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第4話
美海に誘われた日以降、秀一郎の音沙汰がなくなった。
公使館の知り合いに瑠唯の紹介を断られたか。かけ合ってくれただけで充分だし、気にしなくていいのに。
それとも公良の相手で忙しいか。公良は大きな鞄を持っていた。一緒に満洲へ行ったのかもしれない。
つきりと胸が痛む。消えたはずの棘は、鋭くなって復活した。
一方エトワアル座は、根回しを経て、ノエル二日前に木戸を開くことができた。待ってましたと常連客が詰め掛けてくる。
瑠唯はその盛況ぶりを物陰から確認して安堵すると、早足で長屋へ引き返した。
寒風が吹く。秀一郎の匂いがかすかに残る襟巻に、首を埋める。
(……秀一郎、さん)
口の中で唱えても、長身のモボが駆けつけてはこない。
(秀一郎さんはきっと、親切を無下にした僕に愛想を尽かしたんだ)
浅草の日常より美海での新婚生活を選べなかったのが悔やまれる。石原が「役に立つオメガではない」と瑠唯を見限った頃、浅草に戻ってくることもできたのに。
――いや。親切な秀一郎といえど、男の欲を刺激し自らも発情するオメガが婚約者なんて、持て余すに違いない。これでよかったのだ。
「支配人が、ほとぼりが冷めたらまた働いてくれとさ。今年の年末年始はのんびりしてな」
「……うん。行ってらっしゃい」
深刻過ぎず振る舞ってくれる吉村を、今日も見送る。
ただ飯食いは肩身が狭い。ステエジに復帰できるならありがたい。その日に向け、小声でシャンソンの練習を重ねる。
昼過ぎ、木戸がかたかた揺れた。
(石原か?)
身体が強張る。彼は瑠唯の住む長屋の場所を知っている。つっかい棒はしているが……。
「瑠唯ちゃん瑠唯ちゃん、おいでなさいな。一日遅れのノエルよ」
訪問者が声を上げる。エレエヌだった。出勤前に瑠唯を励ましにきてくれたらしい。
細く息を吐き、以前母と住んだ長屋と同じく建てつけの悪い木戸を開ける。
ブッシュ・ド・ノエルでも分けてくれるのかと思いきや、エレエヌは手ぶらだ。むしろ瑠唯をどこぞへ届けるみたいに、路地へと連れ出す。
蝋石(ローセキ)で地面に落書きする子どもたちを避けつつ、訊く。
「どこ行くの?」
「着けばわかるわ。あ、憲兵さんのところじゃないわよ」
もしエレエヌに見放されたら泣いてしまう。形見の写真の母と同じ年頃のエレエヌの手を、きゅっと握り直す。
幸い、浅草の道は熟知しており、行き先が予測できた。
(この通りを抜けたら……)
視界が開ける。思ったとおり、以前秀一郎と訪れた瓢箪池だ。しかし、なぜ池に?
「エレエヌ姐さん、こっちこっち!」
首を傾げていたら、池の際で屈んでいた女性が、顔を上げて手を振ってきた。
エトワアル座の踊り子だ。私服で、何人かいる。木のみかん箱を四つ並べ、ノエルの飾りの残りをくっつけている。
エレエヌが瑠唯の手を引いた。
「歌って頂戴」
瑠唯は丸い目をますます丸くする。もしや、歌う場所を失った瑠唯のために、即席ステエジをつくってくれた――?
