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第6話

 今日はちょうど、横濱と美海を結ぶ定期船が出航する曜日だ。  秀一郎は美海行きも想定に入れ、上役への報告を昨夜に設定したのかもしれない。 (大(お)っきな蒸気船だ……)  埠頭に横づけする「美海丸」を見上げる。  墨田川の屋形船だって乗ったことがない瑠唯は、感嘆の溜め息をこぼした。収容人数はエトワアル座をゆうに上回るという。白い巨大な煙突から、煙がもくもく出ている。 (これを三木商会が運営してるってんだから、すごいな)  面の割れていない瑠唯が切符を買い、足早にタラップを渡った。  甲板には、ビジネスマンと思しき三つ揃えの男たちや、物見遊山の家族連れがごった返す。瑠唯と秀一郎はその後ろを素通りし、貨物室に忍び込んだ。 「念のため、八時の出航までここにいよう」  秀一郎が、積まれた行李の陰に外套を敷いてくれる。埃と異国の空気が混ざったような独特のにおいが、秀一郎の甘いそれで上書きされた。 「ある意味、特別室だ。一等客室より広いし」  瑠唯が冗談めかせば、秀一郎の口角がほんのり上がる。だが言葉少ななのは変わらない。  瑠唯はしずしず正座した。 「秀一郎さん。あなたは人を守るのが使命なのに、僕のために人を撃たせちまってごめん」  現状、瑠唯も彼を悩ませる原因のひとつである。 「石原は、その、失恋で戦意喪失しただけで、生命力はしぶといと思うよ」  気持ちが通じたとて、迷惑をかけたくない。そばにいたい。相反する感情が渦巻く。 「君こそ、おれの心配をしている場合かい?」  一方の秀一郎も跪いた。三度(みたび)の台詞だ。 「何度謝っても足りない。母君のこと、どうしたら償えるか……」  改めて母を想った。十一年経っても、吉村やエレエヌたちがいてくれたにしても、寂しいは寂しい。  ただ、当たり散らしたところで母は戻ってこない。それに。 「僕が復活種だったせいで母さんを喪ったんだとしても、」 「君は悪くない」 「そのおかげで秀一郎さんに出会えたから、いいよ」  瑠唯は秀一郎と出会って、歌ってあげるために、回復したのだと思う。  秀一郎がめいっぱい目を見開く。それが対価になるのかと当惑する様子だ。 (まったく、はこっちの台詞だよ)  肝心なところが鈍い。求婚しても愛したことはない、というのは誇張ではないらしい。  瑠唯はステエジで歌うときのように、両手を前へ伸ばした。秀一郎が瑠唯の腕と顔を見比べつつ身体を傾けてきたら、つかまえて膝枕してやる。 「瑠唯?」  秀一郎が無意識下で渇望しているものを差し出すべく、低く歌った。 「Je ne regrette pas (愛さなければよかった)d'avoir aimé(とは思わない)」  母も歌っていた、愛の歌を。  前後して汽笛が鳴った。耳は無事快復した。  お互い身ひとつでの船出だ。母の写真と父のレコオドは、浅草の長屋に置いたまま。劇場通りを去るときの予感は当たった。 (でも、秀一郎さんが一緒にいる)  膝にかかる甘やかな温もりと重みを味わう。  横になった秀一郎は、腹の上で手を組み、うっとり歌に聴き入っている。 「シャンソン向きの、いい声だ。……それに君の瞳は、暗いところで見ても金星色だね」  かと思うと、瑠唯の目もとを指でなぞった。貨物室は最低限の灯りしかない。 「金星は異国語で、ヴェニュス(Vènus)という。愛の女神だよ」  瑠唯の歌で罪の意識が多少癒されたのか、睦言を囁いてくる。瑠唯はぱちぱち瞬いたのち、吹き出した。 「気障な男に戻った。それ、任務用じゃなく素だったの」 「フィアンセにはこれくらい普通だろう?」 「日本国では婚約者らしいことぜんぜんしなかったくせにさ、」  声高になりかけたのを、秀一郎が唇に人差し指を当てて制する。 「ん」  そのまま唇をなぞられた。もう少し歌を、という要望だ。  よく見ると秀一郎の隈が濃い。子守唄に切り替える。 「Au clair de la lune(月明りの夜), Prête-moi ta lune(淡く照らすから)――Fais dodo(お眠りなさい)」  秀一郎が瞼を下ろす。