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第2話

 翌日の昼、秀一郎がエトワアル座にやってきた。  ただ異国の書物を持っているでもない。  一緒に調べよう、の一言は、瑠唯に都合のいい幻だったかもしれない。 「マチネは十五時開演ですよ」 「いや、吉村さんに挨拶したかったんだが。君はなぜ今日も働いているのかな」  それで開演時間を案内すれば、秀一郎はひとつ溜め息を吐く。  昨日の今日で、心配してくれているらしい。  あのあと楽屋に避難したら、未知の衝動はみるみる収まった。このとおりだ。 「なぜって、これが仕事です」 「そうか。……腹が減ったろう」  しかし秀一郎はもうひとつ大きめの溜め息を重ねた末、昼食に誘ってきた。会社の昼休みにわざわざ浅草まで出てきたというので、断れない。  小屋前の掃除を切り上げてついていく。  どうせならと、上品な横顔を見上げた。 「吉村おじさんの屋台に案内しましょうか」  吉村は楽団と掛け持ちで、浅草寺の仲見世でテキ屋をやっている。 「いいや、後で寄るよ。それと、かしこまらないでと言ったよね。これもデエトだ」 「……ウィ」  遠回りは断られた。 (これもデエトなのか)  確かに、身体の怠さはまだ少し残る瑠唯に合わせ、ゆっくり歩いてくれる。 (というか、吉村おじさんに挨拶って――正式な婚約の?)  時間差で思い至り、どぎまぎした。  健康体と言えない様子を目の当たりにしても、瑠唯を妾に迎える意思は揺らがなかったらしい。  となると、遠からず朝日家を訪ねることになるのか。  踊り子の追加情報によると、元大名の由緒ある一族だという。 (失礼でない作法がわからない。どうしよう)  早くも気を揉むうち、秀一郎が足を止める。 「ここにしよう」  エトワアル座から数本先の路地に、立ち食い蕎麦の屋台が出ていた。  昼飯どきなのに他に客はおらず、美味くないんじゃと怪しむ。頭に手拭いを巻いた大柄な主人も愛想がない。 「どうゾ」  だが、出された一杯を啜ってみれば。 (ん? 前にも食べたこと……ないよな)  懐かしの味という感じで、案外美味かった。優しい出汁は自ら噛んだ舌の傷にも沁みない。ほ、と息を吐く。 「異国では、はつ――発作が出たときは仕事を休めるんだよ」  一方、傍らの秀一郎の声は、柔和ながら義憤が感じられた。  その件か。気持ちはありがたいので、ほんのり口角を上げる。けれど。 「雑用だから、たいしたことない。毎月こなしてる。休もうとは思わない」  エトワアル座の興行は毎日あり、基本一日二公演。交替休みの踊り子と違い、瑠唯は十日ごとに演目が替わる際、大道具入れ替えで半日休みとなるのみだ。  雑用の日課は、小屋前と客席とステエジの掃除、楽屋の整頓。大道具小道具の確認。木戸銭の徴収に、片づけ。たまにお遣い。 (幕間に歌うのがおまけみたいなもんだ)  歌以外は、誰でも、体調不良中の瑠唯でもできる仕事である。  座の者には調子が悪いと気取られてもいないと思う。婚約者だからといって、あまり心配されるとこそばゆい。 「口利きしてくれた吉村おじさんへの義理もある。それに、歌いたいし」  そのために、この見目のせいで男に絡まれがちも、毎月体調を崩してしまっても、続けてきた。  だから今月も働くと請け合ってみせれば、「……そうか」と秀一郎が先に目を逸らした。 「ただでさえ歌手の卵は多いんだ。いつそっちと契約するって言われちまうかわからない」 「ああ、ヌウドモデルして音楽学校の月謝を貯めたって子とかかな」 「……。そういうのはよくご存知で」 「瑠唯。