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第3話

 翌朝、秀一郎が手ずから着替えや食事を持ってきてくれた。おそらく人払いしている。オメガを守るために。 「何から何まで、痛み入ります……」  朝日家の人たちには万全の状態で挨拶したいので、助かる。でも秀一郎に負担が掛かってしまい、頭が上がらない。 「こういうときは甘えておきなさい。吉村さんにも連絡しておいたから」  新しい眼鏡を掛けた秀一郎は、あえてだろう軽い調子で片目を瞑った。  そう言えば吉村に世話になって以来、はじめての外泊だ。仕事も……。 (異国では、発情中のオメガは仕事を休めるんだっけ)  今まで、男のほうが絡んでくるのだと思っていた。少なからず瑠唯が誘っていた――フェロモンを出したくて出しているのではないにしろ――面もあるとわかり、何とも言えない気持ちになる。 (僕が、人前に出なけりゃよかったのか)  毎月の症状――発情は、三日ほどで治まる。  よって、今日と明日の二日間、エトワアル座の仕事を休むことにした。雑用は瑠唯でなくともできる。 (ただ幕間のステエジは、他の歌手に取られちゃうかな)  やるせないが、仕方ない。 (それにしても、休むと一日が長い)  秀一郎が出社して不在の日中は、窓から広大な庭を見るともなく眺める。  武で名を馳せた旧大名家らしく、質実な印象だ。 (わっ、誰か来た)  不意に、枯色の芝生を車椅子が横切った。慌てて身を縮める。  しかし車椅子に乗った初老の男性も、ゆっくり押す女中も、離れのほうを見てこない。瑠唯がいること自体知らされていないのかもしれない。 (あの方、横顔が秀一郎さんと似ていらっしゃる。お父君かな)  それをよいことに、つい見つめてしまう。  車椅子の主は、髪も大島紬の袷も品よく整えられ、たっぷりとした膝掛けの下の脚は秀一郎と同じく長そうだ。ただ、陽光が射すのに蒼い顔で、ぶつぶつつぶやいている。  散歩そっちのけで、何かをひどく怖れるかのように。  確か朝日侯爵は家督を譲りたいのだったか。 (もしあの方が侯爵閣下なら、秀一郎さんはオメガを守るより先に、お父君を労わったほうがいいんじゃ……?)  瑠唯と違って近くに父親がいるのだから、とおせっかいにも思う。  求婚した割に純喫茶で会うくらいで、家にはなかなか招かなかったのは、もしやこれが理由か?  思えば秀一郎は自分のことを話さない。別に完璧でなくとも失望したりしないのにと、少し寂しく感じた。  静養三日目の昼過ぎ、瑠唯は市電を使って出勤した。  秀一郎の帰りを待てず、卓上洋灯の下に御礼の書き置きを残しておく。  秀一郎に負担を掛ける申し訳なさ、座の裏方に雑用を穴埋めしてもらう心苦しさのみならず、これ以上歌わずにいるのは無理だった。 (実力はまだまだでも、僕にとってシャンソンは呼吸と変わらないや)  日本国の流行歌もいいけれど、シャンソンの旋律や歌詞はより瑠唯に馴染む。  もちろん雑用もきっちり果たして、ステエジに立ちたい。張りきって小屋前を掃いていたら――劇場通りが急に静まり返った。 (何事だ)  顔を上げれば、濃紺の軍服の男が、ずんずん歩いてくるではないか。  他のレビュウ小屋や映画館や寄席の面々は、余計な会話はしない。それでいて彼が通り過ぎたら「検閲かぁ?」とちらちら観察している。  瑠唯はその濃紺に見覚えがあった。 (僕を待ち伏せしてた男だ……!)  明るいところで見ると、怜悧な美丈夫と言ってよい。歳は三十前後か。革帯(ベルト)の位置が高い。