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第5話

 秀一郎の正体と目的。石原と対立する理由。瑠唯はオメガなのかオメガではないのか。  訊きたいことは山ほどあるが、秀一郎の腿の出血がひどい。当てたハンケチもみるみる赤く染まる。さっき走ったせいで傷口が拡がったのかもしれない。 「瑠唯、手、大丈夫か」 「僕のは舐めときゃ治る。けど、救急病院に向かって!」 「公使館……いや、横濱の領事館のほうへ行ってくれたまえ」  瑠唯の指示を、秀一郎が訂正した。痛みと失血で蒼白なのに、異国の手先だと医者にかかれないのか? 「じゃあ薬局に寄って――、え?」  もどかしさ一杯で妥協案を伝えようとして、気づく。  運転手は、数少ない職業婦人だ。それも先月と先々月の発作時に乗せてくれた長身の女性。偶然ではあるまい。制帽の下の顔をよく見れば、異人と思われた。 「お仲間か」 「ああ。ナポレオオニュの組織の一員だ」  秀一郎ははぐらかさず頷く。運転手が咎めるように車内ミラアを見上げたので、それ以上は訊かないでおく。ひとまず味方ならよしとする。  石原を撒くのも兼ねてかなり速度を出しているが、横濱は遠い。  脂汗を掻く秀一郎に、せめてと子守唄を歌ってあげた。すると秀一郎が、瑠唯の手をひしと握ってくる。 「君の歌は、本当にいい。本当だよ……」  歌を褒めたのは任務のためではないと、うわ言のように言う。 「わかったから、安静にしてて」  つい苦笑した。秀一郎こそ自分の心配をしてほしい。  歌が少しは効いたか、秀一郎の眉間の皺が薄れる。よくよく見ると柔和なだけでなく凛とした顔立ちだ。  円タク改め秀一郎が所属する組織の車は、桃郷湾に沿ってひた走り、西洋建築が建ち並ぶ横濱に入った。  坂の上のナポレオオニュ領事館は、赤煉瓦の荘厳な洋館だ。正月休みでひっそりしている。運転手は慣れた様子で裏手に回り、通用口の錠を開けた。 「着いたよ。もうちょっとだけ辛抱して」  瑠唯と彼女で秀一郎を左右から支え、隅の簡素な木製階段を下りていく。  地下には人がおり、秀一郎を見るなりばたばたと治療の準備を始めた。ナポレオオニュ語が飛び交う。秀一郎も運転手にしきりに何か訴えている。早口で瑠唯には聞き取れない。 「Prenez soin de lui(彼を頼むよ)」  秀一郎は運転手が何度も頷くのを見届けてから、長い廊下の奥へと消えた。  領事館と組織の関係は不明だが、早急に対応してもらえてほっとする。  同時に、今になって手のひらの傷の痛みを自覚した。深呼吸して紛らわせる。 (秀一郎さんに比べりゃどうってことない。……?)  隅で待っていようとしたら、運転手に腕を引かれた。  「だいじょうブ」と、瑠唯を地下の部屋のひとつに招き入れる。手当てもしてくれた。  どうやら秀一郎の采配らしい。ありがたく留まる。職員の休憩用か、朝日家の離れの寝室をふた回りほど小さくしたような部屋だ。 (そう言えば、熱っぽいのだいぶ収まってる)  包帯を巻いた手がじんじん発熱するきり。あの夜みたいに臥せずとも平気そうだ。 (やっぱり僕はオメガじゃない、秀一郎さんの情報が正しいのか?)  猫脚椅子にちょこんと腰を下ろす。詳しくは、秀一郎が快復してから尋ねよう。  大事な日にと着ていた贈り物のシャツをなぞり、重傷ではありませんように、と祈った。  その夜。秀一郎は無事に傷を縫合できたものの眠り込んでいる、と聞かされた。  瑠唯は泊まって彼の目覚めを待つことにした。組織と聞いて身構えたが、みな親切だ。 「けど、眠れない……」  寝ているうちに秀一郎がまた姿を眩まさないか。石原に見つからないか。憂慮は尽きない。  何度目かわからない寝返りを打ったとき、聞き覚えのある声がした。 (え? でも、ここにいるはずない)  一度聞けばほぼ人の声を憶えられる。とはいえ自信を持てず、耳を澄ませる。 「……あっ、……はぁ、……もち、いいっ」  やっぱり、公良の声だ。それもあられもなく喘いでいる。  反射的に掛け布団を被った。気まずい。軋むのは瑠唯の寝台か、別の部屋の寝台か。秀一郎が覚醒したらすぐ参じたくて、扉を半分開けておいたのが失敗だった。  仕方なく掛け布団から抜け出し、扉を閉め切る。