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開院
真新しいデスクと椅子。
その上に真新しいパソコンと使い慣れたペン立て。
シンプルな部屋を見回していると、診療室の隣の受付ブースから
「先生、あと1分で9時ですよ。看板出しますね」
歳の頃54歳ほど。
元大病院の看護師長を経て、実家の味噌屋を手伝っていた和子さんは、この診療所を開院するのに非常に心強かった。
「お願いします」
背中の中頃までの髪を後ろで一つにまとめた桐江弥生 は、聴診器を首にかけて椅子に座った。
本日からなので、事前に調べるカルテも症例もなく、座ったはいいが特にやることもない。
八百屋の2階、小さな診療所である。最初から大勢来るとは思っていないが、家賃くらい払えたらそれでよかった、が和子さんが看板を出しにドアを開けたらしき音を聞いた直後に
「あらあら、どうぞ〜」
という声が聞こえ、数名が一気に待合室に傾れ込む声がした。
身体を捻って受付から覗くと、ほぼ老人5.6名が待合室の椅子を譲り合って座るのが見えた。
まあ、商店街を選んだのも『住民に身近なお医者さん』を狙ったので、何となく安心して受付を待とうと再び椅子に座ったが、一向に受付の気配がない。
和子さんも受付に戻って待機していたが、誰も受付に来ないで何人かは待合室をうろうろと歩いて観察をし、座っている人もキョロキョロと見回しているだけだ。
「山地さん、どこか悪いの?」
和子さんが山地さんに声をかけてみた。知り合いなのだろう
「いや?」
桐江は『いや?』とピクッと耳をそばだてた。
「じゃあなにしに診療所に?」
「偵察にな」
他の人も和子さんの知り合いらしく、山地さんを筆頭に、小坂さん、南さん、小牧さん、大枝さんなど、和子さんが全員の名前を呼んで確認したところ、全員が
「偵察」と言って憚らなかった。
桐江もそれを聞いて緊張を解いた。
そういうこともあるだろう、と今調べている糖尿病の最新情報の載った医学書を手に取って読み始める。
この地域には必要と察してのことだ。
待合室は賑やかだった。
「いい所っぽいな」
「先生の顔は知ってるのか?こーちゃん」
商店街の店主クラスも、元は同級生。それに耳を傾けながら、『そういうのも覚えていかなければなのか』とも考える。
「皆さん、ここは集会所じゃないんですよ」
受付カウンターに手をついて、待合室に佇む和子さんも、その店主達とは小中学校は同じく過ごした仲だ。
それから何度か入り口が開くが、全部が偵察組で患者などはいやしない。
桐江はそれでも落ち着いて時間を刻んでいく。
「先生、追い返しますか?」
1時間ほどして、和子さんがそう言って診療室へ来たが1時間話し尽くして本人が飽きた感じだ。
「まあ、誰かがいたほうが新しい方々は入りやすいかもしれませんし。いいんじゃないですか?」
本から目を上げる桐江は、ずいぶん無表情だと和子は最初から考えていた。
最初、元勤めていた病院から話を聞いて、桐江に会った時もそんな感じで、何か影がありそうだったから独立の理由を聞いてみたら
「ただなんとなく」
と言われ、がっかりしたものだ。
もっとこう病院内の政治に敗れたとか、上の先生から目をつけられたとか、重大な医療過誤を起こしたとかを『期待』していたのに、『商店街で開業したかったんです』は心底驚いた。
変わった人なんだなと認識したので、この無表情は天然だと納得するのにそう時間はかからなかった。
『患者さんの相手できるの?』
とは思うが、今まで大きな病院で外来もこなしてたと聞いている。
それならまあまあできるのだろうと、そこは信頼するしかなかった。