瑠唯ったら。そんな目をしなさんな」  瑠唯は対照的に、彼が茶番の陰で懐中時計を確かめたのを見逃さない。 「そろそろ行こう」  会社の昼休みは長くない。秀一郎に吉村の屋台の場所を教えてやり、お互い仕事に戻る。 「瑠唯、また会おうね」 「はいはい」  ――その数時間後。 「……」  マチネ前、吉村が神妙な顔で楽屋入りした。 (秀一郎さんと話したんだな)  華族に丁重に挨拶され、却って具合が悪いに違いない。思わず少し笑ってしまう。  別にすぐ結婚しようってわけじゃない。  挨拶は果たされたのに、次の日もその次の日も、秀一郎はエトワアル座に現れた。  ソワレ(夜公演)の木戸銭を渡してくる際には、瑠唯の手を労わるように撫でる。 「怪我、痛まないかい?」 「……大丈夫」  先の日曜の、自分とは思えない行動が思い出されて申し訳なく、小声で答えた。 「ならよかった」  秀一郎は気にしていないふうに微笑む。  どうやら体調不良の婚約者を見守る所存らしい。 (男に絡まれるのは発作中が多いから、心強くはある)  と思いきや、瑠唯が数日で快復した後も、まめに顔を出す。 「商社の仕事、忙しいんじゃ?」 「一緒に調べるって約束したろう。それに君の歌が聴きたいんだ」  などとのたまい、決まって壁際後方に陣取った。声の反響がベストな場所なのだとか。 (あの約束、有効だったんだ)  実はステエジからだと、暗い客席は見えにくい。でも、瑠唯には秀一郎がくっきり浮かび上がって見えた。まるで天のライトを常に浴びているみたいだ。 「Ma vie est plus belle avec toi(あなたを見つけて、私の人生は色づいた)」  聴いてくれる人がいる。まだ天には届かなくとも、せめて秀一郎には届かせたい。  この声を、愛を。  彼に贈られたサイズぴったりのシャツに身を包み、懸命に歌った。我ながら以前よりよく響かせられるようになった気がする。  だが、約束――瑠唯の症状把握と治療法解明のほうは、これといった進展がない。 「う、知らない単語だらけ……。歌詞とか物語なら、まだ読めるんだけど」 「『oméga(オメガ)』という単語を探してごらん」  秀一郎が、ナポレオオニュの医学資料や異国の話題を扱う新聞を集めてくれた。  瑠唯も父の生まれた国でありシャンソンの国でもあるナポレオオニュの言葉を、踊り子たちよりは知っている。  終演後にふたりで純喫茶へ寄って解読するも、空振り続きだ。  同じ症状の患者がごく少数なためか。 「やっぱり治すのは難しいのかな」  今夜も収穫なし。  ボックス席の天鵞絨張りソファで、酷使した目を揉む。対する秀一郎は、ロイド眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。 「同じ体質の者同士で集まって、研究するのがいいんじゃないかとおれは思うよ」 「集まるって、玻璃(パリ)万博みたいに?」 「ふふ。そこまで大掛かりじゃなく、まずは亜細亜でとか」 「どっちにしても異国へ行くなら、お金をたくさん貯めないといけない」 「おれが連れてってあげるとも」 「そんなそんな。無名歌手の僕じゃ、返すのに一生かかります」  自虐まじりに固辞する。  悩みを分かち合える人たちに会ってみたい一方、異国の地に立つ自分は想像がつかなかった。それに、浅草で歌い続けたい。 「婚約者なんだから、返す必要はないんだよ」  秀一郎が、ピイスの煙とともに苦笑を漏らす。  そう言えばそうだった。  でも本当に、こうして一緒に調べてくれるだけで充分ありがたい。商社の仕事で疲れているだろうに。  