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1.いわゆる巻き込まれ転移

 ああ、クソみたいな人生だ。  力の入らない脚を叱咤し、引き返したボロアパート前。  半ば諦めかけているどうにもできない事実は、今日も俺に立ち塞がっている。  このまま部屋に戻るのもなんだか癪で、くすねた煙草に火をつける。大きく息を吸い込むと、腫れた頬がじくりと痛んだ。  顔をしかめて見上げた夜空には、小指の先くらいの大きな星が三つ、間隔を開けて並んでいた。  そう、ここは日本じゃない。  溜め息と共に紫煙を吐く。  殴られた頬だけでなく、縛られていた手首がじんじんと熱を帯びる。少し前に血が滲んでいたから、たぶん、そのせいだ。  これからどうすればいいのかなんて、考えない日はなかった。  なのにここ数日は、それすらも忘れていた気がする。  分かってる。  たぶん俺はもう、駄目になりかけてる。  ──いっそ死んだら、戻れるのかな。  数えきれないほど浮かんだ思考に懐かしささえ覚え、思わず嗤う。  なんでだろなぁ。  俺の人生ってもうずっと、こんなんばっかだ。  初見プレイでハードモードスタート。  要約すると俺の人生はこんな感じ。  まず、ギャンブル中毒の未婚の母から誕生。当然ろくな養育はされない。  今思えば生き延びた事さえ奇跡だ。  覚えているのは、散らかった六畳間、シンクにたまった食器、毎日同じ服、同じ日々。  母親は仕事とギャンブルでほとんど家におらず、俺はいつも一人で過ごした。  食事と言えば、カップラーメンや菓子だ。それが置いてあればマシな方で、ひどい時は食べ物が見つからなくて家中を探し回った日もあった。  水道やガス、電気が止まるのも頻繁で、夏の暑さで死にかけたこともある。  そんな中、時折母親のひっかけた男が家に来て、俺を風呂に入れたり、洋服を買ってくれたり、食事を与えてくれたのは幸いだった。  成長しても、結局学校へは行かなかった。給食はかなりの魅力だったが、貧乏であることの窮屈さと周りの視線が不快で、明確に自分は異物だと感じとれてからすぐに行かなくなってしまった。  それから、俺の人生は益々悪いほうへ向かっていったと思う。  母親の男は大抵違った顔で、完全無視の奴もいればパシったり小突いたりする奴もいた。  むしろそのタイプだったらまだいい。中には俺を執拗に構う奴もいた。  俺はいつも、が来ると恐怖と嫌悪に怯え、抵抗もできずひたすら耐えてやり過ごしていた。  ある日、いつも俺を玩具にしていた男から携帯電話を与えられた。おそらく、口止めでもありご機嫌取りでもあったんだろう。  嬉しかった。  彼が俺にしたことは今考えても到底許されることじゃない。  でも、あの小さなアパートとテレビ画面がすべてだった俺の世界は、男がくれた携帯電話のおかげで無限に広がったのだ。  この頃になると、大抵のことは自分でできるようになっていた。掃除、洗濯、食事の調達。  金がないと電気も水道も止まる。この電話だって、いつ止まるのかわからない。  気が付けばお金が一番大事なものだと学んでいた。毎日違う服を着ていれば、クラスメイトが変な目で見ることもなかったのだと。  とにかく金が必要だった。飢えることも、惨めな思いも、寂しささえ、お金さえあれば味わうこともない。  この状態から抜け出せるなら、なんだってした。  そして、当時の俺にできることは一つだけだった。  この身を売ることだけ。  意外なことに、俺みたいなやつは珍しくない。  インターネットの波に埋もれると、もっとひどい境遇の奴らも、まったく逆の奴らにも出会う。  教養のない俺だが世間を知るのには十分で、それなりの知識も常識もなんとか持てていた。  