日焼けした肌が、白目がちな目の強さを際立たせている。ただ、秀一郎と対照的に、光を反射せず吸収し、彼の周りだけ暗く重たい印象だ。  上衣の襟に、憲兵だと示す徽章があった。 (よりによって)  憲兵は、軍人および一般人の軍事に関する言動を取り締まる、軍内の警察のようなものである。 (改めて僕を連行しにきたのか?)  罪など犯していないのに。数日前の恐怖が思い出され、箒を握る手が凍りつく。  そんな瑠唯の前で、憲兵が足を止めた。 「支配人を呼ばれたし」 「……? 支配人は、毎日はいませんが」  嫌な予感は当たったのか外れたのか。支配人に断りを入れて、瑠唯を連れていこうと?  訝しみつつ、最低限のみ答える。 「では伝言を。この小屋は公演内容が扇情的である。興行停止を勧告する」 「えっ、うちは過度に肌を出したりも風刺したりもしてませんよ!」  憲兵の坦々とした言に、たちまち目を剥く。  十数年続くエトワアル座のレビュウは、踊り子の年齢層が少女歌劇より高いのもあり、確かにお色気寄りだ。とはいえ衣裳は他の歌劇団と変わりなく、どんな時勢でも星のきらめきのような歌と踊りと希望を届けてきた。興行停止処分なぞ一度も受けたことがない。  もし実行されたら、踊り子たちは気落ちする。瑠唯も歌う場所がなくなってしまう。 「……」  だが憲兵は無表情のままだ。切実さがまったく響いていない。 「歌手が男を狂わせているだろう」  直立不動で言い放たれ、言葉に詰まった。  潔白、とは主張できない。  瑠唯はオメガだから。 (問題は踊り子じゃなく、僕か。僕の仕事を奪って、ついてくしかない状況に追い込もうってのか? 皇国軍ともあろうもんが、えげつないやり方を……)  刺すような寒風が吹きつけた。  瑠唯のせいで興行できないとなったら、エトワアル座にいられない。浅草で生きていけない。  毎月体調を崩す、その実発情する瑠唯に歌わせてくれるところは、他にあるまい。 (そしたら、目標も叶わない)  俯いた瑠唯の目に、ズボンのポケットが映った。  手を差し込み、いつも忍ばせている白いハンケチを握り締める。 『君は悪くない』  レコオドみたいに、秀一郎の声が耳に蘇った。 (僕だって、大切なものを奪われなきゃいけない理由はない)  ぐっと顎を反らし、憲兵を睨み上げる。 「エトワアル座は健全に営業してますし、僕もシャンソンを歌ってるだけですので。お引き取りください」  国家権力たる憲兵に、正面から言い返したことなどない。勇気を使いきってへたり込みそうになるのを、必死にこらえる。 「……」  憲兵は瑠唯をしばし凝視した。彼も、言い返されるのははじめてなのかもしれない。  さらにすんと鼻を鳴らした末、「身辺整理の猶予をやる」と言い捨て、踵を返す。  そのがっちりした背中が見えなくなってから、深々と息を吐き出した。 (今日のところは、追い返せたっぽい)  劇場通りにも喧騒が戻る。  ただ完全には安心できない。 (あの人、一方的で、なんで僕を連れてこうとするのかさっぱりだ)  ハンチング帽ごと頭をくしゃくしゃ掻く。  ただでさえ、オメガだと判明したらしたで、新たな疑問がどんどん増えているのに。  オメガには何か特別な役割でもあるのか。どう生まれつくのか。  なぜ秀一郎はオメガを守ることを自らの使命としたのか。憲兵とは相容れないのか――?  瑠唯一人の頭で処理できる範囲を、とうに超えている。  翌日以降、あろうことか憲兵がエトワアル座に通ってきた。 (また来た)  公演内容の監視と見せて、瑠唯を狙っている。無理やり連行こそしないが、訊いてもいないのに「俺は石原(いしはら)大尉である」と名乗る。 