4 / 6
第4話
スマホのアラーム音で目が覚める。手探りで在処を探した。その手がスマホではない何かに触れる。何か、温かいものに。
「ふっ、タケル。擽ったいんだけど」
まだ完全に目覚めきらない意識の中で、貴弘の声を聞いて、一気に覚醒した。自分の手が何に触れたのかを確かめる。貴弘の二の腕だった。
びっくりした……目が覚めて、隣に貴弘がいるなんて久しぶりのことで、しばらく何が起こったのか分からなかった。ついでに言うと、今触っている貴弘の二の腕にもびっくりした。何だこの、筋肉質で硬すぎる二の腕は。本当に人間の腕なのか。俺の腕とは大違いだ。
「なあ、擽ったいって」
「あっ、ごめん」
つい感心しながらしばらく撫でてしまい、慌てて手を離す。貴弘は仕方なさそうに笑って、鳴り続けているスマホのアラームを俺の代わりに止めると、シーツの中を移動し、俺の体を抱き寄せた。
「あんま触られるとムラムラする。タケル、遅刻したくないなら、そういうことしないほうがいいよ」
「な……っ、おい、当てるな! 分かった、離れるから!」
密着した下半身の、貴弘の硬くなったものの感触にぎょっとして、慌ててベッドを抜け出す。足を下ろして立ち上がろうとした瞬間、膝に力が入らず、その場に崩れ落ちそうになってしまった。
「っ、と……」
力の入らない理由が、昨夜の行為のせいだと思い当たって、カァッと顔が熱くなる。別れ話をしたつもりが、何故こんなことになってしまったのだろうか。
……本当に、これで、よかったのだろうか。
「タケル」
ベッドから出ようとすると、貴弘が背後から抱きついてきた。まだ二人とも服を着ていないため、素肌が密着してビクリと反応してしまう。
「今日は夜勤だから帰って来れないけど、明日の朝は、タケルが出勤する前に帰って来るから」
「………」
「……俺の言うこと、信用できない?」
貴弘の言葉に、何も返せずただ俯く。信じるとも、信じられないとも、簡単には口に出せなかった。
「好きだよ、タケル」
「ん……っ」
甘ったるく囁いて、貴弘は肩越しに俺の唇を塞ぐ。爽やかな朝とは不釣り合いな、ねっとりと官能的なキスをされて、体が疼いた。力が抜け、貴弘の逞しい胸板に寄りかかる。
「はぁ……」
唇が離れてから息を吐くと、貴弘は俺を見つめ、微笑んで言った。
「……可愛い」
「はぁ……」
思わず息を吐きながら、自分のデスクに頬杖をつく。
明日から定期考査だというのに、仕事を始めてからも今日はずっと上の空だ。昼休みのこの短い時間にだって、やらなければいけないことが山積みだというのに。
昨日までずっと、貴弘との関係がいつ終わるのかに怯え、その不安から目を逸らすだけでいっぱいいっぱいだっただけに、急な進展に心が追いつかない。ましてや、あれだけ欲しかった貴弘からの「可愛い」をこれでもかと浴びてしまい、思い出すだけで身悶えてしまう。冷静な思考なんて持てるはずがなかった。
思わずデスクに肘をつき、両手で自分の顔を覆って隠した。職場で何をしているんだ俺は。恥ずかしい。でも顔が火照ったまま元に戻らない。どうしよう、困った。
「何してるんですか、神部先生」
溜息をついたり赤面して仕事が手につかない俺を、隣で見ていたらしい久世から、呆れた声が飛んできた。自分の顔を覆い隠した指の隙間から、久世を覗き見る。思った通り、久世はあのこわーい顔をしていた。
「久世先生……」
「昨日あれだけ僕の手を煩わせておいて、今日も仕事が終わらないなんて言うつもりじゃないですよね」
そうだった。昨日、採点ソフトの扱いに困っていた俺を、親切に助けてもらったばかりだった。
「すみません……はぁ」
「何なんですか、本当に。さっきから溜息ばっかり」
「……久世先生」
怪訝な表情を浮かべる久世を、まじまじと見つめる。俺が真剣に見つめるものだから、久世は少したじろぐような反応を見せた。
久世は、その容赦のない性格はさておき、イケメンである。おそらく相当モテるだろう。恋愛経験も豊富なのではないだろうか。
