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第5話

 逃げるように帰宅した後、慌てて寝支度を整えて布団に入ったので、翌朝の寝覚めは最悪だった。  スマホのアラーム音で重い頭を持ち上げる。しばらく寝ぼけたままぼんやりした後、唐突に昨夜の久世とのやりとりを思い出して悶絶する。 「だぁぁ……っ、何だったんだ昨日のは……!」  そんな独り言を漏らしながら、ごろごろとベッドの上を転がった。昨夜、久世は俺に何と言ったのか、整理してみよう。こうだ。  ——久世は本当は、俺のことをずっと可愛いと思っていた。  浮気するような恋人とは別れてほしい。自分が幸せにする。  更に、おまけとして、最後に「諦めない」とまで言っていた。  諦めないって、何を? 何なんだこれ、どういうことなんだ。全然分からない。  総合すると、まるで久世が俺のことを、す……好きだと、言っているように聞こえる。が、そんなことあるわけがない。これまで散々冷たい態度を取られてきたし、俺は久世には嫌われているはずだ。きっと、何かの間違いである。でなきゃ絶対におかしい!  自分に言い聞かせるように考えながら、いつもの朝のルーティンで準備を始める。朝食を食べ、歯を磨いて、顔を洗おうとしたところで、洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。  当たり前だがそこに映っているのは、いつもと変わりない、くたびれたおじさんの顔だ。垂れた目尻には深い皺。輝きを失った肌に、滲み出る疲労。かつて持っていたはずの、若さゆえの可愛さは見る影もない。  そんな俺を可愛いだって? ——ずっと、可愛いと思ってたなんて。そんなの嘘だ。嘘に決まっている。  赤くなった顔を冷ますために、冷たい水で勢いよく顔を洗った。  家を出ようとしたところで、俺が開けるより先に玄関の扉が開いた。 「! 貴弘……」  家に入ってきたのは、貴弘だ。急いで帰って来たのか仕事終わりのトレーニングウェアのまま、玄関にいた俺を見つけて眩しく笑う。 「よかったー、間に合った。タケル、おはよう」 「……おはよう」  気まずい気持ちで目を逸らし、挨拶を返す。だが貴弘は気にした様子もなく、俺の腰に腕を回して自分の方へ引き寄せると、近づいた俺のこめかみに自分の唇を押し付けた。 「いってらっしゃい、仕事頑張って。俺は、今日も夜勤だけど、その代わり明日は休みだから」  鼻先を擦り合わされて、擽ったさに肩を竦める。貴弘はそんな俺を目を細めて見た後、耳元に近づいて囁いた。 「明日は金曜だし、いっぱいエッチしよ」 「!」  貴弘の手が俺の尻を撫でるように掴む。カァッと顔が赤くなって、思わず貴弘の胸板をドンと叩いた。 「朝からやめろ、そういうの!」 「照れてる。かーわい」  クスクス笑う貴弘にそれ以上付き合う気になれず、「行ってきます!」と乱暴に言って家を出た。 「行ってらっしゃい」  扉が閉まる寸前、思いの外優しい声音で貴弘がそう返してきた。何なんだ、本当に……調子が狂う。急に毎日帰って来るとか、今まで言わなかった可愛いを連呼したりとか……やっぱり、揶揄われているような気がしてきた。 「クソ……」  こんなことでいちいち心を揺さぶられる自分が嫌になる。あいつは浮気野郎で、それがバレたから俺のご機嫌取りに優しくしてるだけだって分かってるのに、それでもやっぱり、どこかで喜んでいる自分がいるのだ。  久世と顔を合わせたらどうしようと、そんなことばかり考えながら登校したが、職員室で会った久世はいたっていつも通りだった。 「おはようございます」 「お、おはよう……ございます」  あまりにもいつも通りなので、こちらの方が拍子抜けしてしまった。挨拶だけ交わすとすぐ、久世は自分のデスクに向かって真剣に今日のスケジュールを確認している。  なんだ、昨日のアレはやはり何かの間違いだったのだ。そう思うと腹が立ってきた。こっちは随分慌てさせられたというのに、冗談にしても趣味が悪い。  