瑠唯の背中を、踊り子たちが「ほらほら」「憲兵さんもいないし」と押す。手づくりステエジに乗り上げた。小さいが頑丈だ。
(なんて温かい贈り物だろう)
感極まって涙ぐみそうになるのを、耐える。泣くとしっかり歌えないから。
聴いてくれる人がいる。瑠唯の愛でいいなら、惜しみなく分けてあげよう。
みかん箱を踏みしめ、感謝を込めて、息を吸う。
「Qui aime-t-il(あなたは誰を愛しているの)?」
瑠唯の低く掠れた歌声によって、浅草の街並みが玻璃へと様変わりした。
白い太陽。黒く底の見えないセエヌ川。石畳の広場。カフェオレの匂い。頼もしいのに物悲しくもある男の背中。無意識に手を伸ばす。
「Meme si c'est quelqu'un(たとえそれが誰であっても)」
レビュウ小屋のステエジと違い、周りも明るい。だが客席の壁際後方に当たる場所に、愛しい姿は見当たらない。
(秀一郎さん)
声には出さず、その名を呼ぶ。
瑠唯の身長に合わせて背を屈める仕草、瑠唯の反応を窺う悪戯っぽい笑い方、瑠唯を守ってくれるときの真剣な瞳、柔和な佇まいにふと滲む寂しさ。
「C'est moi qui t'aime le plus(あなたをいちばん愛しているのは私)」
悲痛な予感が喉を絞めにかかっても、なお歌う。
「Meme si qui tu es(あなたが誰であっても),」
口からこぼれるままに、歌詞を一部変えた。
「Je t'aimerai(いつでも、) toujours et pour toujours(いつまでも愛しています)」
情念をこめて歌いきる。
ゆっくりと浅草へ帰ってくる。カフェオレの匂いが、振り売りのおでん出汁の香りに変わる。
粛々とお辞儀した。屋外ステエジはしんと静まり返っている。人前に立つのは一週間ぶりなので、喉が鈍ったようだ。
(せっかく出勤前の時間を使ってくれたのに、僕の実力不足で興醒めさせちまった……ん?)
嗚咽が聞こえた。そんなに不快だったか。
おろおろ顔を上げれば、踊り子たちがすぐ近くに寄ってきていた。かわるがわる瑠唯の手を取る。
彼女たちの手はひんやりしていた。裏腹に、手の甲に落ちてくる涙は熱い。
『君の歌、涙が出たよ』
前に秀一郎が言ってくれた言葉を思い返す。
愛の歌が届くと、涙が出るらしい。
おそらく彼女たちは、ままならない、それでも手放すほうが辛い恋をしている。ステエジでは星のごとくきらめいてみせながら。
瑠唯は何も言えず、踊り子たちの手に手を重ねた。
(僕も、秀一郎さんへの気持ちを、手放したくない)
しみじみと再確認する。突然の求婚で驚いたし警戒もしたけれど、今は彼にもらったぶん以上に、あげたいと思う。迷惑でも甘えでもなく、愛を。
(それが、いちばん婚約者らしいことだよな)
平日日中にもかかわらずたむろしていた男たちが、ぱらぱら拍手してくれる。
彼らの後方、桜の木陰に、紺色の軍服が垣間見えた。石原だ。
(いつの間に来た?)
咄嗟に身構えるも、石原は回れ右した。距離があって断言はできないが、白目がちな瞳が潤んでいた気がする。
まさか、いつも無表情で機械的な彼にも、瑠唯の歌が響いたのか……?
そんなわけがない、という謙遜と、ではなぜ見逃してくれた、という疑問が交錯する。
「瑠唯」
答えが出る前に、逆方向から名を呼ばれた。それだけで指先が痺れる。
この声は決して聞き違わない。
甘やかな声を辿れば、ずいぶん久しぶりに感じられる婚約者が――秀一郎が微笑んでいた。サラリイマンの仕事はよく知らないが、外回り中に立ち寄ったのか。
「君の歌、もともとよかったのが、さらに素晴らしいね」
変わらず歌を褒めてくれた。ただ、その笑顔は完璧過ぎるというか、わずかな焦燥や戸惑いめいたものを覆い隠しているとも取れる。
数日と置かず喫茶店で向かい合っていたら、逆に違いに気づかなかったかもしれない。
「どうかしたの……?」
それで御礼より先に問いが出た。図星だったのか、秀一郎はロイド眼鏡の奥で瞬く。
エレエヌが気を利かせ、楽屋おしゃべりの種を仕入れたげな踊り子たちを引き連れていく。秀一郎は抜け目なく手を振った。覿面に踊り子たちの機嫌が直る。
ともあれ、秀一郎とふたりきりになれた。みかん箱ステエジに並んで腰掛ける。
――この一週間、何してたんだよ。
――婚約破棄したくなった?