藁にもすがる思いで、俺は久世を手招きした。眉間にぐっと深い皺を刻んだ後、渋々と言うように、久世は俺に近づいて来る。
「あの、久世先生、ちょっと相談があるんですけど……」
「……僕に?」
「はい。久世先生って、今恋人はいます?」
俺の質問に、久世は固まってしまったように動かなくなる。しばらく待ってみたが返事はない。
「久世先生?」
不思議に思って首を傾げる。久世はハッとしたように我に返ると、険しい顔つきで俺を睨んだ。
「……いませんけど」
「えっ、そうなんですか。すみません」
久世は機嫌が悪そうである。もしかして、恋人がいないということを気にしているのかもしれない。だとすれば失礼なことを聞いてしまった。
「謝られても困るんですが。……それで、相談って何ですか」
「聞いてくれるんですか?」
無愛想ながらもこちらの相談を気にかけてくれる久世に感激する。やはり久世、態度は冷たいが驚くほどに面倒見がいい。
「仕事が疎かになるとこっちが困るので、悩みがあるならさっさと話してください」
「ありがとうございます……! あの、これは知人の話なんですけど」
キャスター付きの椅子を移動させ、久世に近づいてヒソヒソ声で話しかける。
「同棲中の恋人が、もう長いこと浮気をしてたんですけど」
「は?」
地の底を這うような相槌とともに、ただでさえ険しい久世の顔がもっと険しくなり、あまりの恐ろしさに縮こまる。
「続けてください」
「は、はいぃ……あの、それで、さすがにその知人も、別れるのを覚悟して恋人を問い詰めたんですけど、その……浮気は所詮遊びだから、別れるつもりはないって言われちゃって」
話せば話すほど久世の顔は険しくなる。怖い、怖すぎる。相談する相手を間違えたかもしれない。
でもここまで話したんだから、折角なので久世の意見も聞いてみたい。怖いもの見たさで、俺は続ける。
「もし、久世先生だったら、どうします……? その恋人のこと、許しますか?」
親の仇でも睨みつけるような顔になってしまった久世の答えを、ドキドキと緊張しながら待つ。やがて久世は眉間に刻んだ深い皺を押さえるように、指を当てて長い溜息をつくと、俺を睨んだまま口を開いた。
「どうするって、そんなの許さない一択ですよ。許せるわけないでしょう。遊びで? 浮気を? ハッ、どの口がそんなこと言ってるんですか。人を裏切っておいて、俺ならその場でくだらないことをぬかすそいつの口を縫い付けてやりますよ」
「く、久世先生……辛辣……」
だんだんと語気が強まり、一人称まで変わっている久世に驚いてしまう。普段の久世は自分のことを俺と呼んでいるのか。職場での話し方に慣れていたので、びっくりした。
しかし、やはりそうか。客観的に見て、貴弘の言い分は許されることではない。それなのにズルズルと流されてしまって、いつものようになし崩し的に事に及んでしまった自分が情けなくなってきた。
「……ただ」
「え?」
だが、久世の話はそれで終わりではなかった。続けて口を開いた久世に、目を丸くする。
久世は言いづらそうに、視線を逸らして、苦しげに声を絞り出した。
「別れるかどうかは、その時になってみないと、分かりません。……好きな相手なら、どんな無茶苦茶な言い分でも、許したいと思ってしまう自分も、いると思います」
「……久世先生……」
あまりに真摯な久世の答えに、じんと胸が震えた。
そうだ、俺だって分かっている。一度裏切られた相手の言い分が、いかに信用できないかを。誰に聞いてもやめろと言うような、そんな相手であっても別れる決断ができないのは、俺がまだ、貴弘のことを好きだからだ。
信じられるかどうかではなく、信じたいと思ってしまう。どんなに愚かでも、それでも。
「……とはいえ、その『知人』には絶対、絶対別れろと忠告してください。碌な男じゃないです、絶対に別れてください。絶対に!」
「え、えぇ……⁉︎ そんな……!」
折角感動していたのに、そんな無慈悲なことを続けて言われてしまい、泣きそうになってしまう。……というか、何で相手が男だって分かったんだ。知人とその恋人、としか話していないのに。エスパーかな?