ぷりぷりと怒りながら俺もスケジュールを確認する。今日は定期考査である。自分が監督を務めるクラスを確認し、間違いなく動かなければいけない。  今日実施するテストは俺が担当する国語を含む四科目。終われば生徒は下校で、俺たち教員は採点作業が待っている。  採点の後は成績入力があったりと、しばらくは忙しい。とはいえ明日も残り三科目のテストとロングホームルームの四時間で授業が終わるため、今日と明日の午後で終わらせようと思えばそれなりに余裕はある、のだが……。  ——明日は、貴弘が休みらしい。ということは、早く帰れば帰るほど、一緒に過ごす時間が増えるということ。  つまり今日、頑張って成績入力まで終わらせて、明日半休を取れば、かなりの時間ができるわけで……無意識にそんなことを考えていた自分に気づき、ハッとする。 「……はぁ」  自分を情けなく思うあまり、溜息が漏れた。  そろそろ、認めないといけない。俺は多分、貴弘と別れられない。こんな目に遭ってもまだ、貴弘が好きなのだ。もし貴弘が本当に、心を入れ替えて浮気相手との関係を清算してくれるなら、許してしまってもいいと思えるくらいに。 「女子高生はすごいなぁ……」  きっぱりと浮気男に別れを告げられたマナカを思い出して、そんなことを呟いたら、明らかにドン引きした久世が横からツッコミを入れてきた。 「何ですかそれ。どういう意味ですか」  確かに言葉だけ聞けば誤解を受けそうな発言である。俺は慌てて首を横に振った。 「いや、変な意味じゃないですよ。若いっていいなぁと思いまして……歳取ると、なかなか、思い切った決断ができないというか」  昨日のこともあるので、久世と話すのはどこか気まずく、しどろもどろになりながら、そう答えておく。  久世は眉間に皺を寄せ、顔を顰めて、しばらく俺を睨んだ後、デスクに置かれた付箋に何かメモをした。 「どうぞ」 「? なんですか、これ」  不思議に思いながら付箋を受け取る。何を書いたのかと見てみると、そこには十一桁の数字が書かれていた。  ……これは、もしかして。 「何かあれば連絡してください。何もなくても、連絡してくれてもいいですよ」 「い、いやいやいや! これは、ちょっと……!」  久世の個人的な連絡先だ。受け取れないと突き返そうとした時、ちょうどチャイムが鳴って、朝打ち合わせが始まってしまった。 「おはようございます。今日は定期考査です。先生方の机上にありますスケジュールの通りに……」  教務主任が話し始めたため、慌てて姿勢を正した。久世ももうこちらを見ていない。  返しそびれた付箋を持て余して、ひとまずスラックスの後ろポケットに突っ込む。  どうしよう……昨日の久世の宣言を聞いた後では、変な期待を生むような行動は避けなければと思うし、かといって、個人の連絡先が書かれた紙をその辺に捨てるわけにもいかない。  処分に困る紙切れにしばらく頭を悩ませていたものの、打ち合わせが終わって教員それぞれが担当する教室へ向かう頃には、俺もこの後の仕事のことで頭がいっぱいで、その存在をすっかり忘れてしまった。  定期考査は無事終わり、生徒が下校した後、採点作業に入る。  答案用紙をスキャナーで取り込み、データ化したそれを採点ソフトに読み込ませる。マークシートの設問は自動で採点が行われるが、記述問題は目視で確認して、こちらで点数をつけなければならない。  国語は特に記述の多い教科で、この採点作業に時間がかかる。担当するクラスぶん、全ての生徒の解答と向き合いながら、点数をつけていく。  今回の記述問題は、特に興味深い解答が多かった。テスト範囲となる短編小説——主人公が獣に姿を変えてしまう、一見して突拍子もない内容のあの小説だ。  この主人公が獣に姿を変えたのは何故かを問う設問で、模範解答としては、本文中の言葉を引用しながら、自身の弱さと向き合うことや他者との関わりを避けた結果、内面にある猛獣のような性情を飼い太らせ、それにふさわしい姿になったというようなことを説明できているのが望ましい。  だが本文でも、何故そのように主人公が姿を変えたのかは、本人の口から推測で語られるに留まる。