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第3話

 ある日のこと。担任を務める学級でホームルームを終えた後、生徒に手招きされた。女子生徒のグループだ。  彼女らは教室の隅で輪を作り、何か話し合っていたようだ。 「神部ちゃん、ちょっと」  深刻な顔で呼び付けられ、何事かとこちらも緊張してその輪に近づく。 「実は……マナカが彼氏に振られそうだって……」 「そ、そうなんだ」  確かに、深刻な話ではあった。集まっていた女生徒はみんな神妙な顔をして、そのマナカと呼ばれた生徒を囲んでいるし、この年齢の若者にとって恋人に振られそうだという話は、世界の終わりと同義だろう。気持ちはよく分かる。  分かる、が……。 「その話を、なんで俺に……⁉︎」  普通、担任教師に恋人との破局の予感を報告するだろうか。マナカ自身もバラされたくないのでは。心配になって彼女を見る。  マナカと呼ばれた彼女は、机に顔を伏せたままだ。嫌なら嫌って口に出してくれ、頼むから。そしたらこの場を立ち去る理由になる。 「だって神部ちゃん、彼氏いるでしょ」 「は⁉︎」  だが唐突に放り込まれた、とんでもない爆弾にぎょっとする。今、何て言った……⁉︎ 「先輩が、彼氏と手繋いで歩いてる神部ちゃん、見たことあるって言ってた」 「いやいやいや……! え⁉︎ ちょっ、え⁉︎」  見られてた……⁉︎ 人目のあるところでは、かなり気をつけていたはずなのに! そもそも、ここ一年くらいは、貴弘と出かけた記憶すらないというのに。  一体いつの話だ、いや、待て、それより先に、否定しておかないと……! 「うん、それはさ。友だちがふざけてただけで、彼氏とか、そういうのではないから」 「神部ちゃん、否定するの遅いよ。そういうところだよ」  生徒たちはみんな、生温かい視線を俺に向けている。最早何を言っても無駄という、手遅れな空気が漂っていた。  嘘だろ……いつから? というか、どれくらい広まってるんだ? 保護者にも広まっているのだろうか。過激な親に、教師として相応しくない、とか何とか、意見されたらどうしよう。真っ青になる俺を尻目に、生徒たちは話を進めていく。 「だからさ、神部ちゃんならいいアドバイスくれるかなって……マナカの彼氏、浮気してるみたいでさ」 「!」  浮気、という言葉に、思わず反応してしまう。自分と重なるような状況に、心臓が嫌な音を立てる。 「あたしたちは、そんな彼氏別れた方がいいって言ってるんだけど……」 「無理! 別れない! 別れたくない!」  それまで机に顔を伏せていたマナカが、ガバリと顔を上げた。その目には涙が滲んでいた。まつ毛に塗ったマスカラが滲んで、目元が黒くなってしまっている。校則違反を承知しながら化粧で飾る、きっとそれも、その彼氏のための努力の結晶なのだろうと思うと、こちらまで胸が痛む。 「でもさぁ……」 「浮気ぐらい、許す。もうしないって約束してくれたら、それでいいし」 「やめなよ、一回浮気した男なんて、絶対また浮気するよ」 「じゃあ、どうすればいいの⁉︎ 別れたくない! 神部先生、どうしたらいい?」  マナカは目に涙をいっぱい溜めて、助けを求めるように俺を見てきた。周りの女生徒たちの視線も、一斉にこちらに集まる。 「え、えぇ……俺……⁉︎」  本人にまで真剣に意見を求められ、思いっきり焦ってしまう。女子高生の恋愛相談なんて、俺には荷が重すぎる。  そもそもだ。俺自身が、絶賛、恋人に浮気され放題だというのに。もう長い間、彼の不貞を問いただすことすらできていないというのに。人の恋路に的確なアドバイスなんて、できるわけがないだろう。  だがみんな、期待を込めた目で俺を見ていた。何も答えないなんて許されない雰囲気だった。  