4 / 4

〔4〕

『今日のおかずは茄子(なす)がいいです』  ぷわんという無個性な着信音を鳴らした携帯に、紀一は手短に返事をした。 「了解了解、っと」   ぶつぶつ独り言を言いながら返信をしていると、ちょうど隣の席に来ていた田永がにっと唇の端をいたずらっぽくつりあげた。 「稲葉くん、近ごろ顔色いいわね。調子もいいみたいだし」 「そうですか?」  先週、若山から貧血改善にとサプリメントをもらった。あれから珍しく紀一は貧血が起きてないから、もしかしたら効果が出てきたのかもしれない。  素直にうれしくて顔がにやついてしまう。田永もからかうように目を細めた。 「いいことあったの? さては、イロコイね?」  何が書いてあるわけでもないのに、紀一は思わず頬を隠すように掌で覆った。 「違いますよぅ、今日のおかずは茄子の煮浸しにするんです。それが楽しみなだけです」  茄子の煮浸しは紀一の好物の一つだったし、夕飯が楽しみなのも(うそ)ではない。 「田永さん、稲葉さん、お客さんから差し入れ頂きました」  オフィスの入り口を開けながら、お使いから戻ってきたアルバイトの西木が顔を覗かせた。 「本当? なんだろう?」 「給湯室に置いてあるっす。最中でした」 「じゃあ、俺、お茶淹れてこようかな。丁度甘いもの食べたかったんだよねぇ」  紀一が腰を浮かせかけると、西木が気を利かせて言ってくれた。 「あ、それなら俺が行くっす!」 「ありがとう、田永さんはどうします?」 「そうね、頂こうかしら」  田永も頷いた。 「あ、でも夕飯の茄子をより楽しむために、お腹空かせた方がいいのかも……、西木くん、やっぱり俺はお茶だけにしてくれる?」 「了解っす」 「所長は……、外に行ってるのか」  一時間ほど前に出かけてまだ戻っていない。行く先を示すボードには工務店の名前が書いてある。 「()(どう)工務店さんと有働さんところへ、……俺が、ちょっとヘマしてしまいまして……、建ぺい率と北側斜線、間違ってしまって……」  西木は神妙な面持ちで頭を()いた。建ぺい率とは簡単にいうと、建物を建てる土地の面積に対する、建物を真上から見たときの面積の割合のことだ。有働とは所長が担当している増築リフォームを依頼されている施主で、模型作りの手伝いや数値の入力などは西木が担当している。 「え!?」  紀一と田永は同時に絶句した。まだ大学一年で建築科の初歩を学び始めたばかりの西木だが、飲み込みが早くミスが少ない。なので、建ぺい率を間違えるという初歩の計算ミスをおかすのは珍しかった。 「土地の謄本に記載の地積と、建物の謄本に記載の床面積から算出すると、建ぺい率がオーバーしてしまって、今のお住まいが違法か既存不適格建築物の可能性があるって思いまして、それで焦って施主さんにそのままお伝えしてしまって…」 「それは……」  紀一は田永と顔を見合わせた。施主のほうも困惑しただろう。 「調べたら、登記簿の面積と敷地面積が違ったんです。それで測量し直して、改めて建ぺい率を計算しました。そうしたら結果的に建ぺい率、大丈夫でした……」 「登記簿のほうが違ったのなら、それは、西木くんのせいじゃないよ。運が悪かったね……」 「それで、北側斜線は、単純に俺の計算ミスです……」  北側斜線制度は北側隣地の日照や風通りなどを配慮するための制度だ。条件によっては緩和されたりするので、正確な位置を示すことは容易ではない。測量し直したのなら隣接地との境界や敷地の周囲が変わっただろうし、建物の高さなども変更が必要になるだろう。 「施主さんにはお詫びの電話は俺がしたんですが、やっぱり顔を見て責任者が詫びる方がいいからって、所長が行って下さったんです、はぁ……、情けないっす……」  自分に腹を立てているようで、西木は悲しそうにため息をついた。 「有働さんのところ、工務店の建材調達で時間かかっていたので、これ以上遅れたら駄目だって焦って、しくじったっす……、面目ない……」 「誰だって失敗するわ。ちゃんとフォローしていれば大丈夫よ」  建築士と施主の信頼関係は大事だ。家は一度着手すると計画の変更を好まない施主も多い。それだけ費用がかさむからだ。西木が施主に連絡したのも計画が進む前に手を打った方がいいと考えたからだろう。最終的に問題なかったのだが、西木が連絡したことで施主に不信感を抱かせた可能性もある。所長が直接赴き謝罪することで事態は好転するだろう。 「田永さん……、ありがとうございます」 「次からなんかおかしいなって感じたら相談すると良いよ、俺でも田永さんでも所長にでも」 「すみません、その時は頼らせてもらうっす」  西木はぺこりと頭を下げて、お茶の準備をしにぱたぱたと給湯室へ行った。 「西木くん優秀だから、俺もミスチェック甘くなりがちだったかも、反省……」  一応西木はアルバイトなので、最終的に建築士である紀一や田永、他の建築士や所長などが確認するのだが、基本的な業務はまかせても問題ないレベルだった。そのため、まかせきりになってしまった面があったかもしれない。 「私もついつい忙しさにかまけて、西木くんを頼り過ぎたかも……、駄目ね……」  大人二人でしょぼんと反省していると、気持ちを切り替えた西木がお茶を持ってきてくれた。ふたりでしょぼくれていたら西木の落ち込みに拍車を掛けそうで、ふたり示し合わせたようににこにこと湯飲みを受け取った。 「さ、これ頂きながらもう一踏ん張りするわ。西木くん、気にせず帰っちゃっていいから」 「わかりました、お疲れ様でした」  机に最中とお茶を置いて行った西木を帰して、紀一と田永はとりあえず退勤する前にどうしても片づけていなければならない仕事に取りかかった。 「お疲れ様、所長もうすぐ戻って来るそうよ。そろそろ私は帰るわね」  電話を終えた田永に声をかけられたのをしおに、紀一も片づけを始めた。途端にお腹が鳴ってしまう。 「お腹減ったわね」  くすくす笑う田永に、紀一はえへへと照れて顔を赤らめた。最中のひとつぐらい食べてもよかったが、よりお腹を空かせて、より夕食をおいしく感じさせる作戦だったので致し方ない。 「お腹空きすぎて、早く夕飯食べたいです。茄子の煮びたし」  紀一がにこにこしていると、目をぱちぱちさせた田永が噴き出した。 「よっぽど、茄子が好きなのねぇ。嬉しそうな顔して、小学生みたいねェ」 ●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・ 試し読みはここまでになります。 続きは9/5(土)より各書店にて配信スタート!

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!