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第1話

 スマホのアラーム音で目が覚める。手探りで音のありかを探し当て、指先に触れたスマホを手繰り寄せアラーム音を停止した。  まだ眠い目を擦りながら、ゆっくりと体を起こす。寝室には、カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいた。広いベッドが軋んで揺れる。少しだけ、自分の隣のスペースを見た。何もない空間をしばらく見つめた後、ベッドを下りる。  トーストとカフェオレで朝食を済ませて、洗面台の前に立つ。歯を磨き、顔を洗って、タオルで水気を拭き取った後、鏡に映る自分を見た。  少し伸びた髭が顎に残っている。指先で触れるとチクチクと痛みを感じた。電気シェーバーを手に取ろうとして、溜息をついてやめた。面倒臭い。元々そんなに髭が目立つ体質ではない。このくらいならきっと、一日くらい剃らなくても問題ないだろう。  鏡の中の自分はくたびれた顔をしている。二十代の頃は童顔で、いつまでも学生と見間違われるほどだったというのに、三十五を過ぎたあたりからどうしても老いが勝るようになってきた。目尻の皺、ハリと潤いを失った肌、どうしたって隠せない加齢の証を目の当たりにして、襲いくる漠然とした不安に込み上げた苦いものを飲み下す。  人は歳を取る。当たり前だ。誰だって平等に歳を取り、その分、あらゆるものを失っていく。  ワイシャツにストレッチ素材のパンツを穿いて、上からジャージを羽織る。バックパックを背負って、革靴を履き、家を出た。  五月の朝は爽やかだ。透き通るような青空の下を、心地よい風に吹かれながら歩いて行く。最寄駅から電車で三十分、六つめの駅で降りると、ホームでは紺色のブレザーを着た学生の姿をちらほら見かけるようになる。 「あっ、神部ちゃんだ」 「神部ちゃん、おはよー」  そのうちの何人かはよく見知った顔で、気安く声をかけてきた。 「ちゃんじゃなくて、先生な」  教師としての威厳を保つため、訂正しておく。 「神部せんせー、おはよーございまーす」 「はい、おはようございます」  わざとらしく言い直した生徒に、どことなく馬鹿にされているような気がしないでもないが、ひとまず挨拶を返しておく。女子生徒も、男子生徒も、反応はだいたい一緒だ。高校生ともなると、生徒に注意をするのも一筋縄ではいかない。  身体的には大人とほぼ同程度に成長し、それなりに知恵もついてくる時期である。教師相手に、素直に話を聞いてくれた小学生と比べて、中学生、高校生になるに連れ、関わり方は段違いに難しくなってくる。  特に自分のような舐められやすい見た目の教師は難しい。学生と間違われるほどだった二十代の頃なんて、教師というより友達感覚で接してくるので、訂正したところで「神部ちゃん」呼びが改められることはなく、挨拶指導するにも一苦労だった。  その点では、歳を取ったことに感謝しなければならない。俺のような人間にも、威厳の一つを与えてくれたのだから。  駅から徒歩十五分で目的地に辿り着く。私立桜ヶ峰学園高等学校だ。  開かれた校門に次々と登校する生徒が吸い込まれて行く。俺も校門をくぐって、職員用玄関へ向かった。 「神部先生、おはようございます」  下駄箱でちょうど同じ学年を担当する教員と鉢合わせた。英語教諭の杉本だ。年齢も近く、お互いにこの学校に勤めている年月も長いため、教員の中では親交の深い相手である。  一児の母で、産休を取っていた時期を除いても、五年以上は一緒に働いている。気心の知れた相手に、俺もリラックスして挨拶を返した。 「おはようございます、杉本先生」 「神部先生、覚えてますか。今日のホームルーム、服装検査ですよ」 「えっ、そうなんですか」  驚く俺の反応を見て、杉本は呆れ顔で笑う。 「やっぱり忘れてた。ちゃんと先週連絡あったじゃないですか」 「えぇ……しまった。完全に忘れてました。どうしよう」  服装検査は生徒に対して行うものだが、生徒の服装を正すからには、教員の身なりも重要というのがこの学校の方針だ。服装検査の朝は、職員室で行われる打ち合わせで、隣り合う教員同士の軽い身だしなみチェックを求められる。  今着ているジャージは脱げばいいが、ネクタイは持ってきていないし、髭剃りも怠ってしまった。