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第8話 十八歳の断絶
破談は、関係の終わりではなかった。
昭和五十五年、十八。賀久 も山桜桃 も高等部の最終学年である。十五の折、婚約解消の噂は早馬のように学校中を駆け巡ったが、山桜桃にとっては顔に虫が止まった程度の煩わしさだった。三年も経てば、蒸し返す級友もいない。
麻布に呼ばれることは、あの春を最後になくなった。手紙のやり取りも、別れ際に頬へ落ちてきた口づけも、全部がオメガ判定の一枚と一緒に終わったのだ。残ったのは教室でのやり取りだけである。同じ組だから勉強は教え合うし、廊下で行き合えば立ち話もする。誰の目にも仲のいい同窓で、わだかまりなど、どこにもないように見えた。
たとえば試験前も数学と物理は山桜桃が教え、英語と独語は賀久が教えた。並べた机の上で、賀久の指が頁の一点を叩く。発音が違う、と言われて読み直すと、もう一度同じ場所を叩かれる。かつては手ごと取って直させた男が、いまは紙より先に触れない。指と指のあいだの数寸が、ふたりの距離だった。
弁当を別々に食べるようになったのが、いつからだったかは覚えていない。避けられている、と察しはついたが、また元通りにと言い出す筋は山桜桃の側にない。
◇
山桜桃の進路は、秋の夕食の席の父の一言で決まった。
「おまえはその体躯を活かして、軍人になれ」
時雨 は皿から目も上げなかった。百八十を超えた背丈、道場で名の通り始めた剣。武門の次男の使い道として、これ以上の答えもない。陸軍士官学校の願書は、翌週に女中の手から渡された。
「見合いの話も来てはいるが、まだ早い。嫁取りは任官してからいくらでも選べる。剣崎 の名に恥じぬ価値を示せ」
書き上げた願書に目を通して、時雨は満足そうに頷いた。ただの大きな抜け殻になった身体に、新しい役目が与えられただけだった。異存などない。そもそも剣崎の次男は、異存を抱くような教育を施されていなかった。
見合いの話は誇張ではなかった。判定から三年、名だたる名家から釣書 は季節ごとに届いている。アルファで、武門で、姿がいい。留め置かれた釣書の束を検める時雨の手つきは、値の上がるのを待つ商人のそれに似ていた。
◇
縁談の噂が教室まで届いたのは、初冬である。
伯爵令嬢と見合いが調いかけているらしい、と級友が囃した。事実ではなく釣書が届いただけの話が、伝言の途中で誇張されている。山桜桃もいちいち訂正することが煩わしく、放っておいてしまった。
その週末に、冬の都大会があった。
学生剣道の締めくくりの大会である。十五までは、どんな小さな試合にも賀久が来ていた。区の親善試合にも、道場の納会にもである。それが破談の境に、ぱたりと来なくなった。
その顔を準決勝の直前に観客席の端で見つけた。
三年ぶりだった。学校の応援席から離れた、通路際の席にひとり。見間違いかと思う間もなく竹刀を構える番が来て、それきり集中は戻らなかった。準決勝は辛くも取ったが、決勝で面を取られ、取り返せずに終わる。高校生最後の大会は準優勝で終わった。
それでも、道具を提げて廊下へ出た足は軽かった。柱の陰に、まだ制服が立っていたからである。胸の奥が、単純に跳ねていた。
「来ていたのか」
「ああ」
「なぜ教えてくれなかった」
「たまたま近くを通りかかった。おまえ、いつもの調子はどうしたんだ」
都大会の会場を、たまたま通りかかる者はいない。なぜ賀久が分かる嘘をついたのかはわからないが、見に来てくれたことが嬉しかった。賀久の手の中で、大会の番組表が几帳面に折り畳まれている。角と角を合わせて、四つに、八つに。
「……進路が決まったからな。気が散っていた」
半分は事実である。もう半分は、言葉になる前に捨てた。
「士官学校だ。春に入る」
「知っている」
家同士の話は、家同士の速さで回る。賀久はそれきり黙って、折り畳んだ番組表を上着の内へ仕舞った。仕舞ってから、決まった話を告げる声で言う。
「俺は欧州の大学へ進学することにした」
「……留学するのか、いつ戻る」
「俺の用が済むまで」
なにが済むまでかは、言わない。かわりに、というように一つだけ付け足された。
「薬学をやる。家業のひとつだからな」
製薬会社を持つ財閥の跡取りなら当然の専攻である。訊いてもいない理由を、賀久は言った。理由を口にしない男が珍しい、と思いながらそれきりだ。
二位の賞状は、その日のうちにどこかへ仕舞って忘れた。観客席の端の制服だけが、長く記憶に残った。
十五の春に肩へ食い込んだ爪のことは、このときも思い出さなかった。思い出していれば——と考えるのは、ずっと後の話である。
◇
卒業式の日は晴れやかな青空だった。
式のあと、賀久から校庭の桜の下で呼び止められる。三月の桜はまだ蕾で、枝だけが空に細い。賀久は数歩の距離に立ち、山桜桃を頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくり眺めた。
八つの春と同じ仕草である。よそゆき姿を眺めて、きれいだ、と言った子供の目。十八の賀久は、なにも言わなかった。ただ、なにかを堪える顔をしている。卒業の感傷だろう。山桜桃にとって頭の大半は、士官学校の入校日と身辺の整理が占めていた。
またな、と言ったのが、どちらだったかは覚えていない。
それが最後になった。渡航の日取りは知らされず、見送りの声も掛からず、手紙は一通も来ないまま——十年が過ぎた。
同じ眺め方を、十年後の応接間で見た。頭のてっぺんから爪先まで、同じ順番で降りていく青い目。仕草だけが同じで、意味はまだ、読めない。
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