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第1話

「ねぇ、いいじゃないの、ちょっとくらい。これソルに渡してくれればいいだけだから」 「そうよそうよ」 「だから何度も言ってるだろ。プレゼントなら事務所に送ってくれって...」 「けち男!あんたみたいに意地悪な人がヘイズ・ブラザーズと一緒に住んでるなんて信じらんない」 「俺はただの使用人だよ。さぁ帰った帰った。あまり騒ぐとまたセキュリティを呼ぶことになるぞ」 女の子たちが悔しそうに睨みつけながらすごすごと去っていく。ふぅ、と俺はため息をついて、やりかけていた庭の木の剪定を再開した。近所迷惑も考えずにやって来るグルーピーを追い返すのも、この家のハウスマン兼雑務係の仕事のうちだ。 彼女たちが夢中になっているのは、ブラックミュージック界のニューアイドル・The Boogie Hayes。ここ最近人気急上昇中のボーカルグループで、テレビ・ラジオ・雑誌とあらゆるメディアで見かけるようになってきた。芸能人にはてんで疎かったかつての俺ですら___どうやら雇用する側としてはその方が好ましいらしい___デビュー曲は口ずさめたし、メンバーの名前くらいは知っていた。それはきっと、その音楽が煌びやかにショーアップされたディスコ・ソウルだったことと、メンバーが実の兄弟たちで構成されたファミリーグループだということが印象的だったからだろう。 「フレッド!」 ポーチから呼ぶ奥さまの声がして、俺は脚立から降りた。 「はい、ご用ですか」 「悪いんだけど食事の用意を手伝ってくれるかしら。今から帰ってくるらしいのよ、あの子たち」 「わかりました。でも、彼らが戻るのは明日と伺っていましたが...」 「マネージャーから連絡があって、今夜のステージがイベンターの都合でキャンセルになったらしいの。もうこっちに向かっているって」 こりゃ大変だ。俺は前掛けで手を拭いながらダイニングへと向かった。 ヘイズ家に雇われてもうすぐ1年になる。使用人としては若くて力仕事を任せるのにちょうどいいし、それに兄弟たちと年齢が近く話し相手にもなるだろうというのが派遣の理由だった。 うちはひとり親だから、家計を助けるつもりでハイスクールの夏の休暇に始めたハウスマンのアルバイト。この家の奥さまは未亡人で、兄弟たちは母親に苦労をさせたくない思いで今の成功を勝ち取った、という___アメリカン・ドリームを体現してるような筋書きだ。だからこそ似たような家庭環境の俺に同情してくれたのかもしれない。ここに住み込みで正式に働いて欲しいの、ハイスクール卒業を控えていた半年前、そう提案されたのだった。 育ちも良いと言えず大した経験もない、得意なのは家事くらい。そんな俺がこのヘイズ家に居座れているのはそういうわけだ。 「あぁ疲れた。ったくあのイベント会社どうかしてるぜ...」 22歳、長身が一際目立つ大きな体格の長男・Marcus Hayesが、リーダーらしい神経質そうな面持ちでぼやきながら入ってきた。 「いいじゃん。今夜は愛しのスイートホームでゆっくり眠れることになったんだし」 20歳、ムードメーカーな次男・Calvin Hayesが、ステージでもないのにいつも通り愛嬌をたっぷり振りまいている。 「やぁ。ただいま、フレッド。調子はどう?」 17歳、その才能により音楽界から期待を受けている若き天才リードシンガーの三男・Solomon Hayesが、ここでは普通のティーンエイジャーのように俺に声をかける。 「まずまずってとこかな。王子様たちのご帰宅が早まったもんだから、可哀想な庭の植え込みが不恰好なまま放置されてるってだけさ」 「ふふ...そりゃ悪いね」 ソロモン___ソルは俺の飛ばした嫌味のジョークに微笑んで、マークとカルの後に続き廊下をかけていった。 一気に3人もの主人達が増えるとさすがに賑やかで、同時に任される仕事も増える。ようやく自室へ戻った頃にはもう夜も遅かった。椅子に腰掛けて読みかけの本を眺めていると、いつしか眠気がやってきてうつらうつらと舟を漕ぐ。 ...今日は奥さまも息子たちと同じ時間を過ごせて心から嬉しそうだった。改めて見ても、BHの三人はよくできた顔ぶれだと思う。マークは長男らしく隙のないハンサム・ガイだし、カルの笑顔には不思議と場の空気を和らげる力がある。 そしてソルだ。俺の二つ下とは思えないほど、あいつはもう完成された存在に見えることがある。くっきりとした眉と目鼻立ちはまさにダンスフロアでライトを浴びて踊るのにお誂え向きなルックスだ。けれど柔らかな巻き毛とふとした拍子に見せるアンニュイな表情を例えるならば一転してバラードで、以前雑誌のライターが“黒い金剛石の天使”などと書いていたが、あながち大げさでもないのかもしれない。 