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第10話 危険日

 妊娠を偽装できないだろうか、と考えた。手帳の数列を、テーブルライトの下で二度読み返す。  あまりに兄との接点がなかった。病院の公衆電話頼みだが、月に一度では回数が少ない。せめて状況を伝えた上で、次の手を相談したい。雛菊(ひなぎく)を使うことは絶対に避けたかった。  発作の日付、体温、脈。二度の周期の記録がある。二度目は四日早まった。三度目がいつ来るかは分からないが、来るまでの日数のどこかに、都合のいい箇所がある。  妊娠しているかどうか、まだ確かめようのない時期。  あの病院の医者なら、その時期を承知している。承知した上で、可能性を否定できないと言うはずだ。否定できないものを、この家は放置することはないだろう。  鉛筆の先で、候補日を三つ囲む。自分の身体を作戦の資材として数える手つきに、しばらく前から抵抗がなくなった。  畳んだ手帳を引き出しに戻して、山桜桃(ゆすら)は決行する日付を決めた。    ◇  嘘はひとつも吐かなかった。  発作から数日、微熱と関節の重さは実際に残っている。いつもなら隠しているところだ。軍にいた頃から、多少の体調は隠すものだった。気合でどうにか乗り切るものと、心身で叩き込まれている。  その日は隠さなかった。この戦局に合ったやり方があるだけだ。  朝の食卓で、箸を持つ手を二度止めた。止めたあと、なにごともなかったように動かす。竹川(たけかわ)の視線が、二度目でこちらへ動いたのを視界の端で確かめた。  庭の散歩は、いつもの半分で切り上げた。池のそばの石に腰を下ろし、膝に肘をついて呼吸を整える。蝉が鳴いている。日陰でも汗が引かない暑さで、これなら顔色が悪く見えるだろうと計算した。家令は三歩後ろに立ったまま、なにも言わない。ただ、いつもより早く扇子を差し出してきた。  昼食の皿は少しだけ手を付けるのを遅くし、三分の一残した。 「差し出がましいことを申し上げます」  その日の夕方、ソファーテーブルの脇で竹川が口を開いた。手には手つかずの水菓子の皿がある。下げるついでの体を装って、切り出す機会を待っていたらしい。 「お顔の色が優れないようにお見受けいたします。念のため、お医者にご覧いただいてはいかがでしょう」 「いや、必要ない」  短く断った。断ることが、この工作の要である。人の心の動かし方は、尋問でも交渉でも変わらない。 「若奥さま」  竹川は引かなかった。 「差し出がましいついでに申し上げますが、若奥さまのお身体は、いまや若奥さまだけのものではございません」  言い方が完璧だった。使用人が主人に言える限界の、一歩手前で正確に止まっている。踏み込みすぎず、逃げ道も与えない。  山桜桃はティーカップを置いて、少しだけ目を伏せた。伏せる必要などないが、伏せたほうが人は勝手に読む。 「……発情期から、体調が戻らない」  事実である。一語も嘘は混ぜていない。  竹川の沈黙が、一拍だけ長かった。畳の上を滑る衣擦れの音が止まり、それから、いつもの慇懃(いんぎん)な礼が返ってくる。 「お車を回してまいります」  なにも訊かれなかった。避妊に失敗したのではないか、という言葉は、山桜桃の口からも竹川の口からも出ていない。それでも車は動いた。完璧な家令が、完璧に読み違えたのである。  勝った、とは思わなかった。相手の優秀さを、そのまま利用しただけだ。    ◇  病院は、前回と同じ顔で山桜桃を出迎えた。  受付に並ばず、会計もなく、廊下の角ごとに案内が立つ。竹川は待合の椅子まで。診察室の敷居は、今日も越えて来ない。  問診と検査は事務的に進んだ。体温、血圧、採血。ここ数日の食事の量まで訊かれて、正直に答える。医師は数字を書き取って、老眼鏡の縁越しにこちらを見た。 「この時期では、確かなことは申し上げられませんな」  予想どおりの言葉だった。その一言で、自分の企みが本当に動き出したのだと分かる。 「二週間ほど置いて、もう一度お越しください。そのほうが、はっきりいたします」  二週間後の外出が、これで一つ増えた。月に一度しかなかった窓が、二つになる。  礼を言って立ち上がりかけたところで、医師が思い出したように付け加えた。 「それから、そろそろ半年の折り返しでございます。次のご投与について、若旦那さまとご相談なさっておいてください」  手が、一瞬止まった。  半年。あの薬は四月に飲んだが、十月に効果が切れる計算だ。  効果が切れればどうなるのかを、山桜桃は一度も訊いていない。