6 / 6

第6話

 半休をとって昼過ぎに帰ってきたものの、長い時間をバスルームと寝室で過ごし、やっとベッドから抜け出す気になったのは夜八時近くだった。  家着に着替えて、リビングへ戻って、そこでやっと買い物袋を廊下に置いたまま放置していたことに気づく。  失敗した、すっかり忘れていた。中を覗くと、野菜など無事な食材もあったが、冷蔵が必要な食材のいくつかはだめになってしまった。 「なに、タケル。ご飯作ってくれるの」 「うん……でも、肉はもう、使えないかも。牛乳とか、ヨーグルトも駄目かな」 「なんでもいいよ、タケルが用意してくれるものなら」  貴弘は後ろから俺をハグして、首筋に唇を押し付ける。 「んっ」  気が散って料理に集中できない。抗議の意味で振り向くと、すぐに唇を塞がれる。 「ん……っ、はぁ」  さっきまでの情事を思い出して、すぐに体が熱くなってしまう。力の入らなくなった体を貴弘に預けて、凭れかかった。俺の首筋を擽るようにして手を添え、貴弘は口づけを深める。 「ん……ん、だめだって、俺、ご飯用意しないと……」 「駄目? 俺、もう一回、タケルが食べたいんだけど」 「先にご飯にしよ……後で、また、んっ」  だが貴弘の手は不埒に動いて俺の服の中に侵入してくる。大きくて無骨な指が俺の胸の中心を探り当てて、そこをきゅっと掴まれると、腰が震えて立てなくなってしまった。 「あ……っ、もう、貴弘……!」 「はぁ……可愛い、タケル、可愛いよ」 「……!」  囁かれるだけでゾクゾクと感じてしまう。結局、流されてそこから延長戦に突入してしまった。  食事の機会も逃し、行為の後そのままベッドで泥のように眠って、起きると朝になっていた。  土曜日、休日なので目覚ましもかけていない。体が疲れていたのか、起きた時間は八時を回っていた。  隣で眠っているはずの貴弘の姿はない。昨日、確かに抱き合って眠ったはずなのに……少し乱れて皺の寄ったシーツの表面を撫でて、ベッドを下りる。  貴弘を探してリビングへ向かう。ドアを開けると、いつかのようにキッチンカウンターで朝食を作る貴弘の姿を見つけた。  フライパン片手に目玉焼きを焼いていた貴弘は、俺に気づき優しく微笑んでくれる。 「おはよ、タケル」 「……おはよう」  ほ、と小さく安堵の溜息をつく。まだ心のどこかで、貴弘がここにいてくれることを信じられない自分がいることに気づく。  いつか、この不安も消えてなくなるのだろうか。こんな風に、貴弘と一緒に過ごす時間が増えれば。いつか、また。  昨日は碌な食事をしていなかったので、ひどく空腹だった。貴弘が用意してくれた朝食が並ぶダイニングテーブルを見る。トースト、サラダ、それから今焼いていた目玉焼きを、皿に乗せて持ってきてくれる。 「タケル」  皿を置いた貴弘が、俺の体を軽く引き寄せて抱き締め、額やこめかみにキスをしてくれる。 「今日は俺、十時から七時まで仕事だから。夜は帰ってくる。待ってて」 「ん……うん」  擽ったさに肩を竦めて顔を上げる。貴弘の逞しい二の腕を縋るように掴んだ。 「ご飯作って待ってる……貴弘、何食べたい?」 「何でもいいの?」 「うん」 「じゃあ、ハンバーグ。昔タケルがよく作ってくれた、豆腐が入ってるやつ」 「分かった」  夕食を一緒に食べる約束をするなんてどれくらいぶりだろうか。まるで付き合いはじめの頃のようだ。  考えていたら、貴弘からふっと笑う声が聞こえた。 「なんか、付き合い始めの頃みたいだな」  同じことを考えていたと分かって、少しだけ涙が滲んだ。抱き締められた腕の中は温かい。まだ離れたくなくて、貴弘の胸に寄りかかるように顔を埋める。  貴弘が仕事に出た後、一週間分の溜まった洗濯物を片付けた。スラックスをドラム式洗濯機へ放り込む時、ふと、思い出す。  昨日貴弘が見つけた久世の電話番号は、どうなったんだろうか。ポケットの中にはない。確かくしゃくしゃに丸めて、その後は……。  分からない、貴弘に抱かれているうちに手放したと思うので、どこかに落ちているのかもしれない。  貴弘と約束した通り、もう必要のないものだが、個人情報だと思うと、どこに行ったか分からないというのは、何となく収まりが悪い。見つけたらきちんと処分しなければ。  午後は買い物に出かけて、ハンバーグに必要な材料を買った。貴弘の帰宅する時間に合わせ、夕食を作り始める。  昔よく作った、豆腐とひき肉を混ぜたハンバーグ。しめじやまいたけのキノコ類と一緒にトマトソースで煮込んで作るそれは、豆腐が混ざっているおかげで食感がふわふわになり、肉も入っているからボリュームもあって、貴弘のお気に入りのメニューだった。  