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〔1〕
日が沈んだ街並みは温かな光を灯して、夜光虫の漂う夜の海原のように広がっていた。
涙で滲 んでいくそれが、眩 しくて堪らなかった。
星のように灯る明かりの中に、自分のものになるものなんて一つもない。
自分はずっとひとりなのだ。
一人で生きて、そして一人で死んでいくのだろう。
気分が悪い。
たぶん、あれだ。
いつもの貧血だ。
稲 葉 紀 一 はラッシュの人波に揉 まれながら、辛うじて足を踏ん張らせていた。
転職して初めての出勤を控えた今朝は、緊張して朝食がろくに喉を通らなかった。別に人見知りのわけではないが、新しい環境に慣れるには少し時間が必要だ。それに、紀 保 が一生懸命食べているのを見ているだけで、胸も腹もいっぱいになった。
ガラス窓に写る自分の顔が真っ青だった。痩せているからか頬 骨 が目立つ。切れ長の目が充血していた。今朝下ろした春らしいクリーム色のシャツも、ワックスで軽くまとめた髪もすでにどことなくくたびれて見える。
(初出勤だって、気合入れてたのに……)
緩やかに曲がった電車の重力が、どっと背中を襲う。窓ガラスに押し付けられて、うめきながら紀一は腕をついてやりすごした。
目が開けられない。この場に座り込めたらどんなに楽だろう。
乗客は多かれ少なかれ、急き立てられるように出勤しているひとばかりだろう。紀一だってサラリーマンだからわかっている。混み合った車内に、なんとなくぴりついた空気を感じる。
(座りたい……)
二十九歳、貧相なおっさんがいきなりその場に座り込んだら、きっと迷惑がられて眉を顰 められるのが関の山だ。
くだらないことを必死に考えて気を散らしていたが、紀一はとうとう口元を手で覆った。
三月の終わりとはいえ今日はひどく寒い日だった。その反動のように暖房が効いた車内の人いきれが纏 わりつくように感じられる。
今度は吐き気まで。今日は厄日だ。
初出勤なのに、幸先悪い。
(ああ……)
胸のあたりがぐっと押される。上の空になる余裕もなくなってきた。
つぶった瞼 の裏で、ちかちかと赤っぽい光が明滅する。
もう、限界。
あと一回でも押されたら、きっと紀一の周りの人は一瞬で飛びのいてくれるだろう。
(すみませんすみません。でももう限界なんです。吐いてもいいですか。俺は今、人間としての尊厳を試されている……)
次の駅で降りよう。転職後、建築事務所の初出勤で第一印象最悪になるだろうが遅れよう。とりあえず、一息ついたら電話する。所長は時間に厳しい。大音声の所長の罵倒に耐えられるだろうか。いや、きちんと理由を説明すれば大目に見てくれるはずだ。
涙目になって、紀一はひっそりと覚悟を決めた。
電車がまた曲がりに差し掛かりそうだ。吐き気のほうは今日一番のビックウェーブが襲ってきた。紀一はひっそりと腹をくくった。公衆の面前でお漏らしするよりずっとましだ、と心の中で唱えながら。
そんなふうにぐらぐらの頭の中の大波をこらえていると、ふいに背中への圧力が弱まった。
(……あれ?)
息が楽になった。目を開けようとすると、ぐいっと背中を抱かれた。そのまま引き寄せられたが、バランスを崩すこともなかった。背中をドア側に預けられる体勢だからか苦しくはない。目をつぶっている紀一をふわりといい匂いが包んだ。
「ちょっとは、楽ですか?」
耳元でひそひそと囁 かれて、紀一はびっくりした。
顔を上げようとしたら、眩暈 がそれを許さなかった。
どうやら誰かが腕の中に囲い込んでくれているようだった。背中に当たるドアの冷たさが心地良い。
(守られている……?)
