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第2話

ヘイズ家の生活は相変わらずだ。 変わったことと言えば...数週間前のあの夜から、ほんの少しだけソルと俺との関係がぎこちないこと。もちろん表面上はいつもと同じ、普通の会話に、普通のジョーク。でも時々、彼の視線を感じる。こっちが気付くとすぐに逸らす。そして俺もまた、知らずのうちに彼の方を見てしまっている。視線同士が絡まって、あの夜を思い出させる。時間で言えば数秒間だろうが、あのブラウンの瞳が胸に焼きついてずっと離れない。 「また眠れない日は行ってもいいかな」 そうは言われたものの、未だ彼が部屋を訪ねてくることはなかった。もしや今夜かもしれない___そう考えかけ、いや何を待っているんだと思い直す。そんなことを毎晩のように繰り返している。実際に彼がやってきたらどう接すれば良いかなんて、まるでわからないのに。 もう一つ、以前と違うこと。The Boogie Hayesの新曲がチャート1位を獲った。R&B部門ではあるものの、これが彼らにとって初めての首位だ。ラジオを一日付けていれば、どれだけこの曲が世間でヘビーローテーションされているかすぐにわかるだろう。 音楽好きな父親の影響で、ヘイズ家の兄弟たちは幼い頃から歌を歌っていた。地域のイベントや教会での催しに出演し、地元ではかわいいファミリーグループとして名が知れていたという。彼らの父親が亡くなってからは本格的にショービジネスで身を立てることを目指し、レッスンとオーディション漬けの生活が始まる。まだ十代ながら小さな酒場でドサ周りを繰り返し、生活費を稼ぐとともに実力を積んでいった。特にソロモンの大人顔負けのボーカルパフォーマンスによりアマチュアコンテスト荒らしとしてその名が都市にまで届くようになると、芸能事務所やレコード会社がスカウトに来ることは必然となっていった。 そんな彼らを一番近くで見てきたのが奥さまだ。カルヴィンから電話で1位獲得の知らせを聞いた彼女は、感激のあまり子供のように飛び跳ねてスカートの裾を踏み、転びそうになったところを慌てて支えなければならなかったくらいだ。 「あの子たちはきっと素晴らしい時間を過ごすんでしょうね」 ソファに腰掛けEPのジャケットを眺めながら、嬉しそうに彼女が呟いた。マークがポーズを決め、カルがにっこりと微笑み、ソルが中央でこちらを見つめている___そのアートワークの上を愛おしそうに、兄弟と同じ茶の瞳の視線が滑っていく。 「奥さまもお出掛けになったら良かったのに。きっと歓迎されますよ、なんたってヘイズ・ブラザーズのゴッドマザーですから」 「ふふっ、ただのパーティなら私も出しゃばったかもしれないわ。でも今日は違うもの」 祝賀会として企画されたレコード会社主催のパーティ。会場は借り切った大箱のディスコテーク。BHを祝うのにまさしくぴったりだ。今頃3人は輝くライトの中で歌い踊って歓声を浴びてるんだろう。俺の知らない華やかな場所。きっとこの先彼らはそんな世界にどんどん足を踏み入れていく。 ...やっぱり、あの夜は夢だったに違いない。これからソルがスターダムへ昇っていけば、一時的な俺への気持ちなんかすぐにでも忘れるだろう。 小説を書く筆がなんとなく乗ってしまい、いつのまにか時計は深夜12時を回っていた。そろそろ寝ようか...と伸びをしたとき、その音に気付いた。 何やら玄関の方でばたばたと騒がしい。咄嗟に頭が仕事モードに切り替わる。戸締まりの確認はちゃんと済ませたはずだ。まさか侵入してくるなんて大胆な真似をするグルーピーの子はこれまでいなかったし、となると...泥棒? 息を殺してそっと廊下に出る。暗い廊下の向こうから走ってくる足音が近付いてくる。ごくりと唾を飲み身構え、目を凝らす...。 「フレッド!!」 乱れた髪を踊らせ駆けてくる、まだあどけなさの残る青年。俺の前に飛び込んできたのはソロモンだった。 「ソルじゃないか!あぁ驚いた。一体どうしたんだ?向こうが用意してくれたホテルに泊まるんじゃ...」 「兄さんたちはそうするさ、でもきっとまだ踊ってる。僕は無理言って抜け出してきたんだ。すっごいハイヤーで送ってくれてさ。そんなことより聞いてくれよ、今夜、今夜...!」 早口で捲し立てるかのように言葉が流れてくる。何があったのかわからないが、ずいぶん興奮しているみたいだ。 「ちょっと待て、落ち着いて。奥さまを起こしてしまうよ」 俺はそう言って、ひとまず彼を部屋の中へ押し込むように迎え入れた。 今夜もよく月の見える日だった。ソルがベッドに飛び乗ったことで楽しげにクッションが跳ねる。身振り手振りを交えながらの息つく間もない彼の話を、俺は隣に座って聞いていた。 プロのミキサーが例のレコードに針を落とし、3人がVIPルームからフロアに降り立った瞬間、場の盛り上がりは最高潮に達した。極彩色のライトに照らされ、汗と香水の香りの入り混じる中、這いずり回るベースラインに身を預ける。BHの曲でその場にいる誰もが踊りまくっている。