瑠唯もゆったりとした波の揺れに身を預けた。  三日後。アルテミスの関係者に声を掛けられたりすることなく、無事美海に上陸できた。  何度か咳込む。沿岸だが風は砂っぽい気がする。大陸ゆえだ。 「ここがナポレオオニュ租界……」  少しほっとしたのもあり、お上りさんな反応をしてしまう。  何しろ、高層の公館や商館やアパルトマンがそびえ、歩道にアアケエドを備えた目抜き通りにはトロリイバスが走っているのだ。どれもこれもスケエルが大きい。  道行く人は、意外に真丹人が多い。真丹人も西洋人もみな、公良みたいに着飾っている。いや、彼らにとってはあれが普段着なのか。  さすが、東洋の玻璃。 (浅草とは、やっぱり違うよ)  はぐれたら大変と、秀一郎の腕にしっかりつかまる。 「さて。新婚生活を過ごす部屋を借りよう」  秀一郎は含み笑いして、緑豊かな高級住宅地へと足を向けた。自分は街に馴染むからって。  美海には何度も足を運んでおり、服や金も知己に預けてあるらしい。だが、その秀一郎個人の伝手を何人か訪ねるうち、表情が曇っていく。 「ありがとう、夫人(おばさま)。あなたとお会いできただけで光栄です」  また交渉不成立だ。  組織に足跡を辿られないよう、ホテルでなくアパルトマンに滞在する計画だった。  それがいざ来てみたら、満洲で皇国軍と真丹軍が対立している影響が美海まで及び、「たとえシュウイチロウでも日本人に部屋を貸すのは……」と渋られたのだ。 (ラヂオ放送じゃ、そんなこと言ってなかったのに)  物陰に控えていた瑠唯も溜め息を吐く。  結局夜までかかり、地元民が住む石庫門住宅(長屋)に隣接する、古びた洋室をやっと借りられた。  長江(ちょうこう)に連なるという江(かわ)の前だ。貨物船が行き来する規模ながら、お世辞にも水は澄んでいると言えず、景観はよくない。  一階は瑠唯たちの部屋以外空室で、備えつけの真丹風家具には薄く埃が積もっている。 「……不甲斐ない」 「そう? 居間と寝間が分かれてるし、長屋より豪華だよ。あとシャンソンでよくある」  歌の中の、愛しか持たない恋人たちは、身を寄せ合って暮らし始める。  憧れだったと明かせば、秀一郎は薄く微笑んだ。 「いい婚約者だね、君は。まあ阿片が匂ってこなくていいか」  それに、出だしこそ手間取ったものの、租界内は各国の警察隊と美海の地下組織が治安を担っており、異人たちは商売や娯楽に勤しんでいる。過ぎた心配は無用だ。  瑠唯は窓を開けて空気を入れ替えつつ、 「確かめること確かめ終わって、フェロモンも消して組織を鼻眩ましできたら、こっちの劇場に連れてってくれない? 盛況なんでしょ」  ことさら明るくねだる。  逆境だろうと一緒に美海に渡ると、瑠唯が決めたのだ。  秀一郎は目先の目標ができたからか、一転、声を弾ませる。 「いいね。『大世界』といって、レビュウに演劇にジャズビッグバンド、何でも楽しめるよ」 「約束」  指切りに代えて、額に口づけられた。  窓の向こうの夜景が煌々として、宵っ張りな劇場通りを彷彿とさせる。星月は見えなかった。 「真丹の子に見える?」  瑠唯は寝室のクロゼットにあった服を拝借し、くるりと回ってみせる。  詰襟で、釦が紐留めになった普段着だ。色は墨一色。少年用なのか大きさはちょうどいい。  秀一郎が日本人の男の子を連れている、と保護施設の組織関係者の耳に入らないようにしたかった。 (電信じゃ、日本の組織員と詳しく情報共有できてないだろうけど。油断しないに越したことない)  秀一郎は、真剣に腕を組む。 「うーむ。こんな可愛い男の子はいまい。いっそ流行の真丹服(チーナドレス)を調達しようかな」 「……あんた、そういう趣味?」  瑠唯は声が上擦った。秀一郎の睦言はだいぶ聞いたが、そっちの好みはまだ知らない。  真丹服は、満洲の伝統服に西洋の流行を取り入れて胴回りを絞ったもので、身体の線が強調される。それでも足を捌けるよう、横に深い切れ込みが入っている。  それを肉のない瑠唯に着せるのは、何と言うか倒錯的だ。  秀一郎は、印象を薄めるための眼鏡で覆わなくなった目を、じっと瑠唯に向ける。