困り果てる俺に、杉本は苦笑を浮かべた。 「まあ、教員同士のチェックなんで、普通はそこまで厳しくないんですけど、例外もありますからね」 「そのまさに例外なんですよ、俺の場合」 「神部先生の隣の席、久世くんですもんね」  杉本がそう言うのには訳がある。本来、俺の身だしなみはギリギリ清潔の範囲と言ってよく、身だしなみチェックで問題視されるほどではない。  だが、相手が久世となると話は別だ。久世直哉。同じ二年生を担当する数学教諭。この男の隣の席に配置された今年度、俺の運命は決まってしまったのである。何しろ、その久世という人物は……。 「めっっっちゃくちゃ細かいですよね、久世先生って」 「そうですね、彼、真面目だから」 「僕がどうかしましたか」  上靴に履き替えて職員室へ向かおうとしていた俺も杉本も、ギクリと肩を跳ねさせて、背後を振り向いた。今まさに登校してきたであろう久世が、そこに立っていた。  すらりと高い背丈。きちんとセットされた明るすぎない茶髪。眼鏡の奥の鋭い目。  一見すれば整った顔立ちのイケメンなのに、几帳面さや神経質さが滲み出るような、冷たく恐ろしい印象を受けるその人物こそ、久世直哉本人である。 「く、久世先生……」  今しがた名前を出して噂していたために、気まずい思いで彼を呼ぶ。久世は片眉をピクリと動かしてその鋭い眼光で俺の身なりを確認すると、これみよがしな溜息をついた。何か言われるかと身構えたら、黙ったまま上靴に履き替え俺たちを素通りし、さっさと職員室へ行ってしまった。 「こ、怖……」  十も歳の離れた年下相手に、心から恐怖を抱いて縮こまり、そう呟く。なんて迫力のある人物だろうか。羨ましい。授業中生徒が騒いでいても、彼がひと睨みするだけでピタリと静かになりそうである。 「いや、今のは私たちが悪いですよ。気を悪くしちゃったかな……後で謝っておこう」 「そうですね……俺も謝らないと」  ものすごーく苦手な人物だが、言い方が悪かったのはこちらの方だ。先手を打って謝り、今日の身だしなみチェックを大目に見てもらおうと思って、俺も杉本と職員室へ急ぐ。  一学年平均で三百人ほど在籍しているこの学校は、教員数も多い。広い職員室の一角、二年生を担当する教員のデスクがまとめられた島で、既に席に着いている久世の隣に恐る恐る近づいた。 「く、久世先生、おはようございまーす……」  様子を窺いながら話しかけると、久世は荷物を整理していた手を止めてあの鋭い眼光を再びこちらへ向けた。  ギクリと、体が強張ってしまう。マジで怖い。 「えーと、さっき、すみません。俺、失礼なこと言っちゃって」 「失礼なこと? 何て言ったんですか」 「え! ええと……」  しまった、聞こえてなかったのか。余計なことを言ってしまった。俺がだらだらと冷や汗をかいていると、久世はますますその目つきを険しくする。 「どうせ碌なことじゃないでしょう。もういいです。それより、何ですかその身なり。髭くらいちゃんと剃ったらどうなんですか」 「い、いや……あの、ハイ。すみません……」  ダメだ、めちゃくちゃ怖い。なんて言ったらいいか分からない。髭に関しては完全に俺の怠慢だし。シュンと肩を落として謝ると、久世の顔つきは更に険しくなる。まだこんな怖い顔ができるのか、もう泣きそうなんですけど。 「学生みたいな謝り方しないでください。あなたいくつなんですか。僕よりずっと歳上ですよね」 「はい、すみません!」 「可愛くないですよ、そんな顔しても」 「………!」  ズキリ、と胸が痛む。  あまりに核心を突くその言葉に、一瞬反応できなかった。俺が固まったので、久世は怪訝な顔をする。 「……っ、すみません、気をつけます!」  慌てて取り繕って頭を下げる。勢いよく言ったので、久世は呆気に取られているようだった。  これだけ言っておけば、ひとまず身だしなみチェックで口うるさく言われることもないだろう。目的は果たしたと、俺も自分の仕事の準備に取り掛かる。  可愛くない……そんなことは、分かっている。いつの間にか俺も三十八だ。この歳で可愛さを保っていられるやつがいるなら、会ってみたいものである。  教員同士の身だしなみチェックでは、結局久世が俺のネクタイがないことを指摘してきて、一悶着あった。 「仕方ないですね……予備のネクタイを貸します」 「えっ、予備なんか持ってるんですか?」 「逆に持ってないんですか?」  