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第7話 検診と嘘
検診の前夜、夕食の席に賀久 がいた。
週に一度あるかないかの同席である。泉堂 家は洋食ばかりで、味噌汁の味が恋しい。銀器の音だけがしばらく続いて、先に口を開いたのは賀久だった。
「顔色が悪いな」
手を止めもせずに言う。気遣いに聞こえるが、その視線は観察をしているようだ。発作から二週間、鏡を見ながら顔色は毎朝確かめている。悪くはないはずだが、そう言われると悪い気がしてきた。食欲がないのは、慣れぬ味にうんざりしていたからではないのか。
発作の翌朝から、体温や脈拍を記録してある。読みかけの本の頁数を装った並びで、手帳の隅に足していった。データというのはいつ役に立つかわからないからだ。
「明日はきちんと診てもらえ。竹川 にも伝えておく」
目の回る忙しさであろうに、山桜桃 の月に一度の検診を覚えていた。手帳より正確な夫である。
それだけではない。和食が食べたいとは口に出していないはずだが、翌朝の食卓には焼き魚と味噌汁が並んだ。竹川に問えば、若旦那さまのご指示で、と一礼が返る。皿の減り方から読んだのか。
◇
病院までの車中、竹川は助手席にいた。
窓の外を初夏の街が流れていく。街頭の電光掲示が、南アジアの停戦決裂を短く流していた。沈黙は苦にならない性分だが、この男の沈黙は丁寧に張られた壁紙のようで、継ぎ目がない。剥がせるほころびがあるかと、ためしに背中へ一つ突いてみた。
「竹川。家令になる前は、なにをしていた」
「若奥さまにお聞かせするほどの経歴では、ございません」
「興味がある」
「おやめください。若旦那さまに追い出されてしまいます。わたくしのことは、口の利ける道具としてお使いください」
即答だった。考える間がないのは、答えを用意してある者の速度である。みずからを道具扱いしろとは割り切った物言いだ。山桜桃はそういう人間が嫌いではない。目的は違えど、徹する姿勢に共感を覚える。
坂を下りきった先にある泉堂系列の病院は、玄関から待遇が違った。
受付に並ばない。保険証を出さない。会計というものが、そもそも存在しない。車寄せで竹川が扉を開け、白衣の事務長が頭を下げて、個室の診察室まで廊下の角ごとに案内が立つ。若奥さま、と呼ばれた。泉堂の名前が先に歩いて、山桜桃はその後ろを歩く。
母のように女物でも着るべきなのだろうか。「わたしは身体の凹凸がないでしょう。和服が似合うと、お父さまがね」と好んで女の着物をまとっていた。
父は世辞など言えない性格だ。男女どちらも妾がいるような女傑でも、母の葬式では静かに涙をこぼしていたから、きっと愛情はあったのだろう。
自分が女用の和服を着て、たおやかに賀久の隣にいるなど、考えただけで虫唾 が走る。すぐにおぞましい想像を打ち消した。
竹川は待合の椅子まで付いてきた。
診察室の敷居を、あの男は越えない。前回の判定検診でも同じだった。偶然かどうか、今日は確かめるつもりで来たが、偶然ではない。扉が閉まる間際、竹川は椅子に掛けて文庫本を開いた。栞の位置が、前回と同じに見える。
問診は、屈辱の時間だった。
発作の日時。持続の時間。発熱の度数。覚えている限りの忘れてしまいたい記憶たちを、医師はすらすらと記録していく。
「ご夫婦のお営みは、その晩かぎりで?」
問診票を繰る手も止めずに訊かれた。事実だけを短く答える。医師は生々しい話にも顔を変えずに頷いた。産科内のバース性専門医である。オメガなど幾人も診察してきているはずだ。
「奥さまのような方は、前例があまりございませんのでな。念のため、血も詳しく採らせていただきましょう」
前例があまりない。医師がうっかり漏らした一言を、聞き流すことにした。この検診が、ただの健康管理でないことは分かっている。山桜桃は実験動物のようなものだ。
「発情期が早まる可能性もありますな。次はもう少し、間隔が詰まるやもしれません」
世間話の調子で、予後が告げられた。顔には出さなかったが、早まる、の一言だけが硬く残る。死刑宣告のようだ。毎朝付けている数字と、突き合わせのできる記録がある。警戒を怠らないようにしよう。
採血と検査を回ってくるように、と看護婦が廊下の先を指した。付き添いは付かない。若奥さまに張り付く非礼を、この病院の誰もしないのである。賀久の名前が作った特別扱いが、賀久の監視に穴を開けていた。
◇
検査棟へ渡る廊下に、患者用らしき桃色の公衆電話が一台ある。位置は前回の来院で、頭に入れてあった。検査の呼び出しまで、およそ五分から十分。竹川の視線は、ここまで届かない。
十円玉は、常に上着に三枚入れてある。
受話器を上げ、伯父の事務所の番号を回した。呼び出し三回で切る。取り決めの間合いは五分だが、待っている時間が惜しい。二分で掛け直した。手順の変更は向こうも織り込む約束である。二度目の三コール目で、回線が繋がった。
報告は軍隊式の速度で流した。監視は変わらず堅牢。書斎の空の函と、起算昭和五十九年。先代の入院に実体がないこと。妹をこの件から外すこと。代替はこの電話、月に一度の検診時。電話の向こうの兄は相槌も打たず、必要な確認だけを短く挟んでくる。滑らかに進んだ。身体のことを訊かれるまでは。
「定期的と言ったな、病院にかかっているのか?」
「……泉堂病院のアピール目的があるようです。俺が健康診断を受けることで、箔がつくと」
言い訳の声が、一拍遅れた。
おのが身に起こった変化など兄へ知られてはならない。あの夜のことも、扉の前で言わされた言葉も、鏡で見た首筋も。報告書の様式なら書くべき項目である。潜入先での身体状況は作戦情報だ。分かっていて、黙っていたかった。任務になんら支障はないはずだ。
受話器の向こうが、わずかに空いた。
「さもありなんだな。わかった」
勘の良い兄をどうにか誤魔化し、回線が切れた。
◇
受話器を、下ろしそこねる。
ツーという音が耳の中で続いていた。検査の呼び出しまで、あと数分。頭は残りの秒数を数えているのに、手は受話器を握ったまま離さない。頭と手が、別々に動いていた。
なぜ、報告しなかった。恥と外聞など捨てる訓練は積んでいるはずだ。
廊下の先で名前が呼ばれた。若奥さま、検査室へどうぞ。桃色の受話器は、まだ手の中で鳴っている。
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