卑しくはないが、ものすごく熱っぽくて、瑠唯はもじもじ膝を擦り合わせた。 「さてなあ。でも、真丹服はやめるよ、もっと可愛くなってしまう」  秀一郎は言うだけ言って、外出用の中折れ帽を被る。何だか弄ばれた気分だ。  とはいえデエト撤回はしない。気を取り直し、洋菓子店、次いでオメガ保護施設へ向かう。  美海に着いてから一週間ほど、施設の様子を窺ったり、聞き込みしたりしてきた。 (今日は、内部に踏み込む)  週の中でいちばん職員の姿が少ない曜日なのだ。  商館が集まる中心部からやや離れた、邸宅がずらりと並ぶ地区を分け入っていく。施設はこの一角にある。  噴水のある庭つきの、白亜の洋館だ。言われなければオメガが保護されているとわからない。  ぐるりと囲む石塀はかなりの高さだが、日中の出入りは可能になっている。 「マダム、お久しぶり。ここにいる友人とあなたがお元気か、ちょっと寄ってみました」  ただ秀一郎はアルファなので、門入ってすぐの離れに通された。  対応してくれたナポレオオニュ人の女性職員はにこやかで、少なくとも秀一郎が上役の命令を放棄中とは知らなそうだ。  瑠唯は秀一郎の後について、ピロティのテエブルに両手の荷物を置く。  たちまち甘い匂いが立ち込めた。  シュウ・ア・ラ・クレム、サヴァラン、マドレエヌ、モンブラン……さっき洋菓子店で、端から端まで買い込んだお土産。それらを運ぶ丁稚を装った。  秀一郎は「婚約者に重いものを持たせたくないよ」と渋ったものの、そんなやわじゃない。 (怪しまれてないね)  秀一郎と視線で会話する。アルファはみな体格がいいとかで、秀一郎が「この子は違いますよ」と保証すれば職員はあっさり中に入れてくれた。複雑だがよしとする。  今日の目的は、オメガのフェロモンが消える条件もしくは方法、そして組織が何のためにオメガを保護しているのかを解き明かすこと。  オメガを守るため、だけとはどうも思えなかった。 「それにしても、ずいぶん子どもが増えたなあ」  秀一郎が、手入れされた芝生の庭を見遣る。  オメガと、まだ復活種か判別できない歳頃の少年たちが遊んでいた。瑠唯のように復活種を親に持つ子だろうか? (石原は、復活種は復活種から生まれるって言ってた)  その十数名が、離れへ向かってくる。職員に「おやつがありますよ」と聞いたのだ。  オメガたちは自分が発情期でないと把握できているらしく、ゆったり秀一郎に会釈する。  日本人もナポレオオニュ人も真丹人も隔たりなく菓子を選び、芝生に輪になって食べ始めた。三言語が飛び交う。みな、すとんとした伝統服を温かく重ね、ふっくらして健康的な顔色だ。  秀一郎の言うとおり、安全で豊かな空間。  だが、瑠唯には仮初めに見えて仕方ない。少年たちにマドレエヌのおかわりをねだられて配ってやりながらも、胸騒ぎがする。  館内から、銀のカフェティエル(ポット)を携えた何名か出てきた。  そのひとりが、秀一郎に親しく笑いかける。 「シュウ? やっぱりシュウだ。懐かしい、大人になって」  ナポレオオニュ人の男性職員と思いきや、秀一郎は蒼褪めた。 「君、は……。その、十一年前は、本当に、すまなかった」  口も回っていない。拙いナポレオオニュ語で謝罪を繰り返す。 (十一年前、って)  秀一郎と同年代の、異人にしては小柄な青年は、対照的に軽い調子で笑ってのける。 「やだな。あれはシュウがアルファかどうかのテストでしょう?」  その一言で、秀一郎は完全に顔色を失くしてしまった。  瑠唯は「アルファ」「テスト」しか聞き取れない。  十一年前。秀一郎は玻璃の大学で、見知らぬ男を襲いかけた。発情期のオメガと鉢合わせ、フェロモンに反応したのだ。アルテミスの一員でもある職員が駆けつけて事なきを得た、が。  考えてみれば、でき過ぎているとも言える。 (秀一郎さんにアルファの兆候が出たのを聞きつけて、東洋のオメガを美海租界に集めさせるために、)  組織が仕組んだ判別テストだったらしい。  秀一郎の組織への恩も信頼も、仕向けられたもの。  それも秀一郎が深く自分を怖れ、罪悪感を抱く方法で。  瑠唯は飛んでいって秀一郎の手を握ってあげたかった。