49 / 49
第49話 腹ごしらえ
微睡みの中、最初に感じたのは鼻を擽る草の匂いだった。穏やかな風が窓から吹き込み、本のページがめくられる音がする。誰かが鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜ、漂ってきた空腹を誘う香りが、深く沈んでいた意識を浮上させる。
「ん、んん……」
小さくうめき声を上げて僕が寝返りを打つと、少し離れた場所にいた誰かが近付いてくる気配がした。
「おっ! 起きた? アタシとしてはそろそろ起きてほしいんだけど」
「ん……は、い……起き、ます……」
手放しがたい心地よい眠りから遠ざかり、僕は促されるままに目を開ける。そこにいたのは――ちょうどヒトと同じぐらいのサイズのアラクネの女性だった。
「おはよう、可愛い夜魔さん。気分はどう? ……って、夜魔は朝が苦手なんだっけ」
「いえ……僕は、ヒトと同じように、生きてきた、ので……」
やけに親しげに接してくる魔族に戸惑いながら、昨夜の記憶を思い返す。
獣の群れの襲撃。本能の暴走。僕のせいで深手を負ったアレク。助けを求めた相手による陵辱。そして――アラクネの女王と交わした約束。
「そっか、僕これから、苗床に……」
顔が青ざめ、声が震える。目の前のアラクネの女性はそんな僕の様子をじっと見た後、軽々と僕の体を抱え上げた。
「まあまあ! とりあえずは腹ごしらえしましょ! アタシ、エミリィ! アンタの名前は?」
「名前……、ごめんな、さい。僕、名前が、なくて……」
エミリィと名乗った彼女はぴたりと足を止めると、僕を机の前に下ろして、慌ててまくしたててきた。
「名前がない!? そんなことありえるの!? 名前はアタシたち魔族にとって、最も大切なまじないの一つだよ!? アンタの親はそれすら与えてくれなかったの!?」
「ご、ごめんなさいっ……僕、親の顔を、知らなくて……ずっと奴隷として、生きてきた、ので……」
大声を出されたことに怯えてしまいながら、僕は何とか身の上を説明する。するとエミリィは何だか怖い顔になって、僕の隣に座ってきた。
「何だか色々事情がありそうね。嫌な感じの首輪をつけてるとは思ったけど……。はい、とりあえずこれでも飲みながら、お姉さんに全部話してみせなさい。事情によっては力になってあげるから」
「う……えっと、えっと……」
言葉に詰まる僕に、エミリィは木で作られた器を手渡してきた。その中身はどろりとした液体で、昨日アレクが作ってくれたものと同じだと理解する。
素直に液体を少しずつ飲みながら、改めて自分がどこにいるのかを確認する。
木と葉で出来た壁に囲われた部屋。室内にはささやかながらも家具があり、足元には枝が丁寧に敷き詰められた上に敷物が敷いてある。おおよそアラクネという恐ろしい見た目の種族にはそぐわないほど、文明的な場所だ。
「ここはアタシたちの巣だよ。アンタは女王に見初められて、番の人間と一緒にここに運び込まれたのさ」
困惑している僕に、そわそわしながらエミリィは説明する。どうやら僕の話を聞きたくて仕方がないようだが、僕にはそれよりも先に確認すべきことがあった。
「あの! アレクさま……僕と一緒に、いた人間は……無事、ですか?」
「ああ、無事だよ。念のため薬師のところで預かってもらってる。傷は見た目より深かったが、数日もすれば目を覚ますだろうさ」
「そう、ですか……よかった……」
安堵で脱力する僕に、エミリィは忙しなく目を泳がせると、我慢が出来なくなったという様子で僕の肩を掴んだ。
「それで? アンタの詳しい身の上と、あの番とのなれそめを聞かせてくれるんだよな? アラクネはそういう話を聞くのが大好きなんだよ。頼むから早く聞かせておくれよぉ」
情けない顔で懇願するエミリィに、僕は思わず小さく笑ってしまった。
「ふふっ……分かり、ました。ゆっくりでも、よければ、お話しします」
「ああ! ゆっくり、早く頼むよ!」
滅茶苦茶なことを言う彼女にまた笑ってしまいながら、僕は穏やかな気分で口を開いた。
ともだちにシェアしよう!