瑠唯が少し咳き込めば、さっと煙草の火を消しもした。 (僕、貰ってばっかりだ。何か礼を……そうだ!)  ひそかに、ささやかなお返しを画策する。  異国の資料を調べ始めてから二週間、実行の機会がめぐってきた。 「今日は純喫茶じゃなく、行きたいところがあって」 「? どこかな?」  終演後、片づけは後回しにして、楽屋口にいた秀一郎をぐいぐい引っ張る。月下の劇場通りを縫い、いちばん大きな建物――松竹座に飛び込む。  ちょうどステエジに、浅草一の男性スタア歌手がお目見えした。 (間に合った)  大人気で、客席は定員超過だ。普通ならトリ前に入場できないが、松竹座の楽団員と恋仲の踊り子に頼み込み、融通してもらった。  得意げに秀一郎の横顔を見上げる。  少しでも息抜きになればいい。 (歌は、苦労や疲れを忘れさせてくれる)  ひと回り歳上のスタアは、技術と経験で以って滑稽劇(コメディ)的な曲を歌いこなす。ここ数年、震災だ恐慌だと振り回されている桃郷市民の鬱憤を晴らしてのける勢いだ。  秀一郎の口角も上がっているのが、薄闇の中、見て取れた。よかった。 「未来の君かな」  と思うと、肩を寄せて囁かれる。  客席から「ミスタア!」と歓声が上がった。自分が「瑠唯ちゃん!」と大勢に愛される様は――まだ思い浮かばない。 「畏れ多いよ。この松竹座のステエジを目指してはいるけどさ。……いつか、遠くにいる母さんや父さんにも歌で愛を届けられたらって思う」  大それた目標を誰かに話したのははじめてだ。「内緒にしてて」と小声で締めくくり、ステエジ鑑賞に戻る。  秀一郎は了承の代わりに、気恥ずかしさで上気する頬をひと撫でしてきた。  彼に限って警戒も消え、くすぐったくて温かい。この時間がもっと続いてくれたらと思った。 (コントラバスの弦と、白粉(おしろい)と髪飾りと)  数日後、瑠唯はお遣いで市電に揺られていた。エトワアル座の面々に、合羽橋(かっぱばし)の職人街にもない最新の品とやらを頼まれ、銀座に降り立つ。  平日昼間なので、目抜き通りには折鞄を携えた勤め人も行き交う。 (ん? この優しくて切なくもある声は)  ぴくりと背筋を伸ばした。瑠唯は耳がよく、一度聞けばほぼ人の声を憶えられる。  期待を込めて、辺りを窺う。  デパアトの前に、晴天の光を一身に集める男を見つけた。 (やっぱり秀一郎さんだ)  吸い寄せられるように背中を追う。デエトとは言わないが、少し一緒に銀ブラできたらと思う。  だが秀一郎は一人ではなかった。  横に商社の丁稚――にしては装飾的なジャケットを着た少年を連れている。歳頃と身長は瑠唯と同じくらいか。切り揃えた黒髪が、可愛らしい顔立ちに映える。 「ねぇ、今度の満洲での石炭買いつけ、秀さんもおいでよ。ぼくが父さまに頼んであげる。一緒に蒙古馬に乗りたいなぁ」  少年は秀一郎にしなだれかかり、甘ったるい声でねだった。  前に踊り子に聞かされた「秀一郎は可愛い男の子を囲う」という情報は、事実だったらしい。 (満洲、ねえ)  銀ブラとはわけが違う。満洲は大陸にあり、皇国軍が進出を果たした。日露戦争で租借権を得た関東(カントウ)州の延長だとか。  資源潤沢で、商売や都市開発が盛んに行われており、娯楽も豊富。さぞ楽しい旅だろう。 (僕とは美海料理と屋台蕎麦を食べに行ったきりなのに、「秀さん」なんて呼ばせて……)  胸にもや~としたものが拡がる。  シャンソンを歌ったときにも、似たような感覚を味わったことがある。  ただしそれは「嫉妬」の歌だった。 (ノン、婚約者ったってまだ恋したわけじゃ……してた、のか?)  愕然とする。  