ただ、豆腐の水を切らなければ失敗しやすいだとか、肉と豆腐をこねてハンバーグの形に成形しなければいけないだとか、とにかく手間がかかるので、貴弘の仕事の予定が分からず、その日帰って来るかどうかが分からなくなってからは全く作らなくなった。  久々に作ると、豆腐の水切りが足りなかったのか煮込んでいるうちに水分が出て、少し形が崩れてしまった。何とか原型を留めているうちに火を止めて、貴弘が帰ってきたら温めるだけの状態にしておく。  仕事が終わるのは七時だと言っていた。大体一時間くらいで帰って来るだろうから、貴弘の帰りは八時くらいだ。  夕食の準備を済ませて時計を見ると、七時半だった。丁度いい時間だ。  八時十分前。そろそろ帰ってきてもおかしくない時間だ。ダイニングテーブルで来週の授業の準備をしながら、全く身が入らずソワソワして何度も時計を見る。  八時を過ぎた。連絡がないかとスマホを見る。何の通知もない。  まだ数分過ぎただけなのに、焦燥に胸を焼かれる。このまま、貴弘が帰って来ないような気がしてしまう。  早く帰ってきてほしい。安心させてほしい。祈るような気持ちで、ほんの数分が何十分にも感じられた。  突然、スマホが震えて着信を告げた。貴弘からの連絡かもしれない。慌てて相手を確認する。  だが着信画面に表示されているのは知らない番号だった。悪戯や業者の営業電話だろうか。でも、どこか見覚えのあるような……考えて、ふと、思い当たる。  ——もしかしたら、これは、久世の番号だったかもしれない。  急に心臓が大きな音を立てた。俺がもらった久世の番号は、登録しないままどこかに消えてしまったが、久世は俺の番号を知っている。向こうからかけてくることはできるのだ。  どうしよう、どうしたらいい。仕事の内容なら出なければ久世が困るだろうし、かといって、もし個人的な連絡なら、貴弘との約束を破ることになる。  どうすればいいか迷っているうちに、着信は途切れた。しんと静かな室内で、しばらく俺は緊張しながらスマホの画面を見つめていた。  やがて玄関の鍵が開く音が聞こえて、貴弘の帰宅を知る。思わず立ち上がってリビングの扉を見た。貴弘が疲れた様子で部屋に入って来る。 「ただいまー……いい匂い、腹減った〜」  貴弘の顔を見て、ホッとする。よかった、もし、さっきの着信が久世なら、やはり出なかったのは正解だった。危うく久世との通話中に、貴弘が帰ってくるところだった。 「おかえり、貴弘」 「悪い、遅くなった。帰りがけに、ちょっとトラブルがあって」 「そうなんだ。お疲れ様」  帰りがけのトラブルとは、まるで昨日の俺のようだと、少し微笑ましい気持ちになる。 「すぐご飯にする? それとも、先に風呂に入る?」 「なに、タケル。もしかして誘ってる?」 「変なこと言うな! 普通に聞いただけだろ」  食事の準備をしようとキッチンへ向かう俺に、貴弘の腕が絡みついてくる。そのまま抱き寄せられて、唇を塞がれた。 「ん……!」 「腹減ったけど、ご飯より先にタケルが食べたい」 「また、そういう……」  非難めいた俺の視線を受けても、貴弘は楽しそうだ。 「駄目? タケルは、俺がいない間寂しくなかった?」 「……寂しかった、けど」  そんな、付き合って間もない恋人同士みたいな、恥ずかしいことを言わせないで欲しい。羞恥心に耐えかねて視線を逸らす。 「可愛いな、ホント……タケル、可愛い」 「こら、もう……んっ」  どうも貴弘は、この前から俺に可愛いと言うことを面白がっている気がする。いくらそう言ってほしかったからといって、こんな風に軽々しく何度も言ってほしかったわけじゃない。  我ながら面倒臭いことを考えていると自覚しながらも、貴弘が俺の顎を掬って唇を塞ぐと、思考が鈍る。艶かしい舌に口の中を弄られて、ついまた、貴弘に身を委ねてしまう。 「好きだよ、タケル。愛してるよ」 「ん、ん……俺も、ぁ……!」  腰や尻を撫で回されながら、耳を柔く噛まれる。縋りつくように貴弘の二の腕を掴んで、もどかしく貴弘へ視線を戻した。  熱に浮かされ、滾ったお互いの視線がぶつかる。もっと欲しい。貴弘がいなかった時間の寂しさや不安を、全部埋めて欲しい。  口の端を持ち上げて笑う貴弘が、もう一度俺の口を塞ごうとした、その時。  ——ピンポーン。  唐突にインターホンが鳴った。俺も貴弘も、驚いて動きを止める。色っぽい空気は完全に霧散して、二人でインターホンの応答機を見た。 「なんだろ、こんな時間に」 「……俺が出るよ、タケルはここで待ってて」 「え、でも」  普段なら、応答機から訪問者を確かめるところを、何故か貴弘は直接玄関へ向かって行った。