「はあ。それでなんで僕なんです」 「貴様は十七年前から俺の……、癸種ゆえ」  瑠唯の問いに答えもする。  ただ、癸種なんて聞いたことがない。石原のでもない。  よもやオメガと同じ意味か? 「男を狂わせる」と言い当てられた。単に見目の話ではあるまい。 「癸種とは?」 「口外不可である」 「どこへ連れてこうってんですか」 「口外不可である」  答えの九割がこれで、埒が明かない。瑠唯は頑として屈せず、ステエジで歌い続けた。  一方、終演後は入れ替わる形で、連日秀一郎が待っている。 「瑠唯。いつでもうちの離れに泊まりにきていいんだよ」  石原の件を報告したのもあり、再三誘われた。  ただ、発情期に世話になった礼にと金を包んでも、実費すら受け取ってくれない。「婚約者だから」と言われても心苦しく、あまり甘えられない。  長屋まで送ってもらうに留める。  それでも、実情を知らない踊り子には、「瑠唯ちゃん取り合われてるの?」などと冷やかされた。  彼女たちを無駄に動揺させないよう、石原が興行停止をちらつかせたのは伏せているので、「華族の放蕩息子」派と「硬派な憲兵」派に分かれて盛り上がっている。  毎度何十個ものシュウ・ア・(シュー)ラ・クレム(クリーム)やサヴァランの差し入れにより、秀一郎が優勢なのはともかく。 (冗談じゃないよ……)  踊り子が誤解するくらい、石原はしつこい。だから男は苦手だ、と辟易する。  今日は公演が終わっても居座り、客席の屑拾いをする瑠唯につきまとってきた。 「癸種の貴様は、対である『超甲種(ちょうこうしゅ)』の俺とともにあるべきだ」  超甲種? とは何なのだ。甲種合格のさらに上か? これもはじめて聞いた。  石原はどうせ説明してくれないので、聞き流す。 「貴様の母親のように婚約を破棄しては、厳しい生活が待つのみである」 (は……?)  両親の馴れ初めまで調べているとは。  でも、「じゃああなたについていきます」とはならない。むしろ母の選択をけなされたと、むっとした。  母が父を選ばなければ、瑠唯は生まれなかった。 「あんたと婚約した覚えはないし、僕は理由もなくここを離れない」  首を横に振ると、石原はいら立ちまじりの息を吐いた。説得はまどろっこしいと、先週のように実力行使されるか。腕力では歯が立たない。 「瑠唯ー。今夜も冷えるから、温かいカフェオレを飲みに行こう」  絶妙な間合いで、秀一郎の声が聞こえてきた。  姿が見えないのは楽屋口側にいるとみた。それでも安心する。毎日会いに来るのは同じでも、秀一郎と石原ではまったく違って感じる。 「ウィ! 鍵閉めたら行く」  石原に退場を促す。しかし石原はめげず、 「先日邪魔だてした男か? 奴は誰だ」  と尋ねてきた。秀一郎にまで目をつけられたらたまらない。 「華族の放蕩息子ですよ」  そうはぐらかせば、石原は追ってはこなかった。 「あの憲兵、今日以外も来ていたのかな」  近場の純喫茶に落ち着いてすぐ、秀一郎が柄にもなく険しい顔で問うてくる。 「うん。僕をどこかへ連れてこうとするんだ。詳しい理由も行き先もだんまりで、高圧的なのも大概だよ」 「……、けしからんなあ」  愚痴が口を衝いた。秀一郎は資料を裏返して卓に置き、親身に聞く姿勢を取ってくれる。それをよいことに、胸に溜まったものを吐露する。 「僕の歌を理由に、エトワアル座の興行停止まで持ち出して……シャンソンは、僕の人生なのに。訳もわからず取り上げられたくない」  最初は、遠いところにいる母や父に届けばと思った。  