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第1話

 ――Que ton âme repose en paix(君が安らかに眠れますように).  頬を撫でるやわらかな余韻と風の冷たさで、瑠(る)唯(い)は目を開けた。  桃郷(トウキョウ)は浅草。三歳から住む古長屋の、せんべい布団に横たわっている。冬なのに寝間着の浴衣は汗でぐっしょり湿っていた。 (母さんと一緒のとこへ、行けなかった……)  染みだらけの天井を見上げ、がっかりする。  唯一の肉親である母は、イスパニア風邪(インフルエンザ)に冒され、数日前に呆気なく逝ってしまった。  瑠唯も関節の痛みと咳がひどいが、臥せるしかない。イスパニア風邪は新しい流行病で、医者にかかっても薬がないのだという。  昨日は咳に血が混ざった。九歳にして独りぼっちよりはこのまま……と、高熱の中、昏く願ったのだが。 (どうして、連れていってくれないの)  まだ頭がぼうっとするものの、昨夜ほどの怠さはない。  再び寒風が吹きつけた。この長屋の木戸は開け閉めにコツがいり、慣れないと隙間ができる。  レビュウ(演芸)小屋で歌い踊って日銭を稼いでいた母の同僚の楽団員が、遺された瑠唯の様子でも見にきたか。かと言って頼りも甘えもできないが。しょせんは他人だ。 (せめて歌を……聴きたい)  緩慢に寝返りを打ち、枕元に置いた母の写真と父の舶来レコオドを見やる。  母はもとは裕福な商家の娘で、婚約者がいた。それでもナポレオオニュ公使館職員だった父と恋に落ち、結ばれた。しかし父は六年前の世界大戦を機に自分の国へ戻り、それきりだ。  祖父母に勘当されてつましい生活でも、母は父のレコオドを手放さなかった。親子三人でベル・エポック(輝きのパリ)の歌を聴いた日々を、離れても消えない愛を、信じていたのだと思う。 (母さん……)  形見を引き寄せ、薄い胸に抱き締める。僕も愛している、と伝えるみたいに。 (歌えば、届くかな。遠くにいる母さんにも、父さんにも)  歌はいつもそばにあった。ほぼ毎日、レビュウ小屋の袖から母の歌を聴かせてもらった。瑠唯にとってはスタアも同然で、うっとりした。  レビュウ――西洋のナポレオオニュで生まれた、歌あり踊りあり芝居ありの出し物。明るくきらびやかで、日々の嫌なことを忘れられる。 「らら、ら」  瑠唯は掠れ声で歌った。会いたいと駄々をこねる代わりに。ひとときでも辛い現実を忘れるために。母に、まだ見ぬ誰かに、愛が響くように。 1  レビュウの一幕が終わり、瑠唯は踊り子たちと入れ替わりにステエジへ歩み出た。  桃郷一の歓楽街・浅草劇場通りに構えたレビュウ小屋「エトワアル座」は、今宵も満員だ。昂揚で頬が上気する。 (歌おう)  イスパニア風邪で死にかけてから十一年――一九三一年。せっかく生き延びたならと、歌手を目指している。  ただ母と違って、踊りや芝居は得意ではない。レビュウの幕間は貴重な出番だ。  ピットでアコオディオンを抱える、楽団員の吉村(よしむら)に視線を送った。親戚でもないのに瑠唯を引き取り育ててくれた彼には、それだけで通じる。  吉村の節ばった指が、哀愁滲む旋律を奏で出す。  長い睫毛を伏せて息を吸った。 「Rives de la Seine(セエヌ川の畔)――」  客が雑談を中断し、瑠唯を二度見する。  瑠唯の歌声は低く掠れ、容姿と結びつきがたいらしい。イスパニア風邪で気管支炎を併発したせいというか、おかげというか。  一方見た目は、満二十歳を迎えたが未だ少年、いや少女然としている。身長は平均に満たず、ちっとも肉がつかない。吉村の昼の仕事(テキ屋)を手伝っても肌は白いまま。細く茶色い髪はすぐ伸びて顎先でなびく。金星色の瞳は無駄に大きい。 『あんたって、「明星」に載ってるミュシャの模写絵から抜け出してきたみたい』  同僚の踊り子に、よく雑誌の頁と見比べられた。彼女たちは純粋に可愛がってくれる。  しかし、自分ではあまり気に入っていない。  