はああと息を吐く。 (円宿(つれこみやど)じゃあるまいし。秀一郎さんが療養してるって、知らないのか?)  彼がノエル前に公使館にいたのも、異人の恋人と会うためだったか。呑気なものだ。  ――いや。再び寝台で丸くなり、大晦日に浮かんだ仮説を思い起こした。 (公良坊っちゃんがオメガで、組織に預けられたとして。どう扱われる?)  石原の「今まで何人の癸種を誑かし、種つけてきたか」という一言も浮かぶ。 (ノン、あの秀一郎さんがオメガにそんなことさせまい)  あり得ない話だと、考えるのをやめる。でも胸騒ぎは収まらず、明け方まで眠れなかった。  鈍い痛みで目を開ける。  手の包帯に血が滲んでいた。昨夜じたばたし過ぎたか。  予備の包帯を使って自分で巻き直していたら、足音が近づいてきた。 (秀一郎さん?)  ……ではなく、秀一郎を超える大男が顔を覗かせた。  まだ寝台にいた瑠唯は思いきり見上げる恰好になるも、茶色の猫っ毛と蝶ネクタイ、ふくよかなお腹で威圧感を中和される。若く見える丸顔だが、案外歳上だろう。  カフェオレとバゲットサンド――朝食を載せた銀盆を、傍らの卓に置いてくれた。 「どうゾ」 「Merc(ありが)……あれ、屋台の?」  下げかけた頭を、思わず上げる。  前に秀一郎と食べた蕎麦屋台の主人と、同じ声だ。 (その前にもどこかで聞いたような……)  大男は微笑みを崩さない。瑠唯をじっ、と見るだけ見て去っていくが、間違いない。 (昨日から、会ったことある人ばっかりだな)  秀一郎が組織の一員として、瑠唯を誑かそうとしていた証拠だ。  胸に棘と甘さが同時に生まれる。まんまと浮かれた自分は滑稽だが、秀一郎が任務からはみ出ているとしか思えない記憶もあった。  ハンケチを差し出してくれたり、美海へ連れていく機会は何度もあったのに浅草に帰らせてくれたり、衆人環視の中で石原に対抗してくれたり。  早く本人と話したい。ひたすら快復を祈って昼が過ぎ、夜が来た。  今夜も寝つけずにいたら、 「瑠唯。起きてるかな」  待ちに待った声が聞こえた。掛け布団を跳ね飛ばして寝台を降り、扉を開ける。 「ウィ! 気分は……」  しかし何も言えなくなった。  身体をすべり込ませてきた秀一郎は、寝間着のままで、片脚を引き摺っている。  にもかかわらず、瑠唯の包帯が巻かれた手を取り、「痛かったろう」と撫でてきたのだ。それだけで、ちりりと指先が熱を持つ。 「僕は、大丈夫。秀一郎さんこそ、もう歩いて平気なの」 「ああ。輸血もしたし、『アルファ』だからね」  秀一郎は瑠唯の反応を知ってか知らずか、猫脚椅子を扉の際に持っていって腰掛けた。瑠唯には「寒いから」と寝台に戻るよう促す。  物理的な距離を寂しく感じるも、それより先に聞くべきことがある。  深呼吸して、切り出す。 「アルファって、何? 超甲種と同じ?」  瑠唯の問いに、秀一郎はゆっくり瞬きしたのち、答えた。 「男の中に極少数いる、オメガを孕ませられる者だよ。オメガと違って定期的な発情期はないが、オメガのフェロモンに刺激されて発情状態(ラット)になる」  アルファの彼らも、発情する。それで石原と揉み合ったとき、どちらも本調子でなかったのか。  改めて、こぢんまりした部屋の端にいる秀一郎を見た。瑠唯を怖がらせないようにしている気がする。 「ってことは、僕はやっぱりオメガなんだ」 「……ウィ。ただ、おれたち『アルテミス』のアルファは、発情をなるたけ律する訓練を積んでいるから、安心してほしい」  秀一郎も認める。瑠唯は、オメガだった。  そして秀一郎は、アルファだという。アルテミスという名の組織には、他にもアルファがいるらしい。結構な規模のようだ。 「秀一郎さんは、怖くないよ」  それでもこれは自信を持って言える。先月も先々月も、彼は瑠唯を尊重してくれた。  卓上洋灯の淡い照明でも、秀一郎の口もとがほころんだのがわかる。しかし、一拍後には強張ってしまう。 「発情期のオメガは、アルファの近くに一定時間いると発情が重くなる。黙っていてすまないね」  言われてみれば、彼と出会って以降の体調不良――発情は、症状が強く出た。  それでよく懐中時計を確認していたのか。構わず接近してきた石原とは正反対だ。  瑠唯は首を横に振ろうとしたが、秀一郎が矢継ぎ早に弁明する。 