しかしカフェオレを注ぐ青年が、 「それに私はフェロモンがほぼなくなったから、身構えないで」  と続けたので、秀一郎に視線で制される。  歯がゆいが、踏ん張る秀一郎を信じた。フェロモンが消えた当人と話せるなんて、千載一遇の機会ではある。 「なくなったって、いつ? なぜ?」 「順番で租界に来てすぐだから、二年前かな。『任務』でアルファと励んだ後、彼以外のアルファが、私のフェロモンを感じないって言うんだ。それで他のアルファとは任務もうまくできなくなって」 「へ、え。そのアルファだけ、変化なし?」 「彼のほうも、私以外のオメガにはラットにならなくなった」 「二人は何か特別なのかな」  青年が、左手でそっと腹を撫でる。指の付け根に傷があるようだ。 「鋭いね……シュウにだけ教えてあげるけど、実は、顔を合わせるなり惹かれ合ったんだ。交替せず毎回彼と任務に当たれるようになったから、ちょうどよかったっていうかね」  秀一郎がさりげなく懸命に、情報を引き出している。  瑠唯も異国語の聞き取りに集中したい。だが、菓子を平らげた同い年くらいのオメガに、茶毛をちびちび引っ張られてかなわない。 「痛(いた)た。もうおかわりはないってば」 「お礼に秘密の場所、連れてってやる」 「秘密……、館の中?」  一転して前がかり、片言の真丹語で訊き返した。  屋内を探れるなら願ってもない。青年は秀一郎に託し、瑠唯は彼と探検することにした。  真丹人オメガは瑠唯の手を引き、すたこらと大きな洋館の裏側へ回る。  「こっち」と見上げてくる彼の目は、よく見ると水星色だ。瑠唯と同じく混血らしい。  プラタナスの木の根もとに、地下へ続く外階段があった。女中(メイド)の出入り用につくられたと思われる。真丹人オメガは器用にも、木の枝で出入口の錠を開ける。  薄暗い廊下に等間隔に並んだ扉は、横濱の領事館地下を思い出させた。 「……っあ、ん」  浅ましい声が漏れ聞こえるのまで、同じ。  公良の声。石原の話。庭にいたオメガの様子。それらを基に立てた推論が現実になりつつある。  真丹人オメガは長い廊下の中ほど、扉と向かい合わせの戸棚によじ登った。身長より高いのに身軽なものだ。  天井との隙間に、横向きに腹ばいになったかと思うと、瑠唯に真似しろと身振りする。 (これは僕の体格じゃないと無理だったな)  戸棚の把手につま先を掛け、上に乗った。木の天板はひやりと冷たい。  各扉には硝子の欄間があって、室内を覗くことができる。  案の定――こぢんまりとした部屋で昼日中からまぐわう男たちの姿が見えた。 (そういうこと、か)  アルファは、前線へ送られる。オメガは、子を孕ませられる。  真丹人オメガは、怖れる様子はない。映画のこういう場面を指の間から眺めるみたいな表情だ。それでも。 (えげつない……)  彼の、施設のオメガの宿命を案じる。何から手をつけるべきか考えをめぐらせていたら、 「シュウも『任務』で来たんでしょう」  先ほどの青年の声がした。秀一郎を伴い、屋内の階段を降りてきたらしい。  真丹人オメガが慌てて瑠唯の口を押さえる。発情期以外は地下階立ち入り禁止、と言いつけられているとみた。客観的に自分の立場に疑念を抱きかねない。  青年は瑠唯たちに気づかず、円宿と化した階の、いちばん手前の扉をノックする。 「『papa(ボス)』、彼はどのオメガの担当?」  扉の隙間に現れた、いかにも「最中です」という雰囲気の着乱れ汗ばんだ大男は――秀一郎の上役だった。  いつの間に美海に。瑠唯たちを追ってきたのか? 心臓が乱れ打つ。 「ジョルジュ、なぜだ。なぜこんなことを……話が違うじゃないかっ」  秀一郎はというと、吐きそうな顔で上役に縋りついた。裏切りを、組織の実態を知っても、容易には呑み込めないのだ。それはそうだろう。 (待て。「ジョルジュ」って呼んだ?)  秀一郎に同調して心を痛めていた瑠唯は、ふと頭をもたげる。  その名は、瑠唯にとって特別な意味を持つ。 「フェニックスと、世界の平和のためですよ」  ……ああ。上っ面な一声によって、瑠唯も驚くべき事実を知らされることになった。  茶色い猫っ毛の大男こそ――瑠唯の父親だ。  