男には遊女を見るような目で見られたり、暗がりに連れ込まれかけたりするのだ。警戒していても、知り合いでさえ、急に人が変わったみたいに卑しい目をする。 『おまえが誘ったんだろォ?』  それも毎月の体調不良のときばかり。  イスパニア風邪の後遺症なのか、月に何日か熱っぽくなる。 「Loin de celle que j'aime(愛する人は遠く)」  ままならない中でも、歌は続けた。尋常小学校卒業後、母が世話になっていた小屋の雑用仕事をこなしながら、父のレコオドで独学した。  昨年からエトワアル座の幕間歌手としてステエジに立たせてもらえるようになり、一歩踏み出せた。  音楽学校で学んだ本格派歌手や、レコオド会社所属歌手には、今は及ばずとも。 (いつか、浅草松竹座で歌いたい)  皇国劇場のほうが規模も格調も上だとしても、瑠唯にとっては「レビュウの聖地」である浅草が最高の場所だ。  それに、同じ劇場通りに鎮座する松竹座では、人気の少女歌劇団や流行歌手が歌声を響かせ、遠方からの客も多い。  きっと母も天国から通ってきているに違いない。 「Cela me remplit de tristesse(哀しみに浸される、), mais(でも)」  楽団員のおさがりのぶかぶかシャツを纏った腕を、前へと伸ばした。  こんな身体でもめげずに、夢を掴むために。  母に限らず、事変景気でめかし込んだサラリイマンも、汗と油の臭いのする職工も、詰襟の学生も、まとめて愛してやるために。 「Une pluie(優しい) douce(雨が) tombe(降る)」  瑠唯の持ち歌は、ナポレオオニュで歌われるシャンソンだ。家にあるレコオドがそればかりだったし、この声にも合っている。  中でも、国問わず誰もが抱える寂しさや愛を描いた曲が十八番である。  川の畔に佇む女。待てども愛する男は来ない。裏切りを知る前に、身を投げてしまおうか。思い詰めたそのとき、代わりに泣いてくれるかのような雨粒が落ちてきて――。 「おう、湿っぽい歌ァ要らん! 早くねえちゃん出せ!」  山場で、無粋な野次をぶつけられた。たちまち嗤い声が便乗する。 「……っ」  喉が詰まり、歌えなくなってしまった。 (悔しいけど)  吉村にまた目で合図を送る。吉村は「あんなん放っとけ」と言いたげだが、歌詞のごとく佇む瑠唯が不憫に見えたか、演奏を短く切り上げてくれた。 (……いつものことだ。僕の実力が足りない)  跳ね上げ式の座席に居並ぶ二百人の客は、ほぼ踊り子目当てである。彼らに瑠唯の歌は響かなかった。 (目標の松竹座には、ほど遠いや)  溜め息とともにステエジを降り、照明や小道具の調整に回る。出番以外は雑用仕事を行う契約だ。  ひととおり済ませ、そろそろ二幕が開くから裏へ引っ込もうと、客席に背を向けた瞬間。 「っ?」  首筋に冷たい感触がした。  ぽたり、と髪から水滴が落ちる。安っぽいアルコオル臭。飲みさしを引っかけられたらしい。  犯人は無言だ。瑠唯の歌が気に入らなかった? それとも、父の面影ある容姿のせいか。西洋文化が身近な世になっても、異人というだけで嫌悪する者はいる。 (この見目を異様に好いたかと思えば嫌ったり、何なんだよ……)  理不尽さに怒りも湧くが、客に文句は言えない。俯いて唇を噛む。他の客は気づいていないか知らんぷりだ。 「使いなさい」  と思いきや、壁際列の一人に、何やら差し出された。  正方形に畳まれた白い布。手拭いではなく、ハンケチイフだ。  顔を上げれば、いかにもモダンボオイといった洋装の男が、労しげに微笑んでいる。 (どっかの座付き役者?)  見知らぬ男性に警戒心を抱く瑠唯でさえ、目が吸い寄せられた。  歳は五、六つ上か。分け目を端に取って撫でつけた髪型ながら堅苦しくなく、むしろ華やかだ。ロイド眼鏡越しでも鼻筋が通っているとわかる。組んだ脚はすらりと長い。 「けしからんなあ。君の歌、とてもよかったのに」  男の上品な口が、瑠唯への褒め言葉を紡いだ? にわかに信じられず、固まってしまう。  男は「ん?」という表情になった。