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【R18】第9話 二度目の夜

 数字は如実に次の発情期を知らせた。  発作から二十三日目、体温の底が上がり始めた。二十四日、二十五日と、朝の数字が少しずつ嵩を増していく。周期は月に一度、と医者は言った。早まる可能性もあるとも。予言と自分の数字が、手帳の上で重なっていくのを眺めるのは、敗色を記録する参謀の気分だった。  その二十六日目に、外出の予定が入っていた。  礼服の仕立てである。来月、両家の食事会があるという。礼服なら持っている、と賀久(がく)に返せば、「おまえのは地味だ、俺の好みではない」と一蹴された。シンプルな装いしか持っていないのは事実だし、山桜桃(ゆすら)にも夫を立てる振る舞いが重要なことはわかっている。  指示はいつものように竹川(たけかわ)経由で降りてきて、銀座の仕立屋に採寸の席が取ってあった。    ◇  身体の異変は、採寸の途中でやって来た。  仕立屋の主人が肩から袖へ巻き尺を這わせている。来月の席に間に合うのか、と訊けば、主人は帳面から顔も上げずに笑った。 「泉堂(せんどう)の若奥さまでいらっしゃいますから、急がせていただきます」  職人を何人張り付かせるつもりなのか、とは訊かなかった。名前ひとつで、どこかの誰かの眠る時間が削られる。この家に来てから、その手の理屈にばかり詳しくなった。  その指先の体温が、布越しに分かった。分かってはならない解像度で、はっきり感じる。次いで、店の匂いが立ち上った。反物の糊、主人の整髪料、通りを歩く誰かのフェロモン。そのすべてが不快でたまらなく、呼吸が浅くなる。  二十六日目。医者の見立てより、四日も早い。 「若奥さま」  囁くような声は背後から来た。いつのまにか竹川が、店の主人との間に割って入っている。 「お車を回してございます」  顔色か呼吸か、なにで判断したのか分からないが、この男が主人より先に気づいた。裏口から車まで、竹川の身体がちょうど人目を遮る位置を歩く。後部座席に膝掛けが一枚、用意されていた。  車は窓を開けずに走った。助手席の竹川は前だけを見ている。見ないことが礼儀だと知っている背中だった。受話器の形をした車載の電話を短く使い、二言で切る。電話の相手は推して知るべしだ。  窓の外を、夕方の街が流れていく。会社帰りの人波、電光掲示、橋の上の渋滞。あの雑踏でこれが始まっていたら、と考えかけてやめた。オメガは国の保護の対象である意味を突きつけられる。優遇されるにしても、あまりに不自由で残酷な身体だ。  母と雛菊(ひなぎく)のことを思う。山桜桃が知る中で、一等に優しい存在。なぜオメガとアルファなど、神は作り給うのか。  邸宅に着く頃には、膝掛けを握る手に力が入らなくなっていた。    ◇  玄関の扉が内側から開き、賀久が待ち構えていた。  予想よりも早い。会社にいるはずの時刻なのに、と考える間もなく腕を取られた。竹川の報せを受けて、すぐに帰ってきたのだろう。  一度目の発情期とは違い、なにも訊かれなかった。腕を乱暴に引っ張られ、階段を上がる。支えの形をしているが、連行である。抗う脚は、もうどこにも残っていなかった。  寝室の扉が閉まって、最初の口づけで膝が落ちた。貪られるように深く入り込む舌を、受け止めるだけでも苦しい。  落ちる身体を、賀久の腕が易々と拾う。寝台までの数歩のあいだに、上着のボタンが半分外れていた。手際が良いわけではなく、引きちぎられている。一度目の夜の、絹を扱う指の慎重さが、今夜は最初からどこにもない。 「がく、まて……あ!」 「待たない」  賀久の声が掠れていた。組み敷かれて、間近の顔を見る。熱に灼けているのは自分のはずなのに、上にいる男の呼吸のほうが乱れていた。こめかみに汗が伝い、瞳孔が開いている。  欲情している、とわかった。大柄でたくましく、抱いて柔らかい身体などしていない男に。山桜桃は熱でぼやける思考をなんとか保ち、この事態を考えようとした。  これは契約の婚姻で、投資である。投資対象に欲情など要らない。そもそもこの行為には意味などない。子を作ることを明言しなかったのは賀久だ。  抑制剤を与えて、放っておけばいいものを。必死で考えた頭は、そこまでで焼き切れた。  シャツが剥がれ、熱くて硬い掌が素肌を這う。一度目に違和だったすべてが、今夜は最初から快楽の顔をして押し寄せた。賀久のフェロモンが鼻腔をくすぐり、身体の芯から匂いを味わっている。  賀久が山桜桃の赤く熟れた乳首を舐め上げて噛むと、ビリッとした刺激で山桜桃の腰が跳ねた。今はどこをどうされても、ただ快楽に変えられてしまう。  早く目の前にいる男を咥え込めと、爪の先から頭まで欲望がうずまいていた。混乱して、涙腺が勝手に緩む。  滑らかに肌をさわる感覚に呼応するように、山桜桃の先端がしとどに先走りの涙を流し始めた。気持ちがいいけれど、そこじゃない。もっと、もっと下にある——。  山桜桃の秘所へもぐりこんだ指が、待ちわびたように蜜を零す内壁を暴いていく。 「……あっ、や、……ん、ぅ!」  