それが理由と確定づける記述はなく、難しい問いのため、なかなか模範となるような、ストレートな解答は現れない。  一応、授業でも取り上げたはずだが、ちゃんと聞いていたのかと問いかけたくなるような解答もたくさんある。その方が走りやすかったから、とか、実は呪われていたから、だとか。  本文以上に突拍子もない解答に、時々笑みをこぼしながら採点していく。……が、ふと現れた解答にドキリとして、手を止めた。 『自分の中の恐ろしい獣のような内面から逃げるために走っていたのに、走れば走るほど、その内面に近づいてしまったから』  本質に触れるような解答だと思った。本当に、子どもの感性は素晴らしい。本文に書かれていない想像を含み、模範解答からも離れているため、採点が難しい解答ではあるが、こういう解答があるから、国語という教科は面白いと思う。  自分の口に手を当てて、しばらく、俺はその解答を眺めていた。逃げるために走ったのに、走れば走るほど、目を背けていた内面に飲み込まれていく。そんな人の心の動きを見抜いた、秀逸な解答だと思った。  ——どれだけ走ろうとも、獣のような内面からは逃げられない、か……。  ふと、考える。昨夜、久世の告白から逃げて走り去った自分のことを。混乱のあまり、ぐちゃぐちゃな心のまま、走って走って、家のベッドに潜り込んだ夜のことを。  あのまま走り続けたら、自分も獣に姿を変えただろうか? ……なんて。 「神部先生」 「うわぁ‼︎」  ちょうど久世のことを考えていた時に、久世から声をかけられたので、飛び上がるほど驚いてしまった。意味もないのに立ち上がり、答案を表示していたパソコンの画面を背中に隠す。 「そんなに驚きます? ……何見てたんですか」 「いや、別に……はは、何でもないですよ、何でも」  久世は怪訝な顔で俺のパソコンを覗き込む。そこに表示されているのが、別に隠す必要もない定期考査の答案データだと分かると、ますます怪訝な表情になった。 「随分遅くまで残っているので、また何か困ってるのかと思ったんですけど……まだ帰らないんですか?」 「あっ、ハイ……大丈夫です、採点はもうすぐ終わりなんで。あとは、成績入力やったら帰ります」 「成績入力も?」 「ハイ、あの、明日は半休貰おうかなと思ってるんで……」  定期考査の日に半休を取る教員は多く、別に悪いことをしようとしているわけでないのだが、理由が理由なだけに、何となく後ろめたい気持ちで久世から視線を逸らす。  久世はしばらく訝しがるように俺を見ていたが、やがて「そうですか、お疲れ様です」とだけ言って帰って行った。  時計を見ると、もう二十一時近い。このままでは昨日と同じ、終電ギリギリになってしまう。急いで片付けようと気合を入れ直し、もう一度自分のパソコンに向かった。  昨夜は何とか終電前に帰宅して、定期考査二日目、金曜日の朝。準備をして家を出る前、昨日と同じように貴弘が帰ってきた。  貴弘は宣言通り、あれから毎日帰宅してくれる。夜勤明けに帰宅して、朝こうして顔を合わせることなんて、これまでほとんどなかったというのに……本当に、浮気相手とは終わったのだろうか。期待がじわりと俺の心を持ち上げる。 「タケル、おはよう。今日も間に合ってよかった」 「……おはよう」  貴弘の抱擁を受け入れて、広い肩に頭を乗せるように身を預ける。その頭を貴弘の大きな手が優しく撫でてくれた。 「なに、俺に会いたかった?」 「……うん」  素直にそう答えて、額を擦り付けるように貴弘に甘えると、貴弘は少し驚いたような反応の後、俺の顎を掬って愛おしげに目を合わせてくれた。 「可愛いな、ホント。どうしたの、急に」 「……今日、俺、半休取って帰ってくるから」  縋るように、貴弘の胸元をきゅっと掴む。帰ってくるから、その後に続く言葉を口にできずに、訴えかけるように貴弘の目を見つめ返した。  貴弘は目を見開いてもう一度驚いた後、すぐにその目を優しく蕩けさせる。 「帰ってくるから、なに? いっぱいイチャイチャしたい?」 「……っ、そういう、意地悪なこと聞くな!」 