「詳しく話すのは後でいい、発情期も安全に休める場所へ連れていくのが先だと考えていた。その結果、君から歌う場所を奪ってしまった。すまない……」  秀一郎が、くしゃりと髪を掻き乱す。軟派ぶりは鳴りを潜め、苦悩が伝わってきた。 「せめて、今夜は何でも訊いてくれたまえ。何でも答えるよ」  歌って、癒してあげたい――。こみ上げる衝動を抑え、尋ねる。 「奪ったのは石原だよ。秀一郎さんもあの男も……ナポレオオニュも日本国も、オメガを求めてるんだな? 秀一郎さんは日本人なのに、なんで異国に協力するの」  瑠唯だけ知らずじまいにはなりたくない。 「少し長くなるが」 秀一郎がさらに俯いた。ロイド眼鏡のない端正な顔に、翳りが差す。 「おれは中等科(ちゅうがく)時代に一度、理性を失くして同級の男に襲い掛かりそうになったことがあってね。遠巻きにする学友の目といったら……。居たたまれなくて、遠くナポレオオニュへ留学した。医学の進んだソルボンヌ(大学)で、自律療法でもないかと調べていたとき、また初対面の男に劣情を催した」 「それは……怖かったでしょ」  我がことのように胸が痛んだ。  自分が自分でなくなったみたいな状態に、不安になるのはオメガもアルファも同じだ。 「そのオメガの彼ほどじゃないがね。そこに大学職員が駆けつけ、おれがアルファだと教えてくれた。救われた思いだった」  秀一郎がしみじみ言う。日本国とナポレオオニュで周囲の対応が違い、ナポレオオニュに恩を感じているらしい。  オメガを保護すれば、アルファを守ることにもつながると言えそうだ。 「日本国でも、アルファとオメガが普通に知られてたらいいのに」 「いや、ナポレオオニュでも知るのはごく一部の者のみだよ。悪用されないように」  悪用、とは。顎に手を当てた。 「アルファとオメガについて、古い記録を辿れば、千年前の時点ですでにそれらしき記述があるが」 「千、年前?」  秀一郎は説明を続ける。ひとまず耳を傾ける。 「具体的に認識されたのは、二十七年前の日露戦争の折だ。なぜ戦力の劣る日本国が大国に勝てたのか。探っていくとひとつ、『死んでも死なない兵士』の存在が浮かび上がった」  ごくりと喉を鳴らした。  死んでも、死なない。怪奇話じみているが、秀一郎は大真面目だ。 「その十年後の世界大戦で各国が検証して、異様に頑丈で回復力の高い、まるで蘇りの力を持つ者がいる、とわかった」 「蘇りの力!?」 「彼らは男を孕ませたり、男にして孕んだりできる。その生殖に関わる器官が驚異的な回復の働きもするらしい。おれたちは『フェニックス』と呼んでいるよ。日本国では『復活種』だったか」 「復活種……」  瑠唯は、秀一郎が口にした単語を繰り返すしかできない。  遥か昔より存在したが、研究が進んだのは最近のことという。それはみな知らないはずだ。 『蘇れたんじゃないかな』  ふと、美海料理を食べに出掛けた日、秀一郎が織田信長をこう評したのを思い出す。 (根拠のある説だったんだ)  さりげなく復活種の情報を瑠唯に触れさせていたとみた。策士だ。 「実感がないだろう。だが事実だよ。より頑丈なのがアルファで、より相手を回復させられるのがオメガだ。皇国軍は兵数倍増も同然と、甲種からアルファを見つけだしては激戦地へ送っていた。アルファは決まって甲種でね。おれの、父も」  秀一郎が虚空を睨む。  朝日邸で見掛けた初老の男性が、秀一郎の父ならば。戦地で文字どおり何度も死ぬ思いをして、心身を擦り減らしたに違いない。 (蘇れるゆえに、終わりのない死地……)  質実剛健な甲種の男が今なお苦しむとは、よほどのダメエジである。  帰還はできたものの、生まれていた我が子――秀一郎さえ、その心を癒すことはできなかった。 (秀一郎さんも、ずっと寂しい思いをしてきたんだ) 「発情が体調不良と思われて丁種不合格になりやすいオメガも、再検査して召集した。ただ、異国の地でどんな目に遭ったか……」  発情は突然だ。敵兵の前で発情期が来てしまったオメガがどうなるか、想像に難くない。  にもかかわらず軍が復活種たちを駒のように扱うのが、秀一郎は納得いかないのだ。  悲壮な目をした秀一郎を抱き締めてあげたいが、遠い。 「今後、満洲の権益をめぐって、真丹やナポレオオニュと戦争になるかもしれない。