瑠唯の反応を遠慮と解釈したらしく、「これ君にやるよ」とハンケチを握らせてくる。  二枚目な上に、親切ときた。それこそ絵に描いたように完璧な男だ。 「ありがとう、ございます」  場内が暗転した。彼に見惚れてはいられない。小走りで暗幕をくぐる。  同時に、衣装替えと化粧直しを終えた踊り子たちが、ステエジへ出ていく。  壁際に避け、流星群みたいな隊列を見送った。 (……はじめて、歌を、褒められた)  思い出したように、ハンケチを項に押し当てる。手拭いよりつるりとしていて、あまり水分を吸いそうになかったものの、歌に酒で返されたやるせなさはきれいに消え去っていた。  帰り支度する踊り子の間を縫い、屑箱を楽屋口へ運ぶ。片付けも仕事のひとつだ。 (結構冷えるな。……ん?)  小屋内の熱気と霜月の夜気は、落差が大きい。手を擦り合わせたとき、さっきのハンケチの男が、隣の映画館の外壁に寄り掛かっているのに気づいた。  背が高い。中折れ帽のぶんを差し引いても、異人並みとみた。ツイイド地の三つ揃えにも負けていない。夜空の光を一身に集めたような佇まい。エトワアル座の客層では少々浮く上等ぶりだ。 (っと)  つい観察していたら、男の切れ長な目に逆に捉えられた。身を隠す間もなく、男がまっすぐ歩み寄ってきて、長身を屈める。 「君を待ってた」 「僕、を?」  踊り子でなく?  正直、困惑した。他の男たちと違い、彼の視線は柔和だが……。  そのうちに、男が畳み掛けてくる。 「君の歌、涙が出たよ。ちゃんと聴いているのはおれ一人だったが。でも、百人を笑わせるよりずっと難しいと思う。スタアにだってできることじゃない」  大真面目な表情。改めて瑠唯の歌を褒めるために、わざわざ待っていてくれたらしい。 「……大げさですよ」  瑠唯はサスペンダアを意味もなく引っ張った。男性に対する警戒心を、嬉しさが上回る。 「ナポレオオニュ語の発音もきれいだ。君の香水も、ナポレオオニュのものかな」 「香水? つけてませんけど」  だが、続く言葉には首を傾げた。踊り子の化粧品の移り香かと、自分で腕をくんくん嗅いでみるも、これといった香りはしない。 「つけてないんだね」  瑠唯の仕草に、男が相好を崩す。 「君。名前を教えてほしい」  丁寧に名を訊かれるのもはじめてだ。おずおず答える。 「吉村瑠唯、です」 「へえ、ナポレオオニュの『百歳皇帝(ナポレオン)』の子孫と同じ、ルイか。洒落てるね」  異人じみた名前まで褒められた。無意識の卑屈を見抜かれ溶かされたみたいで、面映ゆい。 「おれは朝日秀一郎(あさひしゅういちろう)という。瑠唯。おれと、結婚しないか」 「けっ!?」  かと思うと、予想だにしない一言が飛び出してきて、声が裏返った。 (求婚、された――?)  さっきの今で? どこをそんなに気に入った? まさか、歌がよかったというだけでか?  背後から「まあ」「あらあら」と可憐な声が上がる。いつの間にか楽屋口に鈴なりになっている踊り子たちだ。瑠唯が男に絡まれていないか心配してくれたのだろうが、すっかり面白がっている。 (助けてってば。ああもう)  返答に困るあまり、前髪を掻き上げ、顔で唯一男らしい部位であるくっきり眉を出してみせた。  秀一郎がきょとんと瞬きする。 「それはウィかノンか、どっちかな?」 「オム(男)です」  そもそも女と間違えていないかと告げれば、一転、「ふっはは」と声を出して笑う。 「承知しているとも」  では、妾が欲しいというわけか。  本妻でない妾としてなら、男でも籍を入れることができる。ただし今の時代、妾を持つのは華族か政商ぐらいだ。妾を本妻同等に養うには甲斐性が要る。 「おれはこう見えて、侯爵家の長男だよ。メドモアゼル(お嬢さん方)もご安心を」  まじまじ探っていたら、秀一郎が先回りして胸を反らした。ちゃっかり踊り子たちを味方につけようとしないでほしい。  さておき、まさに華族ときたか。求婚は冗談ではないらしい。 (朝日家と聞いてもぴんとこないけど、上等な雰囲気の理由がわかった)  彼は身元がはっきりしている。