「ごめんごめん。……待ってるよ。早く帰っておいで」 「ん……」  耳元で吐息混じりに囁いた後、貴弘は俺の腰を撫で上げながら耳の中に舌を挿し込んだ。ねっとりと舐められて、足が震えてしまう。上手く立っていられずに貴弘に身を預けるように凭れかかると、貴弘は耳元でクスリと笑って、最後に呟いた。 「可愛い……タケル。愛してるよ」  まるで付き合い初めの頃に戻ったような、甘い触れ合いに、どこかふわふわした気持ちで通学路を歩く。  俺が不満を漏らしたから、ご機嫌取りで言っているだけだと思っていた「可愛い」という言葉を、まるで本心のように囁く貴弘を思い出すと、それだけで胸が甘く疼いた。  早く会いたい。会って、もっとちゃんと確かめたい。貴弘の言葉が嘘ではないということ。もう一度、信じてもいいんだということを。  学校に到着してすぐ、半休申請をした。昨日のうちにやるべき仕事は全て終わっているので、すんなり通った。  昼を待ち遠しく思いながら、自分のデスクで今日のスケジュールを確認する。今日は試験監督が二時間、一コマは空きで、その後担任を務めるクラスでロングホームルームを行って終了だ。空きコマで細かい仕事を終わらせれば、生徒の下校とほとんど一緒の時間には帰れるだろう。  無意識に鼻歌を歌ってしまう。隣の席にいた久世が、また、険しい顔でこちらを睨んでいた。  試験は滞りなく終了した。空きコマで来週の授業で使うプリントや教材を準備する。  ロングホームルームでは生徒たちの進路希望調査を行なった。プリントを配布して、この先の進路指導の予定を説明した後、それぞれの卒業後の進路希望を記入してもらい、回収する。  集めたプリントを教卓の上で整えたところで、チャイムが鳴った。そのまま下校前のショートホームルームに入る。委員会や係の連絡がないか確かめた後で、全体に声をかける。 「テストが終わって浮かれる気持ちも分かるけど、これから打ち上げに行くぞーって考えてる人は、羽目を外しすぎないように。酒タバコ、深夜徘徊、絶対やめてください。先生今日はこれで仕事終わりなので、補導や呼び出しになりそうな行動は、絶対、絶対にしないでください」 「神部ちゃん、早く帰って何するの? デート?」 「では来週の予定を確認しまーす」  生徒から飛んできた鋭い質問を内心慌てながらもスルーして、来週の時間割や行事を読み上げる。ところどころヒソヒソと何か話していたが、俺の話じゃないことを祈るばかりだ。  下校のチャイムと同時に挨拶をして、教室を出る。仕事が終わった、後は帰るだけだ。気を抜くと廊下をスキップでもしてしまいそうだった。相当浮かれている自分を自覚する。  職員室へ戻ってすぐ、帰り支度を始めた。バックパックに荷物を詰めていると、すれ違う他の教員に声をかけられる。 「神部先生、今日半休?」 「ハイ! お疲れ様です!」 「いいなぁ、俺も取ればよかった」  俺より更に五年先輩のベテラン教師に挨拶して、いざ帰ろうとバックパックを背負った。その時だった。 「——あれ、神部先生。ちょっと」  同じ島の、少し離れたデスクに座って、パソコンを見ていた杉本から呼び止められた。 「何ですか」 「いえ、今英語の成績入力しようとしてたんですけど。これ、ちょっと見てもらっていいですか?」  バックパックを背負ったまま、杉本の席に近づき、パソコンの画面を覗き込む。そこには、校務支援ソフトウェアの成績入力画面が表示されていた。科目ごとに定期考査の点数を入力して保存すると、自動で生徒ごとの全科目の定期考査結果が出力できるというものだ。  よくよく見ると、杉本が入力しようとしていた英語の成績入力欄には、既に点数が入力されていた。ざっと見ていくと、見覚えのある数字だった。  ……これは、昨日、俺が入力した点数だ。 「えっ、あれ、すみません……! 俺、もしかして間違えて入力してる……⁉︎」 「やっぱり、そうですよね。私は入力した覚えないのに入ってるし、神部先生、もう成績入力終わってるって言ってたのに、国語は空欄だし」  杉本が気まずそうに笑いながら説明してくれる。