それらは口に出さず、胸の底に沈める。求めてばかりでなく差し出したいと、さっき決めた。
想いを込めて笑いかける。
「あのさ。他に優秀な癸種が現れれば、石原も僕を諦めると思う。社交ホオルの件も大丈夫だから、仕事と公良坊っちゃんを優先してよ」
「……いじらしいことを言って、瑠唯こそどうしたのかな?」
秀一郎が中折れ帽の下で眉を寄せた。
これが僕なりの愛、と言葉にするのは照れるので、「どうも」と首を横に振る。
だが秀一郎は納得していないのか、
「平穏に生きたいと言っていたろう。おれは君を、安全で豊かな場所で、正しい知識がある者たちと過ごせるようにしてやりたいんだよ」
と普段より早口で告げてきた。
「それがオメガの幸せ……じゃないか?」
最後の一言は、疑問形だ。瑠唯を通して遠い誰かを見るような目をしている。それこそ瑠唯に瑠唯の母を見る吉村みたいな。
(いったい誰を見てんだ。――っと、妬かない。吉村おじさんと母さんだって男女の仲じゃなかったし)
すぐ活発になる胸の棘は、墨田川並みに見通せない奥底に押し込める。
秀一郎の眼差しはもどかしげだ。質問というより確認に近いと感じた。
しばし思案する。幸せだよと請け合ってあげたい気持ちと、美海行きを断った弁明をしたい気持ちが、せめぎ合う。
「ほとんどのオメガには、それが幸せだと思う。僕は、浅草で歌うのがいちばんだけど。シャンソン歌手は、イスパニア風邪で死にかけたときから守り続けた夢なんだ」
欲張ってどっちつかずな答えになったか。暮れ始めた陽が影を落とす秀一郎の横顔を、窺う。
秀一郎は目を閉じて、何やら考え込んでいる。
オメガの幸せ。オメガを守ることを使命とする彼にとって、最終目標と言える。それを徒に揺らがせてしまった? わがままで今度は婚約者を困らせている?
自信がなくなってきた瑠唯に、秀一郎が向き直る。決意を固めたような顔だ。
「それならよかった。実はね、瑠唯。改めて手もとの情報と照らし合わせた結果、君はオメガじゃなかったんだ」
「え……?」
「だから、君は自由だ。望む場所で歌える」
瑠唯は口を「え」の形に開けたまま、何も言えない。
オメガではなく、浅草で歌い続けられるなら、喜ばしいことだ。でも急に手を離された感覚で、却って心許なかった。
オメガではない。つまり、秀一郎が守るべき対象ではない。
婚約は破棄されず、オメガかどうかに限らず瑠唯を求めてくれているとも言えるが……。
「ただ、石原には絶対に捕まるな。いいね?」
「は、あ? オメガではない……んでしょ」
秀一郎らしくない矛盾した発言に、瑠唯の混乱が深まる。弱々しく訊き返せば、秀一郎ははっとした様子で補足した。
「皇国軍はまだ間違いに気づいていないんだ。おれが情報共有しておくよ」
「……ウィ」
それでも溜め息じみた了承しかできない。
オメガではなかった。何度目かに繰り返す。では単に、毎月押さえられないほど性欲が昂る、男好みの見目と体臭を持った、卑しい魔性だというのか。
自分がおぞましい。そんな身体で秀一郎のそばにいるのも憚られる。
(婚約、僕から破棄を申し出たほうがいいか?)