歌い続ける間にシャンソンは自分の大部分を占めるようになっていたと、失いかけたことで痛感する。  それを平気で奪おうとしてくる石原には、従いたくない。 「瑠唯。ずっと歌えるよう、おれが君を守るよ。約束」  出し抜けに言われ、時が止まったかと錯覚した。  他のボックスの話し声も、給仕の音も、聞こえなくなる。秀一郎の真剣で情熱的な眼差しに射竦められ、息ができない。心臓は破裂しそうなほど強く速く打つ。  発作に似ているが、違う。――恋だ。恋を知らなくとも、認めるほかない。 (まさか、男に恋するなんてな)  瑠唯がオメガで、秀一郎が同性だからじゃない。秀一郎が秀一郎だから。唯一、瑠唯を襲うのでなく守ってくれた。オメガをでなく、瑠唯を守ると言ってくれた。  そんな人が婚約者だというのが、今さら照れる。 「だから心配要らない。ね?」 「……ウィ」  念押しされ、蚊の鳴くような声で頷いた。 「憲兵に、他にも何か言われたかい?」  秀一郎は、さらに身を乗り出してくる。自分の不在時に他の男にちょっかいを出されたのが気に食わなさげに。それとも、恋心を自覚したからそう見えるだけだろうか。  舞い上がり過ぎないよう咳払いして、 「石原――あの憲兵は、僕を癸種だって言ってる。オメガと同じ意味?」  瑠唯の中の疑問もまとめて報告した。  癸は十干の最後、オメガはギリシャ文字の最後の一字に当たる。他にも共通点がある。 「僕が男を狂わせる、とも。僕はオメガってものを秀一郎さんの話ではじめて知ったけど、軍では知られてるのかな」  ピイスを口もとに持っていこうとする秀一郎の指が止まった。 「日本語では癸種と訳すんだろう。軍も上層部と担当者しか知らないと思う」  ひそめられた声が、再び険を帯びる。 「オメガは稀少ゆえ、軍や政府に追われる存在なんだ」 「軍や、政府に……!?」  目を丸くした。めずらしく西洋の血を引いてはいるが、無名歌手である自分の話とは到底思えない。手に余る事実が次々明らかになる。  秀一郎に求婚されず独りだったら、どうなっていたか。 「連れてかれたら、何されるの」 「さてなあ。いろんな実験じゃないかな?」  瑠唯は震え上がった。娯楽雑誌の小説に出てくるような、人体実験やら超能力開発やらが、秘密裏に行われている? それは調べてもなかなか情報が出てこないわけだ。 「石原には、絶っ対ついていかない」  決意新たにする。秀一郎は「それがいい」と微笑んだ。  その笑顔に、秀一郎への好ましさが募ると同時に、不安も大きくなる。カフェオレの器を端に避け、言葉を継ぐ。 「あの。石原は、秀一郎さんが誰かも気にしてた。気をつけて」  瑠唯を守るとは、石原との対立を意味する。秀一郎の仕事や生活が脅かされるかもしれない。ただの婚約者じゃない、想い人を危険に晒したくない。 「おれの心配をしている場合かい? おれはオメガじゃないから大丈夫だよ」  当の秀一郎は、先週と同じ台詞を吐き、瑠唯の茶毛を撫でた。彼の家柄と身体能力なら、石原も怖くはないか。  カフェオレを飲み終え、席を立つ。  秀一郎はいつものごとく瑠唯を長屋まで送ってくれた。何だか移動時間が早く感じる。 (寝る前にもうひと目……)  木戸をすべらせながら路地の先を見れば、秀一郎はまだ動かず瑠唯を見守っていた。口を「おやすみ」と動かし、笑みを浮かべる。  心臓がとくんと跳ねた。やっぱり瑠唯の目には、夜空じゅうの星月に照らされているみたいに映る。  その日から数日間、石原は姿を現さなかった。  でも、軍が稀少なオメガを求めているとなれば、簡単に引き下がりはしないだろう。違うやり方で瑠唯を連れていこうと画策しているのではと、溜め息が出る。 