「和子さんやーい」
本当に集会所のように待合室から和子を呼ぶ声がして、和子さんも和子さんで
「はーい、なんですかー?」
などと戻っていく。
その光景に、内心は明るい診療所になりそうだ、と思いながらもまたしても無表情で、本に目を落とした。
初の患者が来たのは、11時を回った頃だった。
かなり咳込んだ40代の奥さんが、青い顔をして診療所の入り口の自動ドアから入ってくる。
「お、靴屋のさっちゃんじゃないか。どうしたんだ?青い顔して」
未だ待合室で会合をしている店主たちは、入ってきたのが靴屋の嫁と知ると一斉に目を向けた。
「青い顔になるようだからここ来たんでしょ」
和子さんが慌てて受付に戻り、保険証手続きや症状を聞きだした。
「今朝方から寒くて、咳も止まらないんです。少し様子を見てたんですけど、一向に治らなくて…そういえば今日ここが開院するのを思い出したので来てみました」
「寒気だけ?」
「熱測ったら38.3度あるし、少し吐き気もあって」
その会話は、隣で桐江も聞いている。
「じゃあお熱測ってね。今日はお熱終わったらすぐに診れるから」
さっちゃんは『え?』と待合室を見回すと再び和子さんに目を戻し、
「山地さんたちはもう?」
と聞き返し、さっちゃんここ座んな、と空けてくれた南さんに軽く頭を下げて椅子に腰を下ろす。
「みんなねえ、冷やかしなのよぉ。ほら、この商店街の人みいいんな新し物好きでしょ〜?珍しいもの見つけると、すぐこうなっちゃう」
いやあねえ〜と手首の返しも軽やかに、和子さんは笑っていた。
さっちゃんと呼ばれ、“靴屋の嫁”と言われてはいるが、もう子供も中学生で「嫁」と呼ばれるにはもう年齢が行きすぎてはいる。
だが長老にはいつまでも「〇〇の嫁」なのだろう。
体温計が鳴って和子さんが確認すると、熱は38.7度まで上がっていて、すぐに診察室へ通された。
「熱があって、少々の吐き気と…実際吐きましたか?」
パソコンのカルテに書き込みをしながら、時々顔を見て、顔色やそして咳き込むというので聴診器で胸の音などを聞いたりして問診や診察をする。
「実際には吐いてないです。吐き気も薄いといえば薄いですし…そういえば少々下痢を…」
「なるほど…」
カルテに書き込みながら、色々病名を模索する。
「1番の疑いとしては、極々軽い食中毒か、咳が酷そうなので咽頭炎の一歩手前という感じですかね…」
咳は聞いているとかなり酷いので、咳のしすぎの吐き気は十分考えられる。下痢の症状は吐き気も鑑みてごく軽い食中毒も考えられが、意外とそこは薄そうだ。
「では、咳どめの薬と頓服で熱さましをお出しします。とりあえずは熱と咳を何とかしないとね」
カルテに薬の名前等を書き込み、さっちゃんと向かい合う
「下痢が続いたり、何か別の症状が出たりしたら、すぐにきてくださいね。いつだっていいですから」
そう言って、綺麗な千代紙を一枚手渡した。
「は?」
「頑張ってここまできたご褒美です」
子供に言うようにそう言って、桐江は再びパソコンに向き直り
「処方箋は受付でもらってくださいね。ではお大事に」
顔だけ向けて頭を軽く下げ、さっちゃんは送り出された。
聞いていた和子さんは、普通に診察できた…やっぱり医者だったんだわ。
などと今までなんだと思ってたんだ、みたいな感想を頭で思い浮かべ、プリンターから出てきた処方箋を手にしてさっちゃんのお会計に向かった。
午前中の患者はその靴屋のさっちゃんだけで、終わってしまった。
店主たちも『昼だー』と帰ってしまい、お昼休憩の今は二人で受付奥のテーブルで食事を取っていた。
「先生昼ごはんそれだけですか?栄養偏ってますよ」
