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 日が沈んだ街並みは温かな光を灯して、夜光虫の漂う夜の海原のように広がっていた。  涙で(にじ)んでいくそれが、(まぶ)しくて堪らなかった。  星のように灯る明かりの中に、自分のものになるものなんて一つもない。  自分はずっとひとりなのだ。  一人で生きて、そして一人で死んでいくのだろう。  気分が悪い。  たぶん、あれだ。  いつもの貧血だ。  (いな)()()(いち)はラッシュの人波に()まれながら、辛うじて足を踏ん張らせていた。  転職して初めての出勤を控えた今朝は、緊張して朝食がろくに喉を通らなかった。別に人見知りのわけではないが、新しい環境に慣れるには少し時間が必要だ。それに、(のり)()が一生懸命食べているのを見ているだけで、胸も腹もいっぱいになった。  ガラス窓に写る自分の顔が真っ青だった。痩せているからか(ほお)(ぼね)が目立つ。切れ長の目が充血していた。今朝下ろした春らしいクリーム色のシャツも、ワックスで軽くまとめた髪もすでにどことなくくたびれて見える。 (初出勤だって、気合入れてたのに……)  緩やかに曲がった電車の重力が、どっと背中を襲う。窓ガラスに押し付けられて、うめきながら紀一は腕をついてやりすごした。  目が開けられない。この場に座り込めたらどんなに楽だろう。  乗客は多かれ少なかれ、急き立てられるように出勤しているひとばかりだろう。紀一だってサラリーマンだからわかっている。混み合った車内に、なんとなくぴりついた空気を感じる。 (座りたい……)  二十九歳、貧相なおっさんがいきなりその場に座り込んだら、きっと迷惑がられて眉を(ひそ)められるのが関の山だ。  くだらないことを必死に考えて気を散らしていたが、紀一はとうとう口元を手で覆った。  三月の終わりとはいえ今日はひどく寒い日だった。その反動のように暖房が効いた車内の人いきれが(まと)わりつくように感じられる。  今度は吐き気まで。今日は厄日だ。  初出勤なのに、幸先悪い。 (ああ……)  胸のあたりがぐっと押される。上の空になる余裕もなくなってきた。  つぶった(まぶた)の裏で、ちかちかと赤っぽい光が明滅する。  もう、限界。  あと一回でも押されたら、きっと紀一の周りの人は一瞬で飛びのいてくれるだろう。 (すみませんすみません。でももう限界なんです。吐いてもいいですか。俺は今、人間としての尊厳を試されている……)  次の駅で降りよう。転職後、建築事務所の初出勤で第一印象最悪になるだろうが遅れよう。とりあえず、一息ついたら電話する。所長は時間に厳しい。大音声の所長の罵倒に耐えられるだろうか。いや、きちんと理由を説明すれば大目に見てくれるはずだ。  涙目になって、紀一はひっそりと覚悟を決めた。  電車がまた曲がりに差し掛かりそうだ。吐き気のほうは今日一番のビックウェーブが襲ってきた。紀一はひっそりと腹をくくった。公衆の面前でお漏らしするよりずっとましだ、と心の中で唱えながら。  そんなふうにぐらぐらの頭の中の大波をこらえていると、ふいに背中への圧力が弱まった。 (……あれ?)  息が楽になった。目を開けようとすると、ぐいっと背中を抱かれた。そのまま引き寄せられたが、バランスを崩すこともなかった。背中をドア側に預けられる体勢だからか苦しくはない。目をつぶっている紀一をふわりといい匂いが包んだ。 「ちょっとは、楽ですか?」  耳元でひそひそと(ささや)かれて、紀一はびっくりした。  顔を上げようとしたら、眩暈(めまい)がそれを許さなかった。  どうやら誰かが腕の中に囲い込んでくれているようだった。背中に当たるドアの冷たさが心地良い。 (守られている……?)  薄目を開けると、自分の顔の両脇に腕をついてあった。若い男だ。爽やかなライムグリーンの袖が見えた。  何が起こったかわからないが、まさに地獄に仏。  何も考えられないまま、紀一は眩暈と戦った。  「はひ、……すみません」  (うつむ)いたまま声を絞り出す。情けなく震えた小声に、相手は(うなず)いてくれたようだった。 「次の駅まで辛抱です」  静かな声音に、心を慰められる。ちょうど紀一の額の辺りに口元が来るのだろう。紀一だって身長は平均以上あるのだから、背がとても高いのがわかる。 「はぃ……、あの、……ご、面倒をおかけします」 「いいえ」  くすりと含み笑う気配がした。  瞼の裏の暗がりがぐねぐねと動いている。一秒でも早く外に出たい。外の空気を吸いたい。早く外へ、駅へ。紀一はそればかりを念じていた。  電車は緩やかに減速していく。駅に着くまで、青年は乗客から守るように腕の中に紀一を置いていてくれた。  電車が止まった。もうなりふり構えなかった。紀一は新鮮な空気の中に転び出るようにして外へ出た。それと同時に、あの青年が素早く肩を抱いてくれた。その青年はふらふらの紀一を抱えるようにして歩いてくれる。わざわざ一緒に降りてくれたのだ。 「こっち」  誘導するようにして、すぐ傍のベンチまで付き添ってくれる。口の中が苦い。紀一は身を投げ出すようにして座った。背中の糸が切れたようにずるずると体が()(かん)していく。