その横顔は、どこか強張っている。  ——まるで、誰がインターホンを鳴らしたか、分かっているみたいに。 「貴弘……?」  不安な気持ちで貴弘を見送る。嫌な予感がした。リビングに取り残された俺のところまで、貴弘の声が聞こえてくる。誰かと何か話をしているようだった。漏れ聞こえてくるその微かな声に、不安が大きくなる。  ここで待っていろと言われたのに、足が勝手に動いてしまう。貴弘の言う通りにしていれば、きっと、この不安の原因から目を逸らして、まだ幸せな時間に浸っていられるのに。  確かめたい気持ちと、確かめたくない気持ちが、心の中でせめぎ合っていた。……でも、答えが出る前から、俺の足は自然と玄関へ向かっていた。 「……だから、帰れって。もう会わないって言っただろ」  僅かに開いた扉越しに、その向こうにいる誰かへ話しかける貴弘の声が聞こえた。  心臓が嫌な音を立てた。そこにいる相手が誰なのか、瞬時に理解した。 「なんで……! 納得できない、そんなの! いきなりあんなメッセージ一つで終わりなんて、ひどいよ」  高く可愛らしい、女性のような声だった。だがきっと、そこにいるのは男性だろう。  ……かつて俺が、仕事終わりの貴弘を尾行して見かけた、あの男性。 「……貴弘」  強張った声で名前を呼ぶ。玄関で扉の向こうを見ていた貴弘がこちらに気づいて、明らかに狼狽した表情になった。 「タケル、来るな。向こうで待ってて」 「タケル? ……誰、それ」  可愛らしい声が、鋭い怒りを込めて貴弘に問いかける。 「お前には関係ない」 「なにそれ……! もしかして貴弘、もう新しい男がいるの⁉︎」 「おい……! ああ、クソ」  玄関の扉をガチャガチャと奪い合う音がして、次の瞬間、僅かだった扉の隙間が大きく開かれた。  扉の向こうに立っていたのはやはり、あの時見た男性だった。小柄で、ふわふわと柔らかそうな茶髪、大きな垂れ目、眩いばかりに白い肌。若い頃の自分にそっくりな——あまりにも明確に「可愛い」を体現したような男が、そこに立っていた。  彼はその可愛らしい顔立ちを怪訝そうに歪めて、まっすぐに俺を見る。 「……は、何こいつ。ただのおじさんじゃん」 「っ、おい、やめろ」 「こんなのが貴弘の新しい男なの? 俺の方が絶対可愛いし。貴弘、趣味変わった?」  明らかな嘲笑を含んだ声が、俺の心を引き裂いていく。自分が必死に縋っていた、たとえ残り滓でもまだあると信じたかった愛されるための武器が、全部否定された気がした。 「お前、いい加減にしろよ。帰れ、二度と来んな」  貴弘が苛立った声で彼を追い出そうとする。俺はその場に立ったまま、動けなかった。  二人のやりとりを呆然と見つめる。 「やだ、貴弘が戻って来てくれるまで帰らない」 「……っ、この」 「だって貴弘、言ってたじゃん! 俺が一番可愛いって、大好きだって言ってた! この前、帰るまではいつも通りだったのに……なんで急にそんなこと言うの?」  大きな目に涙をいっぱいに溜め、縋るように貴弘を見つめる彼へ目を向ける。俺から見ても、庇護欲をそそるような可愛い子だと思った。見た目は昔の俺に似てると思ったけれど、中身は全然違う。今も昔も、俺はこんな風に、素直に自分の気持ちを言葉にすることなんてできない。 「大体、なんでこんなおじさんのせいで、俺が捨てられなきゃいけないの? 貴弘言ってたじゃん、前の男は、年取って魅力がなくなったから別れたんだって」 「おい、黙れ」  貴弘の声が、一段と低くなる。二人の話を聞いていただけの俺も、その言葉に反応して、ビクリと肩が震えてしまった。  自分の言葉が俺と貴弘にダメージを与えたのではないかと、敏感に察知したらしい彼は、尚も続ける。 「老けたおじさんより、俺の方がずっと可愛いって言ってくれた!」 「っ、いい加減にしろ!」  とうとう力づくで貴弘は彼の口を塞ぎ、扉の向こうに追いやった。  だけど俺はもう、何の不安も、期待も抱けなかった。  たった今、自分の心は壊れてしまったのだと思った。何も感じない。何もだ。悲しくもなければ怒りもない。  ——年取って、魅力がなくなった。老けたおじさんより、若い彼の方がずっと可愛い。    その通りだ。ずっと分かっていた。毎朝鏡に映る、年老いた自分の顔を見るたびに。貴弘の後をつけて見た、自分よりずっと若く可愛い彼の存在を知った時に。  貴弘が贖罪のように繰り返す「可愛い」に、何の意味もないことも。十年も付き合っていれば、分かっていたのだ。貴弘がその場その場で、都合のいいことばかり口にする性格だということも。  ——全部分かっていて、必死に、見ないふりをしていた。  