薄目を開けると、自分の顔の両脇に腕をついてあった。若い男だ。爽やかなライムグリーンの袖が見えた。
何が起こったかわからないが、まさに地獄に仏。
何も考えられないまま、紀一は眩暈と戦った。
「はひ、……すみません」
俯 いたまま声を絞り出す。情けなく震えた小声に、相手は頷 いてくれたようだった。
「次の駅まで辛抱です」
静かな声音に、心を慰められる。ちょうど紀一の額の辺りに口元が来るのだろう。紀一だって身長は平均以上あるのだから、背がとても高いのがわかる。
「はぃ……、あの、……ご、面倒をおかけします」
「いいえ」
くすりと含み笑う気配がした。
瞼の裏の暗がりがぐねぐねと動いている。一秒でも早く外に出たい。外の空気を吸いたい。早く外へ、駅へ。紀一はそればかりを念じていた。
電車は緩やかに減速していく。駅に着くまで、青年は乗客から守るように腕の中に紀一を置いていてくれた。
電車が止まった。もうなりふり構えなかった。紀一は新鮮な空気の中に転び出るようにして外へ出た。それと同時に、あの青年が素早く肩を抱いてくれた。その青年はふらふらの紀一を抱えるようにして歩いてくれる。わざわざ一緒に降りてくれたのだ。
「こっち」
誘導するようにして、すぐ傍のベンチまで付き添ってくれる。口の中が苦い。紀一は身を投げ出すようにして座った。背中の糸が切れたようにずるずると体が弛 緩 していく。やっと息が吸える心地がした。紀一は両 腿 に肘を置き、頭を抱えるようにして前かがみになる。
紀一を乗せていた電車が発車した。辺りが急に静かになる。
(お礼、言ってない……)
肩を窄 めるようにして俯いて、紀一は自分の気の回らなさに落ち込んだ。
「──これ」
「あ」
もう彼は行ってしまったものとばかり思っていた。
まだいてくれた。反射的に顔をあげようとして頭の中が真っ暗になる。紀一は項垂れたまま息を吐いた。
彼の声が聞こえたことに、紀一はほっと安 堵 した。貧血のせいで心細くなっているからだろう、耳に心地よい声がとても頼もしかった。
「どうぞ、飲んでください」
声とともに冷たいなにかを握らされた。ミネラルウォーターのペットボトルらしかった。
震えながら蓋を外そうとすると、さっと横から開けてくれた。そして、紀一の手が震えているのに気付いたのだろう、しばらく手を添えていてくれる。
大きな掌が温かい。気遣うように優しく力が入れられて、紀一の口元にボトルを運んでくれる。紀一は一口飲んで、ほっと息をついた。だいぶましになってきた。
しばらくすると少し震えが収まってきた。頭の芯の痛みをこらえながら、紀一は声を絞った。
「……すみません、電車」
まさか付き添ってくれるとは思わなかった。
目の開けられないまま失礼だったが、今はまだ首を持ち上げるのも難しい。
「いいんです。一、二本遅らせても余裕がありますから」
にっこりとした笑顔が想像できる、優しい返事に紀一はほっとした。社交辞令だったとしても、今の紀一にはありがたかった。
温かい声に労わられて、紀一はゆっくりと呼吸をした。しばらくすると、冷たい水に体の芯を支えられたのか、気分の悪さが引いてきた。紀一はようやくのろのろと顔を上げた。
(──わ)
飛び込んできたのは、若々しい笑顔だった。
なぜだか紀一は、まるで花の匂いを含んだ春風が体に吹き付けられたように感じた。
「少し、ましになりました?」
浮かんでいる表情は物静かで、温かい。濡 れたように黒い目は、紀一によく躾 られた犬を彷彿 とさせた。さっぱりとした黒い髪が風に煌 いている。着心地よさそうなパンツの足がすんなりと長い。大学生だろうか。明るい茶色のガロンリュックを片手に提げている。
「? ……あの?」
小首を傾げた青年の耳元で黒い髪がさらりと揺れた。
「あ、えっと、……はい、もう大丈夫です」
我に返って紀一は狼狽 した。
「本当に、ありがとう、ございました」
立ち上がろうとしたら、すぐさま視線で座ったままでいるように促された。
「しばらく休まれていくといいですよ」
にっこりと微笑まれた。
「うん、顔色、よくなったかな?」
少し前かがみになって、紀一の顔を覗 き込んでくる。
「あ、あの、……もう、ひとりで、大丈夫です……」
白い頬に落ちる睫 の影が至近距離で見える。
紀一はぼーっと動けなくなった。
そこそこ都会とはいえ地方都市に住んでいるし、自分からがんがんいけるような積極性もない。紀一は同性を好きになってしまう性癖を自覚しているが、ずっと一緒に生きていける恋人ができないことも承知していた。大体現在の紀一は毎日が精一杯で、恋愛をする余裕が欠けている。
恋はもういいのだ。
しかしだからといって、目の保養になりそうな、こんな好みのイケメンに萌 えないほど枯れてもいないのだった。今は気分が悪くて心が弱っているせいで、ある意味本能がむき出しになっているのだろう。紀一は青年を眺める自分がほわほわしているのに気づいていた。
(ありがたやありがたや、眼福だなぁ……)
まだ心配そうな色を残したままの彼に、紀一は空元気をふりしぼってへらりと笑った。青年は何故かちょっと目を瞬かせた。しかしすぐに人当たりの良い笑みを浮かべ、軽く会釈をした。
「それじゃ」
背筋のぴんと伸びた後姿は、ホームへ入ってきた電車に乗った。閉まっていくドアガラスの向こうで、にっこりと笑みを浮かべて小さく頭を下げてくれた。
(心まで、いけめんだぁ……)
颯爽 と去っていった笑顔を見送りながら心の中で感嘆する。こんな世知辛い世の中で、あんなふうに他人を思いやれる余裕があるのも羨ましい。
もっと気の利いたことを言えばよかった。できることなら、また会ってお礼がしたいくらいだ。
手の中で冷たい水がちゃぷんと揺れた。
紀一は性懲りもなく浮かれていた。
「あ、電話するんだった……」
電話を入れると、案の定所長に怒鳴られた。具合が悪くなったと告げると、途端に心配そうな声になって無理はするなと労われてしまった。所長にできるかぎりすぐに出発すると伝え、紀一は携帯をしまった。
(あんな若者がいて、おっちゃん、得した気分……)
貧血でさんざんだったが、紀一は明るく胸の中で苦笑した。手の中の冷たい水をもう一度飲んでみる。おいしい。頭の中の揺れているような感覚が収まるまで、紀一は向かいのホームに下り方向の電車が入ってくるのをぼんやりと眺めていた。
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