それに備えて軍が復活種を集めている。異国に情報が漏れないよう水面下で」  そういうことか。石原が執拗に追ってくる理由がわかって、ぞっとした。  一方の秀一郎は顔を上げ、凛と言う。 「おれはそれを阻止したい。復活種兵がいなければ、無茶な作戦自体やめてくれるはずだ。復活種以外の皇国民にも利があるだろう? 幸い、異国は復活種――フェニックスの存在を把握し、保護に動いている。大学でおれを助けてくれた恩人も、保護組織アルテミスの一員だったんだ。東洋のオメガを安全な美海租界に招いていると聞いて、協力しようと決めた。アルファなら発情によってオメガを判別できるから」 「そうだったんだ……」  秀一郎の使命の全貌が明らかになった。  なんと気高い取り組みだろう。隠されていたのも許せてしまう――いや。  一部でも打ち明けてほしかった。人知れず行う必要のある任務だとしても、ひとりでぜんぶ背負うことはなかろう。 「美海に誘ったとき、話してくれたらよかったのに」 「ふふ。求婚してもなびかなかったのは、君がはじめてだよ」  期待に沿えなかった引け目でもごもご言えば、秀一郎が片眉を上げた。 「最初はオメガをもう一人見つけられた、くらいだった。でも、他人ばかり心配して、惜しみなく愛を歌う君と過ごすうち、はじめて任務で後ろめたさを覚えた」  熱っぽい言葉を紡がれたのに、胸がちくりとする。  秀一郎が「自分はアルファだ」と知ったのが留学時代となれば、十年近くオメガの保護役を務めた計算になる。 (僕にしたみたいに、甘い言葉と仕草で美海へ誘ったわけか)  瑠唯がはじめてと言われても、嫉妬が湧いた。  そんな胸中に気づいているのかいないのか、秀一郎はやわらかい声色で続ける。 「瑠唯がおれと美海へ行くより浅草で歌うのを選んだのは、結構こたえたが」 「それは急だったからで、」 「自由に歌わせてやりたいとも思った。公使館の社交ホオルで歌えないか、ちゃんとかけ合ったんだ」  そう言えば、連絡が途絶えて愛想を尽かされたと落ち込んだ。あれは何だったのだろう。 「そうしたら、本来の担当である公良坊っちゃんを早く保護しろとせっつかれて……やはりはじめて、アルテミスに疑問を感じた」  話が意外な方向に転ぶ。秀一郎の表情も再び険しさを帯びている。 「あの子もオメガだったんだ」 「ウィ。ゆえにおれは三木商会に入った」  仕事の一環、と秀一郎は言っていた。  律儀に公良を異国へ誘いつつも、皇国軍の駒扱いに対抗して保護を始めたはずがいつしか組織に駒扱いされていないか? と訝しんだらしい。 「一度迷うと、美海租界に連れていったオメガたちは幸せか、確信が揺らいだ。瑠唯には必ず幸せに、望むように生きてほしい。だからこれまでと違って陰から見守ろうと考えた」 「それで突然、『君はオメガじゃなかった』なんて言ったの?」  ここぞと追及すれば、秀一郎が神妙に頷く。 「あまりうまくいかなかったね。君は異国のアルファの誘いにほいほい乗るし」 「え? 僕がいつ……、もしや年末に仲見世にいた異人さんたち、アルファだった!?」  声が裏返る。異人に心当たりがなくはない。しかし彼らがアルファとはこれっぽっちも思わなかった。ナポレオオニュ以外の国のオメガ保護役ももぐり込んでいるというのか。  何百年も戦場にならなかったゆえにその名がついた、桃郷に。 「全員ではないよ」 「全員災難に見舞われて、ゆっくり話せませんでしたけど」  情報収集が進展しなかったのを思い返せば、秀一郎は「念のためさ」と開き直る。  瑠唯としては困りものだが、黒幕が判明してくすぐったくもあった。  陰から見守ってくれていたのなら――。 「お粥、ご馳走様でした」  礼を言ってみると、秀一郎は「口に合ったかな?」と頬を掻く。あれは夢ではなく現実だった。  会えなかった期間の寂しさが、ほどけていく。瑠唯は独りではなかったのだ。  心の距離が近づいたと思えたのも束の間、秀一郎が扉を窺う。真剣な顔で向き直り、 「で、だ。瑠唯。改めて、オメガでないふりをしてくれないかな」  などと言い出した。 「そうすれば、皇国軍もアルテミスも君を追わない」 「でも、石原も領事館で会った人も、僕のフェロモンに気づいてるでしょ」 「今は発情が収まっているはずだ」  指摘はすぐさま切り返される。