歌を褒めてくれた。でも、他の男のように態度が豹変しないとは限らない。何より。 「順番が逆じゃないですか……?」 「順番?」 「結婚の前に、恋愛かと」  瑠唯は歌を磨くのと食べるための仕事、そして男たちの卑しい手を振り払うのに手一杯で、恋の経験がない。そのぶん、シャンソンみたいな恋に憧れがあった。  よくあるお見合いではなく、運命的な恋愛を経て、一生を添い遂げたい。 (どうしたらそんな恋ができるのか、わからなかったけど)  いや、相手が男のつもりはなく、結婚もまだ考えていなかったけれど!  突然の求婚に混乱しきりな瑠唯と対照的に、秀一郎は大きく頷いた。 「もっともだ。じゃあ次の日曜、『美海(シャンハイ)亭』で真丹(チーナ)料理を食べよう。ご馳走するよ」  巧みに食事の約束を取りつけようとしてくる。  恋愛の第一段階である、デエトの約束を。 (いつもだったら、知らない男の誘いには乗らない。けど……)  ちらりと秀一郎を見上げる。微笑みを湛えて、瑠唯の答えを待っている。  シャンソンがつなげてくれた縁を切ってしまうのは、もったいない気もした。 (マチネ(昼公演)なら、雑用が一人いなくても回るよな)  一度デエトしてみる方向に考えが傾く。  そうなると今度は、毎月数日ある体調不良と重ならないか気にかかる。急に熱っぽくなるのだ。うがい手洗いの回数を増やして備えればいいか。  これ以上待たせられない。腹を決める。 「……ウィ」  気恥ずかしくてそっぽを向いての返事も、秀一郎は聞き逃さない。 「そうこなくちゃ。じゃあ十二時に浅草寺の雷門で待ち合わせて、市電で行こう」  慣れた様子で指定し、片目を瞑ってみせた。小さな星が飛んできたかと錯覚する。 「約束。楽しみだね」  踊り子の出待ちのようにだらだら会話を引き延ばそうとはせず、軽やかな足取りで帰っていく。あっと言う間に劇場通りの人込みに紛れた。 「……気障な人」  その方向に目を向けたまま、笑みまじりの息を吐く。  メルトンズボンのポケットに仕舞った、ハンケチを取り出してみる。ポマアド(整髪剤)とピイス(煙草)の煙の入り混じった、甘い匂いがした。  日曜の浅草寺は、人がごった返している。数年前の大震災の爪痕は、もうほとんどない。  仲見世の入口、雷門の端に立つ瑠唯は、そわそわと落ち着かない。日が経つにつれ、唐突な求婚に対する懐疑がふくらんだのだ。 (あの人も、「気の迷いだった」って思ってるんじゃないか?)  華族の御曹司。二枚目で親切。しかも噂好きの踊り子たちによれば、 『洋行(りゅうがく)帰りで、三木(みき)商会って財閥系の商社にお勤めなんだって』  結婚相手どころかデエト相手だって選り取り見取りだろう。偶然歌を聴いただけの無名歌手に執心する必要はない。 『可愛い男の子を囲っては、いつの間にか別れているとか』 『二十七歳だし、侯爵閣下は家督を譲ってしまいたいのに、本妻を持たないんだそう』 『身を固める気のない放蕩息子なのよ』  他にもあれこれ吹き込まれ、夢を見ているような気持ちは霧散した。むしろ警戒が増した。 『瑠唯ちゃん、こっちが嵌まるんじゃなく、向こうに嵌まらせて愉しみなさいな』 『あら、瑠唯ちゃんが最初で最後の、本気の恋の相手になるかもしれないじゃない?』  などと、恋愛指南もされたけれど。  シャンソンみたいな恋は、してみたくともなかなかできまい。 (弄ぶような素振りされたら、すぐ帰ろう)  期待せず、黒いハンチング帽を被り直すと、陽射しが翳った。 「待たせたかな?」  粋な縦縞の三つ揃えに中折れ帽姿の秀一郎が、目の前にいた。今日もこれでもかと二枚目だ。  デエトだから? ――いや、期待はしない。 「ノン、今来ました」  しれっと首を振る。本当は三十分も前に着いていたのは内緒にしておこう。  秀一郎は含んだように笑い、「さ、行こう」と歩き出した。手には紙の包みを持っている。待ち合わせ前に、優雅に買い物していたらしい。おそらく御曹司の日常だろう。 (僕も普段どおりにしよう)  デエトだからといって緊張することも浅草っ子気質を隠すこともないと、桃郷市電に乗り込む。並んで吊革に掴まった。 「あの……、あの。手が」  しかし早くも冷や汗を掻かざるを得ない。  路面を走る車両が蛇行する度、秀一郎がさりげなく瑠唯の腰を支える。他の乗客に押されないよう位置取ってくれもした。条件反射の嫌悪というより、親切過ぎてこそばゆい。 「手が?」  秀一郎は軽く訊き返してきた。恋人、未満でもデエトする関係なら当然の振る舞いで、瑠唯の受け取り方が大げさなのか。  はっきり言えないが引っ込みもつかず、吊革の上に貼られたポスタアを指差す。 「て……え、映画! 織田信長を主人公にした大作が封切りだって。本能寺の乱の謎、どう描かれてるんでしょうね」  うまく話題を変えた。  安土時代に舶来文化を広めた革新的な武将・織田信長は、現代の皇国民にも人気がある。  ただ、彼の九十年に及ぶ生涯最大の危機――本能寺にて寝込みを襲われたときどう切り抜けたのかは、数いる歴史学者も突き止められていない。 「朝日さんは何説派ですか。秘密の地下道説? 影武者説?」 「……。蘇れたんじゃないかな」  市電のブレエキ音に紛れ、秀一郎がぼそりと言う。 (蘇れた?)  世間で取り沙汰されていない独自説だ。  そう言えば、ナポレオオニュを西洋一の国へと導いた百歳皇帝・ナポレオン一世も、流刑の憂き目を乗り越えた上に長命だったが、国の未来のために神様が蘇りの能力を与えたのかもしれない。面白い。 「時代を変えた信長公なら、あり得ますね」  瑠唯がふむふむと頷けば、秀一郎は先ほどとは少し違う、悲壮さもこもった含み笑いをした。 (なんでそんな寂しい目を……?)  確かめる間もなく、降車地だ。 「さ、こっちだ」  飲食店街にある「美海亭」までの十数メエトル、秀一郎は当たり前に車道側を歩く。  洋装の男たちの中でも、長身で上品な秀一郎は目立った。すれ違うモダンガアルが全員振り返る勢いだ。当の秀一郎は見られ慣れているのか、ゆったり微笑みを浮かべている。 (誰彼構わず愛想振りまくみたいな)  ちょっと気に食わない。  顎を逸らして前に向き直ると、行列が目に飛び込んできた。 「うわ、繁盛してる」  到着した美海亭は、瀟洒な玻璃風建築(アール・デコ)だ。その店頭には席待ちの列が伸びている。よほど評判らしい。非番の軍人連れまで並んでおり、「満洲(マンジュ)の兄様は健在かい」などとしゃべっている。 (!)  その制服軍人のひとりに、ぎょろりとした目を向けられた。  明るい髪色と瞳の色を見咎められているように感じ、ハンチング帽のつばを下げる。 「……きていたか」  軍人が何かつぶやくと同時に、秀一郎が再び瑠唯の腰を引き寄せた。視線が遮られる形になり、ほっとする。 (朝日さんも気づいたのかな)  秀一郎は立ち止まらず進む。列の最後尾にはつかず、真丹服(チーナドレス)の女性店員に声を掛ける。 「美女(店員さん)、いつもの席いいかな?」 「あら~。お兄さんなら、いつでもどうぞ!」  なんと、特別待遇で入店した。  しかも「いつもの席」は個室ときた。五人は座れそうな円卓だし、内装は今日もおさがり上下の瑠唯の恰好より小綺麗だし、気後れしてしまう。 「瑠唯、食べられないものはある?」 「……何でも食べます」  そう答えるのがやっとだ。日本海を挟んだ大陸・真丹の料理は、拉麺くらいしか知らない。さっと二人分の注文を済ませる秀一郎を見ているしかできない。 (この調子じゃ、返しそびれる)  そう懸念した瑠唯は、店員が退がるや立ち上がった。  懐から、洗濯しておいたハンケチを取り出す。前回差し出された、あのハンケチを。 「あの。これ、どうも」  なるべく借りはつくらないでおきたい。だが、向かいに座る秀一郎は受け取ってくれない。 「君にやるって言ったろう」 「貰う理由がないです」 「あるとも。君はおれの婚約者だよ。そして、今日は結婚前提のデエト。かしこまりなさんな。そうだ、特別に『秀一郎』と呼ばせてあげよう」 「はあ……」  にこやかに畳み掛けられる。