「瑠唯。あの憲兵に無茶言われてねえか?」  開演前、アコオディオンの白鍵の浮きを直していた吉村が、見兼ねて声を掛けてくれた。  憲兵がレビュウ小屋の周りをうろつくのは、座の面々も気が気でないだろう。 「ごめん、迷惑かけて。僕の歌が気に入らないって」  標的は瑠唯個人だと明かす。働く場所と歌う機会をくれた恩を、仇で返したくない。  するとすかさず、エレエヌが「瑠唯ちゃん」と楽屋から出てきた。 「我慢して言いなりになっちゃだめよ。自分が何をするか、誰と生きるかは、自分で決めるの。いいわね?」  レビュウの見せ場並みにひたむきに見つめられ、圧された瑠唯は「ウィ」と頷く。  彼女は親の反対を押しきって踊り子になった。今なお、早く家庭に入れと見合いを勧められている。「エリイト記者には遊ばれてんだよ」と、決めつけられる始末らしい。  好きなことを続け、好きな人と生きる。単純なはずが、難しい。 「それに関しちゃあ心配要らねえよ。この子は母親にそっくりだ」  萎れて丸まった瑠唯の背中を、吉村がばしっと叩(はた)いた。  彼だけは瑠唯を母似だと言う。母は黒髪の和風顔なのに、たまに瑠唯を通して若かりし頃の母を見るような目をするのはさておき。 (母さんが愛を貫いたから、僕はここにいる。僕も、歌い続けよう)  おかげで少し罪悪感が薄れた。  胸を張って小屋の木戸に立つ。ソワレの木戸銭を受け取っていく。 (! 来たな)  客がほぼ入りきった頃、人込みからぬっと突き出る石原の軍帽が見えた。  追い返す意気でいた。裏腹に、指先が冷えていく。 (……うまく、できるか?)  この見目や体調でいやな思いをした際、逃げるしかできなかったことも少なくない。  居場所を、歌を、掴んでいられるか――。  冷えた指を、やわらかい何かに包まれた。  秀一郎の手だ。会社勤め後の三つ揃え姿の彼は、片目を瞑り、瑠唯を連れて走り出す。  数秒の出来事がスロオに感じられた。 (秀一郎さんは、いつも、そばにいてほしいときに来てくれる)  提灯に照らされた呼び込み看板の色が混ざり合って、視界を流れていく。外套を着ていなくても寒くない。  今日は石原も追ってきた。秀一郎はレビュウ小屋のひとつにひょいと飛び込む。  馴染みの木戸番の少年は「ん?」という顔をしたが、石原が前を通り過ぎるまで木戸の陰にいさせてくれた。 「吉村瑠唯。状況が変わった、俺と来い」 「君が来い来い、来られるものならね」  秀一郎は石原の要請を無視し、レビュウ小屋の楽屋口や映画館の幟の間を渡り歩く。洋食店のモガの輪に加わったりもして、石原を惑わせる。  秀一郎の口角が上がっているので、瑠唯も楽しくなってきた。  歓楽街・浅草では、歌手と常連客のほうが、憲兵よりも自在に動ける。  軍帽が右往左往するのを尻目に、瑠唯の知る近道を使い、花やしき遊園地前の瓢箪池まで来た。揃って白い息を吐く。 「ふう。これで彼を撒けただろう」 「あはは。まだ人込みをうろうろしてるかも」  どちらからともなく笑い合った。憲兵に追われるという切迫した局面なのに、秀一郎と一緒だとすかっとする。くすぐったくさえあった。  秀一郎は「守る」と口で言うだけでなく、本当に瑠唯のために石原に対抗してくれた。 (やっぱり、好きだな)  ふくらむ想いを、抱き締める。  瑠唯の歌の順番まで、少し時間があった。石原が諦めて帰るのを待つのも兼ね、振り売りから甘酒を買う。浅草っ子憩いの場である池の際で、秀一郎と肩を並べる。  甘酒をひと口含めば、温もりと甘さが、街を駆け回った身体に沁みた。 「秀一郎さん。