それはネットで出会った友人のおかげでもあったし、身体を受け渡した物好きな人間達のおかげでもある。  道徳教育も受けず、境界線も曖昧だったせいで犯罪者も犯罪も間近で見た時もあったが、大きく道を外れずにいられたのは、出逢った人たちが助言してくれたからだ。  不幸や不公平に嘆いてるだけじゃ、状況は変わらない。  そもそも既にクソなんだから、せめて楽しんで生きていたい。  成長しても母親は相変わらずだったし、たまに顔を合わせても会話もない関係のままだ。期待なんかとうに捨てた。親だとも思わなかった。  ボロアパートはたまに寝に帰るだけのそんな場所になり、次第に別の寝床を探すようにもなった。  俺はもう誰かにイタズラされて泣いているような小さな子どもじゃない。  その時にはもう、一人で生きていけると確信していた。  そう、日本でなら、なんだってできたはずだ。  それがなぜかこうだ。  紫煙をくゆらせていると、重たい足音が聞こえて夜空から視線を戻す。  前方から歩いてくるのは、長身の若者だ。  百年前から建っていそうな木造の、オンボロアパート。一階は二部屋しかなくて、隣人はただ一人、この男。  遠目で見ても、イケメンだと分かる。  すらりとした長身に、柔らかそうなミルクティーベージュ色の髪。前髪は長く、時折鬱陶しそうにかき分けている。  そしてあの顔面。  すっと通った鼻筋、眉と間隔が近い目。瞳は確か琥珀色で、赤みが強い。染みも傷一つ無い肌は外見を気にしてスキンケアしてきた俺もかなわないほど綺麗なはずだ。  形の整った唇は常に引き締められていて、なぜだかいつも悲しそうにも見える。  それでも男は綺麗だ。すべてが完璧で文句の付けるところがない。それほど現実離れしている容姿だけど、それもそのはず。  あいつは勇者様。  日本の有名ゲーム会社が開発した、『闇の王』というARPGゲームの、容姿端麗で後に世界最強になる、ヒーローなのだ。  その勇者様がどんな因果か、隣に住んでいると知った時は咥えた煙草を落としたほど衝撃だった。  なぜなら俺はこの男達の、いわゆる仕組まれたストーリーに巻き込まれた被害者だからだ。  そもそも俺は一人でこの世界に来たわけじゃない。  当時俺はとある街で売り専ボーイとして働いていて、その日は最悪な客に当たってムシャクシャしていた。  所詮俺は男娼で相手は客。買われている以上、客を満足させる事が仕事だ。暴言を吐かれても、ある程度は笑って許さなければならない。  何年も身体を売っていれば、クソ客に当たる事なんてごまんとある。我慢にも慣れていた。でも、だからと言ってボーイが常に下手に出るわけじゃない。  まあつまり、この日はブチ切れて殴り合いになった。  当然店にクレームがいって、俺はクビ。相手が常連の上客だったのが悪かった。  元々俺は短気で、その上ご機嫌取りは得意じゃない。  それでもこの仕事をやれたのは、それなりに耐えてこなしてきたからだ。なのにたまたま相性の悪い客に捕まって、運の悪い事にキレてしまった。  確かに最初に手が出た俺も悪いが、だからと言って一方的に断罪するのは違うだろ。喧嘩売るような言葉を延々吐く、クソみたいなあいつはどうなんだよ。  そう店長にも啖呵切って口喧嘩になり、やっぱり許せなくてコイツも殴ろうと拳を振り上げたあたりで他のボーイから羽交い締めにされ、店を追い出された。  わかるけどさぁ、警察呼んじゃうよぉ、じゃねえんだよ。馬鹿が!  苛々とパーカーに両手を突っ込んで夜の街を歩く。  気が立ちすぎて酒でも飲まないとやってられない。でも、一人で飲み屋なんて行きたくない。  そう言えば俺って友達いなくね……なんて分かりきった事実にもうんざりしてズカズカ歩いていると、前方から引くほど泣いている女が見えた。  綺麗に巻いた髪と、ヒールの高いブーツ。