どうしよう、杉本を呼んでくるべきだろうか。杉本ならきっと、女性目線で的確なアドバイスをしてくれるはず……そんな感じで、何とかこの場から逃げ出す方法を考える俺だったが、ふと、彼女たちの中心にいる真剣なマナカと目が合った。  傷つきながら、それでも恋人を大切に思う彼女の真摯な瞳に、胸を打たれた。浮気されてつらい。それでも別れたくない。矛盾した気持ちを一つも誤魔化さず、こうして誰かに打ち明けられる彼女が羨ましかった。  俺にはできないことだ。別れたくないからこそ傷ついていないふりをして、いつか終わることを予感しながらも何もできず、今もただ、流れに身を任せている。彼女のように、思いのまま自分の感情を口にできたら、何かが変わるのだろうか。  そんなことを考えて、つい、お節介にも口を開いてしまった。 「マナカさんは、別れたくないんだ」 「……うん」  マナカは目に涙を溜めたまま、しっかりと頷いた。 「でも、浮気されたのはつらい?」 「つらい。もう、絶対してほしくない」  強い意志がこめられた言葉に、胸がじんと震えた。まるで俺がずっと言えなかった言葉を、代弁してくれたように感じられた。 「だったら、その二つをそのまま話してみたら」 「そのまま?」 「うん。別れたくない。でも、浮気されるのはつらいし、もうしてほしくないって。無理に許す必要もないし、今すぐ別れるって決める必要もないだろ」 「神部ちゃん……!」  周りの女生徒が、嗜めるように俺を呼んだ。きっと教師の立場から、浮気するような男とは別れろと、彼女を説得してくれると思っていたのだろう。 「どうするかは、彼氏と話してから自分で決めればいいよ。友だちに言われたからじゃなくて。後悔しないようにさ」 「……うん、分かった。神部先生、ありがとう」  マナカはもう一度、今度は先ほどよりも強く頷いた。  自分にはできないことを生徒に勧めている。後ろめたさを感じたけれど、それでも、自分のようにはなってほしくない、後悔してほしくないという気持ちで、俺も彼女に強く頷き返した。 「はぁー、疲れた」  アラフォーのおじさんが、女子高生の恋愛相談に乗るという無茶苦茶な状況から解放されて、やっと職員室へ戻ってきた。  大きく息を吐きながらデスクの上に倒れ込む。勢いが良すぎたのか、デスク横に積んでいたファイルやプリントがバサバサと倒れてしまった。 「げっ」  倒れた先は久世のデスクだ。見つかる前に片付けなければと、慌てて身を乗り出す。 「わ、わっ、やば」  しかし焦ったせいで余計に倒れたプリントが広がってしまった。急いでかき集めていると、背後に誰か立つ気配がした。 「何してるんですか」 「久世先生……! す、すみません……」  結局見つかってしまった。腕を組み、呆れ顔で俺を見下ろす久世に謝る。  久世はいつものように眼鏡のレンズの奥でぎゅっと眉を顰め、険しい顔つきになった。何だか、いつも怒らせてばかりいる気がする。これは相当嫌われているなと、申し訳ない気持ちになる。  久世に手伝ってもらってプリントを片付けた後、ふと思い出して久世に声をかけた。 「そうだ、久世先生。ちょっといいですか」 「……何ですか」  思いきり顔を顰められてしまった。余程俺に話しかけられるのが嫌らしい。申し訳ないと思いながらも、最近久世と話す機会がなかなかなかったので、今しかないと思い久世のシャツの袖を掴んで、軽く引っ張った。 「ちょっとだけ、お話があって。あの、今いいですか」 「……っ、だから、何ですか」 「いや、あの。ちょっとこっちに」  ますます嫌そうな顔をされてしまって、もう泣きそうだが、ともかく久世を連れて職員室を抜け出すことに成功した。そのまま職員用の男子更衣室へ向かう。久世は黙って俺の後ろをついてきた。 