自分の内面から目を背けて、逃げようと走れば走るほどに、その内面に近づいてしまう。  誰も自分の心からは逃げられない。たとえ気が狂いそうになるような、残酷な真実だとしても。それでも。  急に、これまで飲み込めなかった全部が、すとんとあっさり、体の一部に落ちていく感覚があった。 「……なんか、萎えた」  ぽつりと口から漏れた言葉は、いつだったか、自分が担当するクラスの女生徒が漏らした言葉と全く同じだった。 「え? ……タケル?」  上手く聞き取れなかったらしい貴弘が、狼狽えたように俺の名前を呼ぶ。貴弘の呼びかけを無視して、一度部屋に戻りスマホと財布、家の鍵だけを手に持った。  少ない荷物で再び玄関へ戻ると、まだ揉み合っている二人を無視して靴を履く。 「おい、待てよタケル。どこに行くんだよ」 「終わりにする。いいよ貴弘、もう好きにしなよ」 「待てって、何でそんなこと言うんだよ。俺言ったよな、タケル。こんなの遊びだって。本気なのはお前だけだって」 「どうでもいい。遊びとか本気とか……もう、考えるの、疲れた」  焦燥に満ちた貴弘の声も、俺の心には少しも響かない。ついさっきまで、その声に愛を囁かれることが、世界の全部のような気がしていたのに、だ。  貴弘からすれば「そんなこと」で済ませてしまえるような、取るに足らないこと。その一つ一つにいちいち不安になって、傷ついて、だけど愛しているからと、摩耗する自分の心に気づかないふりをしていた。これまで何とか繋ぎ止めていたものが、今、綺麗さっぱりなくなったと感じる。 「荷物は後で取りに来るから」 「待てよ! 勝手に終わらせんな、話聞けって」  家を出て行こうとする俺の腕を、貴弘が強い力で掴んだ。痛みに顔を歪めながら、しかし無理矢理それを振り解く。いつも力では貴弘に敵わないと思っていたけれど、本気になればこの手は振り解けたのだと、今初めて知った。 「タケル!」  家を出る寸前、不安そうな顔で俺たちを見ている、かつての自分そっくりな男の顔を見た。  彼はいつ、毎朝鏡を見ては、迫り来る期限に怯えるようになるのだろうと、少しだけ意地の悪いことを考えた。嘲りだけではない、同情を含んで。  外は霧雨が降っていた。傘を持たずに出て来たので、服や髪がしっとりと濡れていく。  本降りではないのが救いだ。行く当てもなく歩いていたら、自宅近くの大きな川に掛かる橋に辿り着いた。  橋の真ん中で何の気なしに立ち止まり、橋の下を見る。自分の人生を悲観して、ここから飛び降りようとして……とか、そういうわけじゃない。ただ本当に、目的もなく、ぼんやりと橋の下を流れる川を見ていた。  この川の流れのように、時間は不可逆だ。人は誰だって歳を取るし、若いままではいられない。  見た目は歳を取り、心だって枯れていく。十年も積み重ねた愛情が消えるのは、案外一瞬なのだと思った。今となっては、何が良くてあんな浮気男に縋っていたのか分からない。何ヶ月も苦しい思いをした自分の気持ちを、僅かな謝罪だけで済ませたつもりの、あの男のどこが。 「……は」  なんの気持ちも残っていないと、怒りも悲しみも湧かないと思っていたのに、唐突にその全部がいっぺんに襲ってきて、涙が溢れた。俺があんなに欲した言葉を、軽々しく何度も口にして機嫌を取ろうとした癖に、もうとっくに貴弘は取り返しのつかない言葉を浮気相手に告げていたのだと、徐々にその実感が湧いてくる。  年取って、魅力がなくなった? ——分かってるよ。  老けたおじさんより、あの子の方がずっと可愛いって? ——分かってるって。そんなこと、誰に言われなくても、俺が……自分で一番、分かってる!  次々に、涙が溢れて止まらない。行き場のない感情がぐるぐると俺の中で渦巻いていた。  とても体のうちに留めてはおけない、この感情のまま走って、走って、やがて人間の心まで飲み込まれたら、きっとあの小説の主人公のような、獣になるのだろう。今まさに俺は、どこからか自分を呼ぶ声を聞いていた。この暗闇の中に呼び込む、何かの声を。 「!」  橋の手すりに凭れて下を覗き込んだ時、ポケットに入れていたスマホが震えた。  取り出して画面を見ると、貴弘の名前が表示されていた。その着信を切って、すぐ着信拒否にする。話すことなど何もない。明日、貴弘が仕事へ行っているうちに荷物を運び出して、それで終わりだ。  操作を終えてスマホをしまおうとした時、ふと、着信一覧に残る名前のない着信が目に止まった。さっき、久世の番号ではないかと思った着信だった。  ……そういえば、何の用事だったのだろう。仕事の話だといけないし、もう、貴弘との約束を守って、連絡を控えるような理由もないし。  