2 / 2
薬を飲まないマダム
開院して2日目。
待合室は相変わらず集会所で、今日は午前中から婦人会まで参加して、お茶会午前の部が開催されていた。
そんな中、今日は午前中に血圧を診てほしいという、50代のご婦人が来た。
「よそで見てもらってたんだけど、こっちの方が近いから〜」
と、受付であけすけに言って、取り敢えず待合室のお茶会に参加していた。
「三浦さん、診察室にどうぞ」
和子さんが、受付カウンターの中から血圧計を持ちながら三浦さんを呼んで、診察室へ同時に入った。
まずは診療台に座ってもらって、和子さんが血圧を測ってくれた。
「血圧管理ということですね。今までどのくらいでしたか」
桐絵がデスクのパソコンに入力しようと手を止めて三浦さんをみる。
「そうねえ、前のお医者さんでは200と150が最高だったかしらね」
そうですか…と相変わらずの無表情でカルテに記入していくが、かなり高い。
和子さん自前の水銀計の血圧計が、シュゥ〜と音をたてて計測を終えると、
「ちょっと三浦さん、高すぎよ血圧。さっきもお漬物食べてたけど、だめよお。もっとミネラル系食べて塩分も控えなきゃ」
「だって美味しいじゃない?お漬物。私大好きなのよお」
「だからこんなに血圧上がるのよ」
早く今の計測値が知りたい桐絵だが、話が弾んでいる中にうまく入れない。
「ちょっと太ったみたいだし、今度一緒に歩きましょ?」
「あの…」
「ええ〜いやよお。運動が苦手なの和子さんだって知ってるじゃない」
「あの和子さん…」
「そんなこと言ってたらあなたね…え?あ、はいなんでしょう先生」
やっと入れた。
「今の計測値を教えてください」
「え?あらやだ私ったら、今の血圧は180と140でした。高いですよねえ。先生からも言ってやってくださいよ」
「三浦さん、その測定値は毎日薬を飲んでなんですか?」
「薬?飲んで無いです」
桐絵の手が止まる。
「なにあなた、薬飲んでないの?ダメじゃない飲まなきゃ!」
「だってすぐ忘れちゃうのよ」
「血圧の薬は1日1回じゃないの。朝ごはん後に飲めば忘れなくない?」
「うちはクリーニング屋じゃない?朝の通勤時忙しくてさ、朝ごはんなんて昼と一緒になったり不定期なのよお」
ケラケラ笑いながらいうが、結構深刻な問題
「薬は、飲み続けてもらわないと困りますよ。お身体に変調はないんですか?」
流石に180と140の高血圧で薬飲まないというのはまずいと桐絵も思う。
「それがないのよね。身体的には〜。それに忘れちゃうものは仕方なくない?」
「晩御飯でいいじゃない」
「晩酌してそのまま寝ちゃうことも多いじゃない?」
『多いじゃない?』ではないのだが、寝てしまうのは仕方がない。
じゃない。
「取り敢えず、今日お薬出しますので、『必ず』飲んでくださいね。それと血圧計はお持ちですか?」
「一応もってますぅ〜」
『必ず』を強調されて、三浦さんはちょっとだけしおらしくなった。
「では、朝起きてトイレに行ったら毎朝測って、このノートに記録してください。取り敢えず1週間やってもらって、1週間後にまたいらしてほしいです」
机に『血圧記録手帳』という小さなノートを出して、それを和子さんが手渡した。
「めんどくさいわねえ」
「管理してほしいって来たんでしょ。取り敢えず1週間ですって、ちゃんとやってね」
言いたいことは和子さんが言ってくれるので、非常に助かる。
「ではお大事に」
桐絵はそう言って、千代紙をとってちゃんと手渡しするために立ち上がった。
「なあにこれ、可愛い」
「血圧を測るのを頑張るあなたにご褒美です」
そんな言葉も無表情で伝え、再びデスクへ戻った。
「ねえこれ可愛いわよね、和子さん」
「そうなのよ。先生の千代紙結構見ないものだからきっと貴重よ。大事にしてね」
うれしい〜と喜びながら、再びお茶会に戻って行った三浦さんの背中を、無表情ながら喜んでもらえて嬉しい顔で、桐絵は見送った。
待合室で、『ええ〜可愛い』『いいね、孫にあげたいな』等聞こえてきて、少し不穏な空気が流れてきた。
「和子さん、先生に言って少し分けてもらえないかね」
「私も少しほしい〜」
和子さんにおねだりの声が行くのを、不穏な気持ちで聞いていた桐絵だったが、