「……何なんですか、こんなところで」  更衣室は職員室から少し離れたところにあり、教員の荷物をしまっておくための、個人ロッカーが置かれている。とはいえ、普段の荷物は職員室に置きっぱなしにしている人が多く、着替えが必要な行事や出張のある時以外では、あまり利用されない場所である。  今日も更衣室はがらんとしていた。自分の名札がついたロッカーの前に行き、鍵を使ってロッカーを開ける。 「久世先生に、渡したいものがあって……えーっと……あった!」  あまり整理されていないロッカーの中をゴソゴソと探って、数日前から渡す機会を窺っていた紙袋を取り出す。 「先生、これ。この前のネクタイのお詫びです。返さなくていいって言ってましたけど、一応」  謝りながら、久世に紙袋を差し出す。久世は紙袋と俺を見比べて、珍しく困ったような顔つきになった。 「……別に、元々処分しようと思っていたものなので。お気遣いなく」 「そういう訳にはいかないですよ。受け取ってください。気に入ってもらえるか分からないんですけど……」  強引に押し付けるように、紙袋を久世に手渡す。久世は受け取った紙袋の中を覗き込んだ。中には、ラッピングされた細長い箱が入っている。 「……開けても?」 「あっ、ハイ!」  久世は中から取り出した箱の包装紙を、破らず丁寧に剥がしていった。剥がし終わった包装紙は、これまた丁寧に紙袋の中へ戻し、箱を開ける。 「ネクタイですか」 「はい。借りたやつほどいいやつじゃなくて、申し訳ないんですけど」  久世が貸してくれたネクタイは、深い藍色の無地ネクタイだった。クールな久世のイメージにぴったりのネクタイだったので、新しく購入したこのネクタイも、同じ色味で選んだ。  光の反射でストライプの織りが浮かぶ、藍色一色のシンプルなネクタイ。これなら、個人の趣味に左右されず、使いやすいと思ってのことだ。  しばらくじっとネクタイを見つめ、久世は黙り込んでしまった。 「……えっと、ごめんなさい。あんまり気に入りませんでした?」  心配になって尋ねると、久世は慌てたように顔を上げる。 「いえ、ありがとうございます。大切に使います」 「よかった。こちらこそ、ありがとうございました」  ホッと安堵してもう一度お礼を言うと、久世はまた顔を顰めた。その険しい表情にたじろぐ。今のどこに気に入らない要素があったのだろう。それとも、やはりネクタイが気に入らなかったのだろうか? 久世の怒りポイントは、よく分からない。 「では、失礼します」 「あっ、ハイ」  険しい顔のまま更衣室を出ていく久世を、緊張しながら見送った。  一週間が過ぎた。その間、自宅に貴弘の帰宅した形跡はなかった。  二、三日帰ってこないことは、既に日常茶飯事だが、さすがに一週間は最長記録かもしれない。今度はどんな言い訳をするつもりだろうかとぼんやり考えながら、春の雨が降る通学路を歩いて登校する。  職員用玄関で靴を履き替えて、職員室へ向かった。自分のデスクに荷物を置いて、周囲の席にいる教員それぞれに挨拶をする。 「おはようございまーす」 「……おはようございます」  久世も既に隣の席に座っていた。いつもより小さな声でもごもごと返ってきた挨拶を不思議に思い、久世の方を見る。 「あ! 久世先生、それ」  久世の胸元に結ばれたネクタイが目に入った。先週、俺が渡した藍色のネクタイだった。 「つけてくれたんですね。ありがとうございます。やっぱり、思った通り似合うなぁ」  紺藍といっていいくらいの、落ち着いたブルー系のネクタイは、やはりクールな久世によく似合っていた。角度によって浮かび上がる、ストライプの織り目も上品でお洒落だ。我ながらセンスがいいと、心の中で自画自賛する。  久世の返事がないので、気になって視線をネクタイから久世の顔に移動させた。 「! 