そのすべてに切り返すほどの話術はなく、すごすご座り直す。 (「おれの婚約者」、だって。気の迷いじゃないんだ)  図らずも秀一郎の心づもりが明らかになった。  それも結婚の了承を得た気でいる。瑠唯としてはまだ保留なのだが。機を見てすれ違いを解かなければ。  慣れない扱いで火照る頬を、手もとに戻されたハンケチで扇いだところで、前菜とスウプが運ばれてきた。 (いい匂い)  前菜はこっくりした飴色の、蓮根餅に見える。金木犀の香りがした。 「召し上がれ」  火照りを紛らわすのも兼ね、促されるまま箸を伸ばす。 「いただきます。……、甘い」 「桂花シロップで煮てある」  前菜というよりデセエル(デザート)みたいだ。 「これが真丹料理なんだ」 「の中の、美海料理だよ」  どちらにせよ未知の味だ。  澄んだスウプのほうは、細く裂かれた半透明の具がたくさん入っている。何だろう。 「口に合うかな?」 「はじめての食感と味ですけど、というかこっちはごく薄味ですけど、美味いと思います」  素直な感想を述べると、秀一郎は小刻みに肩を震わせた。 「確かにフカヒレ自体は味がほぼないね」 「えっ、これフカヒレ!? 知らなかった……」  高級食材ではないか。もったいないので食べる速度を落とす。 「ふうん。でも、シャンソンを歌いこなすほどの恋は知っているのかな?」  そこに、秀一郎が悪戯っぽく切り込んでくる。馳走になっている瑠唯に黙秘権はない。 「恋は、知りません。が、」  せっかく褒めてもらえたのに、恋も知らず愛の歌を歌っていたなんて、とがっかりされたくなかった。訥々と言葉を継ぐ。 「愛は知ってる、つもりです。三歳から女手ひとつで育ててくれた母や、父とのつながりを感じられるシャンソン、独りぼっちの僕にも居場所と夢をくれた浅草を、愛しています」 「……うん。そういう歌だった」  秀一郎は茶化したりせず、受け止めてくれた。  その声色も、ロイド眼鏡の奥の眼差しも、慈愛に満ちている。 (だからそういうの、慣れない。デエトってずっとこうなのか?)  瑠唯はそわそわが収まらず、円卓の下でこっそり足踏みする。 「お待たせしたね~」  続いて、鳥の丸蒸しがどんと卓に置かれた。沈黙が長引かず助かる。  こちらはほかほか湯気を立て、香ばしい、和風出汁とはまた違った食欲をそそる匂いがする。 「八宝鴨だよ。茸や木の実なんかの八種の具のおこわが詰まってる」  秀一郎が瑠唯のぶんも取り分けてくれた。はぐっと頬張れば、肉と茸類の旨味が広がる。 「こんな美味いもん、食べたことない……! 美海ってすごい」 「そうだろう。美海は『東洋の玻璃(パリ)』って言われてるんだ。食事は美味だし、街並みもその名のとおり美しい」  秀一郎は誇らしげだ。まるで、浅草を褒められたときの瑠唯みたいに。 「住んでたんですか?」 「いや、仕事で滞在しただけだが。大学時代を過ごしたナポレオオニュの都の面影もあって、第二の故郷のように感じてはいる」  突っ込めば、懐かしげに目を細める。洋行先は玻璃(パリ)だったらしい。 (僕もこの人も……秀一郎さんも、ナポレオオニュに縁があるんだ)  意外な共通点に、ひそかに親しみを感じていたら、蟹炒麺(ヤキソバ)に小籠包まで到着した。 「わあ」  食べきれるだろうか――というのは、口に入れたら杞憂になった。炒麺は太麺がもちもちで、黒酢餡が濃厚に絡む。いくらでも食べられそうだ。 「美味い。どのメニュウも味がしっかりしてますね」 「ふふ。餡が口の周りについて、怪奇話(ホラア)ぽくなってるよ」  はっと俯き、口を拭う。食べるのに夢中で、食卓作法(テーブルマナー)がなっていなかった。秀一郎がきれいな食べ方なのもあって、恥ずかしい。 「むぐ……怪奇話といえば、名門華族の坊っちゃんが異国で男を孕ませた話、知ってます?」  忘れてもらおうと、突拍子もない噂話を持ち出す。  夏頃、エトワアル座の楽屋はこの話題で持ちきりだった。まことしやかに語られるのは、「男を孕ませた」「男が孕んだ」系の怪奇話が、各時代に遺っているためだ。