「千代紙は一人一枚、患者さんにだけ!欲しければ患者になれ!」
言っていいのか悪いのかわからない言葉を発した和子さんに、もうそれ以上言い募る人はいなくなった。
お昼休憩
和子さんは昨日に引き続き、ごぼうに特化した(?)メニューを持ってきていた。
「ごぼうサラダ、うまくいったのよ召し上がれ。ごぼうの唐揚げねえ、これ結構家族にも評判いいのよ?召し上がれ。そしてねえ…」
ごぼうだけでどんだけのレシピがあるんだ…と表情を変えずに、2日目にして自分用に用意された皿の上に置かれたものを見つめてしまう。
だからごぼうはそんなに得意ではないと…。
「先生、今日はコンビニのお弁当ですか?昨日よりはいいですけど、できれば『つやつや亭』とかのお弁当屋さんにした方がいいですよ?若い時にちゃんとしておかないと、三浦さんみたいになっちゃいますからね」
ごぼう80%ほどの豚汁を、スープジャーで飲んでいる和子さんはちょっとだけぷんぷんしていた。
そこへ、入り口が開く音がした
「あら、また閉め忘れちゃったわね」
和子さんが受付カウンターまで出てみたら、また昨日のヤクザ森永が立っていた。
「あら若頭、どうしたんです?あ、昨日の傷ね。今日来ることになってましたものね。でも今は昼休憩だから、14時からきてくださいよ」
「いや、少し話があって」
その声を聞いて、桐絵が立ち上がってカウンターまでやって来た。
「どうしました?痛みますか」
「いやその話じゃなくてな、玄関のマット、俺が汚しちまったんで、弁償しないとなって思って。どこで注文したのか聞きにきたんだ」
確かに昨日、刺された血がマットについてしまって、今日はマットなしで営業してはいた。
「いいですよ。洗えば落ちますし、お気になさらず」
「俺の気が済まねえんだよ…それならこっちの業者で頼むけどいいか?」
本当に気にしないでいいのに…とは思うがきっと聞きいれないだろうな。
「でもデザインも一応考えて作っているので…」
あのマットは、独立の記念に元いた病院医局からのプレゼントだったのだ。だから代わりはないので本当にいいのだが…。
「そんじゃ、こっちで業者頼むな。本当悪かったよ。そんじゃまた後ほど」
やっぱり聞き入れない…
「ま、ご好意だし、受け取ってやんなさいよ」
和子さんがそう笑って『さあご飯ご飯』と席に戻ってゆく。
ほんとにいいのに…なんだか嫌な予感しかしない桐絵なのであった。
午後の診療が始まると、今日はいつもと趣が違って待合室の奥の方は碁会所になっていた。
誰が持ち込んだのか簡易碁盤をシートに置いて、その両脇に長老二人が座り、後のものは持ち込みの椅子だとか立ったままだとかで見ていて、手前ではご婦人たちのレース編みが行われている。
もちろん傍には、朝から煮込んだ煮物や、こんにゃくの甘辛炒めなど盛りだくさん。
桐江はそんな光景にも動じずに、今日は肝臓の移植の本などを読んでいた。
十五時になった頃、
「こんにちわ!」
と元気な声が入口から聞こえ、待合室はどよめいた。
「おお〜肉屋の孫じゃないか!こっちおいで、幾つになった」
途端にジジババに変貌した長老たちが、一斉に子供に向く。
「賢太郎、皆さんにご挨拶は?」
若くて美人なお母さんだ。肉屋の嫁なのだろう。
「皆さんこんにちは」
ぺこりと頭を下げる姿にジジババはメロメロだ。
受付から和子さんが顔を出し、
「今日はどうしたの?沙也加さん」
肉屋の若嫁は『沙也加さん』か、と桐江は覚えた。
「ちょっとお聞きしたくて」
と言いながら、沙也加はジジババに賢太郎を預けて受付にやってきてから、小さな声で
「日本脳炎の2回目の予防接種は、予約必要ですか?」
子供に聞かれると激しい抵抗に遭うというのを和子さんも察している。
「大丈夫。お子さんの予防接種は一通り揃えてるのよ。今日、行っとく?」
腕に注射を刺す動作をして、沙也加に言ってみると、沙也加さんも
「行っときます」
と同じポーズで答え、それが目に入ってしまった桐江はそのポーズだけはやめてもらおうと後で言う決意をした。
「せんせ、日本脳炎の予防接種だそうです。用意していいですか?」
「はいはい、お願いします」