先生……」  久世は褒められたことに照れているのか、その白い頬を僅かに紅潮させ、視線をこちらに向けられずうろうろと明後日の方向へ彷徨わせていた。すごい、こんな久世の表情は初めて見るかもしれない。褒められ慣れていないのだろうか。なんて言うか……。 「可愛い……」 「はぁ?」 「あっ、いや、何でもないです、何でも!」  思わず、口をついてそんな言葉が出ていた。いつもクールで、冷静であるか或いは険しい顔をしている印象の久世が、ネクタイを似合うと褒められて照れているだなんて、あまりの意外性につい、可愛いなんて言ってしまった。  久世はしばらく怪訝な顔をしていたが、やがてふいと俺から顔を背けて、デスクへ向かい自分の作業に戻った。  可愛い、か……自分が失ってしまったもの、もう手に入らないもの。その言葉が、自然と自分の口から出たことに、自分でも驚いた。  ましてや久世は、見た目だけなら可愛いとは程遠い人物である。背が高くて体が大きいし、目元なんかは特に鋭くて冷たいイメージだ。可愛いよりかっこいい、という言葉が似合う。  それなのに、何故俺は久世に対して、「可愛い」なんて言ってしまったのだろう。自分で口にしておきながら、その言葉に首を捻り、俺も仕事に戻った。  担当クラスで朝のショートホームルームを終え、教室を出ようとした時、ちょうどマナカとその友人たちのグループが集まっている横を通り過ぎた。 「あ、神部ちゃん」 「そういえば、この前ありがとね」  マナカとその友人に声をかけられ、足を止める。彼氏の浮気に心を痛め、涙を流していたマナカは、今日は元気そうに笑っている。上手く話ができたのだろうか。ホッと安堵して、俺もマナカに言葉を返す。 「その様子だと、彼氏に分かってもらえたんだ?」 「あー、なんか、神部ちゃんの言う通り正直に話したら、彼氏泣きながら、俺も別れたくない、許してくれてありがとうって言うからさ」 「うん」 「なんか萎えちゃって、結局別れた」 「うんうん……え⁉︎ 別れた⁉︎」  てっきり仲直りする流れかと思ったら、全く予想もしない結果になったため、俺はつい大きな声を出し驚いてしまった。 「だってさぁ、なくない? こっちはこんなつらい思いしてんのに、なんだよありがとうって。意味分かんない」 「それな」 「マナカ大正解だよ、そんな男別れて当然だから」  マナカは完全に冷め切った目をしているし、周りの女子生徒たちも満足そうにうんうんと頷いている。先週はどんなに周囲が別れろと言っても別れたくないと泣いていた彼女が、だ。  すごい、これが女子高生か。切り替えが早すぎる。先週だって自分の気持ちを正直に言葉にできる彼女を羨ましいと思ったものだが、今はより強く、羨ましいを通り越してマナカに尊敬の念すら抱いた。 「でも、ちゃんと話さなかったら、こんな風に別れる決心もつかなかったと思うから。ありがとね、神部ちゃん」  マナカはさっぱりした笑顔で笑って、俺に言う。眩しい笑顔だった。どこまでもまっすぐ、前を向く彼女を心から羨ましいと思った。  自分がもう長い間できないでいることを、たった一週間のうちにやってのける。なんてすごいことだろうか。 「うん……こちらこそ、ありがとう」 「? なんで神部ちゃんがお礼言うの?」  教師をしていると、こういうことはままある。自分が教えているようで、彼ら彼女らの若さが持つ眩しさに、こちらが教えてもらうようなことが。  歳を取ると、こんな単純なこともできなくなるのかと、自分を省みるような機会を、生徒たちはいつも俺に与えてくれる。  仕事を終え、帰宅する頃には、雨は上がっていた。夜道のところどころに罠のように仕掛けられた水たまりを避けて、家路を歩く。  時刻は二十二時を過ぎたところ。こんな時間から、一人分の夕食をわざわざ作る気には到底なれない。コンビニに寄っておにぎりと惣菜をいくつか買った。