信じられないものを見るような目をされてしまった。俺がおかしいのだろうか。助けを求めるように周囲を見るが、他の教員はみんなさっと目を逸らすだけで助けてはくれなかった。  久世の取り出した予備のネクタイを受け取る。深い藍色で、落ち着いた色味のネクタイだった。 「ごめん、ありがとう」 「ああもう、曲がってます。貸して」  もたもたとネクタイを締める俺を見兼ねて、久世が代わりに結び目を整えてくれた。しばらく真剣な目をしていたが、やがて何かに気づいたように険しい顔になると、パッとネクタイから手を離す。 「できました」 「久世先生、ありがとうございます。何から何までお世話になっちゃって」  怖いし、苦手だが、久世は悪い人間ではない。素直にお礼を言うと、久世は照れたのかプイッと顔を逸らしてしまった。  朝打ち合わせが終わって、授業が始まる。一限を担当するクラスへ向かった。ちなみに、俺の担当教科は国語だ。  チャイムが鳴るのとほとんど同時に教室へ入る。まだ騒がしい教室は、すぐには静まらない。席を離れて友だち同士固まっている生徒もいる。 「授業始まったぞー」 「あー! 神部ちゃん、ネクタイしてる。珍しい」 「神部先生な。早く席につけー」  教卓に教科書を置いて、声をかける。やっと授業を始める気になったのか、のろのろとそれぞれが自分の席へ戻って行った。 「なんでネクタイ? なんかあるの、今日」 「服装検査じゃね?」 「やっば、私今日スカート伸ばせないんだけど」  ヒソヒソ話す声が聞こえて、内心でしまったと焦る。珍しくネクタイなんかしているせいで、抜き打ちのはずの服装検査が生徒にバレてしまった。  やはり慣れないことはするもんじゃない。これはまた、後で久世に怒られるだろうなと、覚悟を決めた。  服装検査疑惑は、休み時間中に他クラスまで共有されたらしい。昼休みに顔を合わせた久世は険しい顔で「普段から身だしなみをちゃんとしていればこういうことは起こらないんですよ」と俺に説教をした。全く、これではどちらが年上だか分からない。  ともかく、午後のホームルームでは、抜き打ちかどうか怪しくなってしまった服装検査を終えて、無事一日が終わった。授業準備等を終わらせて、へとへとになりながら家路につく。  朝と同じ道のりを、今度は反対に歩いて行く。春の夜は少し肌寒く、ジャージを羽織っていてもぶるりと身震いした。  自宅の最寄駅に着いて、閉店間際のスーパーに滑り込む。夕食はどうしようか。惣菜コーナーを見て簡単に食べられそうなものをカゴに詰め込み、会計をした。パックご飯は家にあるので、おかずのみ、肉じゃがと焼き魚、インスタントの味噌汁、合計で千円以内だ。  レジ袋をブラブラと揺らして弄びながら、自宅であるマンションへ向かう。エレベーターで三階に上がって、鍵を取り出した。鍵穴に差し込んで回し、ドアを開ける。  出る時は全て消して出たはずの、家の中が明るい。……帰っているのか。どこかで、緊張と同時に、ホッと安堵する自分がいた。  玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いて明かりのついたリビングの扉を開ける。リビングのソファで寛ぎながら、テレビでバラエティ番組を見るその人物を見つけて、名前を呼んだ。 「貴弘」  ソファの背もたれの上で頭を上げて、その人物、水野貴弘がこちらを見る。 「タケル。お帰り」  笑う貴弘の顔を見て、胸が苦しくなるような感覚に襲われた。共に暮らすはずの貴弘の顔を見たのは三日ぶりだ。今日も帰って来るなんて連絡はなかったので、食事の用意もしていない。 「ごめん、居るか分からなかったから、貴弘の分の夕食、買って来てない」 「いーよ、大丈夫。食べて来たから」 「……そっか」  言葉を交わすと、それきり貴弘はテレビに視線を戻してしまった。もう少し、話がしたくて、何か話しかけようとするけれど、話題が思い浮かばない。  結局、言葉にならない吐息を飲み込んで、自分の食事の支度をする。パックご飯と、買って来た惣菜をレンジで温めて、沸かしたお湯をインスタント味噌汁のカップに注いだ。  ダイニングテーブルに一人分の食事を並べて、もそもそと食事を始める。スーパーで購入した惣菜は、自分で作るより味は整っているはずなのに、何故か味気ない。  空腹を満たす目的のためだけにそれらを飲み込んでいると、隣に影が落ちた。