秀一郎に感じるくすぐったい気持ちは、エトワアル座の壁際後方席に姿を認める度に募る温かさは、恋なのか? (シャンソンみたいな、そうでもないような)  憧れていたのとは違うかもしれない。 「いいね」  秀一郎はというと、性別関係なく誰もが恋してしまう、完璧な笑顔を少年に向けた。  中てられたのだろう、少年がくらくらとへたり込む。秀一郎は手慣れた様子で懐中時計を掲げ、円タクを止めた。  連れ立って乗り込み、走り去る。  瑠唯は通りに立ち尽くさざるを得ない。 (その子も勘違いしちまいますよ、僕みたいに)  妾を複数持つ男もいる。踊り子たちに秀一郎の噂をさんざん聞かされた。秀一郎本人も、軟派なのを否定しなかった。  でもいざ現場を目の当たりにすると、もや~としたものが棘に変わり、胸をちくちくし始める。  秀一郎にとって、瑠唯は何番目なのだろう。 (よく考えたら、華族の御曹司がなんで僕を選んだのか、わかんないな。守る使命ったって、求婚されたときは症状が出てなかったし? 歌もまだまだ、見目も人と違うだけ)  棘が風船に刺さったかのごとく、これまで巧みに覆い隠されていた疑問が噴出した。 (というか、婚約者らしいことしてないような)  瑠唯が「順番が逆」と言ったにしても、だ。  そもそも恋人になれているのか。浅草にいないときの秀一郎についてほぼ何も知らなくても?  思えば、親切にしてくれるものの、「好きだ」とかは言われていない。  探していた相手、ではあるらしいが。 「……っ」  すれ違う人に肩をぶつけられる。一人だと標的にされやすい。 (それより、白粉と髪飾り)  お遣いを思い出し、デパアトへと急いだ。  その翌週も、エトワアル座へやってくる秀一郎は変わりない。 「瑠唯、温かいショコラ飲むかい?」 「……うん」  自分としたことが、銀座で見かけたと言い出せなかった。  それでいて気にせずにもいられず、資料の同じ行を何度も読んでしまい、「oméga」探しがちっとも捗らない。  いつしか寝ても覚めても悩まされている。 (恋ってよくわからない……)  今日は楽屋の片づけを無駄に引き延ばし、秀一郎を待たせていると、エレエヌ――エトワアル座の踊り子はナポレオオニュ風の芸名を持つ――と鏡越しに目が合った。  最年長のエレエヌは、「一周回って新しいでしょ」とたおやかな和装で出退勤するので、身支度がいちばん長い。 「瑠唯ちゃん、近頃変わったわね」 「えっ、そう?」  予想外の指摘に、自分の手脚を見下ろす。ついに成長期が到来したか。踵を揃えて壁際の衣装掛けに並んでみる。 「残念、歌の話よ」  エレエヌが吐息まじりの笑みを漏らした。身長を測ったのがばれている。きまりが悪く、つま先を見つめた。しかしエレエヌは手をゆるめない。 「うふふ。婚約者さんのおかげかしら  彼女は、男が苦手な瑠唯が秀一郎の求婚を撥ねつけないばかりか、終演後に一緒に寄り道しているのも把握している。  何なら瑠唯に酒を浴びせた客を特定し、出禁にすべくはからってくれた。後輩踊り子や歳下の瑠唯を揶揄いもするが、こまごま気に掛けているのだ。 「恋の歌がどれも、瑠唯ちゃんがつくったみたいに聴こえるの」  そんなエレエヌの言葉に、どきりとした。ちょっと心当たりがある。  何百回と聴いてきた父のレコオドが、最近何だか違って聴こえた。それも恋の歌ばかり。  目が合ったときのくすぐったい予感。同じ空の下に生きている充足。頭が相手でいっぱいになってしまう焦燥――。  歌詞から瑠唯なりに想像していた感情が、リアルな手触りをもって迫ってくる。  聴き手にわかるくらい歌い方も変わっていたか。