確かにいつもより早く通常の体調に戻った。 「怪我の治癒のほうに器官が働いた結果だと思われる。それを逆手に取って、オメガではなかったと周りに思い込ませるんだ」  瑠唯は頷きかねた。秀一郎が瑠唯をオメガの宿命から解き放とうとしてくれているのはわかる、が――。 「組織の保護対象じゃなくなったら、秀一郎さんとは会えなくなるの」  秀一郎の切れ長な瞳が、夜闇にきらめく。 「そんなこと、って思った?」  でも瑠唯にとっては「そんなこと」じゃない。話す時間が長引き、甘く痺れてきた指先を握り込む。 「いや。ここまで聞いても、そう言ってくれるのかと」  対する秀一郎は椅子をきしりと軋ませ、瑠唯へと一歩踏み出してきた。躊躇いながら、我慢できないといった様子で。 「おれと君の関係は、任務じゃない。運命だよ」  自分で仕掛けておいて、みるみる赤面する。  ウィでもノンでもなく、口説き言葉が返ってくるとは思わなかった。それもあまりに甘い声で。 「エトワアル座の前を通りかかったときに聴こえた君の歌が、沁みた」  秀一郎は息をするように褒める。やっぱり慣れ過ぎている。  無駄に茶毛を引っ張りつつ、反撃に出た。 「僕も秀一郎さんを守りたいんだ。ひとりで大変だったでしょ。他人のために骨身を惜しまないのに、世間では放蕩息子なんて誤解されて」  秀一郎に愛の歌が届いたのは。裏返せば、愛に飢えていたんじゃないかと思う。  それに、オメガなせいで卑しい目で見られてきた瑠唯は、秀一郎がアルファにしかできない任務ゆえに気高さを理解されないのを見過ごせなかった。 「……君って子は、本当に。たいした子だね。おれを絆す才能があるよ」  秀一郎は、泣き笑いみたいな顔で首を振る。 「放蕩息子の評判のおかげで、年に数人求婚しても怪しまれない。オメガを守れるなら、君以外に何と言われたって構わないさ」  いてもたってもいられず寝台から降り、秀一郎の手に自分の手を重ねた。案の定冷たく強張る彼の手を、温める。 「じゃあ、僕は変わらず秀一郎さんの婚約者ってことで」  任務だと隠されていたのに、騙されていたのに、嫌いになれない。むしろ想いは増した。恋心こそ怪奇だ。  秀一郎の空いているほうの手が、頬へと伸びてくる。何度も優しく撫でられた。不躾に引き摺ったりする他の男の手とは違う、と示すかのごとく。 「順番は逆かもしれないが」  ゆっくりと、上品な顔が近づいてくる。  比例して瑠唯の心音が大きくなる。頬も熱い。 「発情じゃ、ない、よ」 「うん。おれも、任務じゃない。一人の男として君を求めている」  秀一郎の手もじんわり熱を持ち始めた。至近距離で視線が絡む。 (秀一郎さんなら、いやじゃない)  秀一郎が首を傾ける。瑠唯は目を閉じた。  唇が重なる。 「ん……」  触れたところから慈愛が流れ込み、甘い感覚として全身に拡がって、思わず声が出た。 (秀一郎さんと触れ合うと、安心する)  角度を変え、唇の感触を確かめ合う。熱くて、少し渇いていたのが、潤んでいく。 「っ、はぁ」  いつ息継ぎすればいいかわからず、すぐ息が上がった。  我ながら色めいた息遣いが気恥ずかしい。秀一郎の寝間着の胸もとをきゅっと握る。  秀一郎はそんな瑠唯も愛しいとばかりに、抱き込んでくる。 「オメガでないと示して、浅草へ帰ろう。おれはもう君から離れない。場合によっては……」  しかし最後の言葉は呑み込んだ。  瑠唯も、「任務は辞めて僕だけ見て」と簡単には言えない。ただし組織と秀一郎の方向性が違うならその限りでないし、秀一郎の味方になりたい。  オメガでないと示さない限り、軍に追われるのは理解した。 (アルテミスは、素直に保護の辞退を申し出れば聞き入れてもらえる気もするけど)  秀一郎がそう言うならと、「ウィ」と頷いた。  秀一郎が領事館で療養するのに合わせ、瑠唯はアルファといても発情が重くならない、そもそも発情しないと示す作戦を立てた。  皮肉にもエトワアル座の仕事を辞したので、何日でも滞在できる。  瑠唯が泊まらせてもらっているのと同じつくりの部屋で、秀一郎がひらりと資料を掲げた。 「実はね。美海租界の保護施設で、オメガのフェロモンが消える例が確認されてるんだ」 「その条件とか方法を突き止められれば、オメガじゃないふりが本当っぽくなる……!」  