かの織田信長の記録も、事実かはさておき、ある。妾制度はそのためにつくられたとこじつける人もいる。  今回は遠い異国での出来事で詳細不明ゆえに、踊り子たちは「きっと禁断の恋を貫いたら奇跡が起きたのよ!」と好き放題盛り上がっていた。 「ああ、『お寺さん』とこの」  真丹茶を啜る秀一郎も、話に乗ってくる。知り合いらしい。 「えっ、まさか本当なんですか?」 「さてなあ」  と思いきや、はぐらかされた。  そんな調子で、瞬く間にデセエルの湯圓(タンエン)――黒胡麻あん団子を供される。どれも美味かったし、秀一郎は卑しく豹変したりせず、話も楽しかった。 (恋愛、続けてもいいかな。とりあえず婚約者でいてあげるか)  なんて打算を抱えて、店を出た。 「ご馳走さまでした」 「あれだけ美味そうに食べてくれたら釣りがくるよ。はい、これ」  腹ごなしに墨田(すみだ)川(がわ)沿いを歩いていたら、秀一郎が包みを手渡してきた。  待ち合わせたときから持っていたものだ。よく見ると、テイラア名が印字されている。 「何です?」 「開ければわかる」  小首を傾げて中を覗けば――クリイム色のシャツだった。  肌触りのよさげな生地に、細いひだが施されている。男物だが、それにしてはつくりが小さい気もする。 「?」 「似合うから着てほしい」 「えっ、僕にですか? これ以上貰えません」  一言添えられ、やっと贈り物だと気づく。  さすがに眉じりを下げた。  婚約者といったって、数日やそこらの口約束だ。こそばゆいを通り越し、恐縮してしまう。 「君以外にはサイズが合わない。色だって君の髪と目に合わせて見立てたんだ」  しかし一撃で丸め込まれる。  デエト、というか恋愛に関しては秀一郎が何枚も上手だ。 (僕に、合わせて?)  再度シャツを眺める。先週、ぶかぶかの見るからにお下がりを着ていたのを見て、贈ってくれたに違いない。  新しい服を買う余裕はなかなかない。それもこんなにきれいな一着、嬉しいか嬉しくないかで言えば、嬉しい。  他の人は着られない、というのなら。 「じゃあ、お言葉に甘えて……大切にします。朝日さんて、」 「『秀一郎』、ね。でなければ『旦那さま』」  褒め言葉を期待してか、秀一郎が片眉を上げた。呼び方の指定つきだ。  ご所望に応えよう。 「秀一郎さんて、軟派ですね」 「なぜそうなるのかな?」  期待が外れて拗ねた様子の秀一郎に、くすりと笑う。  だって、食事に誘うのも贈り物するのも求婚も、慣れ過ぎている。  ただ非難ばかりではない。軟派が嫌い、とは言っていない。秀一郎もそれを感じ取ったのか、「まあ当たらずとも遠からずか」と微笑んだ。  秀一郎を見上げる瑠唯の身体に、感謝と嬉しさと、美海料理みたいな甘さが駆けめぐる。  途端、紙袋をとさりと落とした。 「瑠唯?」  秀一郎が訝しげに足を止める。無理もない。瑠唯がくたりとしゃがみ込んでしまったのだから。 (身体が、熱い。息も、うまくできない……)  毎月ある、体調不良だ。  ここ五年ほどずっと、発作じみた症状に見舞われている。何も今日でなくていいのに。自分の身体が恨めしい。 「急に、なるんです……。少し休めば、快復しますから」  おそらく医者にも治せない。それどころか、豹変した医者に診察台に押し倒されたことがあり、診せる気が失せた。  ともあれ、こうして弱ったときを狙って、下卑た男が寄ってくる。 「秀一郎さんは、先に帰って、ください」  デエトはおしまいだ。尻切れになってしまったのは、後日詫びさせてもらうとして。 (ここからだと、家よりエトワアル座が、近い。エトワアル座に、行こう)  定番の避難場所である、女性しかいない楽屋にこもりたい。しゃがんだまま、市電の停留所方向へにじり進む。 「っ、無理しなさんな。おれが円タク(タクシー)を呼んでくるよ。木陰にいなさい。ね?」  しかし秀一郎は帰らない。緊急事態だと察し、大通りへ駆けていこうとする。  瑠唯は反射的にその長い脚に縋りついた。 (えっ、僕、何して……?)  