どうやら俺は、国語の成績入力を間違えて英語の欄に入力してしまったらしい。 「すみません、すぐ直します……!」 「いえいえ、私はいいんですけど、神部先生今帰るところだったのに、すみません」 「いや、気づかないまま帰ってたら、その方が大変だったんで……ありがとうございます」  力なく笑って頭を掻き、のろのろと自分の席に戻る。  最悪だ。俺はなんて馬鹿なんだ……昨日、いくら終電ギリギリで急いでいたからって、成績の入力欄を間違えるなんて!  バックパックを下ろし、パソコンの電源を入れる。間違えて入れたデータを消して、正しいデータを入れ直して……自分の作業スピードなら、ざっと二時間はかかるだろう。早く帰れるはずだったのに、泣きたい。  絶望的な気持ちで成績入力画面を表示する。修正量の多さを目の当たりにして、いよいよ泣きそうになってしまった。  朝、早く帰っておいでと、甘く囁いてくれた貴弘の声が思い出された。まだ帰れないことを連絡した方がいいだろう。落ち込みながらスマホを取り出そうとしたその時、横から誰かが割り込んできた。 「貸してください」  久世だ。久世は俺を押し除けるようにして俺のパソコンを操作すると、慣れた手つきで校務支援ソフトウェアの成績データを表計算ファイルに出力した。  そのファイルを開いて、何をしているのかよく分からないけれど……パパパッとキーボードを何回か叩き、入力されたデータを編集すると、今度はそのファイルを保存して校務支援ソフトウェアに戻り、ファイルのインポートというメニューを選んだ。 「!」  久世が表示した画面には、先ほど英語に入っていた成績がそのまま国語に移動して表示されていた。 「すごい……! 何ですか今の、どうやったんですか⁉︎」 「どうって、別に普通ですけど」 「普通じゃなかったですよ! すごい、何したのか全然分からなかった」  俺なら二時間かかる修正作業が、ものの五分で終わってしまった。まるで魔法のようだ。興奮して言うと、久世は俯きがちに眼鏡のブリッジを押し上げた。多分また、照れているんだと思う。白い肌がほんのり赤く色づいている。 「一応、間違いないか目視でも確認してください」 「ハイ! ありがとうございます、久世先生!」 「それと、後で何か神部先生に確認したいことがあるかもしれないので。帰られるなら、連絡先聞いておいていいですか」 「ハイ、勿論! ええと、俺のは……」  さっき取り出そうとしたスマホを今度こそ鞄から取り出し、自分の連絡先を表示する。 「090……」  俺の番号を確認しながら、久世は自分の携帯に俺の連絡先を登録した。 「ありがとうございます。じゃあ神部先生、お疲れ様でした」 「お疲れ様です!」  うきうきと久世に返事をして、念のため久世が修正してくれたデータをざっと確認する。間違いないことを確かめてから、バックパックを背負い直して、職員室を後にした。  本当に助かった……また、久世に借りができてしまった。普段は冷たいのに、こうして人が困っていると何だかんだいつも助けてくれるのが、久世の優しいところである。嫌いな俺のことも、ここまで気にかけてくれるなんて、本当に人のいい……。  ……いや、待て。ずっと嫌われていると思っていたけれど、そういえば久世は、俺のことが好きかもしれないんだっけ……?  ……さっき聞かれた連絡先って、本当に、仕事目的だろうか。  自分の行動が迂闊だったかもしれない可能性に気づいて、急に青ざめる。帰り道で、生徒の目がなかったら、その場に蹲ってしまいたい気持ちだった。  久世のことは気がかりではあったものの、ともかく、ほぼ予定通りの時間に帰宅できそうだった。 最寄駅で降りた後、駅近くのスーパーに寄って、買い物をする。夕食の材料と、昼食はもう食べているかもしれないけど、一応、昼食が作れるような材料も買っておく。  重い買い物袋を下げているのに、足取りが軽い。また無意識に鼻歌が漏れている。  だがマンションに辿り着いて、自宅の鍵を開ける瞬間、ふと、もし貴弘がいなかったらどうしようという不安に襲われた。  そんなわけない。