再確認したばかりの想いが揺らいだ。愛すること自体、秀一郎には迷惑かもしれない。
秀一郎が瑠唯の襟巻に手を伸ばしてくる。回収されると思いきや、きゅっと結び直された。
「担当の仕事もひと区切りつきそうだし、また君の歌を聴きにくるよ」
突き放したり甘く囁いたり、今日の秀一郎は掴みどころがない。
項垂れていたら、秀一郎が懐中時計を見た。
「じゃあ……、また」
と立ち上がり、前の通りにちょうど停まっていた黒い円タクに乗り込む。
あっさり走り去った。呆然と見送るほかない。
(甘い声なのに、胸が張り裂けそうだ……)
自分の身体に自分で腕を回しても、ちっとも温まらない。秀一郎と過ごした時間が、泡沫のように思えた。
ひと晩寝ても腑に落ちきらなかったものの、秀一郎が言うならオメガではないのだと呑み込む。
オメガでないなら、働ける。年末の人出で大忙しな仲見世で、日銭稼ぎすることにした。石原が現れても、「僕は癸種ではありません」と言ってやればいい。
各店に、軽食や飲料の材料をせっせと補充して回る。
「Hey! Can I buy you a drink? 紅茶、飲みませんカ」
そのさなか、浅草観光に来たらしい異人に声を掛けられた。
実ははじめてではない。決まって男なので、これまでは「言語がわかりません」を前面に出して退散していた。
「……イエス。荷運びの後でよければ」
今日は、思いきって頷いてみる。
(ブリテンの人だろう。オメガについて何か知ってるかも)
秀一郎の使命を手伝えるなら手伝いたい、という結論をひとつ出したのだ。婚約者として内助の功……とまでいかずとも、情報があれば少しは貢献できよう。
赤毛の異人は機嫌よく、雷門で待っていると言ってくれた――が。
いざ仕事を終えて向かってみれば、その姿はなかった。人が多くても赤毛の異人を見逃したりはしない。待たせ過ぎたか。
「来年はもっと景気が良くなってほしいなあ。満洲にいっぱいあるっていう資源活用してさ」
「けど、異国もその資源を狙ってるとよ。本格的にどんぱちすっか? 皇国軍は強いぞぉ」
世間話は盛んだが、異国語は聞こえてこない。徒労の息を吐く。
そんな瑠唯の前を、中折れ帽の青年が通り過ぎた。
(秀一郎さん?)
ばっと顔を上げる。しかしその後ろ姿は秀一郎と似ても似つかず、二重にがっかりする。
(中折れ帽被った人が、何人いると思ってるんだ)
自嘲を抱えて帰路に就く。
それから一日おきに、異人に誘われた。この頻度はかつてない。発情期を控えたフェロモンのせいかと思いかけて、「オメガじゃない」と首を振る。
情報を引き出して秀一郎に見直されたい一心で、誘いに乗った。
なのに相手が野犬に追い掛けられてはぐれたり、立ち食い蕎麦の汁をこぼされて着替えに帰らねばならなくなったりと、うまくいかない。
(まるで誰かにわざと妨害されてるような……)
仲見世の人込みから、ほんのりピイスの煙が香った。
「秀一郎、さん?」
無意識に声に出て、口を手で押さえる。この銘柄を吸うのだって秀一郎だけではない。
何より、婚約者ならこそこそする必要はない。
吉村によれば、秀一郎はエトワアル座の興行再開以来、一度も来ていないという。
『また君の歌を聴きにくるよ』
もしやあれは、優しい嘘と別れの言葉だったんじゃないか?
籍はまだ入れていない。一緒に生活し始めてもいない。
(美海料理を食べながら名門華族の坊っちゃんの噂話をしたのも、純喫茶に通って異国語の資料と睨めっこしたのも、石原を撒いて甘酒を飲んだのも、軟派な秀一郎さんには取るに足らないこと……、っ!)
物思いに沈んでいたら、年末の買出しやレビュウ見物帰りの者とは思えない、ものものしい視線を感じた。瑠唯を襲おうとする男の卑しさも混じっている。
怖ろしくて足が動かない。視線だけめぐらせれば、
「次に俺と会うときは、俺に従え。抗うと死ぬことになる」
死角から忠告が飛んできた。石原の声だ。
瑠唯からステエジを奪うに留まらず、命まで手玉に取って従わせようというのか。
石原には、ついていかない。そもそも癸種ではない。
「僕は、死ぬのも、怖くない……」
裏腹に、虚勢すら満足に張れない。
十一年前にイスパニア風邪で死にかけた記憶がよぎる。理不尽で、辛くて、孤独だった。
数拍後には石原の視線から解放されたが、ぐったりと疲弊した。
大晦日は例年どおり、吉村と二人の年越しだ。秀一郎はやっぱり現れない。
(餅を焼く役、足りてるのか。他の男の子と過ごしてるんじゃないだろうな)
除夜の鐘の音を聞くも、煩悩は消えない。もやもやちくちくする。
(待てよ。公良坊っちゃんは、オメガとか?)