少し迷った後で、俺はその番号をタップしていた。  コール音を鳴らすスマホを耳に当てる。橋の手すりに凭れたまま、今度は下ではなく天を仰いだ。  霧のような雨はまだ降り続いている。肌に当たるそれが、冷たくて心地いい。 『……もしもし』  数回のコール音の後、相手が通話口に出た。やはりこの番号は、久世のものだった。聞き馴染んだ声にホッとする。 「久世先生」  俺が名前を呼ぶと、スマホの向こうで久世が息を呑むような気配が伝わってきた。 「さっきお電話もらったみたいで、出られなくてすみません」 『いえ、こちらこそ夜分すみません。昨日の成績入力のことでちょっと、話があって』 「はい、何かありましたか? 俺、また何かやらかしてましたかね」  申し訳なく笑いながら言う。努めて明るく、いつも通りに話しているつもりだった。  だが久世は長い沈黙の後、俺に言った。 『……神部さん、今、泣いてます?』 「えっ、何でですか」 『声が……何かあったんですか』 「ええ、何もないですよ。変だな、何で……」  明るく話しているつもりなのに、言葉に詰まって、それ以上話せなくなる。何か言葉を発すれば、込み上げてくる様々なものがその瞬間に決壊してしまいそうだった。 「……っ、何で、分かるんですか」  やっと絞り出した声はもう、誤魔化しようもない。嗚咽が漏れ、堪えきれない涙が溢れ出る。  十年付き合った貴弘は、俺の気持ちなんて何にも分かってはくれないのに。なぜ、仕事でしか付き合いのない、それも普段は俺を厳しく叱ってばかりの久世が、電話越しに聞く声だけで、こんなにも俺のことを見透かしてしまうのだろう。  しばらく俺の嗚咽だけが響いた。背後で大きなトラックが、うるさい走行音を鳴らして通り過ぎる。  再び静かになると、スマホ越しに久世の焦ったような声が聞こえた。 『今、どこにいるんですか』 「いま……? どこだろ、ここ。うちの近くの、橋?」  ず、と鼻を啜って久世の質問に答える。  焦ったような声で、久世はなおも俺に問いかけてくる。 『すぐ行きます、家はどこですか?』 「家……ええと、住所は……」  久世に問われるまま、十年近く暮らした家の住所を伝える。すらすらと口にできるこの場所は、もう俺の居場所ではないのだと思うと、また涙が溢れた。 『その橋、名前は分かりますか』 「名前……? 分かんない、何だろ」 『そこから何か見えますか?』 「えーと……あ、分かった。歴史資料館の近くだ。ほら、二学期に校外学習で行く予定の」 『すぐ行きます。絶対、そこを動かないで』  通話が切れてしばらく、俺はまたぼんやりと橋の下を見ていた。流れる川は深い闇に飲まれている。真っ暗で、底知れない川が流れる音を聞いていると、不思議と気持ちが落ち着いた。  どのくらい時間が経っただろう。遠くから近づいてきた車のエンジン音が、通り過ぎることなく背後で止まったのが分かった。  緩慢な動作で振り向くと、そこには海外メーカーのエンブレムがついた、ダークグレーのスポーツセダンが停まっていた。ハザードランプが雨で濡れた路面に映って、明滅を繰り返している。  高そうな車だとぼんやり見ていると、運転席のドアが開いて、久世が降りてきた。カッコいい高級車と対照的に、ラフなスウェット姿の久世が何だか面白くて、ふっと笑ってしまう。  職場では毎日きっちりとシャツのボタンを留め、ネクタイまで締めて、髪だって寝癖のついているところなんて見たことないくらい整えているのに、なんて気の抜けた姿だろうか。意外な一面を見てしまった。  そんなことを考えながら一人で面白い気持ちになっていたが、車から降りてきた久世は、何故か焦った顔をしていた。俺を見てその整った顔立ちをくしゃりと歪めると、こちらへ駆け寄ってきて、勢いよく俺を抱き寄せる。 「!」  急な展開に驚いて、ビクリと身を固くする。まさか、いきなり抱き締められるとは思っていなかった。抵抗した方がいいだろうか。混乱しながら考えていると、久世が大きく息を吐くのが分かった。 「良かった……早まったことをしていたら、どうしようかと」 「え? ……あっ」  久世がわざわざ俺の居場所を聞き出して、飛んで来るほどに、何を心配していたのかやっと分かった。 「もしかして、俺が泣きながら橋にいるなんて言うから、心配させちゃいました? すみません、そんなつもりはなかったんですけど。歩いてて、たまたまここを通りかかっただけで」  笑いながら頭を掻く。久世は抱き締めていた腕を解くと、しばらくじっと俺を思い詰めた表情で見つめた。 「……とりあえず、乗ってください」 「えっ、いや、なんで」 「いいから、早く」  久世はまた大きな溜息をついて、半ば無理矢理俺の手を引き自分の車へ連れて行った。 