レジ袋を下げて歩きながら、ぼんやりと、幸せだった頃の貴弘を思い返す。  貴弘の仕事は基本的に、一週間に二回ほど夜勤があり、休みも平日のどこかという、不定休だった。積極的に土日祝日を休まなければ、学校勤めの俺とは休みも合わない。  付き合い初めの頃はデートをするにも一苦労で、それならいっそ、一緒に住もうと言い出したのは貴弘の方だったと思う。嬉しかった。お互いの勤務時間を逐一報告しあって、食事を共にできる時は、先に帰った方が相手の分まで用意する、というルールが自然とできた。  お互いに、さほど料理が得意なわけではないが、相手を思って料理する時間は嫌いではなかった。糖質を制限する貴弘のために、本まで買ってレシピを調べたりした。  だがこの十年の間に、どちらからともなくだんだんと、お互いの生活時間のズレを合わせるのが億劫に感じるようになってしまった。勤務時間を報告しあうのが手間になり、相手の勤務形態が分からないために、いつの間にか相手の食事を用意する習慣は廃れてしまった。  相手の時間に合わせて起きるだとか、お互いの休みを合わせるだとか。一緒にいる時間を大切にできた頃の思い出は、あまりにも遠い。こうして思い返すと、貴弘ばかりを責められないような気分になってくる。  どうせ今日もいないだろうと思って、マンションの鍵を開けた。だがドアを開けて中に入り、明かりがついた室内を見て、ギクリとする。  帰っているのか……一緒に暮らしているのだから、本来なら当たり前の同居人の帰宅に、心が少しざわめいた。 「お帰り」  廊下の奥のリビングから、貴弘が顔を出した。一週間ぶりに見る貴弘の顔に、一瞬、ホッとしてしまう自分がいた。  未だに貴弘の帰りを心待ちにしていた自分に気づき、自己嫌悪に陥る。一週間も連絡なく帰って来ないなんて、こんな扱いをされてもまだ、俺は貴弘から離れられないのか。 「……ただいま」 「随分遅かったな。最近忙しい?」 「定期考査前だから……」  話をしながら、貴弘の横をすり抜けて俺もリビングに入る。定期考査のテスト用紙作りで、今日は随分手こずった。  紙で作るだけならそうでもないのだが、色々と技術の進化がめざましい昨今、自動採点ソフトというものに正答や配点、観点登録をしなければならず、それがコンピュータの苦手な自分にはどうにも難しくて仕方ない。  結局、隣の席にいた久世が見かねて「貸してください」といつもの仏頂面で代わりにやってくれた。また何かお礼をしなければいけない。久世はいつも、態度は冷たいが、嫌いな俺のことまで何だかんだとフォローしてくれる、面倒見のいい人である。  コンビニで買ってきたものをダイニングテーブルに置き、久世に注意されてからなるべくつけるようになったネクタイを解いて、寝室のクローゼットへしまいにいく。ついでに手洗いうがいをして、リビングへ戻った。  貴弘はソファに座ってスマホを操作していた。浮気相手と連絡中かもしれない、なんて思ってズキリと胸が痛んだが、必死に気にしないようにして、自分の食事の準備をした。  何だか、ひどく疲れる。貴弘に帰ってきて欲しかったはずなのに、彼がいると、気が休まらない。  溜息をついて食事を始めた。おにぎりを齧って、惣菜の包装を開ける。ほうれん草の胡麻和えと、レンジで温めた鯖の塩焼きだ。  無心で食事をしていたら、いつの間にか隣の席に、貴弘が座っていた。こちらを見る貴弘は微笑んでいながらも、どこか絡みつくような粘度をその視線に乗せており、ゾクリと肌が粟立つ。  一週間も顔を合わせていなかったせいだろうか。どんな風に接すればいいのか、分からない。 「タケル」  名前を呼ばれ、思わず顔を背ける。 「怒ってる? ごめんって、なかなか帰って来れなくて」  甘えるような声に、ゾッと背筋が粟立った。