年越し蕎麦を啜りながらある可能性に思い至って、噎せた。吉村が「何してんだ」と背中をさすってくれるが、なかなか収まらない。
公使館で見かけた公良は、体調がよくなさそうだった。その原因がオメガの発情期だとしても、説明はつく。公使館で保護しているのかもしれない。
(それで僕に会いに来られないだけ……なんて)
つい自分に都合よく考えてしまう。公良がうらやましくすらあった。
就寝後、吉村のいびきが聞こえてくるのを見計らって、せんべい布団を抜け出す。
半纏と襟巻を纏い、長屋前の路地で膝を抱えた。しんとした夜空を見上げ、恋の歌を繰り返し口ずさむ。
「Je t'aimerai(いつでも、) toujours et pour toujours(いつまでも愛しています)」
恋をしたら、成就させたくなる。
でも、叶わないなら、相手が憂いなく生きていてくれればいい。自分が想いを手放せず、苦しもうとも。
(そこまでシャンソンみたいじゃなくてもよかったんだけど)
――そうして感傷に浸っていたせいで、身体が冷えたか。
新年早々、体調を崩した。身体が熱いし、怠い。息も苦しい。布団に包まるほかない。
「葛根湯(かぜぐすり)、ちゃんと飲めよ」
「……うん。仕事、手伝えなくてごめん」
吉村は午前中から浅草寺の初詣客相手のテキ屋仕事があり、瑠唯の看病にかまけられない。
平気な素振りで送り出す。今までだって、毎月の体調不良を独りで耐えてきた。
……なのに、瑠唯の髪を梳く秀一郎の手つきをふと思い出してしまい、寂しくなる。
秀一郎にもらったハンケチを冷水に浸して額に当て、彼の手の代わりにした。
そのうちに瞼が重くなる。眠るのが快復の早道と、抗わず意識を手放した。
「秀一郎さん……、ん?」
どのくらい経ったのか、自分の寝言と隙間風で目を覚ます。
まだ熱は下がっていない。だが鼻は利く。鶏がら出汁と生姜の匂いに誘われ、うっそり上体を起こしてみれば。
枕元に、粥の丼があった。ほわりと湯気が立っている。
瑠唯はごしごし目を擦った。
(吉村おじさん? なら、木戸の閉め方を心得てるよな)
寒風は、建てつけのよくない木戸から吹き込んでいる。毎日出入りする吉村ではない。
(じゃあエレエヌ姐さん……も、正月公演中だし)
料理する元気はないのでありがたいのだが、感謝すべき人が思い当たらない。
再度粥を見る。汁が多く、具も梅干しや卵でなく鶏肉と搾菜(ザーサイ)を使った、真丹風だ。
(まさか、秀一郎さんが来てくれた?)
優しい彼は、婚約者が臥せっていると知れば正月行事を抜け出してきてもおかしくない。
ではなぜ声を掛けない、とは思うものの、夢を見るのは自由だ。
「いただき、ます」
正座して、レンゲを口に運ぶ。身体がじんわり温まり、安心した。
(できたてってことは、あと数分早く目覚めてたら秀一郎さんに会えたのかも)
途端、寂しさがぶり返す。出会った頃は心配されるとこそばゆかったのが、すっかり甘やかされてしまった。
自分を励まそうと、シャンソンを歌う。気管支が腫れて咳込みながらも、歌う。それでも。
「……はあ。会いたい」
歌えば父と母の不在も埋められたのに、秀一郎への想いは紛らわせない。
愛を歌いたい。とりわけ秀一郎に歌ってあげたい。でも秀一郎には、瑠唯の愛は不要だろうか。
二日後、雑用仕事に復帰すべく、エトワアル座へ向かった。体調は全快ではないが、普段もこの程度なら働いている。
懐かしく感じる楽屋口には――石原が待ち構えていた。
新年から見たくない顔だ。まだ秀一郎に情報共有されていないのか。
「これ以上の猶予はない。俺と来い」
「僕は癸種ではありませんよ。調べ直してくだ、さ……」
毅然と切り返そうとしたが、できなかった。
石原の白目がちな瞳に射抜かれるや、急速に熱が上がり、動悸がした。腰の奥が疼く。
(なん、で……オメガじゃない、のに。ない、よな?)
疑念が過ぎる。オメガでないと説明できないような衝動だ。
「貴様は癸種だ。超甲種の俺に反応し、発情が活発化している」
瑠唯の胸中を見抜くかのごとく、石原が断言した。
やっぱり、これは発情なのか――?