もっとも、こうして家の中で見るソルは世間が知っている彼とは少し違う。何かと懐いてくれているから実際の弟かのような感覚になるときさえある。けれど俺が日々顔を合わせ言葉を交わしているのは、あのソロモン・ヘイズなんだ。そう考えるとやっぱりどこか夢のようでもあった。 「...フレッド」 鈴の鳴るような優しい声で目が覚めた。ぼんやりと声の主を探ると、大きな目の痩せた青年が半分だけ開けたドアからこちらを覗き込んでいる。 「...あ...」 「ごめんね。何度かノックはしたんだけど...ドアが開いてたから」 「ソル!あー...何か用かい、完全に寝てたみたいだ、全然気付かなくて...」 慌てふためく俺を見て、彼は控えめに微笑む。 「いや、大したことじゃないし...疲れてるなら平気だよ」 「そんな、いいさ。用があるんだろう」 「...」 「ソル?」 恥ずかしそうに下を向き口ごもってしまった彼は、ステージで堂々と歌う姿からは想像もできない。素のソルがこんなにもシャイだとは、こうして雇われてから知ったことだ。 「その...眠れないんだ。一緒にいてくれないかな...少しの時間だけ」 留守にすることが多いからか彼の部屋は___ごく普通ではあるがやけに立派なプレーヤーとレコード棚だけが目につく___きちんと整ったままだったが、ただ一つブランケットだけは乱れていて、彼が眠りにつこうと試行錯誤した痕跡が残っていた。 「子供みたいだよね...こんなこと」 「みんなよくあることだ。ショーのライトや歓声で脳が興奮してるのかもしれない。落ち着けば平気だよ」 並んでベッドに腰掛けた俺たちを、窓から見える大きな月が照らす。おぼろげな光が彼の横顔と部屋の景色の境界を曖昧にさせ、なんだか頼りなさげに見えた。 「温かい飲み物でも持ってくる?」 「...それよりも、側にいて」 その言葉はまるで消え入りそうだったけれど、俺の耳にははっきりと聞こえた。 「きみが安心して眠れるなら、そうしよう」 家の者はきっともう誰も起きてはいない。静かで、心臓のリズムや呼吸の音までも聴こえるようだ。閉じられた瞼を縁取る長い睫毛が時折ぴくりと動くのを見るに、まだ深く眠りには着ききっていないんだろう。ところどころにきびのあるその頬と熱に浮かされたような表情を眺め、スターへの階段を駆け上っていくソルもごく普通のティーンエイジャーの男なんだ、とぼんやり思った。 時間がゆっくりと流れていく。まるでこの世界には二人だけしかいないかのように。いつしかその華奢な体は俺にもたれかかり、俺の腕もそれを支えていた。じんわりとあたたかいのは俺よりも彼の肌の方だったが、既に互いの体温は混ぜこぜになっていった。 ソルにそんな気があったなんて、とは思わない。この年頃の男ってのは、それまで頑なに思い込んでいた何かが一つのきっかけだけで崩れる、そんなヤワなものなんだ。そして朝になれば元通り、簡単に忘れてしまう。今夜だって、ハイティーンの男によくあるちょっとした思考の異常が起きただけなんだろう。自分にもそんな時期があったからわかるつもりだ。 「神さまは、きっと僕を罪人にするよ。でもきみの神さまが、きみにはそうさせないように心から祈る」 いつしかベッドに倒れ込む一歩手前、全てを諦めたような口ぶりで彼はそう言った。何か思い詰めている。父親を早くに亡くした経験がそうさせたのだろうか、彼が年齢の割に信仰を尊んでいることはインタビュー記事や家での態度を見てなんとなく知っていた。使用人の身の程でこんなことを言うのはきっと褒められたことじゃない。けれど、立場や何かよりも俺自身の考えを伝えたかった。 「幸福なときは家族や友人とハグもキスもするだろう」 「...うん」 「俺たちは友人で、いま幸福なんだ。わかるね」 「...」 「同性と手を握るのは罪か?悩んでいる友人と同じ部屋で過ごすことが罪?もしそうなら人類はみんな地獄行きのはずだ」 この軽率な本音を聞いて、彼の目が少しだけ見開かれる。月明かりに照らされたその瞳が、まるで俺の心の中を覗き込むように揺れている。 「主人に対して失礼だったね、友人なんて」 「…きみって、本当に…不思議だね。昔から周りにいるのはショービジネスの大人ばかりで、友達なんていなかったんだ。でもきみは僕らを友と言った」 目を逸らさず、その言葉を聞く。 「ねえ、幸福な友人同士は、ハグをし合っても許されるかな...それが、朝までだったとしても」 ステージの上で何千人もの歓声を浴びてきたソルが、こんなに弱々しく切なげに見つめてくる。その奥に自分と同じ男としての欲をまとわせて。 カーテンを閉める。あの大きな月の光すらも、もうこの部屋には入ってこない。大丈夫、誰も見てはいないよと、言い聞かせるように。