「久世先生、俺、今濡れてるから。こんないい車、俺が乗ったら悪いし」 「つべこべ言わず、早く乗ってください。風邪ひきたいんですか」 「はっ、ハイ!」  ものすごい表情の久世に迫られ、慌てて助手席に乗り込む。革張りのシートは見るからにお高そうだ。雨に濡れた自分のせいで、このシートが駄目になったら、果たして俺は弁償できるだろうか?  久世は無言のままエンジンをかけ、車を走らせた。いつものように怒っている久世に対して、気まずい思いで身を縮こまらせる。  車が橋を抜ける寸前、歩道にいた人物と、目が合った。 「——……!」  貴弘だ。咄嗟に、顔を背けて隠れる。  ほんの一瞬だ、向こうも俺に気づいたか分からない。だが、確実に目は合って、貴弘の目が大きく見開かれたような気がした。  何故あんな場所にいたのだろう。……もしかして、俺を探していたのだろうか。  不誠実な態度を繰り返す割に、別れないと言う時だけは必死だった、貴弘の様子を思い出す。  まだ別れ話に納得していないのだろうか。……あれだけのことをしておいて。  何の感情も湧かないと思っていたのに、やはり胸の奥底ではチリチリと焦げ付くような怒りが燻っていることを、俺はまた自覚しなければいけなかった。  夜道を二十分ほど走ったところで、久世は車を停めた。高層マンションの駐車場だった。  久世は何も話さなかったが、鋭い視線だけで俺についてこいと言っているようだった。緊張しながら車を降りて、久世の後に続く。  エントランスを抜け、エレベーターに乗って、久世が降りた階で俺も降りる。玄関の鍵を開けた久世は、扉を開けて、俺に先に入るよう、やはり目だけで促した。 「お、お邪魔します……」  玄関は明かりがついていた。玄関だけではない、壁側がキッチンになっている廊下の先にある部屋も、明かりがついているようだ。  誰かいるのだろうか。家族とか、恋人とか? そう考えて、気まずい気持ちが大きくなる。  俺は何をしているんだろう、同棲していた恋人に別れを告げて、行く当てもなく彷徨った末、橋の上にいるところを心配してくれた同僚に甘えて、家まで押しかけて。 「あの、久世先生、俺やっぱり……」  回れ右して出て行こうとしたら、扉の前に久世が立ちはだかった。いつも、職場で俺のミスを注意する時と同じ、こわーい顔をしている。 「脱いでください」 「エ⁉︎」  突然の発言にぎょっとして、自分の身を守るように両手で隠す。  ぬ、脱げって? 何で⁉︎ まさかそういう意味で? 展開が早すぎる、いくらなんでも家に来てすぐそんな、心の準備とか他にも色々……! 「バスルームはあっちです。タオルと着替えは出しておくので、濡れた服は洗濯機に入れてください。すぐ回せば、明日の朝までに乾燥も終わります」  だが久世は俺の横を通り過ぎると、淡々とした口調で説明して、廊下を歩いて行った。驚いて呆然と立ち尽くしている俺を振り向き、怪訝な顔をする。 「早くしてください。本当に風邪ひきたいんですか」 「えっ、あれ……あっ、ハイ……」  どうやら久世は、雨に濡れた俺の体を心配しているだけのようだった。  何だ、俺はてっきり……自分の誤解があまりにも恥ずかしくて、顔が熱くなる。  久世は厳しいけれど、面倒見がいい人である。今回のこれも、下心などなく、ただ俺を心配してのことなんだろう。  それを俺は勘違いして、なんて浅ましいやつだ。貴弘が何かとすぐそういう行為に持ち込みがちなやつだったために、知らないうちに影響されてしまったのだろうか。自己嫌悪に陥りながら、靴を脱ぐ。 「すみません、じゃあ、お借りします……」  お言葉に甘えて、シャワーを借りよう。最近は夜も暖かくなってきたとはいえ、さすがに体が冷えて寒いと感じていたところだ。正直ありがたい。  人の家のバスルームに緊張しながらシャワーを浴びて、脱衣所に出る。久世が用意してくれたらしいタオルで体を拭いて、一緒に置かれていたスウェットに着替えた。 「……!」  スウェットからは、馴染みのない洗剤の香りがした。普段久世が着ているものだろうと思うと、鼓動が跳ねて大袈裟な音を立てた。長身の久世に合わせたサイズで、袖の長さが余ってしまうのも含めて、妙な意識をしてしまう。  落ち着け、落ち着け。久世はただの親切心で、俺を気にかけてくれているだけ。こんなことで意識をするな。  着替えた後は、久世の姿を探して、廊下の奥の明かりがついた部屋へ向かう。ドアノブを回して入ると、そこは生活に必要なものが全て揃った広い一室だった。  