大丈夫だと自分に言い聞かせ、ドキドキと緊張しながら差し込んだ鍵を回す。  玄関の扉を開けて家の中に入った。しんと静まり返った室内に、ひと気はない。不安が大きくなっていく。もしかしたら夜勤明けでまだ寝ているのかもしれないと、リビングへ向かう前に寝室のドアを開けた。  寝室は、もぬけの空だった。 「……っ」  やっと信じてもいいんじゃないかと思った矢先、もし、今また裏切られたなら、俺はもう立ち直れる自信がなかった。  フラフラと覚束ない足取りで、リビングのドアを開ける。そこにはやはり、貴弘の姿はない。心が真っ暗な絶望に落ちていく。あまりのショックに、しばらく呆然と、その場に立ち尽くして……。  ふと、ソファからはみ出している足先を見つけた。  慌てて買い物袋をその場に置き、リビングのソファを確認しに行く。貴弘はソファに寝そべって、居眠りをしていた。普段は精悍な顔つきは、寝ている時だけ気が抜けたような、幼い顔立ちになる。その姿を見た安心と、見惚れてしまうような寝顔へのときめきで、その場に崩れ落ちた。 「……よかった」  ぽつりと、そんな言葉が漏れた。 「……ん、……タケル?」  その声で、貴弘が起きたみたいだった。寝ぼけた様子で上半身を少し起こし、大きな欠伸をすると、まだ眠そうな目で俺を見る。 「おかえり……ごめん、寝てた」 「……ただいま」  申し訳なさそうに笑う貴弘の顔を見ていたら、堪らなくなって、俺はそのまま貴弘に抱きついていた。 「なに、朝からやけに甘えん坊だな」 「……うん」 「いっぱい甘えていいよ。おいで」 「……うん」  貴弘に促されて、ソファに寝そべった貴弘の上に乗り上げる。 「ん……」  自ら近づけた唇を、貴弘が奪ってくれる。啄むような甘い口づけに、ゾクゾクした。 「んっ、ぅ……ん」 「タケル……可愛いよ」 「……っ、本当?」  不安に潰れそうな胸で尋ねる。その言葉を、本当に信じていいのかどうかを。貴弘とやり直せるんだと、信じさせてくれるのかどうかを。  貴弘はその目を優しく細め、口を開く。 「本当に」  自分にのしかかる俺の体を強く抱き締めて、近づいた俺の耳元に囁く。 「可愛い」 「っ」  もう長い間、ずっと、空虚だった心が満たされていく気がした。  好きだ。貴弘を、愛している。十年前と変わらずに。もしかしたら、十年前よりもっと。  好きだから、他の男の元に通っていると知って、傷ついた。好きだから、可愛さを失っていく自分に興味がなくなってしまったのだと思って、絶望した。  だけど、もう、信じていいだろう……貴弘はまだ、俺を求めてくれる。こんなおじさんになってしまった自分のことを、まだ、可愛いと思ってくれるのだ。 「貴弘……」  名前を呼んでキスを強請る。すぐに貴弘の口が俺の口を塞いだ。背中から腰のラインをなぞるように動いた貴弘の手が、俺の尻を撫でる。いやらしい手つきで動いたその手が、何かに気づいて止まった。 「何、これ。レシート?」 「ん……、え……?」 「何か入ってる、ポケットの中」  貴弘の手が見つけた違和感の原因を、するりと俺の尻ポケットから取り出した。見覚えのない四角い紙だった。いつ入れたんだったか……。 「……携帯番号?」 「え? ……あっ‼︎」  それが何か分かった俺は、さっと青ざめて貴弘の手から紙を奪った。  すっかり忘れていた……そうだ、これは昨日久世に渡された連絡先だ。 「何、それ。誰の番号?」  貴弘の目が、俺を探るようにすっと細まる。 「え、えーと……誰のだろ、はは、あはは」  わざとらしく笑いながら、頭をぐるぐると回転させた。どうしようどうしよう、何て言って誤魔化そう。……いや、別に誤魔化す必要なんてないか? 久世はただの同僚だ。疚しいことなど何もない。告白まがいのことをされた以外は……そうだ、浮気をしたわけでもあるまいし、別に話してしまってもいいのでは。 「ええと、これは、職場の人のやつで。そう、全然、仲良くもなんともない人の番号なんだけど。仕事に必要だったら、向こうが教えてくれて、そのまま忘れてて……あの、本当に、全然怪しい番号じゃないから」  貴弘の上に覆い被さっていた体を起こし、ソファの上で貴弘に跨る。