「この様子を示せば、匿名の情報に踊らされかけた上官も、貴様が癸種と認めよう。よって発情期を待っていた」
石原が続ける。それで先月の発情期が終わって以降、無理には連行しなかった?
途中「状況が変わった」と言い出したのは、オメガを保護する秀一郎が現れたから?
何にせよ、今日の石原は力ずくで瑠唯を連れ去らんという勢いだ。卑しい男たちより、彼一人が怖い。小屋の壁伝いに、人出の多い正面口へと逃げる。
「あんたとは、行かないって……っ」
「貴様に選択権はない。日本国の繁栄のためだ」
がしりと腕を掴まれ、容赦なく引っ立てられた。
年始の劇場通りは、いつにも増して人が溢れている。見世物みたいで嫌だ。実際、行き交う人たちは瑠唯をじろじろ見てくる。瑠唯の茶色い髪や、金星色の瞳を。
(これが僕の、宿命だってのか)
エトワアル座に戻ろうともがくのを諦める、直前。
どんっと石原に体当たりする者があった。
人込みから急に躍り出てきたので、さしもの石原も「ぐぬ」とよろける。
「その子から手を引きなさい」
憲兵を怒らせるのも厭わず、瑠唯を取り戻そうとしてくれたのは。中折れ帽にロイド眼鏡、長身の二枚目――。
秀一郎だった。むしろ秀一郎以外にいない。
無意識に手を伸ばすも、黒い影に阻まれた。
「断る」
石原と秀一郎が取っ組み合う。どちらも譲らない。
たちまち「喧嘩だ!」と取り囲まれた。吉原(よしわら)の刃傷沙汰ではあるまいし、男たちはみな興奮して、異様な雰囲気だ。
「軍人さんよぉ、こんなとこで負けてちゃ満洲行かせてもらえんぞ」
という野次には、石原が「煩い」と吐き捨てる。
片や秀一郎は、拳をことごとく石原に避けられる。
(体調がよくないのか? もしや、僕の看病で風邪が伝染っちまったんじゃ)
秀一郎のほうが俊敏なはず。だが今は足がもつれ気味で、息も上がっている。
「『発情』して(「ラット」になって)いるな。やはり超甲種か」
「君こそ。かち合うと訓練も利かないだろう?」
石原も石原で、目が充血していた。
(二人とも、超甲種とやらなの)
瑠唯が首を捻る間に、石原が腰の軍刀を抜く。野次馬は巻き添えは御免とばかりに、いっせいに後じさった。
秀一郎の登場でますます熱っぽくなってうずくまる瑠唯のみ、取り残される。
「貴様も拘束すれば一石二鳥である。貴重な癸種を異国へ攫わんとする売国奴め」
瑠唯たち三人にだけ聞こえる大きさの声で、石原が毒づいた。
瑠唯の心臓が大きく跳ねる。秀一郎がしきりに美海租界へ誘ってきたのは、異国――ナポレオオニュに資するため? それが、本当の使命?
「秀一郎さんは、僕を守ってくれたんでしょ?」
掠れ声で問う。秀一郎と目が合うも、逸らされた。
胸の棘がざわざわと増殖する。
その隙に石原が軍刀を振るった。歩兵用の短い刀身でも、腕が長い。秀一郎は避けきれず、太腿を抉られた。血が飛び散り、がくんと頽れる。
「秀一郎さんッ!」
瑠唯のほうが悲鳴を上げた。秀一郎ににじり寄ろうとするも、喉もとを軍刀の鞘で押さえられ、叶わない。
「騙されるな。この男は、癸種に『二重(にじゅう)種(しゅ)』の子種を仕込むことのできる、超甲種である。今まで何人の癸種を誑かし、種つけてきたか」
復活種? 子種を仕込む? オメガ以外にも稀少な体質の男――「男を孕ませられる」男が存在し、秀一郎がそれだと?
秀一郎本人は、そんな素振りも、話も、したことがない。
今だって黙りこくっている。傷口を圧迫して止血を試みる顔は……、途方に暮れているように見えた。
「種つけなぞしていない。信じてくれ」
秀一郎が、やっと一言絞り出す。相変わらず目を伏せている。申し訳なさそうに。
(秀一郎さんも超甲種ってのは、否定しないんだ)
重要なことを隠されていた。男に絡まれる嫌悪感もよぎる。
とはいえ、怪我をしてまで石原の前に立ちはだかってくれているのも事実だ。きっと理由があるに違いない。瑠唯がオメガなのも「時間をかけて伝える予定だった」と言っていた。
(伝える「予定」?)
