなかった。こちらに会釈することもなく、そのまま席へ戻っていく。  やよいは兄の背中を見送って、スカートの裾を直した。すれ違いざま、こちらを見ずに言う。 「私にも泉堂の血が流れているのを、お忘れなく」  声は自信に満ちていた。山桜桃はおのれの認識をあらためる。あの兄にして、この妹ありだ。 「欲しいものは、必ず手に入れますよ」

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