がっくりと項垂れながら、最後にこれだけと思い、続けて久世に話しかける。
「あの、久世先生……もう一つ」
「何ですか」
苛立った様子の久世に怯えつつも、耳元に近づく。かなり恥ずかしい質問だが、しかし文句を言いながらもここまで真剣に相談に乗ってくれる久世のことだ。きっと客観的に、忌憚のない回答をくれるはず。そう思って、他の人には絶対聞こえないように、こっそりと、久世に尋ねる。
「あの、俺って……可愛いですかね?」
「⁉︎」
久世は驚いて、椅子から飛び退くように立ち上がり、俺から距離を取った。
「そんなわけないでしょう‼︎」
あまりの大声に、職員室の視線が一斉にこちらに集まる。会話も途切れて、しんと静まり返ったその空間で、ハッとした久世が気まずそうに自分の席に座り直した。
やがて他の教員たちも、またいつもの俺と久世の小競り合いかと納得して、それぞれの会話に戻る。久世は険しい顔のまま、改めて俺に言った。
「急に変なこと聞かないでください。可愛いわけないでしょう」
「ですよね……」
やはりそうだ。俺は可愛くない。かつて周囲にチヤホヤされたのは若かったからで、そんなものは加齢とともにとっくになくなってしまったのだ。
貴弘の言葉もきっと、俺の機嫌を取るためだけのもの。分かりきっていたことなのに……どうしようもなく、胸が痛い。
「ありがとうございます、久世先生」
重苦しい気持ちのまま、椅子を移動させて自分の席に戻る。隣で久世が、何か言いたそうにこちらを気にするのが分かったが、もう話しかける気にはなれなかった。
貴弘を信じたい気持ちと、もう信じられないという気持ちで、これからどうするべきか悶々と考えていたら、やはり仕事はなかなか終わらなかった。
特に、印刷したテストの問題用紙が、裏表とも同じ内容になっていた時には青ざめた。かなりの枚数を無駄にしてしまい、用紙代、インク代ともに、上から大目玉を食らう案件である。
学校を出たのは二十二時半過ぎ。この調子だと、帰宅できるのは日付が変わるギリギリかもしれない。フラフラと覚束ない足取りで駅までの道を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「あの」
驚いて振り向く。そこには久世が立っていた。自分のことに必死であまり周りを見ていなかったが、そういえば久世もまだ残っていたように思う。
「久世先生、お疲れ様です。先生も何かトラブルですか」
「いえ……いや、はい。そんなところです」
珍しくしどろもどろ口を開く久世に、首を傾げる。
「先生も電車通勤でしたよね。行きましょっか」
時間も時間なので、終電が心配だ。俺が促すと、久世は黙って俺の隣に並んだ。
久世と一緒に歩き始めたはいいものの、会話もなく気まずい空気だ。そもそも、俺は久世に嫌われているし、一緒に帰りたくなかったかもしれない。
……あれ、それならどうして久世は、俺を呼び止めたんだろう。
まあいい、とにかく、何か会話をしなければ。
「えーと、あっ、久世先生。定期考査の準備、ありがとうございました。先生のおかげで、何とかなりました」
俺が話しかけると、久世はぎゅっと眉根を寄せて「いえ」と短く答えた。
「今の時代、何でもデジタル化で、俺みたいな古い人間はついていけなくて……先生みたいな若い人がいてくれて、本当、助かってますよ。あっ、そういえば、今度の学年打ち合わせですけど……」
続けてあれこれと話題を振ってみるが、久世の返答は芳しくなく、やがて話題も尽きてしまう。しんと静まり返った夜道を、俺と久世の足音だけが響いた。
気まずい空気の中、やがて見えてきた駅の明かりにホッとする。そういえば、久世の家はどのあたりなのだろう。まさか電車も一緒で、この息が詰まるような空気がまだ続くなら、俺は耐えられないかもしれない。
「久世先生、家はどのへんで……」
「あの」
しかし、話しかけた俺の声を、真剣な様子の久世が遮った。
「は、はい。何でしょう」
ただ事ではない雰囲気に、俺も緊張して答える。久世は足を止めて、あの険しい目でまっすぐに俺を見ていた。
どうしよう、また何か怒られるのかもしれない。久世に怒られそうなことで、何かやらかしていないか考えてみる。……ありすぎて絞り込めない。
こうなったら先に謝ってしまおう。そう思って、俺は先手を打って勢いよく頭を下げた。
「すみませんでしたぁ‼︎」
「すみませんでした!」
だがほとんど同時に、俺と全く同じ言葉を言いながら、久世も俺に向かって頭を下げた。何が起こったのか分からず、ポカンとしてしまう。
「え? ……あれ? 久世先生、今、何て?」
聞き間違いでなければ今、久世は俺にすみませんでしたと言ったはずだ。
だがいくら考えても、久世が俺に謝らなければならないことなど思いつかない。聞き間違いじゃないかと思って尋ねる。
久世は思い詰めた表情で俯き、口を開く。
「すみませんでした。今日、俺の言ったことで、神部先生を不快な気持ちにさせてしまいました」
「えっ、不快……? いやいや、大丈夫ですよ。ていうか、そんなことありましたっけ」
「……あなたが、可愛いわけないって」