またいつものように、このまま有耶無耶にする気だと思ったからだ。  肩に触れられた手を、思わず強く叩き落とす。 「………!」  驚く貴弘の顔を見ながら、俺も自分で自分の行動に驚いていた。今は貴弘に触れられたくなかった。このまま流されて終わりにはしたくないと、そう思ってしまったのだ。  だが貴弘は俺の行動をどう受け取ったのか、すぐに仕方ないなとでも言いたげな、子どもをあやすような表情になって、強引に俺の体を抱き締めた。 「怒らないでよ。寂しい思いさせてごめん、言い訳させて」 「っ」  耳元に注ぎ込まれる声や、密着した肌から伝わる体温に、流されそうになってしまう自分に嫌気がさす。この一週間、どこで何をしていたかも分からないというのに、こんなことで流されてたまるかと、必死にもがいて抜け出そうとする。  でも俺の力では貴弘の腕はピクリとも動かない。こんな必死の抵抗すらも、貴弘は余裕の表情で見ているだけだ。 「タケル」 「んっ」  とうとう、無理矢理顎を掴まれ、キスをされてしまった。俺の拒絶を全て飲み込もうとするような、強引なキスだった。もがき、貴弘の体を押し返していた手が震えてしまう。  口の中に侵入してきた貴弘の舌が蠢いて、快感を呼び覚まそうとする度に、まだ漠然としていた拒否感がはっきりとした輪郭を持っていく。嫌だ……嫌だ、触るな! 「やめろ!」  このままいつも通り、なし崩しに行為に及べると思っていたのだろう。おそらく気を抜いていたはずの貴弘の体は、俺が強く突き飛ばしてやっと離れた。  その隙に立ち上がって、貴弘から物理的な距離を取る。唇に残った唾液の跡が忌々しくて、手で拭った。その手がまだ震えているのが分かった。必死に抵抗したせいか、息が上がり、肩が上下してしまう。 「……タケル?」  やっと俺がいつも通りではないと気づいたらしい貴弘が、少しだけ狼狽を露わにした。突き飛ばされた格好のまま、呆然としている。  彼氏の浮気に悩む生徒に対して、偉そうにアドバイスをしたことを思い出した。自分ではできないくせに、ちゃんと話をした方がいいなんて言った、あの言葉を。  彼氏と話をした彼女が、さっぱりした笑顔で「別れた」と言っていたことを、羨ましいと思った。目を逸らすのではなく、流されるのでもなく。ぶつかって、結果を出した彼女を、心底羨ましいと思ったのだ。 「……この一週間、どこにいたんだよ」 「え?」  彼女の勇気に押されて、俺はやっと、貴弘に自分の言葉をぶつけることができた。声が震えているのは、恐怖ではない。自分の気持ちを口に出すことができた、興奮からだ。 「ただの仕事で、こんなに帰って来れないわけない。どこにいたんだ」  しばらく呆気に取られていた貴弘だったが、すぐにへらりと、軽薄そうな笑顔になった。 「仕事だよ。そんなに寂しかった? ごめん、仲直りしよ。こっちおいで」 「行かない。貴弘が本当のことを言わないなら、俺が言う」 「俺が言うって……何を」 「他の男のところだろ」  震えながら発した俺の言葉に、貴弘から笑顔が消える。  言った。言ってしまった。ずっと、ずっと我慢をしていた。声に出したら、この関係が終わってしまうと思ったから。どうせいつか終わるのなら、それまで黙って待っていようと、傷ついた自分から目を逸らして、真実と向き合うことから逃げていた。  しばらくして、貴弘は再び自分の顔に貼り付けたような笑顔を浮かべた。 「他の男って……なに、もしかして俺、浮気でも疑われてる?」 「………」 「してないよ、タケルがいるのに、するわけないだろ。なあ、帰って来れなかったことは謝るから、機嫌直して」  立ち上がり、近づいてきた貴弘から逃げるように、距離を取った。それまで殊勝な顔をしていた貴弘の表情が強張る。 「いい加減にしろよ、タケル。