ふたりで頷き合う。地下で窓がなく、内緒話に持ってこいだ。  オメガのフェロモンは、アルファにとって「欲をそそる匂い」だという。たとえば美海料理に食欲が湧くような。それを混血ならではの体臭と言い張るのは、少し苦しい。  秀一郎も承知で、対策を考えてくれていた。純喫茶での資料解読の、第二幕だ。 「フェロモンを消せるなら、男に絡まれなくなって助かるな」 「おれは、君のフェロモンが消えても想いは変わらないからね」 「何の心配?」  くすりと笑う。  秀一郎は、任務で瑠唯に近づいた負い目がある。それでいて途中から任務をはみ出す言動をしていた自覚はない、らしい。  単なる任務だったら、公良みたいに組織に引き渡して終わり――そう言えば。  一昨日聞こえた、公良の嬌声を思い出す。まだ領事館にいるのだろうか。 「公良坊っちゃんみたいにこっちに恋人がいれば、美海の施設に行かなくてもよくなる?」 「え?」  担当の秀一郎は把握していると思いきや、初耳という顔だ。  一昨日の顛末を告げると、ますます難しい表情になって黙り込む。 「……それも、聞けたら聞いておく」  とだけ言い、すっと立ち上がった。復活種だからなのか怪我の治りが早い。  今日の夕食前、彼の上役に「三木公良と比較して吉村瑠唯はオメガでないと確かめた」と報告する手筈である。  瑠唯も一緒に部屋を出て、自室へ戻る。  秀一郎は階段を上っていく。踊り場で、猫っ毛に蝶ネクタイの大男が出迎えた。 (秀一郎さんの上役、大学で助けてくれた恩人って言ってたけど、あの人だったんだ)  二日目に食事を運んできてくれた男だ、と扉を閉め際に見やった。  瑠唯は瑠唯で、フェロモンを消す方法を引き続き調べようと、保護施設のオメガに関する資料に目を通す。  報告はそう長引かない、と思いきや。  廊下が真っ暗になり、日付が変わっても、秀一郎は戻ってこない。 (オメガじゃないわけないって、職務怠慢を絞られたか?)  寝台でまどろんでいたら、出し抜けに扉が開いた。 「瑠唯」  秀一郎だ。夜中にもかかわらず洒落た三つ揃え姿で、完璧な笑顔を浮かべる。 「何もかも捨てて、おれと行こう」  求婚より唐突で、美海行きより強引で、どのシャンソンより情熱的な一言を口にした。  秀一郎に言われたなら、唐突でも強引でも、相手が男でも嬉しい台詞だ。  しかし――。  瑠唯も金星色の目を細める。 「僕がオメガじゃないなら、フェニックスについて知り過ぎたから口封じしろって命令された?」 「なっ、聞いていたのか」  秀一郎はあからさまに動揺を露わにした。  上役との話し合いが決裂したのは明らかで、笑い事ではないが、取り繕いが結構下手なところが可愛いとすら感じた。  肩を竦め、盗み聞きは否定する。 「秀一郎さんが任務だったってぜんぜん気づかなかったけど、今はわかるよ」  復活種の存在を、皇国軍は公表していない。ナポレオオニュでも一部の者以外知らされていない。広まったら不利益があるのだろう。  始末するほどかとは思うものの、以前石原に警告された。「抗うと死ぬことになる」と。  瑠唯が思うより、そして秀一郎が認識していたより、シビアな情報戦が繰り広げられている。  その中で、オメガを殺せ、と言われたわけだ。 「オメガを守りたい秀一郎さんには、酷だよな」  歩み寄り、今日も冷たい秀一郎の手をさすってあげる。  秀一郎は、一度視線を外して自嘲ともつかない息を吐き、再び見つめてきた。 「おれはこれまで、任務で担当したオメガを個人的に愛したことはなかったよ。妻にと勧められた縁談にも心は動かなかった。でも今、恩人と決別しても、両親にもっと苦労をかけてでも――君と、生きたい」  彼は、ハンケチをくれた。シャツも、襟巻もくれた。他のぜんぶより瑠唯を選んで、人生すら差し出せる。  それでも瑠唯の幸せを考え、「おれを選べ」と言うか否か、この時間まで葛藤したとみた。任務至上の石原と正反対で、いつも任務より瑠唯の幸せを優先してくれる。 (優しい人)  どちらにしろ、茨の道だ。  胸に恋の炎を燃やしながら応える。 「僕も育った家(まち)を出て、どこへでもついていくよ。嫁ぐなら当然だ。ってなんか、はじめて婚約者らしいことするかも」 「ふふ。