アルファに戻るのか、書き換えられた身体が二度と元には戻らず、中途半端な性として生きるのか。訊いたところで、あの男は欲しい答えしか寄越さない。  次のご投与について、と医師は言った。つまり十月に、また同じ選択を迫られるということである。賀久(がく)は琥珀色の壜を差し出し、飲むか飲まないかを山桜桃に選ばせる。あるいは強制的に飲ませるか、この婚姻に飽きて離縁をするか。  診察室の窓の外で、蝉が鳴いていた。  残りは三か月を切っている。それまでに掴めなければ、この婚姻ごと期限が来るかもしれない。    ◇  検査棟へ渡る廊下の、桃色の公衆電話。  十円玉を三枚入れて、呼び出し三回で切り、二分置いて掛け直す。二度目で回線が繋がった。  報告は進展なしと簡潔に済ませ、もう打つ手が少ないことを相談する。  受話器の向こうで、雪彦(ゆきひこ)が短く息を吐いた。 「山桜桃。悠長にしている暇はなくなった」  なにか助言をしてくれるわけでもなく、兄らしく感情の乗らない声で、切迫だけが伝わってくる。 「向こうの動きが早い。追っていた書類の影が、今月に入って次々に消えているんだ。証拠を握れ、どうにかしてでもだ」  どうにもならぬから助けを請うたが、兄も兄で立ち行かない状況らしい。山桜桃が泉堂(せんどう)家に潜り込むことは保険ではなく、かすかに見えた糸口であったようだ。 「……努めています」 「努力の話をしているのではない」  言葉がそこで一度切れた。 「なんのために、おまえを嫁がせたと思っている」  受話器を持つ手に、力が入った。 「雛菊であれば、女中も付き人も一緒に入れられた。あれ一人ではなにもできんと、向こうも承知するからな。おまえだから、単身で足りると踏んだ」 「……買いかぶりでしたか」 「そうは言っていない」  兄の声に苛立ちはない。苛立ちがないことが、いちばん堪えた。 「言っていないが、二か月で上がったものが函の日付一つだ。この線を畳むかどうか、そろそろ判断する時期だぞ」  畳むという一語の意味を、山桜桃は数秒かけて理解した。内偵が終われば、この婚姻に理由がなくなる。任務のない潜入者は、ただ囲われた人間である。書き換えられた身体と、月に一度の発作だけが残る。  俺がこの家にいる意味は、と考えかけて、やめた。 「二週間ください」  声は揺れていない。訓練の成果である。 「代わりの経路を、こちらで作ります」 「あてはあるのか」 「あります」  答えてから、自分の口の速さに驚いた。あてなど、まだない。  いや——ひとつだけ、名前が浮かんでいる。  目白の別邸に住み、財団の仕事をし、兄の家に寄りつかない女。婚姻からふた月経っても、一度も引き合わされていない義妹。  泉堂やよい。 「二週間だ」  兄はそれだけ言って、回線を切った。  ツーという音を聞きながら、山桜桃は受話器を戻した。今日は、握ったままではいられない。廊下の先で名前が呼ばれる前に、歩き出す必要があった。    ◇  邸宅に戻ると、空気が変わっていた。  玄関で靴を脱ぐ間に、女中がふたり、目を合わせてから深く頭を下げた。廊下を歩けば、階段の下り口に見覚えのない手すりが増えている。真新しい金物の匂いがした。半日で仕事をした者がいる。  夕食の膳は和食だった。塩気が薄く、生ものがない。冷えた麦茶ではなく、白湯が出た。 「若奥さま、階段はどうぞお手すりを」  竹川の声の温度が、半度上がっている。三歩後ろの距離も、二歩に縮んでいた。  この家は、噂ひとつでここまで動く。山桜桃はまだ一言も、妊娠したとは言っていない。言っていないのに、家じゅうが子を待つ顔をしていた。  白湯を一口飲んで、湯呑を置く。喉に落ちていく熱の分だけ、胃の底が冷たくなった。    ◇  賀久が帰ったのは、日付が変わってからだった。  廊下の足音が、扉の前で止まる気配を感じる。  本来の夫婦なら夫は扉を開け放って喜びながら、妻をねぎらうだろうに。当然、この懐妊騒ぎが茶番であることを賀久は知っている。予想通りに入っては来なかった。しばらくして足音は遠ざかり、廊下の奥で寝室の扉が閉まる音がした。  竹川が報告していないはずがない。系列の病院から、カルテの写しが回っていないはずもない。知っていて、なにも言わないのだろう。  山桜桃は暗い天井を見上げた。  嘘は一言も吐いていない。体調が戻らないと言っただけだ。その一言で車が回り、手すりが付き、膳が変わり、家じゅうが子を待っている。  この家でいちばん存在しないものを、口実に使った。  いちばん欲しがられて、いちばん与えられないものを。

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