何の証拠があって、そんな……」 「見たんだよ」 「は?」 「証拠も何も、ずっと知ってる。半年くらい前、貴弘の後をつけて、別の男の家に行くところまで、全部見た」  さすがにそこまで言われると思っていなかったのか、貴弘が言葉を失うのが分かった。  貴弘との間に、十分な距離を取ったまま、重苦しい沈黙が流れた。そのうちに、ダイニングテーブルに置かれていた貴弘のスマホが振動して、誰かからの着信を知らせた。  振動はなかなか鳴り止まなかった。一度切れたと思ったら、また続け様に鳴り始めて、明らかに異様な長さで鳴り続けた。 「……出たら。そいつだろ、貴弘がずっと一緒にいた相手って」  自分でも驚くほどに、冷たい声が出た。こちらを見ていた貴弘の顔がくしゃりと歪み、次に鳴り続けるスマホをじろりと睨んで、舌打ちを漏らした。 「今はこっちのほうが大事だろ」  貴弘の言葉に、ハッと嘲笑が漏れる。 「確かに。こっちの別れ話はさっさと済ませて、また会いに行けばいいもんな」 「っ、別れねぇよ!」  思いの外、強く言い返してきた貴弘に、ビクリとする。俺が身を竦めたのを見て、貴弘はしまったという表情で自分を落ち着けるように長い溜息を吐いた。短く切り揃えた髪をがしがしと手で掻き回す。 「勝手に話を進めるなよ……別れるわけないだろ」 「………」 「遊びだよ、こんなの。……タケルと別れるなんて、考えたこともない」  貴弘の言葉に、心を掻き乱される。遊びだって? そんな簡単な気持ちで、こんなに長い間俺をぞんざいに扱ったのか。別れる気もないくせに、ここまで俺を傷つけたのか。沸々と湧き上がる怒りの中に、それでも別れないと言う貴弘の意思に歓喜する自分もいて、ぐちゃぐちゃの思いだ。  やがてスマホは鳴り止み、再び重苦しい沈黙がこの場を支配した。 「……タケル」  本当に久しぶりに聞く、貴弘の思いがこもった優しい声だと思った。その声に誘われて、つい、俯いていた顔を上げてしまう。 「……っ」  貴弘は泣きそうな顔をしていた。少なくとも、俺には貴弘がその場しのぎに浮かべている表情には見えなかった。 「ごめん、本当に。……最初は、好奇心とか、出来心だったんだ。でもタケルが何も言わないから、だんだん自分でも、どこまで許されるのか分からなくなって」  貴弘の言葉を聞いているうちに、俺の目にも、涙が滲んだ。  この関係は終わるものだと思っていた。いつか貴弘は、この家に帰って来なくなるのだろうと。口に出せば、そのいつかが早まるだけだと思っていたのだ。  だから、こんな展開は予想もしていなかった。どんな反応をすればいいのか、自分でも自分の気持ちが分からない。  混乱のあまり、とうとう流れ落ちた涙を隠すように俯く。貴弘がそっと俺に腕を伸ばし、壊れ物を扱うように優しく抱き締めてくれた。 「全部やめるよ。俺、タケルがいないと駄目なんだ。だから、別れるなんて言うなよ」  濡れた頬に触れる貴弘の指は優しかった。  ……本当だろうか。本当に、信じていいのだろうか。  生徒たちが口々に言っていた、一回浮気した男なんて、絶対また浮気する、だとか、そんな男別れて当然、だとか、色んな言葉が頭に浮かぶ。別れたくないと泣きながら、結局別れてさっぱりしていたマナカの姿も思い浮かんだ。  頭では分かっている。こんな言葉に騙されちゃ駄目だ。それなのに、さっきよりずっと抜け出しやすそうな、優しい貴弘の抱擁を、俺はもう拒絶できない。 「……でも、言わなくなった」 「え?」 「貴弘、俺を可愛いって、言わなくなった」  せめて心に残った最後の不安を、貴弘に打ち明ける。貴弘の後をつけて目の当たりにした、若かった頃の自分そっくりの、あの可愛い浮気相手を思い出して、じくじくと胸を痛めながら、涙まじりに口を開く。 