華族の放蕩息子ともあろう者が、指輪も用意できずすまないね」  秀一郎が吹っ切れたような微笑みを浮かべ、左手の薬指にうやうやしく口づけてくる。  秀一郎と一緒だと、こんなときでもくすぐったい。  長いようで短い抱擁を交わしたのち、領事館を抜け出した。  行き先は秀一郎に任せた。  数日前は浅草へ帰ろうと言ってくれたが、それは叶わない。でも不思議と心は凪いでいた。 (北の果てでも南の島でも、秀一郎さんがいればいい)  足音を忍ばせ、夜明け前の石畳を下りていく。横濱市電は朝四時台に動き始める。  駅へ行って長距離列車に乗り、他の乗客に紛れるのが無難だろう。 「……すんなりとはいかないか」  だが早々に、立ち止まらざるを得なくなる。  黒いフォオド車が、道を横に塞ぐ形で停まっていた。  追っ手が来たら、「秀一郎が組織の指示を実行すべく、そうと知らない瑠唯を連れ出した」と切り抜けるつもりだった。  そういう空気を出そうとするも――運転席から降りてきた男を見て、段取りが吹き飛ぶ。 「やはりナポレオオニュの手先であるな。異国へは行かせん」  石原ではないか。管区は桃郷なのに、軍用車まで使って領事館の近くで張っていたらしい。 「なんでここまで……っ」 「貴様は俺の許嫁である」 「は?」  許嫁、だって?  彼が最も口にしなさそうな単語に、愕然とした。瑠唯を背中に隠す秀一郎も動きを止める。 「もとは、貴様の母親が俺の十上の兄と婚約していた。だが異人と子をつくり、勘当されたために、白紙になった。兄は大層残念がっていた。……俺も残念だった」  石原のみ、淀みなく話し続ける。 「後に、その異人が復活種とわかった。復活種は復活種から生まれる。子がもし癸種であれば俺がもらうと軍上層部に取りつけた。復活種同士ならより具合がいいのでな」  知らない話ばかりされ、ゆるゆる首を振った。母の婚約者の名など知らない。 「軍功では満洲にいる兄に及ばないが、兄のできなかった結婚を俺が果たせる」 「……そんなの、そっちの都合でしょ」  石原はどこまでも一方的だ。肝心の瑠唯の意思をまったく考えていない。 「いい加減、諦めてよ。僕は軍の役には立てないし」 「癸種というだけで務まる」 「この子はおれの婚約者だ。癸種でもない」  なおも言い包めようとする石原を遮り、秀一郎が宣言した。瑠唯も秀一郎の腕に手を絡め、頷いてみせる。絆は揺らがない。  石原は神経質に腰帯に手を当て、ぎろりと睨めつけてきた。 「貴様の母親の死が、ナポレオオニュの陰謀だとしても?」 「陰、謀?」 「貴様が復活種なら、普通種より頑丈だ。先んじて確かめるべく、流行病感染者をわざと近づけたのだ」 「石原!」  秀一郎が非難する。なぜだか祈るような声色だ。  それによって、石原の話は事実だと感じられた。きっと彼の兄とともに、瑠唯の母の死を調べあげたに違いない。  十一年前のイスパニア風邪が、仕組まれたものなら。怖ろしい結論に至る。 「じゃあ、母さんは僕のせいで……」  瑠唯を独りぼっちにしたのは、瑠唯自身だというのか。 「瑠唯。耳を貸すな」 「でも、事実なら知らずにはいられないよ」  眉を寄せながらも、秀一郎を見上げた。  自分の宿命は、知っておきたい。もう何も隠されたくない。 「復活種なら攫うつもりだったのだろうが、貴様は死んだと確認された。そこにいる男に」  石原は昏い笑みとともに、彼にとっての切り札を明らかにした。  秀一郎は、瑠唯の母を死なせた共犯だと。  秀一郎が奥歯を噛み締める。法螺話ではないようだ。  なんで、ではなく。なるほど、と思った。 (あのとき、秀一郎さんが、そばにいたんだ)  頬に残るやわらかい感触。吹き込む隙間風。年始に粥をつくってくれたときも、秀一郎は長屋の木戸を閉めるのが下手だった。邸宅育ちの御曹司だから。 「おれはオメガかもしれないという子を、ただ保護しに来たんだ。組織に加わって最初の任務だった。流行病とは気の毒に、と思った。まさか故意に苦しませたなんて……そんな、はずは」  秀一郎が顔を歪ませる。裏腹に瑠唯は目だけで苦笑した。 (そんなところだと思った)  彼は共犯どころか、組織に一部しか知らされてはいない。その、華族として大切に育てられたゆえの正義感と純粋さをうまく利用するために。  