テーブルとソファ、仕事用らしきデスクとチェア、参考書がぎっしり詰まった本棚と、一人用のベッド。必要なものだけが置かれている、モノトーンで統一されたシンプルなインテリアだ。  ひとまず、久世の他に住人はいないようだと分かって、ホッとする。久世は部屋の真ん中に置かれたソファに座っていた。俺がやって来ると、立ち上がって俺を見る。眉を顰め、険しい顔つきで睨んでくるので、また何か怒らせてしまったかと思ってビクビクした。 「あの、久世先生。お風呂ありがとうございます、助かりました」 「いえ……」  久世は険しい顔つきのまま、自分の眉間を押さえると、大きく溜息をついた。 「何か淹れます。コーヒーは飲めますか」 「あっ、お構いなく……」 「ブラックでいいですか」 「すみません、砂糖とミルクがあればお願いします……」  面倒なことを言ってこれ以上怒らせてはなるまいと思うのだが、ブラックコーヒーだけは若い頃から苦手で、未だにどうしても飲めない。何ならココアやカフェオレにして欲しいくらいだが、さすがにそんな図々しいことは言えなかった。  廊下にあるキッチンへ向かった久世と入れ替わりに、ソファへ座らせてもらう。久世を待つ時間を持て余して、部屋の中を見回した。  綺麗に整頓された室内は、まるでモデルルームのようである。職員室のデスクも、いつも綺麗に片付いていると感心していたが、私生活もここまでとは思わなかった。  やがて久世が戻ってきて、コーヒーの入ったマグカップを俺に渡してくれる。 「どうぞ」 「ありがとう」  受け取ったマグカップは温かい。指先から伝わるその温もりに、少しだけ緊張が解ける。  両手で持ったマグカップの中身を、ふぅふぅと息を吹いて冷ました。カップの端に口をつけて、恐る恐る一口飲む。 「……おいしい」  コーヒーには砂糖とミルクがたっぷり入っていた。甘くて温かい、久世の優しさが滲んだような味だった。落ち着くその味に胸が震えて、自然と涙が溢れてくる。 「っ、あれ、すいません。変だな」  ボロボロと零れる涙を、自分では止めることができずに、マグカップを持ったまま片手で目を擦る。離れて座っていた久世が近づいてきて、体が触れない程度の隣に座ると、俺の手からマグカップをそっと抜き取ってくれた。 「……っ」  ますます溢れる涙を両手で覆って隠す。黙っていても伝わってくる、久世の思いやりに涙が止まらなかった。  本当に、情けない。子どもたちに思いやりを教える立場でありながら、こんな当たり前のことに今更気づくなんて。  本当の優しさは、肌を触れ合わせることでも、耳触りのいい言葉をかけることでもない。こうして、誰かのために自分には何ができるかを考えて、何も言わずに寄り添ってくれることなのだ。  貴弘はいつも優しい言葉をくれた。だけど、その行動には、優しさも、思いやりも、一つも含まれてはいなかった。貴弘が考えているのはいつも、自身の感情だけだ。自分が嫌だから、別れたくないから、だから俺に優しく振舞っていただけ。  ……翻って、俺もいつからか、貴弘を思いやるより、その機嫌を損ねないことばかり考えるようになっていた。健全とは言い難い、歪な関係を続けていくのは、もう限界だったんだろう。 「すみません……もう大丈夫です」  散々泣き腫らして、やっと涙が収まってくると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった自分の顔を、無意識に服の袖で擦った。 「あ」  だが、その服が久世からの借りものであったことに気づいて固まる。スウェットの袖は既に、俺の涙と鼻水を吸って、見るも無残な状態だ。 「す、すみません久世先生……」  これはまた怒らせてしまうと思い、ビクビクしながら久世の様子を窺う。  久世はやはり、この世の終わりかと思うような険しい顔で俺を睨んでいた。思わずビクッと肩が跳ねて、また泣きそうになってしまう。 「怒らないでください……! ちゃんと弁償しますから!」 「は? いりませんよそんなの。ていうか、傷ついて泣いてる好きな人に、服の弁償を迫るような人間だと思われてるんですか、俺」 「えっ、な……っ、何言っ、す、すきな人って」  突然とんでもないことを言い出した久世に、思いっきり動揺してしまう。俺を見て、久世は不満げな表情を浮かべた。 「何ですか、その反応。この前あれだけ言ったのに、もう忘れてるんですか」  覚えてる、覚えてるけど、この前のあれは、やっぱりそういう意味だったのか……!  考えないようにしていた夜のことを、いきなり久世が話題に出すので、一気に緊張してしまう。 「いや、でも、何かの間違いじゃないかと思って。