秀一郎のおかげで? 「さあ、どうかな……」  瑠唯は恋がどんなものか、知らない。  一方のエレエヌは、新聞記者と交際して長い。毎週楽屋に花が届き、他の踊り子たちの羨望の的だ。彼女の恋愛経験を見込み、それとなく相談してみる。 「あの人、別の男の子と仲睦まじげに銀ブラしてたんだよ」  もやもやした棘は、意固地に胸に居座っていた。  少年は誰なのか。他にも求婚している子がいるのか。瑠唯をどう思っているのか。気になってきりがない。 「あら。それは問い質したほうがいいわ。そして思い知らせるの。よそ見してたら瑠唯ちゃんは逃げちゃうわよ、って」  エレエヌは即答した。  あまりの迫力に、自分はそういう駆け引きする腕がない、と怯む。  ただ、気になるならひとりでもやもやせず吐き出すのが正解とわかった。 (僕は婚約者、だし。訊いてもいいよな。うん) 「ありがと。確かめてみる」  勇んで楽屋口を出た。  毎回、ソワレ後にカフェオレやショコラを一杯飲む間、資料を解読する。 「瑠唯? それもう空だよね」 「あ、はい」  純喫茶を出たら、秀一郎は瑠唯を吉村と二人暮らしする長屋まで送ってから、市電の停留所へ向かう。 「瑠唯。自分の家までの道忘れた?」 「あ、いえ」  迷子のごとく曲がる場所を間違えた。だって。 (訊けずにここまで来ちまった……!)  喫茶店から長屋まで、ほんの十分足らず。ナポレオオニュの夏がいかに爽やかで過ごしやすいかという話で終始しそうである。  これではいけないと、長屋がひしめく路地に仁王立ちした。 「どうしたの」  今日を逃すときっかけがない。すう、と息を吸い込む。 「だだ誰ですか? 銀座で一緒に蒙古馬の男の子、この前!」  流れをぶった切って発した問いが、夜闇に反響した。 「男の子?」  秀一郎が、きょとんと外套をひるがえす。  穴があったら入りたい。異国語より意味不明になってしまった。 「だ、その。他にも婚約者がいるなら、僕と週に何度も会うのは悪いと思って……婚約者らしいこと、するわけでもないし」  消え入りそうな声で言い訳する。  この気持ちも嘘ではない。  秀一郎は腕を組み、たっぷり四拍反芻したのち、「ああ」と片眉を上げた。 「公良(たから)坊っちゃんかな? 三木家の末っ子だよ。単なる仕事さ」  三木家――彼が勤める三木商会を経営する一族。  言われてみれば、公良坊っちゃんとやらは「ぼくが父さまに頼んであげる」と特権をちらつかせていた。 (仕事って、接待みたいな? 秀一郎さんは語学堪能で会社の主戦(エース)だろうし、三木家の人に好感を持たれるのもわかるけど)  あんなくっついて歩かなくても。  少年の素性が判明しても、依然胸をちくちくする。つま先で地面を蹴っていたら、 「君こそ、おれが坊っちゃんといたのをなぜ知ってるのかな?」  痛いところを突かれ、固まった。  形勢逆転だ。 「ぼ、僕も仕事のお遣いで、偶然見かけただけ」 「へえ。正月の餅は君に焼いてもらおうかなあ」  嫉妬の歌が過ぎったのまで見透かされている。 (結局こうなるのかよ)  彼の腕をぽかぽか叩(はた)くほかない。  秀一郎はちっとも痛くなさそうな顔で笑っている。  妬かないし、とは言えなかった。公良は婚約者でも恋人でもないと明言され、ほっとした自分がいる。一人で早とちりしてしまった。 「とにかく、おれが君に会いたくて来てるんだ」 「わかった」 「他の婚約者はもちろん、本妻を持つ気もないからね」 「わかったって」 「婚約者らしく、本当に正月も会おう。っと、時間だ。またね、瑠唯」  秀一郎はさらに瑠唯を喜ばせる二言三言まで付け足して、満足げに帰っていく。  