あの夜の秀一郎の言い回しが、今さら引っ掛かった。
まるで段取りしていたみたいだ。――もしかして。
瑠唯の体調不良に、他の男とは違う理性的な対応ができたのは、もともとオメガの特徴を知っていたから。
石原から守ってくれたのも、親切に異国の情報を調べてくれたのも、食事に誘ってくれたのも、求婚さえも。
「ぜんぶ、僕を異国へ連れ出す、任務かなんかだったの……?」
力なくつぶやく。
男の子を囲っては別れている、という噂。華族の御曹司が無名歌手の瑠唯に突然求婚して、その割に一緒に暮らすでもないのも、辻褄が合う。
秀一郎も、結局は石原と同じだったのだ。
(そうと知らず恋しちまったなんて)
ふ、と自嘲の笑みが漏れる。そんな悠長にしていられないのに。
当の秀一郎は、なぜか苦々しい顔で首を横に振った。
「違う。違うよ、瑠唯。おれは君の歌に、」
弁明は途中で途切れる。軍刀の切っ先を首筋に当てられてしまった。
「問答無用。両者とも連行する」
石原は少ししゃべり過ぎた自覚があるようだ。瑠唯の腕を掴み直す。かと思うと、ずいっと顔を寄せてくる。
「俺なら、今後もここで歌えるようにしてやれる」
瑠唯は眉を顰めた。瑠唯を上官のもとへ連行するまでが彼の職務ではないのか。
(だから秀一郎さんより石原を選べ、って?)
石原には嫌悪しかない。だが、改めて考えたら秀一郎のこともよく知らない……。
「――っ!」
瑠唯の逡巡を、飛んできた白い何かが切り裂く。
アコオディオンの鍵だ。石原のこめかみに当たった。その機を逃さず、石原の手を振り払う。さっき引っ立てられたときより力が入っていなかったので助かった。
顔を上げると、野次馬の最前列に吉村がいた。騒ぎを聞き、大事な楽器の部品を投げたのか。楽団員が「あんたが怪我するよ」と腰を押さえている。
「瑠唯ちゃん、こっちよ!」
同じく楽屋から駆けつけたらしいエレエヌの声も続く。野次馬の輪に切れ目ができており、路地の向こうで黒い円タクが扉を開けているのが見えた。
秀一郎と乗ったら、当分浅草には戻れないかもしれない。――それでも。
(秀一郎さんは、僕の婚約者だ。今、秀一郎さんを守ってあげられるのは僕だけ)
シャンソンみたいな恋。方法はただひとつ、自分から身を投じること。
軍刀を掴んで退ける。脚を怪我した秀一郎を支えて、立ち上がる。
「瑠唯、手から血が、」
「あなたを信じる」
瑠唯が自分を選んだのが信じられない、という顔の秀一郎に念を押し、円タク目指して走り出した。
「Vivre sa vie(思うままに生きるのよ)!」と、エレエヌの声が背中を押してくれる。
吉村は視界の端で頷くのみだが、通じる。瑠唯の母に次いで瑠唯の選択も肯定する顔だ。
「……結納金なんざ一銭も要らねえよ。瑠唯を、頼んだ」
あと二メエトル。路地の狭い口を野次馬が塞ぐ形になり、石原を足止めする。
あと一メエトル。秀一郎が瑠唯を抱き寄せ、歯を食いしばって加速した。動きを封じるべく脚を傷つけられたのをものともしない。
「瑠唯、すまない。君を守ると約束したのに」
彼が異国の手先なら、こんなに目立っては活動に支障があるだろう。
なのに瑠唯の危機を見て見ぬふりしないでくれた。そもそも、何かあればすぐ駆けつけられるよう近くに潜んでいたのではないか?
瑠唯は、愛を込めて微笑んでみせた。
「秀一郎さんがいれば幸せだよ」
円タクの後部座席に転がり込む。すかさず発進する。
見納めな予感がして、浅草の街並みを目に焼きつけた。
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