だって久世先生、俺のこと嫌いだし」 「はぁ? いつ俺がそんなこと言いました」 「言ってないけど……! 今もほら、めちゃくちゃ怖い顔してる!」  眉間に深い皺を刻んで、鋭く俺を睨みつける久世の険しい顔を、泣きそうになりながら指差すと、久世はその眉間の皺をもっと深くして口を開いた。 「怖い顔って、これは……」  だが言いかけた言葉を途中で止めると、久世は何度か口を開いては閉じるを繰り返し、最後に溜息をついて自分の眉間を揉んだ。 「これは、神部さんがあまりにも可愛い時に、表情が緩まないための顔です」 「へ……?」 「特に今は、神部さんが傷ついてるのに、俺の服着て袖が余ってる神部さんが可愛い、なんて思ってるの、普通に失礼なんで、かなり堪えてます」 「え、えぇ……⁉」  あまりにも衝撃的な告白に、今度はこちらの方が言葉を失って、口をパクパクしてしまう。  ぐんぐんと顔の温度が上がっていくのが分かる。いや、だって、おかしいだろ。今さっき、十年も付き合った恋人に、自分の可愛さが枯渇している現実を突きつけられたばかりだというのに。老いたおじさんの、こんな俺を可愛いとか。そんな怖い顔になるくらい我慢してるとか、そんなの! 「絶対嘘だ……!」 「はい?」 「久世先生、嘘ついてますよね⁉ だって久世先生、俺と話す時、大体いつもその顔してるし!」 「神部さんのことは、大体いつも可愛いと思っているので、そうでしょうね」 「また嘘ついた! もうやめろって、それ! 可愛くない、可愛くないんだよ、俺なんか、もうおじさんだし……!」  これ以上、その信じられない言葉を聞いていたくなくて、ソファから立ち上がって抗議する。久世はまたぎゅっと眉をしかめた後、何かに気づいたように目を見張ると、溜息をついて眼鏡のブリッジを持ち上げ、もう一度俺を見た。 「……!」  その久世の視線に、息を呑んだ。いつもの鋭く睨むようなそれとは違う、熱のこもった蕩けるような視線に、苦しくて、息ができなくなりそうだった。 「可愛いですよ」  囁くような声で与えられる、その言葉に、ゾクリと背筋が甘く痺れる。今自分の立っている場所が、グラグラと揺れているような錯覚に陥る。  やめてほしい。そんな目で見ないでほしい。そんな声で囁かないでほしい。  自分の心の一番弱いところが、真綿で包まれるようにして撫でられた気がした。ぐんぐんと顔の温度が上がっていく。もう立ってもいられない。ふらついた足元を支えるように、そっと久世が手を伸ばして俺の手に触れた。 「神部さんは可愛いです」  やっと収まった涙がまた溢れそうになる。ソファから立ち上がった久世が、俺が少し抵抗すればすぐにでも解けそうな力で、優しく俺の手を引いた。  引き寄せられてそのまま、久世の胸に身を預ける。温かな人の体温に安心すると同時に、広いその胸板の感触を、無意識に貴弘と比べてしまった自分に絶望して、反射的に体を離そうとした。  久世が俺を抱き締める腕は、どこまでも優しい。こんなに簡単に振り解けてしまう抱擁を、俺は知らない。このまま俺が離れたら、この温もりは簡単に遠ざかってしまうだろう。それが分かったから、俺は久世の腕を振り解けなかった。  離れたくないと思った。離さないでほしかった。でも、ついさっきまで別の男に抱かれていたような自分が、あまりにも優しいこの抱擁に溺れていいのかという罪悪感が、苦く胸を満たした。  離れたくない……でも、離れなければいけない。そう思っているのに、さっきから体が動かない。  どうしていいか分からず俯いた俺の頬を、久世の手のひらが包む。促されて上を向けば、熱い視線でじっと俺を見つめる久世と、眼鏡のレンズ越しに目が合った。 「……可愛い」  久世がうっとりと陶酔したような声でつぶやく。嘘ではないと、そう信じさせてくれるような声だった。 「……っ、本当に……?」  思わず、そんなことを聞き返してしまう。震える指で、自分の頬に触れる久世の手を掴んだ。突き放すためではなく、離れないように。  久世は目を細め、愛おしげに微笑んで、言った。 「本当に……」  声が、視線が、触れた指先の全てが、全部熱を持ってじりじりと焦がされそうだった。  もう、その言葉を疑うべくもなかった。言葉なんかよりもっと確かに、久世の全身が、俺にそうやって語りかけているようだったから。 「可愛いです」  それでも、愛おしさから思わずこぼれ落ちたように呟いて、久世は僅かに顔を傾けた。久世の瞼が閉じていくのを見て、俺もゆっくりと瞼を伏せる。  夜の縁をそっと掬い上げるような、重なるだけの優しいキスが落ちて、深く肌を合わせるよりずっと、俺の心は満たされていった。

ともだちにシェアしよう!