やっと息が吸える心地がした。紀一は(りょう)(もも)に肘を置き、頭を抱えるようにして前かがみになる。  紀一を乗せていた電車が発車した。辺りが急に静かになる。 (お礼、言ってない……)  肩を(すぼ)めるようにして俯いて、紀一は自分の気の回らなさに落ち込んだ。 「──これ」 「あ」  もう彼は行ってしまったものとばかり思っていた。  まだいてくれた。反射的に顔をあげようとして頭の中が真っ暗になる。紀一は項垂れたまま息を吐いた。  彼の声が聞こえたことに、紀一はほっと(あん)()した。貧血のせいで心細くなっているからだろう、耳に心地よい声がとても頼もしかった。 「どうぞ、飲んでください」   声とともに冷たいなにかを握らされた。ミネラルウォーターのペットボトルらしかった。   震えながら蓋を外そうとすると、さっと横から開けてくれた。そして、紀一の手が震えているのに気付いたのだろう、しばらく手を添えていてくれる。  大きな掌が温かい。気遣うように優しく力が入れられて、紀一の口元にボトルを運んでくれる。紀一は一口飲んで、ほっと息をついた。だいぶましになってきた。  しばらくすると少し震えが収まってきた。頭の芯の痛みをこらえながら、紀一は声を絞った。 「……すみません、電車」  まさか付き添ってくれるとは思わなかった。  目の開けられないまま失礼だったが、今はまだ首を持ち上げるのも難しい。 「いいんです。一、二本遅らせても余裕がありますから」  にっこりとした笑顔が想像できる、優しい返事に紀一はほっとした。社交辞令だったとしても、今の紀一にはありがたかった。  温かい声に労わられて、紀一はゆっくりと呼吸をした。しばらくすると、冷たい水に体の芯を支えられたのか、気分の悪さが引いてきた。紀一はようやくのろのろと顔を上げた。 (──わ)  飛び込んできたのは、若々しい笑顔だった。  なぜだか紀一は、まるで花の匂いを含んだ春風が体に吹き付けられたように感じた。 「少し、ましになりました?」  浮かんでいる表情は物静かで、温かい。()れたように黒い目は、紀一によく(しつけ)られた犬を彷彿(ほうふつ)とさせた。さっぱりとした黒い髪が風に(きらめ)いている。着心地よさそうなパンツの足がすんなりと長い。大学生だろうか。明るい茶色のガロンリュックを片手に提げている。 「? ……あの?」  小首を傾げた青年の耳元で黒い髪がさらりと揺れた。 「あ、えっと、……はい、もう大丈夫です」  我に返って紀一は狼狽(ろうばい)した。 「本当に、ありがとう、ございました」  立ち上がろうとしたら、すぐさま視線で座ったままでいるように促された。 「しばらく休まれていくといいですよ」  にっこりと微笑まれた。 「うん、顔色、よくなったかな?」  少し前かがみになって、紀一の顔を(のぞ)き込んでくる。 「あ、あの、……もう、ひとりで、大丈夫です……」  白い頬に落ちる(まつげ)の影が至近距離で見える。  紀一はぼーっと動けなくなった。  そこそこ都会とはいえ地方都市に住んでいるし、自分からがんがんいけるような積極性もない。紀一は同性を好きになってしまう性癖を自覚しているが、ずっと一緒に生きていける恋人ができないことも承知していた。大体現在の紀一は毎日が精一杯で、恋愛をする余裕が欠けている。  恋はもういいのだ。  しかしだからといって、目の保養になりそうな、こんな好みのイケメンに()えないほど枯れてもいないのだった。今は気分が悪くて心が弱っているせいで、ある意味本能がむき出しになっているのだろう。紀一は青年を眺める自分がほわほわしているのに気づいていた。 (ありがたやありがたや、眼福だなぁ……)  まだ心配そうな色を残したままの彼に、紀一は空元気をふりしぼってへらりと笑った。青年は何故かちょっと目を瞬かせた。しかしすぐに人当たりの良い笑みを浮かべ、軽く会釈をした。 「それじゃ」  背筋のぴんと伸びた後姿は、ホームへ入ってきた電車に乗った。閉まっていくドアガラスの向こうで、にっこりと笑みを浮かべて小さく頭を下げてくれた。 (心まで、いけめんだぁ……)  颯爽(さっそう)と去っていった笑顔を見送りながら心の中で感嘆する。こんな世知辛い世の中で、あんなふうに他人を思いやれる余裕があるのも羨ましい。  もっと気の利いたことを言えばよかった。できることなら、また会ってお礼がしたいくらいだ。  手の中で冷たい水がちゃぷんと揺れた。  紀一は性懲りもなく浮かれていた。 「あ、電話するんだった……」  電話を入れると、案の定所長に怒鳴られた。具合が悪くなったと告げると、途端に心配そうな声になって無理はするなと労われてしまった。所長にできるかぎりすぐに出発すると伝え、紀一は携帯をしまった。 (あんな若者がいて、おっちゃん、得した気分……)  貧血でさんざんだったが、紀一は明るく胸の中で苦笑した。手の中の冷たい水をもう一度飲んでみる。おいしい。頭の中の揺れているような感覚が収まるまで、紀一は向かいのホームに下り方向の電車が入ってくるのをぼんやりと眺めていた。

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