妬かれるのはそんなに楽しいのか。  瑠唯のほうは未だ心音が煩いが……嫌な気分でもない。 (ふうん。坊っちゃんは仕事で、僕には会いたいんだ。正月はご家族に挨拶できるってこと?)  ちなみに本妻を持たないのは、性別や家柄上妾になってもらわざるを得なかった相手に、純愛を示す方法のひとつである。  好き、と同等の台詞と言って差し支えない。  胸の棘はきれいさっぱり消えた。シャンソンを口ずさみながら、見慣れた数メエトルを辿る。隣近所はもう寝静まっている。 (ん? 何だろう)  足取りが軽くなったのも束の間、自宅の一軒手前で違和感を覚えた。  暗闇に目を凝らす。朝はなかった黒い木が生えている? 「吉村瑠唯であるな」  ――いや、男だ。秀一郎に劣らぬ長身を濃紺の制服制帽に包み、直立不動で夜に同化していた。襟足を短く刈り込み、語調に増して眼光が鋭い。目だけがぎょろりと動く。  たちまち総毛立ち、後じさった。 (前に美海亭で居合わせた、軍人……!)  あのときもやたらと見られた。  駆け出しの歌手に、軍人がいったい何の用だ?  そう問い返すことはできなかった。  息がうまく吸えない。頭がぼうっとする。  こんなときに、発作だ。  先月に続き間が悪い。知らない男の前で弱みを見せたら何をされるか……。羊毛コオトの擦り切れた袖を握り締め、異変に気づかれまいとする。  一方の軍人は、ざりっと地面を踏みしめた。 「『癸種(きしゅ)』と確認。連行する」  平坦な声をやや上擦らせ、宣言する。最小限の動作で細腕を掴んでくる。 (僕をどこへ連れてくって?)  瑠唯はますます戸惑った。 (そもそも、「癸種」とは何だ……)  くしくも先々月、二十歳を迎えて受けた徴兵検査にて、瑠唯は「丁種不合格」となった。  イスパニア風邪の後遺症について申告したためと思われる。空気感染する肺病などと同様、集団生活に支障をきたすと判断されたのだ。  その「丁種」ではなく?  「癸」は「丁」より下、十干のいちばん最後。皇国民に相応しくないと、処されてしまうのかもしれない。 (怖、い)  しかも、軍人は欲情した男特有の目のぎらつき方をしている。触らないでほしい。 「秀、一郎さん、」  重心を落としてできる限り踏ん張り、喘ぐように呼ぶ。斜め前の長屋で寝支度している吉村でなく、もう市電に乗ったに違いない秀一郎の名が口をついた。  この男とは行きたくない。ここにいたい――。 「来い」  抵抗むなしく、軍人に引き摺られる。彼はいかにも「甲種」――最高評価の合格といった身体の厚みと腕力だ。 「いや、だ……秀一郎、さん……っ」  嫌悪感と裏腹に、先月と同じく肌が粟立ち始めた。本当に、なんでだ?  唐突に現れた軍人の意図は不明だし、自分の身体を制御できないしで、情けなくも目じりから涙が伝う。 「――瑠唯!」  頼もしい声が、危機的な空気を一変させた。  涙の落ちる音が聞こえたとばかりに、秀一郎が戻ってきてくれたのだ。 (秀一郎さんっ)  雲の切れ目から淡い月光が射す。  路地を全速力で駆け寄る間に状況を読んだらしい秀一郎は、迷いなく軍人に掴み掛かった。 「何をする」  日頃対人訓練をしている軍人は、狭い路地でもそつなく避ける。  しかし秀一郎のほうが俊敏で、返す刀で軍人を突き飛ばす――とみせて、瑠唯を奪還した。  さっきまでの柔和な物腰が一転、動きに無駄がない。 (また、助けてくれた)  秀一郎の胸板に寄りかかる恰好になる。温かい。苦手どころか、ものすごく安心する。 「何もされていないか?」  至近距離で見上げた顔には、見たことのない表情が浮かんでいた。