向かい合って食べている和子さんが、桐江が食べているコンビニのおにぎりとカップ麺を見て眉を顰める。
「よかったらこれも食べてくださいよ」
和子さんのお弁当はなぜか3つもあって、中身は一つがご飯とお肉と玉ねぎ炒め、と卵焼き。もう一つがきんぴらごぼうと筑前煮。もう一つがささがきごぼうの味噌炒め。
ごぼうばかりだ…。声に出さず桐江はごぼう三昧を見つめた。
「ごぼうは繊維質で体にいいですしね。先生もごぼう食べて元気に午後も診療いたしましょうね!」
あまりごぼうは得意ではないのだが、勧められたら少しは食べないと失礼か…と1番いけそうな筑前煮を食べて、その日はお茶を濁した。
「卵焼きは、朝ごはんの残りなんですよー。遠慮しないで食べてくださいね」
カップ麺の中に容赦無く卵焼きを入れられ、ピャッとなったところへ、不意に入り口があいた。
「あら、ドア閉じ忘れてたわ」
とティッシュで口を拭って和子さんは受付にたつと、人相の悪い男が一人待合室にやってきて、和子さんとその奥の桐江を目にしてフイと目を逸らすと、一回り待合室を回ってから無言で帰っていった。
麺を啜って目だけで見送った桐江は、『何ですか、いまの』と言う目を和子さんに向ける。
「あれね。お向かいの薬屋さんの2階にあるヤクザ事務所の若頭よ。商店街の顔役」
みかじめ料とか取られるのか…そう言う覚悟も必要なんだな、と桐江も覚悟を決め、甘い卵焼きのシーフード汁味を口に入れた。
こっちの覚悟はしていなかったため、初めての味覚に再びピャッとなった。
午後14時。
再び診療を再開すると、今度は午前中とは違う面子が「偵察」にやってきて、待合室はまた賑やかになった。
まあ…いつ診療に来るかわからない人を待つよりはいっぺんに顔は覚えられて便利か、と桐江は午前中に読んでいた糖尿病の最新本をまた読み始めた。
しかし午後は午前中とは少し違った。
何かというと女性も2名ほどいたために、
「昨夜から漬け込んでたのよ、茄子。これが糠漬けと、こっちが浅漬け。あ、浅漬けは今朝からね」
「私は、昨日おはぎ作ったのよ。ほらお彼岸近いじゃない?ちょっと練習しておこうと思って」
お茶会などが始まってしまった。
お母さん方は大きな水筒にお茶を持ち込み、あまつさえ紙コップも用意し、待合室は本当に集会所になった。
桐江の元にも“おはぎ”と“お漬物”そしてお茶が届き、和子さんはその輪に加わってしまった。
この現状に少々驚きながらも、それでも表情も変えずに茄子を一個口にして、両眉を上げ、数回噛んだのち、再び茄子を口に入れる。
美味かったようだ。
そんな集会も午後4時にはお開きになり、院内は漸く静かになった。
「今日は患者さん一人ですかねえ」
和子さんが受付の椅子をクルクルして、つぶやく。
「そうですね」
桐江はデスクの上をそろそろ、と少し片付け始め、そしてプラスチックの箱に入った千代紙を一枚補充した。
そしてあと15分で診療終了となる17:15分になった時だった。
「痛えよおぉぉ」
そんな声と共に、入り口の自動ドアが開き昼に来たヤクザが倒れ込んできた。
「森永さん!」
和子さんは受付からでて、倒れた森永に声をかける。
桐江も診察室から出てきて様子を見ると、
「歩けますか?取り敢えず診療台まで行きましょう。和子さんエコー出してください」
今日から始まった医院の真新しい玄関マットは血に塗れ、その血を点々と垂らしながら森永は何とか診療台まで歩いてくれた。
森永を寝かせた桐江は、傍の椅子に座り
「服、切っていいですか?」
と尋ね、刻々とうなづく森永を確認した後、すでに手にしていた和子さんからハサミを受け取って服の前を開き、血の流れている箇所を確認する。