どおりで聞き覚えのある声だ。ただ体型がかなり変わっており、まさか再来日していたとは思わなかったのもあり、記憶の中の父とつながらなかった。  どうして十七年前単身で帰国したのかと、今さら問い詰めようとは思わない。  駆け寄りたいのも父でなく、秀一郎だ。  真丹人オメガに「Vivre sa vie」と言い置く。それから、服を替えてもポケットに忍ばせている、白いハンケチをひらりと床に落とした。 「んん? こら、何してるの!」  青年が瑠唯たちを見つけ、ばたばた叱りに来る。真丹人オメガは「何するんだよー」と恨めしげに戸棚を降り、外階段へ逃げていく。  距離があっても薄暗くとも、もう一人の悪戯っ子が瑠唯だと、秀一郎は察したはずだ。このハンケチは秀一郎がくれたものだから。  秀一郎が床を蹴る。青年を手伝って悪戯っ子を回収するていで、ジョルジュに瑠唯の顔が見えないよう腕を伸ばす。飛び降りる瑠唯を抱き留める。  ふたりで白日のもとへ上っていく。  当初の目的は果たした。長居は無用だ。施設のオメガ全員に一言残せないのは残念だが、石塀の前で人力車をつかまえて乗り込む。 「瑠唯、すまない。あんな『任務』を……させられていると、知らなくて」  秀一郎は開口一番、瑠唯を気遣った。日本語なら真丹人の車夫にはわからない。 「大丈夫、あなたが僕にアルファの相手をさせようとしたとは思ってないよ」  気遣いをそっくり返す。重ねた秀一郎の手は、冷えがひどい。  ついに辿り着いた事実。  アルテミス――豊かさ、そして多産の女神の名を冠する組織は、集めたオメガの発情期を管理して、順繰りにアルファとかけ合わせている。  兵数を倍増して無茶な作戦もこなせる復活種を、産み増やすために。 (庭にいたオメガのほとんどが妊娠してた。子どもたちはみんな、オメガの子だ)  異国も、保護ではなく、利用しているのだ。復活種は人間として扱われていない。 「おれはなぜ疑わなかったんだ……」  砂っぽい風を正面から浴びながら、秀一郎が絞り出す。  守ってきたはずのオメガたちへの罪の意識で、押し潰されそうになっている。  組織は秀一郎が反発するとお見通しで、使命と信じ込めるような役割のみ持たせた。 「疑えるはずない。あなたはもともとノブレス・オブリージュの精神がある上に、恩を植えつけられてるんだもの」  瑠唯は必死に語り掛けた。 「あの施設のオメガだって、自分の体質について教えてもらえて、発情期中の仕事の心配なく過ごせるのを、どれだけありがたく感じてるか。自分の能力で恩返ししようと思っても不思議じゃないよ」  何なら、割り当てられたアルファに毎月の発情期の世話をしてもらっている感覚かもしれない。 「さっきの彼も、そういう口ぶりだった。『フェニックスを産める確率は、対のフェニックスなら九割九分』『フェニックスが増えれば社会に受け入れられやすくなる』と、誇らしげに言っていてね」  吐き気がぶり返したのか、秀一郎は口に手を当てた。 「これまでは意図的にかけ合わせてなかったから、人数が少ないんだ」 「ウィ。おれたちは百回に一回の割合の産物ってわけだ」  そのせいで、こんなにも振り回されている。  組織は、復活種を増やす目的にまで砂糖をまぶし、耳触りよくしているときた。  実情は戦力向上のため、他の列強と競うように、復活種同士をかけ合わせているのに。 (オメガは前線に出すんじゃなく、復活種を増やさせることにしたわけか)  貴重なオメガを確保できるなら、父は母が巻き添えになっても構わなかった?  横濱の領事館で瑠唯と相対して――思えばフェロモンを確認したのだろう、息子だとわかった? それでも始末せよと命令を出したのは、任務のほうが大事だから? (復活種じゃない母さんを愛したのは、なんで?)  やっぱりさっき父と話せばよかった。訊きたいことが、咳とともに次々湧いてくる。  秀一郎が、背中を優しくさすってくれた。 「ともあれ、フェロモンを消す方法はしっかり聞き出したよ。もう振り回されないためにも、アパルトマンに着いたら試してみよう」

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