実際、秀一郎は復活種ひいては皇国民を守ろうと、せっせとオメガを美海租界へ連れていった。 (けど、単なる保護にしては、やり方がえげつない)  苦笑が引っ込み、組織に対する憤りがふくらむ。  瑠唯の大事な人たちを、損なった。何なら瑠唯を瀕死に追い込むのも辞さないとは。 (何が目的だ?)  熟慮はできなかった。 「だが、貴様は生きていた。俺のものになるために。俺はこれしか果たせないが、貴様を手に入れれば兄も俺を見直そう」  石原が腰の拳銃を引き抜き、構えたから。もちろん弾は二発以上入っているだろう。 (秀一郎さんを殺したって、何にもならない)  素早く秀一郎の前に回り込み、抱き締める形で射線に入る。 「不死じゃあない。貴重な癸種が死んでもいいの?」  首だけ振り返り、きっぱりと言い放った。 「瑠唯、瑠唯だめだ、」  石原より秀一郎のほうが悲鳴めいた声を上げ、身体を入れ替えようとする。  蘇りにも限度がある。回復の範疇を越えたらおしまいだ。  死ぬのは怖い。でも、まためぐり合えた秀一郎を守れるなら、この命を使っても構わない。 「秀一郎さん。愛してるよ」  覚悟した痛みはしかし、一向に訪れない。  再度振り返れば、銃口が――石原の鍛えられた腕が、震えていた。なぜ思うように動かないのだと、顔を顰めさえする。 (この人の人間らしい表情見たのはじめて……いや、二回目だ。一回目は、池で歌ったとき)  そのとき薄っすら潤んでいた白目がちな瞳に、貴様は俺を愛してはくれないのか? と本音が浮かぶ。――その刹那。  銃声が、早朝のひときわ冷えた空気を切り裂いた。 「ぐぅ……っ」  石原が片膝を突く。脇腹からぽたぽた血が滴る。  撃ったのは、秀一郎だ。上着の下にホルスタアを仕込んでいたとは。瑠唯の口封じに使うと組織から持ち出した拳銃に違いない。 「音、が」  瑠唯も呻く。咄嗟に秀一郎が頭ごと抱き込んでくれたものの、一時的に聞こえが悪くなった。自分の耳を守れなかった秀一郎はなおさらだろう。  瑠唯。耳、大丈夫かい?  気遣わしげな秀一郎の口の動きを読み、頷く。待てば元に戻るはず。心配をかけたくない。  秀一郎はさらなる言葉の代わりに瑠唯の手を取り、石原の横をすり抜ける。 (冷たい手)  瑠唯は秀一郎の手を握り返した。  鍵が開きっぱなしのフォオドに乗り込んでも、石原は脇腹を押さえてただ眺めるのみだ。瑠唯を手に入れられないと、ようやっと観念したらしい。  エンジンをかける。本来の主を置き去りにして発進した。 「石原……死んだか? 回復力が他より低く、復活種兵として実地に出られない者がオメガ連行役に回っていると聞いたが……」  ハンドルを握る秀一郎が、何やらつぶやいている。  助手席で前後左右に揺られながら、冴えない顔色の婚約者を案じた。 (秀一郎さん、人を撃ったことなんてないだろうに)  あの一発を無意味にしないためにも、前を見据える。  見慣れない街並みを数分走って、車を乗り捨てる。動き出した市電に駆け込む。  複数の路線が通る停留所だが、選んだのは――横濱港行き。 「瑠唯、耳はどう?」 「平気だよ」 「よかった。歌手の耳は命だから」  また大げさな、と思うが、秀一郎はしきりに瑠唯の耳を撫でつつ続ける。 「美海へ、行ってもいいかな。危険もあるが、おれたちが平穏に暮らすためには、いくつか確かめないといけなかろう」  実はまだくぐもって聞こえる提案を、快諾した。 「ウィ。僕も気になることがあるし、秀一郎さんの使命までは誰にも奪えないよ。果たしにいこう」  オメガのフェロモンを消す方法があるなら知りたい。  それ以上に、アルテミスが秀一郎に何を隠しているのか、はっきりさせたかった。  石原を振り切ったら、今度は組織に追われる身だ。口封じしたか確認しないわけがない。  その不本意な務めから、悩ませるすべてから、秀一郎を自由にしてあげたい。  彼が半生をかけた使命を手放さなくて済むように。 「それに、美味いもん食べられるし、歌えば聴いてくれるんでしょ?」  気丈に笑ってみせれば、秀一郎は運転手や他の乗客の目も憚らず瑠唯を抱き締めた。  密着した胸から、命の音が響いてくる。寒くも不安でもなかった。

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