険しい表情の久世が苦々しく口にしたその言葉を反芻する。
「……ああ!」
やがて俺が昼間久世に尋ねた、俺が可愛いかどうか、という質問に対する回答だと思い当たる。
「いや、大丈夫ですよ。自分から聞いておいて、不快だなんて思ってませんって」
「……でも」
「そもそも、分かってて聞いてますから。久世先生なら、そう言ってくれるだろうなーと思って」
笑いながら俺が言うと、久世は思い詰めた表情のまま、ぐっと眉間に皺を寄せるという、奇妙な表情になった。
「……でも、傷ついた顔をしてました。神部先生」
絞り出すように、本当に苦しげに、久世が言う。
気づいていたのかと、俺の方が申し訳ない気持ちになった。久世にそう言われることを期待して聞いたくせに、確かに、俺は傷ついたのだ。
自分の「可愛い」が失われたという、その現実と向き合わねばならないことに。
「久世先生のせいじゃないですよ。俺の問題なんで」
ともかく、何も悪くない久世にこれ以上いらぬ心労を与えないよう、笑いかける。
「いやー、俺、若い頃は結構可愛い可愛いって言われてまして。それこそ、小学生の頃は女の子と間違われることなんてしょっちゅうでしたし。三十くらいまでは、学生に混じっても分からない、なんて言われてたんですよね。それが今じゃこうだから」
話しながら頭を掻いた。久世は黙って俺の話を聞いている。
「時の流れっていうんですかね。いつの間にか、歳取ったなあって。……なんか、いつまでも自分のこと、若い頃みたいに、可愛いと思ってたのかなぁ、なんて。痛々しいですよね」
本当に、痛々しすぎて自嘲せずにはいられない。四十も近いおじさんが、いつまでそんな自認なのかと、久世にも笑い飛ばしてほしかった。いつものように厳しい言葉で罵倒されたって構わなかった。
それなのに、久世は俺の笑い声には同調せず、何も言わなかった。いつもの険しい表情で、じっと真剣に、俺を見ているだけだった。
やがて俺の笑い声も途切れて、頭を掻いていた手が力無く落ちる。重苦しい沈黙が流れる中、遠くで電車の走る音が聞こえた。
今何時だろう。二十三時を回ると、さすがに終電も心配になる。早く帰ったほうがいいだろうと、久世に声をかけようとした、その時だ。
「……可愛いです」
「え?」
ずっと黙ったままだった、久世が不意に口を開いた。上手く聞き取れずに聞き返す。
「神部先生は可愛いです。ずっと、可愛いと思ってました」
「……へっ? え、あれ?」
何だ、いきなり何を言っているんだ久世は。頭がおかしくなったとしか思えない。あれか、俺に気を遣ってこんなことを言っているのか? だとしたらなんて気遣い屋さんなんだ。さすがにやりすぎである。
しかしそんな風に冷静に分析する頭とは反対に、俺の顔はぐんぐんと熱を持った。十も年下の、同じ職場の仲間に、そんなことを言わせている状況が恥ずかしかったのかもしれない。
「いやっ、ごめん久世先生、無理矢理そんなことを言わせたかったわけじゃなくて……! 今のは、笑うところで」
「笑えません。本気です。誤解されたくない……いつも素直になれなかっただけで、本当は俺、ずっと、神部さんのこと可愛いと思ってました」
「まっ、待って、久世先生、ストップ……!」
急に呼び方が変わったり、可愛いを連呼されたり、思考が今の状況に全くついていけなかった。久世が俺に一歩近づくたび、後ずさって逃げ場を探す。
「神部さん、浮気するような恋人とは別れてください。俺が幸せにします」
「へ⁉︎ 何っ、何言ってんの⁉︎ いやっ、えっ、浮気とか恋人とか……! い、意味分かんないんですけど!」
「誤魔化さないでください。俺全部知ってます。アンタの恋人が男だってことも、その恋人がずっと浮気してたってことも」
「ナンデ⁉︎」
動揺するあまり声が裏返ってしまう。何だか、目まで回ってきた。何でだ、何で全部バレてるんだ。今にも倒れそうなくらい混乱する俺に、久世はあくまで冷静に答える。
「恋人が男なのは生徒が話してましたし、昼間の話は知人じゃなくて、あなたの話ですよね」
嘘だろ……全部バレてた。じゃあ久世は、全部俺の話だと思ってあんなアドバイスをくれたのか。
浮気する最低男を許せるわけないと罵って……だけど、好きなら別れられないという俺の気持ちに、寄り添ってくれて。理解した瞬間、体がビクリと跳ねてしまうくらいに、心臓が妙な音を立てた。
何だこれ……駄目だ駄目だ、何だかよく分からないけれど、このままだと、非常にまずい! 自分が自分でなくなってしまうような気がする。今すぐ、この場から立ち去らなければいけない! 今、すぐに!
「おっ、お疲れ様です! 久世先生! じゃあ俺! 急ぐのでこれで‼︎」
「ちょっと! 逃げるんですか⁉︎」
踵を返してその場から走り出した俺に、背中から久世の非難が飛んでくる。
だが、足を止めない。その通りだ、俺は逃げる。だってあのまま久世と話していたら、自分がどうなってしまうか分からない。
「俺、諦めませんから‼︎」
最後に聞こえた久世の言葉すら無視して、俺は駅の改札口へと急いだ。走って、走って、自分が何から逃げようとしているのかも、分からないまま。
ともだちにシェアしよう!