ミニスカートから覗く細い足は、彼女の自慢か。  どう見ても水商売、たぶんキャバ嬢。  なのに女は人目も憚らず号泣していた。メイクのせいで黒い涙が頬に伝って怖い。 「……えええ、泣きすぎだろー。大丈夫?」  これには俺もツッコまずにはいられなかった。  ボディバッグからティッシュを取り出して差し出すと、彼女はびっくりしたように足を止め、俺を見て「……ナンパ?」と怪訝そうな声を出す。 「んなわけないじゃん。俺ゲイだし」 「え、嘘、もったいな」  ぼそっとした即答に笑うと、彼女は俺の手からティッシュを受け取り、「もう最悪」と涙を拭った。 「まだ店やってる時間じゃないの? キャバでしょ」 「そうだけど、やってらんなくて勝手に帰った」 「やるじゃん」 「ねえほんとにゲイ? 全然見えないんだけど」 「ゲイだよ。ジジイ相手に身体売ってるし。仮にノンケだとしてもオネエサンみたいな女は対象外」 「なにそれ失礼すぎ」  それから、彼女は笑った。崩れたメイクの下で、素朴そうな素顔が垣間見える。  色々あるよな。色々。俺だって今日は最悪な日だった。  口には出さなかったが、彼女も俺を見て何か思うところがあったのかもしれない。歩き出す彼女の横に並んでも、何も言われなかった。  泣いている水商売の女なんて、普段なら絶対に無視している。でもどういうわけか、今日はそんな気にならなかった。 「なんで泣いてたの」 「んー……なにかも嫌になっちゃった。ねえ、なんで私いつもこうなのかなぁ」 「分かるわー」 「我慢してたんだよ。お尻触られても、意味分かんない説教されても。でも、そんなの結局なんになるんだろ。クソな事には変わりないじゃん」 「それな」  それから近くの自販機の前に立った彼女が、有名ブランドの馬鹿でかい財布から小銭を出してボタンを押した。  ガコン、と落ちてきたカフェオレを当然のように俺に差し出す彼女は、確かに水商売の女だ。 「ティッシュのお礼」 「ありがと。名前なんていうの」 「ナギ。オニーサンは?」 「ミキ」 「女の子みたい。なんか似てるし」 「どうせお互い源氏名だろ」  確かに、と彼女が笑って、自販機の横に立つ。  繁華街から外れたら、人気は少ない。  落ち着いたらタクシーでも乗せるか、と考えながらカフェオレのプルタブを開けた時だ。 「え?」 「え」  心底不思議そうな声に彼女を見ると、その視線が足元に釘付けだ。  辿ると、彼女の足元の地面に丸い陣のようなものが描かれているのが見える。 「は? 魔法陣?」 「待って、光ってない? 怖いんだけど!」 「なんかこれ見たことあるわ! なんだっけ……」  どこかで見たような魔法陣のような絵に、あ、これあのゲームだ、と思い出した瞬間。  怯えたようにナギが俺の腕を掴んだ。その腕をしっかり握ったと同時に、目も眩むような光に包まれ、俺達はこの世界に飛ばされた。  目を開けたらそこは異世界。  そんなこと、一体誰が信じる?  でも、ナギも俺も目の前に広がる景色と、怪しげな黒いローブ姿の人間に囲まれてすぐに、異世界、しかも知っている世界だと分かった。 「……これって、『闇の王』?」  ナギが呟く。  地味タイトル地味パッケージ、宣伝もろくにされてなかったゲームは口コミ、動画配信サイト経由で世界的大ヒットを飛ばした。  ゲームは有名どころだけやる、みたいな俺でも手を出したほどだ。恐らくナギもプレイしたことがあるのだろう。  そう、そんな『闇の王』のプロローグは、主人公(つまり俺たち)が日本の自販機の前で召喚されるところから始まる。  正に今、ナギが辿った経緯そのものだ。 「彼女で間違いない」 「え?」  ローブ姿の一人が、ナギの腕を掴む。引き剥がされるように離れた俺らは、状況がうまく飲み込めず、ひたすらポカンとしていた。  ここはあの有名なゲームの世界そっくりだ。  