それがたとえ神でさえ。 俺たちは文字通りただ抱き合っていた。その触れ合いは添い寝とさえ言えるものだったけれど、彼の手は意思を持って俺の背に回されていて、足はどちらからともなく絡んでいる。緩く芯を持った熱が太腿あたりに押し付けられ、密着した身体が互いの心拍を伝え合う。聞こえるのは微かな衣擦れと、ほんの少しずつ増していく吐息だけ。永遠のような時間の中で、俺はソルを抱き止めていた。 腕の中でその身体が震えたのは一体どのくらい経った頃なのか、それはわからない。微かに上がる息が次第に短く熱く変わっていったこと。湿った温かさがズボン越しに伝わってきたこと。それだけが終わりを伝える。俺は筋張ったその背中を撫でて、震えが収まるのを待っていた。 夢の中かのように静かに言葉が紡がれるのを聞いた。 「...きみのことを、見てたんだ」 「...」 違う。今最も注目を集めるグループ・The Boogie Hayesの天才シンガー・ソロモンは、一介の使用人の男なんか見ていない。 「いつからかはわからない。ついこの間からかもしれないし、考えてみればずっと前からな気もする」 違う。きみは今夜ただ正常な欲を持て余して眠れなかったのを、偶然近くにいた便利な存在の俺に押し付けただけ。あとでその衝動が年頃によくあるクレージーな症候群だったってことがわかる。 「きみも僕のことを見てくれたらって」 ...これ以上聞いちゃいけない。言わせちゃいけない。本能でそう感じた。 「僕は、フレッドのことが___」 「ソル。もう眠れるね」 びくり、とその体が硬直し、拳が握られシーツに皺ができた。そっと身を離しベッドから降りる。スプリングの音も立たないほど、ゆっくりと。 「...うん。...ありがとう」 「それじゃあ俺は戻るよ。おやすみ、ともだち」 「...おやすみ...」 その声が小さく部屋に残って消えていく。熱かった肌にひんやりした廊下の空気が触れ、全てが冷めていくようだ。 彼を受け入れたのは俺からだったのに拒絶してしまったこの矛盾は、もしや俺も彼のことを知らずのうちに見ていたからなのか...そう仮定すると辻褄が合ってしまう。年下とはいえ相手は仕えるべき主人、本当に罪深いのはこっちだ。この先に進んでしまったとしたら、それはきっともう"許される友人"ですらない。 寝静まった暗い邸宅。重い気持ちを引き摺りながら階段を降り、俺は自室に戻っていく。窓から大きな月がこっちを見ているようだった。 キッチンは明るい日差しとコーヒーの香りで満たされている。壁を隔てたダイニングから聞こえる、WABCのモーニングドライブショーにチューナーを合わせたラジオと家族の話し声をBGMに、俺は食器を片付けていた。 「久しぶりに家族揃っての朝食だと思ったのに。またお寝坊なのねあの子」 「今日の仕事は午後からだからな。ゆっくりさせてやったら?うちの稼ぎ頭なんだし」 「ツアーでも始まったら家なんて早々帰れなくなる」 午後、ってことは買い物に出るならその後だ。それまでに洗濯を終わらせて...今日の陽気ならすぐ乾くだろう。あぁ、ツアーなんて始まれば一層多くファンレターやプレゼントが届いて散らかるのが目に見える。 そんなことを考えていたとき、ふと後ろに気配を感じた。視界の隅にあの黒い巻き毛の影が入る。俺は振り向かずに蛇口をひねった。 「...フレッド。昨日のこと...」 「よく眠れたかい?」 スポンジに食器用洗剤を垂らす。科学的なレモンのにおいが広がる。 「...うん」 「それなら良かった。昨日きみはただ...疲れてたんだ。俺も寝ぼけてて何も覚えてない。だから、大丈夫。そうだろう?」 皿を落とさないように注意しなくちゃいけない。泡でぬるついた陶器は滑りやすいし、この手は今にも震えそうなんだから。 「そう...だね。わかった」 彼は答えたけれど、その声は昨日と変わらず消え入りそうだった。 これでいい。朝になれば元通り。夢だったんだ。 「さぁ、トーストが冷めるよ」 その影は一度ドアへ歩き出したものの、すぐにこっちへ向き直った。心臓が跳ねそうになる。戸惑いがちに、彼の指がシャツの裾を掴んできたから。 「これから僕が言うこと、嫌ならノーと言って欲しい」 「...」 「...また眠れない日は、行ってもいいかな」 蛇口から流れる水が、ただシンクに叩きつけられてる。陽の光に当たりプリズムになって、小さな虹のように見える。マグカップの渋はとっくに洗い落とされて、排水口へ吸い込まれている。その様をぼんやりと眺めることしか、できなかった。 「...おいで」 つい、こう答えてしまったことが正しいかそうでないか、今の俺にはわからない。

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