まるで軍人に対抗して「この子はおれのだ」と主張するかのような……。  それとも、立ち回りでロイド眼鏡が吹っ飛んだから、見慣れないだけか。 「ウ、ィ。秀一郎さんの、おかげで」  瑠唯がぎこちなくも頷くとともに、軍人が秀一郎を見据えた。 「貴様、何種だ?」  連行を邪魔されていまいましげな声色だ。何の確認だろう。  秀一郎は問いに答えず、眼鏡を拾いもせず、瑠唯を連れて大通りへと取って返した。  どうせ話が通じないので相手にしない、というわけか。  乱れてひと房額にかかった前髪が、色気を添えている。 (って油断するな)  前に向き直る。人目のある場所へ急ぐ。  軍人を振り切るために市電に乗りたいところだが、師走の混雑に躊躇った。秀一郎が一緒とはいえ、発作中に複数の男と乗り合わせるのは……。 「市電は、ちょっと。男に絡まれやすい、から。――っ!」  瑠唯の懸念を吹き飛ばすがごとく、目の前に黒い円タクが停まった。 「乗ろう、瑠唯」  なんと、先月世話になった女性運転手ではないか。ありがたく飛び乗る。 「待て、それは俺の、」  路地から駆け出てきた軍人と入れ違いに発進した。ぐんぐん加速する。 (秀一郎さんの御宅に、向かってる……? 正式に挨拶、する前なのに)  行き先を聞き取りそびれた。  かと言って他にいい隠れ場所を知っているでもない。大人しく車に揺られる。  先月と違い一緒に後部席に並ぶ秀一郎は、未だ険しい顔だ。窓の外を警戒しつつも、手は瑠唯を落ち着かせるように握り続けてくれている。  それゆえに、気づいた。 「……秀一郎、さん。手が」  屋外にいたのに、発熱したみたいに熱い。呼吸も浅いのを隠している。 「僕が、伝染(うつ)しちまったかも。十一年も前のイスパニア風邪の後遺症なのに、しつこくて、ごめんなさい」  ふた月続けて発作中に会ったせいだ。頭を下げれば、重なる手がぴくりと跳ねた。 「あの、ときの」 「はい?」  小さなつぶやきは聞き取れない。秀一郎は一瞬狼狽を浮かべ、首を振る。 「いや。君のそれは、イスパニア風邪の後遺症ではないよ」 (えっ。じゃあ、何だっていうんだ……?)  まさかの情報に、瞠目する。ではこの症状は? 最近調べていたことは?  疑問がふくらむと同時に、閑静な邸宅に到着した。 「秀一郎さんの、家?」 「ああ」  やはり。踊り子情報によると、麻布(あざぶ)だったか。華族邸が居並ぶ地区の中でも、ひときわ立派な門構えだ。緊張で喉が渇く。  正門でなく通用門をくぐり、メタセコイアの木に囲まれた離れへと直行する。  平屋建ての洋館だ。夜も遅く家人の気配はない。 (もしかして、妾用か)  こんな形で来たくはなかったが、仕方ない。  秀一郎は瑠唯を横抱きにして玄関に入り、暗い廊下を進む。突き当たりが寝室のようだ。  寝室のみでも、普段寝起きする長屋より広い。されるがまま、ふかふかの寝台に横たえられた。  秀一郎が「もう安心だよ」とばかりに、茶毛を梳いてくる。 「ん……」  指の感触が気持ちよく、頬に朱が差した。  どうもおかしな気分になる。これでは瑠唯に絡む男たちをとやかく言えない。  秀一郎にはしたないと思われたくなくて、洋風カバアの掛け布団を目もとまで引き上げた。 「ごめんなさい。こういうの、よくあるんだ。僕は放っといて、医者にかかって」 「おれの心配をしている場合かい?」  秀一郎は瑠唯の気も知らず、猫脚椅子を持ってきて真横に座る。卓上洋灯(ランプ)を灯し、やっとふたりきりになれた、と勘違いさせるような視線を注いでくる。 「謝りなさんな。君は悪くない」 「っ!」  