あろうことか、内腿に頬を擦りつけてしまう。勝手に身体が動く。  発作もいつもより重い気がする。肌がむずむずするし、指先は痺れている。唇が小刻みに震える――秀一郎を求めて。 「なんで……、なん、で……っ」  自分が自分でなくなったみたいで、混乱する。  確かに、秀一郎の求婚は驚きから好印象に変わりつつある。でも即物的なことがしたいわけじゃない。  そもそもこんな衝動は、これまで一度だって経験がない。その一方で、襲われる側の怖ろしさや気色悪さは、いやというほど経験している。 『おまえ、妙にそそる匂いがすんだよなァ』  組み敷いてこようとする不躾な手、そんな見目をしている瑠唯が悪いと言わんばかりの視線。 (この人を、同じ目に、遭わせたくない)  舌を強く噛んだ。咥内に鉄の味がしてもなお。 「う……、ぐ……!」  右手には左手で爪を立てて戒める。これで自分の動きを封じられるし、痛みで気も逸らせる。  収まれ――。 「瑠唯!? 血が出てるじゃないか。まったく、君って子は」  血の味と自己嫌悪で顔を顰める瑠唯の傍らに、秀一郎が跪いた。ハンケチを取り出して瑠唯の手に巻き、止血する。 (秀一郎さんのハンケチ、また、汚しちゃった)  相変わらずの親切ぶりだ。  ただびっくりしたのか、彼も額に汗が滲み、瞳孔が開き気味だ。  でも他の男たちと違って、瑠唯を保護し、手当てしてくれた。養父の吉村でさえ体調不良中の瑠唯を何となく避けているのに。 「瑠唯。やはり君は、おれがずっと探していた相手だ」  かと思うと、シャンソンみたいな熱烈な台詞を囁いてくる。 「探し、て……?」  どういう意味だろう。頭が回らない。  身体全体が心臓になったかのごとく、脈音が煩い。発作のせいか、それとも――。  細胞のひとつひとつが秀一郎を意識する。  当の秀一郎は、通り掛かった子どもを呼び止めた。駄賃を渡し、職業婦人がハンドルを握る円タクをつかまえるよう言いつける。 「もうちょっとの辛抱だよ。おれに合わせて深呼吸して。すう、はあ」  これ以上迷惑をかけたくなくて、必死に息を吸う。川の匂いも冬の匂いも感じられない。  その代わり、秀一郎の甘い匂いでいっぱいになった。そのおかげか、少し息苦しさが和らぐ。 「……いろいろと、ごめんなさい」  何とか謝罪の言葉を絞り出した。 「いいや。世界には、君と同じ体質の者がごく少数いるんだ」 「そう、なんです?」  秀一郎は、仕方ないとばかりに首を横に振る。  同じ体質、ときた。  イスパニア風邪は世界大戦を通じて拡散し、各国で流行した。だが、この後遺症らしき症状は聞いたことがない。 「知らないよね。おれは、君たちを守ることが使命だと思ってる」  守ることが、使命――。さすがは華族だ。ノブレス・オブリージュの精神を持っている。  秀一郎の普段軟派な横顔が、頼もしく見えた。知識と信念があるから動じないのか。手を煩わせてしまい心苦しいものの、はじめて重い発作が起きたのが彼のそばでよかった。  さらに幸いなことに、職業婦人の割合は多くないにもかかわらず、子どもが円タクを見つけてきた。  女性運転手なら安心して乗せてもらえる。秀一郎は「女性のほうが運転が丁寧だろう」と考えたのか知れないが、助かった。  ふわふわと力の入らない身体でも、紙袋を拾ってしかと抱き締め、円タクに収まる。  秀一郎は乗ってこない。フォオドの扉のふちに手を掛け、口早に言う。 「君の体質について、まだわかっていない部分も多い。異国の情報を一緒に調べよう」 「いいん、ですか」 「もちろん。可愛い婚約者のためだ。約束」  また会えることになった?  秀一郎が目くばせし、長身の女性運転手が車を発進させる。 「秀一郎、さん……」  待ち合わせ前はすぐ帰る選択肢もあったのが、デエトが終わってしまうのが惜しい。  円タクの後ろの窓から窺えば、小さくなっていく秀一郎は懐から金の懐中時計を取り出し、何やら頷いていた。

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