久世の番号が書かれた紙をくしゃくしゃと丸め、貴弘から隠すように背中へ持っていった。 「ふぅん、職場の人?」 「う、うん」 「どういう奴?」 「え? えーと……後輩、ただの後輩」 「ただの? 本当に? わざわざプライベートな番号を渡してくるような奴が?」 「本当だよ!」  貴弘は俺を探るような顔をやめない。早くこの話題を終わらせたくて、俺は何でもないことを示すため、背中に隠した紙をゴミ箱に捨てようとした。 「ふーん……まあいいか、体に聞けば」 「えっ」  しかし貴弘の上から下りようとした俺は、急に腕を掴まれ、その場に引き止められた。その腕をぐっと引っ張られた拍子に、掴んでいた紙切れはどこかへ落ちて転がっていく。行方を追いかける間もなく、視界がぐるりと反転して、気づけばソファに押し倒されていた。  俺の両腕を掴んで、今度は貴弘が覆い被さっている。上から自分を見下ろす貴弘を見上げると、貴弘は口の端を持ち上げて、どこか背筋が冷えるような笑みを浮かべた。 「正直に話したくなるまで虐めてあげるよ、タケル」 「な……っ、ちょっと待て、貴弘……!」  穏やかではないその笑みに、慌てて誤解を解こうとする。だが貴弘は話を聞かず、俺のネクタイを引き抜くと、首筋に噛み付くようなキスをしてきた。 「ん……!」  力では貴弘に敵わない。多少の抵抗なんてものともせず、そのまま服を乱されてしまい、与えられる快感にやがて俺も抗えなくなってしまう。  シャツを脱がされ、スラックスを足から引き抜かれる。貴弘は下着姿になった俺を抱えて、バスルームへ連れて行った。  シャワーのノズルを外し、俺を抱くための準備を施した後、風呂の壁に手をつかされて、後ろから貴弘に責め立てられた。 「あっ、ん……! 貴弘っ、それ、やめて……! ん、あぁ……っ」  じわじわと、焦ったい動きでわざと俺の一番弱いところを突く。中途半端な刺激に、気が飛びそうになってしまう。 「へぇ、名前は久世で、数学教師で、歳はタケルの十個下で?」 「んぅ……っ、んっ、貴弘ぉ……っ」  未だ決定的な刺激を与えられないことに焦れて、乞うように背中から俺を突く貴弘を見る。  だが貴弘はぎらついた目で俺を見ているだけだ。ゆっくりと、でも確実に俺の弱いところを狙って、じりじりと腰を揺らめかせる。 「他には? タケル。何か隠してるだろ」 「……! ない、何もない……っ、ほんとに、ただの、後輩で」 「嘘つけ」 「ああぁぁ……っ!」  ほんの一瞬、求めた刺激が与えられたかと思うと、またすぐに引いてしまう。快感が遠ざかっていく感覚に、腰が切なく震えた。  何で……せっかく、気持ちよくなれると思ったのに。そのまま強く突いてくれたら、すぐにでもイけそうだったのに。 「タケルは嘘なんかつけないんだから。早く本当のこと言えよ」 「……っ、でも、本当に」 「じゃないと、ずっとこのままだけど?」 「んん……っ!」  もう少し、あと少しのところまで責めて、貴弘はまだ俺を焦らし続ける。 「あっ、はぁ……っ、なんで……もっと……!」  もうちょっとなのに。もどかしさから、自分で動こうとすると、貴弘に腰を掴まれ制止されてしまう。  イキたい、もっとしてほしい、思考が鈍っていく。切なく喘ぐ俺の耳元に近づいて、貴弘が言う。 「タケル、本当は? 久世と、何があったの」 「ぁ……っ、ない、何もない……っ、けど」 「けど?」 「……っ、可愛いって、言ってた……俺のこと」  とうとう、そう白状すると、貴弘の動きがピタリと止まった。 「あ……っ」  突然刺激を失って、真っ暗闇に放り込まれたような気分になる。 「は、ぁ……っ、貴弘……?」  寸止めばかりで、もう耐えられない。正直に話したのだから、早く突いてほしい。涙目で背中の貴弘を振り向く。 「……っ」  貴弘は嗤っていた。口元を歪め、どこまでも冷え切った目で、俺を嘲笑うような冷酷な笑みを浮かべていた。あまりにも恐ろしいその笑顔に、息を呑む。  貴弘は俺を揶揄うように口を開く。 「ふぅん。