指は二本に増え、三本になった。抜き挿しされるたびに身体は素直に開いて、開くことを恥じる余力ももうない。賀久の片手はぷっくりと熟れた山桜桃の胸の尖りを摘んで押し潰し、その背がシーツから浮いた。  賀久は何度も山桜桃の耳元や身体の上で名を呼んだ。呼ぶたびに歯が立てられて、痕の数が増えていく。加減を忘れる指の頻度が、一度目より明らかに多かった。  ゆっくり抜かれた指を感じる暇もないまま、ぐいと両腿を開かれる。たらりと内側から蜜が零れてくのを感じた。賀久の陰茎は直接触ったわけでもないのに、はち切れそうなほど勃ち上がっている。 「……きれいだ」 「——あっ」  幼い頃、おずおずと囁かれた言葉を思い出す。自分のほうがよほどきれいな姿をしているくせに、山桜桃を褒めた。今もなお、賀久は日本人らしからぬ美しさだ。西洋人のように青い目と薄茶の髪色を持ちながら、彫りの深さはちょうどいい具合で彫刻のような鼻。均整の保たれた身体つき、傷一つない白い肌。  山桜桃の軍隊で鍛えられた身体は武門の出らしくて良いだろうが、組み敷きたい部類ではない。無愛想な顔つきも、山桜桃の人生には不利だった。情報将校としては役立ったが、議員秘書には向いていない。兄から愛想を良くしろと何度言われても、ぎこちなく笑うことがせいぜいだ。  オメガだと褒めそやされていた、細くて日本人形のようだと大切にされていたあの頃のままなら、賀久も手に入れたいと願うだろうと納得できるのに。なぜ、今の山桜桃を欲しがるのか。  枕元で、薄い封の切れる音がした。  溶けかけた頭の中で、その音が耳に残る。オメガに書き換えてまで娶った男に、わざわざ避妊をする意味などない。  何度考えても理由がわからない。わからないと混乱しながら、激しく貫かれた。 「う——……っ!」  二十六日分の熾火(おきび)が、一息に燃え上がる。  最初の一突きから、賀久は容赦をしなかった。最奥まで満たされて、抜かれ、また満たされる。律動のたびに視界が白く瞬いて、寝台の軋みと肌のぶつかる音が、天蓋の闇に籠もった。逃げかけた腰は易々と引き戻される。掴む指が、また加減を忘れていた。 「……ふか、い……っ」 「おまえが、俺を離そうとしないからだ」  一度目の夜に薄く笑った男が、今夜は笑う余裕ごと捨てている。背中に回した手のひらに、汗で湿った背筋の強張りが伝わった。必死、という言葉が浮かんで、この男に似合わない語だと思う間もなく、深い場所を抉られて霧散する。 「あっ、あ、……がく、……っ」  名前を呼ぶと、律動が一拍乱れた。乱れて、余計に深くなる。呼べば呼ぶほど箍の外れる男の上で、山桜桃は自分の声がとうに懇願の音になっていることに気づいていた。気づいて、止められない。オメガの身体は際限を知らず、与えられるだけで濡れていく。考えることを締めて、次をねだる。  浅ましい。浅ましいが、もうどうでもいい。下半身からせり上がる痺れと脳天が直結し、山桜桃はたまらくなって賀久に手を伸ばした。自分が自分ではなくなっていく、この手を握っていて欲しい。  賀久は山桜桃の願いを感じ取ったのか、片手を強く  骨の軋むほど抱き込まれて、揺さぶられて、名前を呼ばれて、山桜桃の思考は今夜も音を立てて崩れ落ちた。最後に残ったのは、暗がりで青く光る目と、なぜ、という問いだけだった。    ◇  熱が引いた暗がりで、賀久の腕は山桜桃を抱いている。寝台の上なら、妻より背の低い夫はその艶のある黒髪を撫でることができた。  なぜ抱く。なぜ孕ませない。なぜ俺なんだ。どれも声にならなかった。 「……首を噛まないのか?」  こうして夫婦となって枕まで交わした。あとは山桜桃を番にするだけだ。 「……ああ」  理由を訊こうとして、いっそう強く抱き込まれる。 「もう寝ろ、疲れただろう」  まだ熱を持っている腹の下をそっと撫でられ、山桜桃は慌てて目を閉じた。身体の下側からずくりと登ってくる欲望が、自分でも制御できない。  ふたりの沈黙だけが、天蓋の闇と一緒に降りていた。    ◇  その週、雛菊は来なかった。  月曜が過ぎ、木曜が過ぎていく。下巻もお持ちしますわね、と言った妹の便が、初めて途切れた。  電話が鳴ったのは、金曜の夜である。  交換台経由で繋がれた回線の向こうで、妹の声は明るかった。 「お兄さま、お風邪はいかが?」  風邪など引いていない。どうやら門前で追い返された妹に、竹川はそういう理由を立てたらしい。交換台に聞かれている回線で、山桜桃は同じ芝居に乗った。 「ああ、だいぶ良くなった。心配をかけたな」 「よかったわ。健康優良児でらしたのに、珍しいわね。しばらくご訪問は控えます。お大事になさって——お食事会には、いらしてくださいね」  受話器の向こうで、妹はゆっくりと、その一言だけ区切って言った。回線が切れる。  礼服の仕立て上がりは、食事会の直前になるという。  便は切られ、病は捏造され、残った接点は公式の席が一つ。次の戦場の名前だけが、妹の声で告げられていた。

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