まず、目の前にそびえ立つ虹色の塔。もの凄くデカい。  ゲームの象徴的な存在とも言っていい塔は、正確には虹色ではない。  塔は光の加減で光沢を帯びたように様々な色が混じり、その時々で色を変えるからだ。これが強力な魔科学で構築された障壁だと、ゲームをやった人間は分かっている。  そのまま周辺を見渡せば、飛空挺が高層ビルの合間を縫っていく様子や、通りを歩く人々の姿が見える。普通の人間の姿だけじゃなく、どう見ても人とは思えない姿も混じっていた。  その上ネオンに照らされた明るいほどの夜の街なのに、頭上の夜空に霞みようもない巨大な星が三つ並んでいるのを見れば、ここが紛れもなくあの『闇の王』に登場する巨大タウン、アテラだと分かる。 「っ、ちょっと、何?」 「ま、待て!」  口を開けながらその様子を二人で見ていたら、ナギの腕をローブ姿の者が強く引いた。  慌てて追いかけようとすると、正面にいた一人がゆっくりと俺を見る。フードの隙間から青白く光る瞳が見え、しっかりと目が合う。  心眼だ。  一気にプレイした記憶が蘇る。  冒頭で主人公は心眼という魔法を使える者に器の属性を視られる。  器とは、平たく言うと魂だと俺は解釈していた。  この世界には魔法と科学が混在し、生物は器を持って生まれる。その器には属性があり、火・水・風・地・闇、そして聖がある。  器を持つ者はその六属性のうちどれか一つを持っていると言われ、実際、魔法を使う際は器の属性に特化しやすい。  だが、魔法を使うのにはあるアイテムを使用する。それがこの世界で言う『神力の石(マナ)』だ。  マナは巨大な岩石で、小さく削って使用する。器を持つ者──保持者(フィディン)しか扱えず、石の大きさで魔力が左右することはない。  大抵装飾品に加工され、指輪やネックレス、ピアスなどとして身につける。中には埋め込む者もいるが、これを身につけることで、器は魔法が使えるようになるのだ。  これはこの後に分かる事だが、帝国は聖属性の器を探し続けていた。理由は分からないが聖属性の器が突然、見つからなくなったからだ。  それで世界中血眼になって探し続けていたら、異なる世界で発見し、呼び戻すこととなった。  聖属性の器は元々この国の者で、いなくなると様々な困難に陥る。  それが何らかの理由で異世界に流出してしまったので、帝国からの指示を受け、専用の魔法陣を構築し、数人の保持者(フィディン)達の力で主人公を呼び戻した、という体で、地球から強制的に召喚される。  そうして異世界トリップした主人公は、魔法を使える器を持つ者、保持者(フィディン)として小さなクエストをこなしながらこの世界を知り、後に仲間となるキャラクター達と出会い行動を共にし、家に帰るため、仲間達のため、巨大な悪と闘うことになるってわけだ。  うろ覚えだが、たしかそんなストーリー。  で、俺の立ち位置って? 「男は器なしだ」  目が合った男がそう言い、俺が返事をする前にナギがローブ姿達に連れて行かれる。 「ミキちゃん!」 「ま、まてって!」  焦って駆け寄る俺に、他の者が立ち塞がる。あっという間に彼等の背後に浮遊する車が通りに滑り込み、ナギが押し込まれた。  彼女は最後まで俺を振り返り、「ミキも乗せて!」と叫んでいた。  だが、奴等は終始無言でそれに答えることはなかった。 「は? え? どうすんの俺?」  さっさと立ち去った心眼の男とナギを茫然と見送り、残されたローブ姿達に半笑いで俺が問うても、返事はない。  それどころかその後は一切興味が無いというように、動揺する俺を綺麗に無視し、彼等は次にやってきた車に乗り込んだ。  つまり、俺はそこで完全に放置されたのだ。

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