可愛いって言われて? それで、いい気になっちゃったんだ、タケルは」 「な……っ、違、……っあ‼︎」  一際強くガツンと腰を打ち付けられて、急な刺激に体がビクンと跳ねる。いきなり欲しかったものが与えられて、目の前がチカチカした。 「タケルが一番、言われたい言葉だったもんな。嬉しかったんだろ、なぁ、正直に言えよ、タケル!」 「あっ、ちがっ、思ってない! そんな……っ、ん、ぁっ!」  さっきまで散々焦らされたのに、突然激しく揺さぶられて、快感に思考が追いつかなかった。うまく喋ることもできずに、ただ嬌声だけが漏れる。 「ああぁぁ……っ‼︎」  やがて貴弘が中で達したのと同時に、俺の体にも痺れるような快感が走った。ビクンビクンと何度も体が跳ねる。長く焦らされたせいだろうか、気持ちいいのが終わらない。 「はぁ……っ、はぁっ、ん」  達してすぐに自分のものを引き抜いた貴弘は、乱暴に俺の体を仰向けにした。そのまま噛み付くようなキスをされる。火照った素肌が密着して、生々しい感触に、ぶるりと体が震えて反応する。 「ん……っ、ん、はぁ」  貪るような口づけに、俺も夢中で応えた。舌を絡めて、唾液を啜る。  激しい口付けを交わした後、貴弘は唇を離すと、今度は一転して触れるだけの優しいキスを、俺の口元にちゅ、ちゅ、と繰り返した。 「タケル、俺が好き?」 「ん……好き、貴弘……大好き」  もっとキスをして欲しくて、自分から貴弘の唇を追いかけた。舐めて、食んで、啄むように、何度も唇と唇で戯れる。 「久世よりも?」 「ん……っ、うん……好き」  蕩けた思考で請われるままに答えると、貴弘は満足そうに口の端を持ち上げた。 「じゃあ、約束できるよな? 久世と、個人的な連絡は取らないって」 「ん……、んっ、ぅん」  貴弘の手が俺の胸板を弄って、胸の突起を指でグリッと押し潰した。鋭い刺激に身を捩る。気持ちいいばかりで、もう、何も考えられない。下半身まで全部、ぬるぬると体を擦り合わせるように動かれると、頭の中が真っ白になった。 「ぁ、ん……っ、はぁっ、あ」 「約束できる? タケル」 「んぅ……っ、うん……」 「いい子」  ぼんやりとした意識の中で頷くと、貴弘が俺の頭を撫でて、蕩けるような優しいキスをしてくれた。嬉しくて頭がぼぅっとなる。この腕の中にいられるなら、何でもできると思った。  自分の足で立てなくなるくらい愛し合った後、貴弘に支えられてバスルームを出る。濡れた体にバスタオルを巻かれて、そのまま横抱きに寝室へ連れて行かれた。 「タケル、愛してるよ」 「ん……」  ベッドに寝かされながら、またキスをされる。夢のようだと思った。少し前、一週間もの長い間、一人きりで寂しく眠っていたベッドで、今は溺れるほどに愛されている。 「貴弘……」  優しく微笑む貴弘は、俺の呼びかけに答えてキスを深めてくれる。 「なに、もっとしたい?」 「……そういう、意地悪なこと、聞くなって言った」 「ごめん、タケルが可愛くて」  クスクス笑う貴弘に、しがみつくように腕を回す。 「貴弘……愛してる」  こんなに抱き合っているのに、切なさで胸が押し潰されそうだった。もう他の誰かのところに行かないでほしい。ずっと、ここへ帰ってきて欲しい。毎日抱えていた不安がまだ、心のどこかに残っている。明日、急に、貴弘が帰って来なくなるんじゃないかと。そんな不安が。 「俺も愛してるよ、タケル」 「……っ、……」  この不安な気持ちを、そのまま素直に言葉にできたら、どれだけいいだろう。  寂しいと、俺を捨てないで欲しいと、たったそれだけのことがどうしても声に出せない。言葉にすれば、きっと、貴弘は望む答えをくれる。たとえそれが嘘でもだ。そういう貴弘の性格を、十年も付き合っていれば、もうよく分かっている。  だからこそ、俺はその答えを貴弘の口から聞きたくなかった。嘘だと分かってしまうのが、恐ろしかったから。  臆病なプライドが邪魔をして、今日も俺は、自分の中の獣に目を閉じた。

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