「こんなおじさんになっちゃった俺より、あの可愛い子の方が、好きなんじゃないの」  確かめるのが恐ろしかった、俺の、一番大事な本心。  輝きを失った肌。目尻の深い皺。滲み出る、誤魔化せない加齢の影。愛されるための自分の武器が、日毎失われていく恐怖と、それを全て持つ、敵わない相手への嫉妬。  改めて向き合うだけでも、そんなことに固執する自分の愚かさや醜さに嫌気がさす。プライドに囚われ、自身を追い詰めた末に、猛獣へ姿を変える、あの古い小説の主人公の気持ちがよく分かった。  胸の内で暴れ回るこの醜悪な感情は、確かに、人を化け物に変えるだろう。こんなにも面倒臭いことを言ってしまう、自分が愛されないのは、当然かもしれない。ますます涙が溢れてしまう。 「……そんなことで悩んでたの」  貴弘の呆れたような言葉に、カッと顔が熱くなった。もし心がガラスでできていたなら、今の一言でバリバリに割れて崩れていただろう。  こちらが必死の思いで口にした本音を、そんなことで片付けられてしまったのがショックだった。だが貴弘の感想もよく分かった。いい歳した大人が、「可愛いって言われない」と拗ねているなんて、痛々しいにも程がある。  分かっている、それでも、受け止めて欲しかった。そんなことに、俺がどれだけ思い悩んで、傷ついたのかを。 「……もういい」  羞恥心と自己嫌悪でぐちゃぐちゃになりながら、やっと貴弘の腕から抜け出す決心を固める。しかし貴弘の腕は一度はあっさり解けたものの、次の瞬間また俺の腰に回って、ぐっと力を込めて俺を抱き締め直した。 「っ、放せよ!」 「だめ。放さない」 「な……っ」  俺を引き留めた貴弘の、思いの外甘い声音にドキリとして、俺はまた動けなくなってしまう。 「可愛いよ。……タケル、可愛い」 「!」  耳元で囁かれる、ずっと求めていたその言葉に、ゾクゾクと甘い痺れが込み上げる。  俺を宥めるためのお為ごかしに決まっている。そう思うのに、長年の渇望がその言葉に反応してしまう。 「やめろ……そんな、無理矢理言ってほしいわけじゃない」  せめてもの強がりに、そう口にする。貴弘が耳元でクスリと笑う気配がした。 「無理矢理じゃない。本心だよ。タケルは可愛いよ」 「やめろって……! そんな風に言われても、嬉しくない」 「可愛い、本当に可愛い。確かに、当たり前すぎて言ってなかったな。ごめん、これからはたくさん言うから」 「だから! そんなの……んっ」  抗議するために顔を上げたら、間髪入れずに唇を塞がれた。 「ん……! んっ、ぅ……」  ねっとりと舌を絡められて、徐々に抵抗する力を失っていく。 「んぅ……っ、ん、はぁ……」  唇が離れ、熱のこもった吐息が漏れた。貴弘は俺を見て、笑っている。 「可愛いな、ホントに……タケル、可愛い」 「っ」  分からない。貴弘が本心からそう言っているのか、それとも俺を揶揄っているのか。  分からないのに、縋りたくなる。自分が完全に失ったと思ったそれが、まだ貴弘を繋ぎ止めるだけの何かが残っていたという可能性に。  学生に見間違われるほどの若さもない。顔だってすっかり老いてしまった。それでもなお、まだ可愛いと思ってもらいたい。自分の好きな人に、貴弘にだけは。どうしても。 「……っ、ぁ」  首筋に貴弘の口づけが落とされる。大きく無骨な両手が俺の腰のラインをなぞるように撫でた。 「可愛いよ。可愛い。タケル、愛してるよ」 「ん……っ、ん、ぁ」  これまでの埋め合わせのように、何度も繰り返し囁きながら貴弘は俺に触れた。貴弘の手がシャツを捲って、俺の素肌をまさぐる。  このまま流されて行き着く先にあるのが、幸せなことばかりだったかつての日常なのか、それとも今より深い泥沼なのか、俺にはもう分からなかった。

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