診療所というからには、子供も見られなくてはと、今まで時間をかけて色々学んでもきていた。
「志村賢太郎さ〜ん」
和子さんが大人と同じ呼び方をしてやると、賢太郎はきりりっとして
「はい!」
と手をあげ受付までやってきた。
「じゃあ、そこの入り口から中に入ってくれる?」
「はい!」
何度も手をあげて答える幼稚園児に、ジジババはずうっとメロメロだった。
「こんにちは」
桐江がそれでも笑ってるつもりで挨拶をするが、賢太郎は一瞬で固まってしまった。
白衣のせいもあるだろうが、やはり笑顔は欲しいわよね…と側で和子さんも思う。
「お熱測ったかな」
そう言われて、『あ!』と和子さんが声を上げる
「すみません、忘れてました。今でいいですか?」
「はい、急がないので。じゃあこれを」
と賢太郎自身に渡してあげて、沙也加が手助けしながら測ると36.6度
「じゃあ大丈夫ですね。では」
桐江は徐にステンレストレイから注射器を取り出し、傍のアルコール綿を手にした。
その瞬間、賢太郎の顔がピャッとなり固まったかと思うと次の瞬間
「いやあああああああああああああああ」
大音量で声を上げ、沙也加の膝から飛び降り待合室へと駆け出してゆく。
それを予測していた和子さんは、
「こおら!ダメダメ、お座りして」
と賢太郎を抱き上げるが、ありったけの声で
「いやあああ!殺されるうううう」
どこで覚えた言葉なのか、不穏なことを叫ぶ賢太郎に、院内はもう居た堪れなさに包まれる。
「先生。注射はダメだよ」
「かわいそうだよ、小さいのに」
ダメだよと言われても…と桐江は戸惑い、沙也加はそんな嫁ぎ先の舅姑みたいなジジババに辟易としながら、
「賢太郎!お薬なのよ!ちゃんと受けなさい」
母親に怒られてまたピャッとなったが黙ったのは一瞬で
「いやあああ!チックンいやだあああ」
夫の秀太郎にそっくりな態度に沙也加はイライラした。
もう一家揃って注射嫌いで、秀太郎もインフルワクチンですら尻込みをする。
「賢ちゃん、病気になっちゃうよ?今日のお薬は頭のお薬なの。頭の病気になっちゃうけどいいの?」
また、なんというか大胆な脅しを…
「う…」
頭の病気は怖いと聞かされてでもいるのか、賢太郎は黙りはしたが、体はまだ逃げている。
手強い…と桐江は未だ注射器とアルコール綿をもったまま立ち竦んでいた。
「賢太郎くん、先生も待ってるから」
和江さんの言葉にも、母親の足にしがみついてじっと桐江を見ている。
「怖くないよ?」
そう言われると怖い。
「痛くないよ?」
そう言われると…
「もう!」
剛を煮やしたのは沙也加だった。
賢太郎を抱き上げて椅子に座り膝に乗せ、後ろからギュウウッと抱きしめて腕を捲り上げる。
その腕を和子さんがすかさず抑え
「先生!今です!」
え…ええ?今ですって、ええ?
「早くっ!」
「いやああ〜!はなせええええ」
「先生!」
「早く!」
はいはい、とアルコール綿を腕に当てたがもう乾いてしまっている
「何やってんですかもう!」
なぜか桐江が怒られながら、アルコール綿を新しく持ち、
「早く!」
「いやあああああああ!」
「先生!今ですよ!」
の声の中、プチュ…
「ぎゃああああ!」
予防接種終了。
電車が描かれた絆創膏を貼ってもらい、賢太郎は潤んだ目で沙也加に抱きついていた。
「先生、ありがとうございました。今度ははしかですね。次はもう少し大きくなってると思いますので」
さっきの鬼のような沙也加はなりを顰め、優しいお母さんに戻って賢ちゃんを抱っこして、待合室へ戻って行った。
「あ、これを」
部屋から出る直前で桐江は呼び止め、近寄って行って一枚の千代紙を沙也加に、車のゴム消しを賢太郎に手渡した。
「今日は頑張りましたね。ご褒美です」
「僕の?」
「はい、頑張りましたからね」
無表情の中にも笑顔を見出してくれたのか、賢太郎が笑ってくれた。
「ありがとうございます。でも僕は電車が好きだから、今度は電車をください」
「これ!」
沙也加が嗜めて、流石の桐江も両眉を上げた後目を細めた。
「そうしましょう」
賢太郎親子を送ってデスクにつくと、桐江は
『三日分くらい疲れた気がする…』と内心思っていた。
子供は手強いものだ。
ともだちにシェアしよう!