スタッフ、業界人、ダンサー、ファン、___ひょっとすると特別なコードなんて必要なく入れたのかもしれない___それ以外の、誰に招待されたのかわからない人まで。 「女の子だけじゃない。男も女も、若い人も大人も、黒い肌を持たない人だってあんなにいたんだ。肩を叩かれて振り向いたら、母さんくらいの歳の白人のレディが『ハイ、ワンダーボーイ、あなた達って最高』ってハグしてくれたんだよ。みんながBHの音楽を好きだって言ってくれて、心から楽しんでくれてた!」 きらきらと輝くその表情を見ていると、本当に楽しい時間を過ごしたことが手に取るようにわかる。だからこそ疑問が湧いた。 「そんな素晴らしい場所、どうして抜け出してきたんだ?」 マシンガンのように話していた彼が一瞬静止し、ゆっくりと俯いた。徐々に顔からそれまでの喜びが消え、代わりに熱を帯びた微笑みが浮き上がってくる。 「きみに...会いたくて」 ソルがそれを見たのはチークタイムだった。既に酔いも回り、メロウな曲をバックに近付き触れ合うカップル達。壁際の暗がりではそれ以上のことをしている奴もいたかもしれない。その中には、同性同士の者も一組や二組ではなかった。 二人の男が、汗で張りついたシャツを押し付け合うように踊っている。首に腕を回し、唇が重なる。バラードのリズムで腰をグラインドさせている。誰も恥ずかしがらない。誰も見下さない。その空間では、当たり前の行為だから。 「クラブ向きの音楽を、そういう人たちが支持してるってことはもちろん知ってたよ。でも実際に見て初めて実感したんだ。僕たちを好きでいてくれる人の中にも、彼らはちゃんと存在してるってこと」 黙って聞いている俺の方を彼が見つめ、捉えて離さない。そこに映るのはもうフロアの喧騒ではなく静かで深い光。 「神さまは僕を裁くだろうと思い込んでた。でもあの人たちは...幸せそうだった。音楽と一緒に笑って、踊って、抱き合ってる。こんな場所を、人を...罪だなんて言わないよ。相手が誰であっても、ダンスをしたいって気持ちは嘘にならない」 いつのまにこんなに近付いていたんだろうか。すぐ隣にいる彼との距離は、もう3インチにも満たない。 「きみは夢だと言ったけれど、きみへの気持ちだって嘘じゃなかったんだ。僕も...自由でいたい」 心臓が高鳴り始めた。数週間前のあの夜を思い出して。 「...ありがとう、聞いてくれて。嫌ならそれで構わないんだ。ここに来るのは最後にするから」 俺の方からキスをした。戸惑いの混じった芯のないものだったかもしれない。それでもソルは目を閉じたまま微かに笑った。 薄く紅潮しうっとりとした表情は、彼らが載ったどのマガジンでも見たことがない。まさか変に酒でも入れているのか...と一瞬過ったけれど、堅物と言われるほど真面目なあのマーカスが側についていてそんなことは無いだろうし、そう考えることはアルコールのせいにしてまた彼から逃げようとしている自分を見つけることにもなった。この感情がこれまで女性に抱いてきたそれと全く同じものなのかどうかはわからない。それでも今この時はソルに、ソルだけに向き合いたかった。もし逃げれば彼の尊厳に対して失礼に値するだろう。 くちびるが触れる。そっと離される。また触れる。徐々にそのスパンが短くなっていく。まさに重ね合わせるだけのリップ音も立たないキスだった。静かに優しく、けれど俺たちの間の何かが大きく崩れていく気がした。 煙草とムスクが混じったような香りはディスコテークの空間のものなんだろうか、そんなことを考えるくらい彼が近い。熱狂をそのままに急いで帰ってきたその肌は少し汗ばみ、しっとりと吸い付いてくるようだった。 俺たちはぎこちなく触れ合う。服を脱ぐどころか未だボタン一つ外されない。彼の手が遠慮がちに俺の太腿に置かれるだけで弱い電気が走ったようで、それは俺の息が彼の耳元に当たるだけでも同じことのようだった。それでもキスだけは止まることがない。心臓の音が聞こえそうなほど静かで殺風景なこの部屋は、一体パーティの騒がしさの何万分の一だろう。それでも俺たちはナイトクラブにも負けないほど、これまでにない熱さに溺れていた。 「ソル...待って」 こう言ったのは、彼がわずかに震えたのを察したからだ。 「...どうして...?僕は、怖くないよ」 くちびるを離しひと呼吸置く。 「そうかな。俺は怖い、きみを傷付けるのが。今はパーティの余韻がまだ残ってるだろ。朝が来て冷静になったとき、きみが『やっぱり罪だ』って思ったとしたら...俺は耐えられないよ」 「...またそう言って、きみは...」 「聞くんだ。ちゃんと自分自身と話して、後悔しないってソルが思えるまで待つよ。それまでどこにも行かない」 彼は口を噛んで考えていたが、やがて俺の胸に額を押し付けた。 「優しいね」 おやすみ、と言い合ってドアを閉めた。熱の残る体をシーツに横たえる。...怯えさせてしまったかもしれない。彼が震えたのは、緩く温度を高まらせ始めた俺の肌に気付いたときだったから。 朝はまだ遠い。彼の存在が残像のように残るこの部屋で、眠りに着くまでずいぶん時間がかかった。

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