見上げると、貴弘が微笑みながら俺の隣に座ろうとしているところだった。いつの間にか、テレビの電源は切ってあり、部屋の中はしんと静まり返っている。  ジムトレーナーをしている貴弘は、体が大きい。百八十を超えている身長もそうだが、必要な筋肉が過不足なくしっかりついた体つきだ。体にフィットするスポーツウェアが、その逞しい体躯をこれでもかと強調している。  綺麗で、理想的な体つきをしていると思う。体を鍛えているおかげなのだろうか、年齢は四つ年下なだけなのに、貴弘はまだ若々しい。短く切った黒髪は男らしい顔つきを引き立てて妙な色気があるし、見つめられると、誰でもクラリとときめいてしまう魅力がある。 「匂いでお腹空いてきた。ちょっとちょうだい」  その雄々しい見た目と対照的に、甘えるような口調で言った貴弘は、隣の席に座り口を開けた。仕方なく、俺は焼き魚を一口サイズに分けて貴弘の口に入れてやる。 「美味しい」 「俺が作ったわけじゃないから」 「タケルが食べさせてくれたから、美味しいんだって」  調子のいいことを言いながら、貴弘は大きな体でぎゅっと俺を抱き締める。三日ぶりの抱擁だった。連絡もなく、帰って来ない日が多いことに不安や怒りを感じていたはずなのに、こうして触れられると、いつも有耶無耶な気持ちにさせられてしまう。 「俺がいなくて、寂しかった?」 「………」 「拗ねてる?」 「……別に。そういうわけじゃ」 「仲直りしよ、ほら」 「んっ」  自分と体格差のある貴弘が、包み込むように俺を抱き締めると、もう身動きが取れない。片手で無理矢理顔の向きを変えられ、唇を塞がれた。  強引な行為に抗議するために、手に持っていた箸を置いて貴弘の背中をドンドンと叩く。しかし構わず貴弘が俺の唇の隙間に舌を捩じ込むと、その官能的な刺激に、俺の抵抗は徐々に力を失ってしまう。 「ん……! ぅ……」  やがて貴弘の背中に回していた手で、彼にしがみつく。激しい口づけで溢れた唾液が口の端から顎へ伝い落ちた。 「はぁ……っ」  やっと唇を解放されて、呼吸を求めて大きく息をつく。快感に蕩けた思考でぼんやりと貴弘を見た。貴弘は口の端を持ち上げて笑っている。 「ごめん、ちょっと忙しくて。夜勤が続いたから、家まで帰ってくる元気なくて、店の近くに泊まり込んでた」 「………」 「機嫌直して、タケル。……愛してるよ」 「……っ、ぁ……」  耳元で吐息混じりに囁かれ、ゾクゾクと背筋が震える。結び目に指をかけ、貴弘が抜き取ったネクタイを見て、そこでやっと、久世に借りたネクタイを返し忘れていたことに気づいた。 「ん……っ!」  だが次の瞬間、俺の思考はまた快感に塗り潰される。貴弘の唇が首筋を吸って、シャツのボタンを外していく。  久世のネクタイは、パサリと音を立てて床に落ちた。  薄暗闇の寝室の中で、隣に眠る貴弘の寝顔を見た。すっかり気を抜いて熟睡する寝顔は、どこか幼い。  貴弘の見た目は、十年前、初めて出会った頃からほとんど変わらない。変わったのは、中身だけだ。  未だ若々しい彼をぼんやりと見つめながら、自分の頬に触れた。毎朝、鏡を見るたびに嫌気のさす、老いて潤いの失われた肌。目尻に増えた皺。疲れ切った顔。  出会った頃は可愛い、可愛いと、俺を褒めそやした貴弘の口から、俺を可愛いと言う言葉をどれほど聞いていないか、もう分からない。  童顔で垂れ目。貴弘から見れば低い、百七十ちょっとの身長。華奢な体も、何もかもを可愛くて愛おしいと言ってくれた、貴弘が今、老いる一方の俺に対して、興味を失ってしまったことを、俺は知っている。  仕事が忙しいと言いながら帰らない日は、別の誰かと会っていることを、俺はもう、知っているのだ。  貴弘は変わってしまった。俺を可愛いと言って愛してくれた彼はもう、どこにもいない。  ……それとも、変わってしまったのは、俺の方だろうか? 「……っ」  堪えきれない涙が溢れて、顔を背ける。貴弘を起こしてしまわないよう、声を殺して泣いた。  細い糸で繋がれたこの関係が、いつ完全に途切れるのか。いつ、貴弘がこの部屋に帰って来なくなるのか、分からない。  でもきっと、それはもう、遠くない未来なんだろう。時間は元には戻らないから。貴弘が愛した俺の『可愛さ』というものは、きっと、有限なのだから。

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