守ってくれて、ありがとうございました」 「いいや。おれも軍は好きじゃないから」  改めて礼を告げる。すると秀一郎は、市電で織田信長の話をしたときみたいに、花やしきの歓声に紛れてぼそりと言った。  皇族を守る立場にあり士官学校に進む者も多い華族としては、意外な価値観だ。  彼の考えを聞いてみたい。つい前がかった。 「そうなの? なんで?」  秀一郎は対照的に、池の水面に視線を遣ったままでいる。逡巡しているようだ。  瑠唯は甘酒で喉を潤し、シャンソンの一節を口ずさんだ。 「J'allegérai ton cœur(心の錘を僕に分けて)」  秀一郎が弾かれたように瑠唯を見る。  ちょっと気障だったかなと瑠唯がはにかむと、薄く笑みを浮かべた。話す気になってくれたろうか? 「皇国軍が組織されて以来、異国との戦争続きだ。日本国だけ戦わないわけにいかない時代と言ったって、オメガやある――皇国民の扱いには納得がいかないんだよ」  秀一郎が、大きくはないが芯の通った声で、紡ぐ。  日本国はしばらく交戦こそしていないものの、ちょうどここ数か月、満洲に駐留する部隊が事変の収拾に当たっている。  それで特にオメガを案じているらしい。確かに発情期のある身体では戦闘も宿営も難儀する。 (僕は兵役検査で不合格になったけど。結局軍に連行されて、フェロモンを抑える訓練でもさせられんのかな)  気合で生理現象を抑えられたら、苦労しない。というか不可能だろう。  秀一郎は、オメガがどこでどんな扱いを受けるのか、本当は知っているような口ぶりだ。ただ、とてつもなく寂しい目をしていて、それ以上突っ込んで聞けなかった。  三日後。瑠唯はエトワアル座の木戸に貼られた紙に、目を疑った。  興行停止に処す、とある。 (石原……もう手段を選ばないってわけか)  この間の鬼ごっこの腹いせも含まれているかもしれない。  出勤してきた裏方や楽団員は驚くとともに、「週末前たぁ意地が悪いな」と嘆く。  それも停止期間は決まっていない。ノエル(クリスマス)や年末年始の特別公演を控えるのに、かき入れどきに営業できないのは痛い。  踊り子に至っては、情緒不安定で泣き出す子もいた。 「昨日までステエジに立ててたじゃない。他にどこへ行けっていうの?」 「しっかりおし。座を畳むわけじゃないわよ」  エレエヌが叱咤するが、踊れない心許なさは簡単には埋まるまい。 (僕が我を通したせいで……僕が歌う場所を奪われまいとしたせいで、みんなの生きる場所を奪っちまった)  何倍にも濃くなった罪悪感に苛まれる。  急きょ支配人もやってきて、対策を話し合った。 「ふうむ。今日のとこは命令に従って、幕は上げないどこう」  とはいえ、そう結論を出すほかない。みな苦い顔だ。支配人が「他の小屋の経営者とも協力して、軍部の伝手に掛け合ってみるから」と一座を励ます。  隅の壁際にいた瑠唯は、静かに支配人に歩み寄った。エトワアル座が追い込まれたのは、瑠唯が原因だ。黙ってはいられない。 「……後でお話があります」  でも、あと数時間だけ、エトワアル座の一員でいさせてほしい。  率先して木戸前に立った。続々と訪ねてくる常連客に、説明と謝罪をしないといけない。 「せっかく来たのに」 「申し訳ありません」 「いつ再開すんだァ?」 「なるべく早くと考えてます」  口が渇く。寒風に体温を奪われる。ただでさえ母を喪った冬には、良い印象がない。  陽が翳るとともに気が塞いだ。酔っ払い客に酒をかけられたときよりずっとやるせない。 「ん? 今日のソワレは休演なのかな?」  夜を掻き分け、会社終わりの秀一郎が現れた。