そして手袋をつけ、アルコールに浸ったガーゼで広がった血を拭い傷の様子を見た。
「器用な刺され方ですね。避けた感じですか。脇腹の浅いところが貫通しているだけで、内臓には影響なさそうです。一応エコーで見てはみますけど」
和子さんもガーゼで、広がっていた血を拭って、傷口に乾いたガーゼを軽くだが押し込んだ。
「っつう!」
その際森永は小さく声を漏らしたが、特に暴れることもない。
桐江は、さっきまでお茶会していた元看護師の無駄のない動きに満足して、エコーのゼリーをエコーの肌に充てる部分に塗り、ガーゼが突っ込まれた傷口周辺に当てた。
「うん、内臓は…無事ですね。でもあと3cmで腸傷つけるところでしたよ。よかったです」
エコーの先を消毒綿で拭って片付け、今度はすでに用意されていた縫合セットを診療台の傍に置いた。
傷口を確認するが、もう少し血が止まらなければ縫うことも叶わない。
「先生、止血しておきますので、まずカルテ書いちゃってください」
『お願いします』といってデスクへ行くが、桐江には『森永さん』しか情報がなかった。
取り敢えず症状と処置を書き、名前などは後で聞こうと思い手を動かす。
数分すると
「先生、血おちつきました」
そう言われて、診療台の脇に座り傷口を確認して
「それでは」
と針と糸を取り上げた。
今風のホチキス式や、接着剤もあるが、こんな小さな医院に『縫合』が必要な患者がどれだけ来るかもわからず、取り敢えずこのセットを用意しておいた。
医療用ホチキスも接着剤も高かったしね。
「先生俺は死ぬかい?」
やけに悲観的なヤクザだ。
「今日は大丈夫ですよ。刺さりどころがよかった。何度も縫合痕ありますけど、あまり刺されないようにしてください。刺さりどころ悪いとそういう可能性もありますからね」
刺さりどころ?と和子さんは一瞬考えるが、間違っていないか、と気を取り戻す。
「そっか、死なねえか。よかった…」
森永は目を瞑って大きく息を吐いた。
「かしらぁ〜〜」
入り口からそんな声と共に、金髪、短髪アロハシャツの若い男子がまっしぐらに森永へと走り寄ってくる。
「兵藤君、まだ縫合中だから、あっちで待ってて」
和子さんはきっと、本気を出すと怖い看護師だ。
その迫力にヤクザのチンピラもピッと背筋を伸ばし、回れ右で待合室へ戻って行った。
「和子さん…すまねえな」
森永が渋く礼を言い、『あんたも黙りな』と怒られた。
肉もくっつき、表面だけ裏表縫合が終わって森永は腹に包帯を巻かれた状態で診療台へ腰を下ろす。
「急にすまなかったな、先生」
「病気や怪我は急なものですので、そこはお気になさらず。今日は化膿止めと傷口の薬を出しますので、夕食後にお薬ちゃんと飲んでくださいね。3日分出しますから、食後3回絶対に飲むように。傷薬は朝と晩に張り替えてください。一応明日も来てくださいね」
「わかりました。和子さん、ヤスにもいっておいてくださいよ」
「あんた一人じゃ無理だろうから、事務所の安田さんにも言っておくよ」
安田は組の世話役だ。本家から来ている。
「いや…おじきには…」
「あんたもヤスも信じられないからね」
何があったかわからないが、和子さんはこのヤクザに強気である。
「わかりましたよ」
少し項垂れて、森永はゆっくりと立ち上がった。
「あ、あとこれ」
桐江はデスクの上から千代紙を取り出し、森永に手渡す。
「は?」
「頑張ったご褒美です」
無表情でデスクについて
「ではお大事に」
と軽く頭を下げて、カルテの続きを記入していく桐江を森永は暫し見つめてしまった。
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