はからずも、瑠唯が欲しかった言葉をくれた。  いつもおまえが誘った、おまえが悪いと言われて、悔しかった。 「君は流行病の後遺症を患っているんじゃない。生まれつきそういう体質なんだ。『オメガ』という」  しかし、続く言葉は飲み込み難い。  「oméga(オメガ)」なら、ここ最近調べていた。「後遺症」という意味ではないのか?  生まれつきの体質、ときた。 「オメガは、男の中にごく少数いて――子を孕める」 「子、を?」  片言になった。  自分の身体が意に反するもどかしさも、秀一郎に迷惑かけどおしの申し訳なさも、まとめて吹き飛ぶ。  男が孕む、と言えば。 (異国の資料で探してたのは、医学情報じゃなく怪奇話だったの?)  楽屋を賑わせた、名門華族の坊っちゃんの話が思い出される。秀一郎は否定しなかった。 「男が孕む、怪奇話って……」 「事実も大いに含まれているだろうね。それともうひとつ、第二次性徴を迎えたオメガには、定期的に『発情期』が来る。いい香りの『フェロモン』を発して、男の欲を刺激する」  いよいよ絶句した。 (月に一度の体調不良は、「発情」だってこと?)  理解が追いつかない。  裏腹に、思い当たることもある。秀一郎に香水を使っていると思われた。「そそる匂いがする」と一度ならず男に言われた。  その正体はフェロモンだというのか。 (男に絡まれるのは混血の見目のせいって、思い込んでた。もっととんでもない体質だったんだ。……実感は、ないけど)  いい香りというが、瑠唯自身は嗅ぎ取れない。  そもそも、この薄い腹に本当に命が宿るとは思えない。  瞬きさえ忘れて固まっていたら、秀一郎が労しげに頭を撫でてきた。 「信じられないよね。おれも最初は半信半疑だった。もう少し時間をかけて伝える予定だったんだ」  彼はいち早く「オメガ」に関する記述を見つけていたらしい。でも瑠唯を気遣い、説明の機をはかっていた口ぶりだ。  正直に言えば、信じられない。でも。  じっと秀一郎を見上げる。  彼は二度も瑠唯を助けてくれた。さっきは軍刀を掃く軍人相手に、丸腰にもかかわらず味方してくれた。どんなに心強かったか。 「信じる。秀一郎さんが、そう言うなら」  これだけはと、声を発した。  秀一郎は「よかった」と、噛み締めるように微笑む。信頼が伝わったようだ。  それを見て、頑張って言葉を継ぐ。 「秀一郎さんのおかげで、知らなかった自分を、知れた。体質なら、治したりはできないにしても……知っているのといないのとじゃ、歌い続けやすさが、ぜんぜん違う」  驚きはしたが、絶望はしていない。唯一の夢が断たれたわけではない。 「……、うん」  秀一郎は口を開きかけて閉じた。卓上洋灯を消し、瑠唯が眠れるようにしてくれる。 「今日のところは、おやすみ。Fais dodo(よく眠れますように)」  静かに寝室を出ていった。  瑠唯の身体から男を誘うフェロモンとやらが出ていて、秀一郎も手が熱くなったり影響を受けているだろうに、瑠唯を組み敷こうという素振りは一切ない。  婚約者であってもだ。  その自律ぶりに、好ましさを抱く。たとえ華族も、全員がここまでではあるまい。秀一郎は他の男と違う。  一方で、複雑な思いもこみ上げた。 (秀一郎さんは、孕めるオメガを探してて、僕じゃなくてもよかったのか? 僕はオメガだから、上等な種を持つ同性の秀一郎さんに惹かれたのか……?)  秀一郎が座っていた椅子を、そっと撫でてみる。簡単に答えは出ない。悶々として、なかなか寝つけなかった。

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