彼からすれば、瑠唯の歌に間に合うよう早足で来てみたら、開演もしていない状況だ。 「何があったんだい、瑠唯」  長身を屈め、案じ声で問うてくる。  他の客が不満げな反応ばかりだったのもあって、瑠唯の涙腺はみるみるゆるんだ。  秀一郎は自分の羊毛襟巻(マフラー)を瑠唯の顔にぐるぐる巻きつけ、少し離れた路地へと連れ出した。 「温まったかな」 「……うん。ごめんなさい、いきなり取り乱しちまって」  ハンケチと同じ匂いを嗅げば、涙は引っ込んだ。秀一郎は瑠唯に安心をもたらす。  ただ、葛藤は襟巻の温もりでも溶けない。 「いきなりなものか。石原の仕業だろう?」  劇場通りの人目から瑠唯を隠すように立つ秀一郎が、「けしからんなあ」と腕を組む。  瑠唯は洟を啜り、懺悔を始めた。 「僕のわがままがエトワアル座のみんなを困らせるって、わかってなかった。でも……石原に諦めてもらう方法も思いつかないんだよ」  オメガは稀少だという。かと言って自分が軍や政府に貢献できるとは思えない。 「オメガは、平穏に生きてくことはできないの」 「できるとも。方法も、ある」  こぼれた弱音に被せて、秀一郎が言いきった。力強く、切実な、それでいてほのかな願いもこもった声で。  襟巻の端を掴み、瑠唯を引き寄せる。両手で瑠唯の頬を包み込む。  何だか覚えのあるやわらかさだな、なんて思っていたら、 「瑠唯。浅草で歌えないなら、美海のナポレオオニュ租界へ行こう」  予想だにしない誘いを受けた。  市電で行ける美海亭ではなく、遠く大陸の美海――?  秀一郎をまじまじ見上げる。ウィともノンとも言えない。だって、何の話だ?  頼るならナポレオオニュの父のほうではないか。もっとも、「ジョルジュ」という名前と十七年前の職業のみで父を探し出せる確率は低いが。 「石原もナポレオオニュ管理下までは追ってこられない。エトワアル座はつつがなく興行再開できる。君は歌い続けられる。美海は、浅草と同じくらい賑やかな街だよ」  秀一郎は饒舌だ。石原、と発したとき、対抗心すら滲んで聞こえた。眼鏡の奥の瞳は正義に燃えている。  美海租界は、真丹南東部沿岸にある、異人居留地だ。日本国はグレイトブリテン王国などと共同運営しているのに対し、ナポレオオニュは単独で治めているんだったか。  寒さ厳しい北東部の満洲より過ごしやすいとも聞く。  その名のとおり美しい街。そこへ渡って、歌う。  ……どうにも想像がつかない。 「同じくらいだとしても、知らない人しかいない」 「すぐ顔見知りになれるさ。当然ナポレオオニュ語がわかる人も多いから、君の歌のよさが伝わるはずだ。旅券(パスポート)は要らないし、飯も口に合ったろう?」 「でも、」  無意識に一歩引いた。古い寄席の壁に踵が当たる。 「他のオメガも安全に暮らしている。もちろん、おれも一緒に行くよ。新婚生活だ」  秀一郎はだめ押しとばかりに囁いてきた。一転して甘い響きに、思考がとろける。  恋する彼と、美しい「東洋の玻璃」を歩き、八宝鴨やらに舌鼓を打つのは、天国にいるみたいに素敵だろう。 「横濱(ヨコハマ)から船に三日乗るだけだ。なに、切符も荷造りもおれに任せてもらえれば、」 「え、や、待ってよ」  しかし具体的な話に移られ、寸でのところで首を振った。  彼が「オメガは集まるのがいい」という意見の持ち主にしたって、突然過ぎる。まるで正月前に移住する勢いだ。強引なのも秀一郎らしくない。  ずっと歌えるよう、といっても、浅草でないと意味がない。 「憧れの松竹座も、僕を育ててくれたエトワアル座も、浅草にしかない。吉村おじさんやエレエヌ姐さんたちとお別れなんて、考えられない……」  瑠唯が尻込みすると、秀一郎ははっとして手を離した。 「気分転換になったらと思ったんだよ。ほら、美海亭で食事したときみたいに」  中折れ帽の下から、ちらりと窺ってくる。その視線には狼狽が感じられた。  どうやら瑠唯が大げさに受け取ってしまったらしい。これまでもそうだった。軟派な秀一郎の言葉を真に受け過ぎるな、と自分に言い聞かせる。 「そうだ、ナポレオオニュ公使館の社交ホオルで歌えないか、伝手に訊いてみよう。座を守りつつ、歌う場が欲しいだろう?」  秀一郎が仕切り直す。この提案には、素直に浮き立った。 「公使館の社交ホオル?」 「ああ。麻布だが、浅草から市電で通えるよ。うちの離れからならもっと近い」  麻布には華族の邸宅のほか、異国の施設も集まっている。  シャンソンの本場で育った異人や、西洋文化に通じる外交官たちの前で歌い、評価されれば、目標の松竹座への道が開けるかもしれない。 「確かに、美海租界より近いや」  くすりと笑ってみせれば、秀一郎も頬をほころばせる。  とはいえまた手間を掛けてしまう。深々と頭を下げた。 「こんな僕のためにあれこれ考えてくれて、ありがとう」 「……可愛い婚約者のためなら当たり前だよ」  秀一郎が大仰に言い、片目を瞑る。  自戒しても嬉しくて、襟巻をきゅっと抱き締めた。  しかし、優しい婚約者にも甘えられないことはある。  秀一郎を見送った後、支配人に時間を取ってもらった。さっきは踏ん切りがつかなかった一言を、声に乗せる。 「興行停止は、僕の歌が問題だそうです。僕が辞めれば、再開許可が下りるでしょう。……母ともども、長い間お世話になりました」  石原の追跡にエトワアル座を巻き込まない。  そのために、日常とやっと掴んだステエジとを、手放した。  歌は続けられそうといっても、胸にぽっかり穴が開いたみたいだ。そこを寒風が吹き抜けていく。秀一郎の襟巻を当ててしのいだ。  日曜、暇ができたのを逆手に取り、麻布へ足を向ける。 (離れに来ていいって言ってたし。秀一郎さんがホオルの件を交渉するなら、僕もついてって挨拶したいし)  いろいろ理由をつけて市電を乗り継ぎ、最寄りで降りた。  麻布も飲食店や遊興場はあるが、観音さま(寺)を中心とした浅草とは雰囲気が違う。昼間に徒歩だとひしひし感じた。瑠唯は緊張しつつ、トリコロオル旗を掲げた洋館目指して歩く。 (ん? あの着飾った男の子は)  ちょうど瑠唯の前を歩く者に、見覚えがあった。  瑠唯と変わらない背丈。艶やかな黒髪。凝った仕立てのカシミヤコオト。  公良だ。  彼もナポレオオニュ公使館へ向かっている。手には大割れ鞄。何か仕事の用だろうか。 (日曜に?)  公使館の裏手に回った彼につられ、瑠唯も角を曲がった。日陰の路地で誰もいない。  通用口前に立った公良の横顔は、上気していた。よく見ると呼吸も浅く、体調が悪そうだ。あえかに震える手で、獅子の顔を模した叩き金(ドアノッカー)を叩く。  扉が開き、長身の男が――秀一郎が、公良を招き入れた。心配げに腰を支えて。  バタン、と扉の閉まる音が大きく聞こえる。 (仕事だ、仕事)  心の中で繰り返したものの、以前のようにはもやもやは晴れない。 『単なる仕事さ』  秀一郎はそう言った。けれど。 (僕というものがありながら……軟派男! 本当に仕事か?)  居たたまれないし約束もないしで、結局公使館の外観を眺めるだけで帰った。

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