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〔3〕
どうしてこうなった。
「もうすぐできるよ」
「わぁ、きれいだね。これなぁに?」
「サフランだよ」
いい男に微笑まれて、はにかんで微笑み返す紀保にちょっと複雑な気分になる。
爽やかな色のシャツの袖を腕まくりして、若山の大きな手が器用に動いている。背が高い若山にはシンクの位置が低すぎるが、気にする素振りもなくずっと朗らかだ。
紀一がいつも使っているエプロンを、他の誰かが着ていることがくすぐったかった。その隣では明るい色のつやつや髪を左右に揺らして、紀保が鼻歌を歌っていた。だいぶ打ち解けて機嫌もよさそうだ。白い靴下の小さい爪先がむずむず動いていた。
キッチンから聞こえてくる会話がおもしろくて、紀一は頬がゆるんでしまう。
続きのリビングでは、いつも食事に使う小さなローテーブルの上でビールのグラスが冷たく汗をかいている。床にぺたりと座ったまま、紀一はそわそわと背後のキッチンを伺った。自分の家なのにお客様扱いは慣れていない。
紀保を迎えにいって、家の近所のスーパーまでおしゃべりしながら歩いた。
一緒にお仕事をしているお兄ちゃんという簡単な紹介の後、若山は小さい子が繰り返し質問するのにも辛抱強く付き合ってくれて、紀保も少しずつ心を開いていったようだった。
『テツシくんは何がすき? のりは卵かけご飯。あと稲荷寿司もすき』
『そうだね、俺はパエリヤが結構好きかな』
などという会話をきっかけに、大いに興味をそそられた紀保のリクエストで、今夜のメニューは若山が作るパエリヤになってしまったのだった。
買い出し中も申し訳なく何度も詫びたが、あの爽やかな笑顔とともに流されて、結局お礼はまた後日改めてということに落ち着いてしまった。なんとか支払いだけはさせてもらったのは救いだ。
「きいちゃん! すごいよ! すごいよ!」
目をきらきらさせて紀保がはしゃぎながら、自分の食器を運んできた。小さな手で食卓を整えていく。紀一も腰を上げた。
先ほどからとても良い匂いがしていた。コンロの前に立っている若山の後ろから、ひょいっと覗き込む。
「わー……、ほんと凄い」
出来立てのパエリヤは湯気を立てながら美味しそうにぐつぐつ言っている。優しい黄色とトマトやパプリカの赤が鮮やかだった。サフランなんてもの初めて見るが、黄色のご飯は案外おいしそうだった。急にお腹がすいてきて、紀一はへこんだ腹の辺りをさすった。
「通ります。熱いですよ」
慌てて脇に退くと、若山はフライパンをそのままリビングに運んでいく。紀一も冷蔵庫から、先ほど用意したサラダなんかを出したりして後に続いた。
「きいちゃん、ご馳走だね!」
「そうだね、ほら、のり、座りな」
つるんとした頬を紅潮させ、紀保は食卓の前を落ち着きなく飛びはねている。紀一が紀保の定位置であるクッションをたたくと、すぐにちょこんと座った。てきぱきと若山は皿を並べていって、紀一の出る幕はなかった。若山は手際よくとりわけていく。
「はい、紀保ちゃん。熱いからね」
「ありがとう、テツシくん」
まず最初に紀保に器を渡してくれる。子供は熱くてすぐに食べられないから、最初に取り分けて冷めるのを待つなんて、紀保と一緒に暮らすまで紀一は意識したことなんてなかった。慣れた仕草に若山は小さい弟か妹がいるのかもしれないと紀一は思った。
「若山くん、ありがとう。いただきます」
紀一がぱんと手を合わせると、紀保もぱんと手を合わせる。いただきますと唱和して口をつける。ぱらっとしたご飯に魚介や野菜のうまみが染みていた。
「おいしい!」
「本当においしいよ、若山くんは料理が上手だ」
「よかったです」
若山は紀一と紀保の反応ににっこりして、自分もスプーンを動かし始めた。
紀保も口にあったのか、もくもくとがっついている。
あまりに慌てて口に詰め込んだせいか、紀保が咳 き込んだ。紀一が背中をさすると、涙目になって水を飲んでいる。
「ほら、ご飯逃げないから。ゆっくりね」
のどがいがいがするように紀保は空咳をした。紀一はちょっと首をかしげた。
「……のり、もしかして喉痛い?」
「うんん、へーき」
風邪かもと一瞬疑ったが、元気よく返事をするのにほっとした。途端にくすりと笑いがこみ上げる。
「のり、ご飯粒」
「んー」
紀一はすかさずテーブルにこぼしたものをふき取った。顔を上げると、こちらを見ている若山の目とぶつかった。
「? 飲み物かな?」
「いえ、何でもないです」
首を振る若山の表情がちょっと困っているように見えた。
腹の中がいい具合になってきたのか、ようやく落ち着いてきた紀保が紀一の袖を引いた。
「きいちゃんきいちゃん、皆で食べるとおいしいねっ」
「……そうだね」
一瞬胸をつかれて、返事が遅くなった。
「おいしいね! 明日もテツシくんと食べたいなっ!」
「そうだね」
紀保はにっこり笑って、またご飯を頬張った。紀一はしばらく紀保のもぐもぐ動く頬をぼんやり眺めていた。
紀一の家に来客は珍しい。
新しい生活に慣れるために平日も週末も忙しいし、友人を招く余裕もなかった。
紀保の父親は客を招くのが好きな、気さくなたちだった。紀一も何度もお邪魔した。妹夫婦がいて、赤ん坊の紀保が泣いて、来客は皆笑顔になって……。
あの頃は人生の中で、一番楽しかった。
紀保もはっきりとした記憶ではないだろうが、あの賑 やかな空気の感触はなんとなく憶えているのだろう。紀保が寂しさを口に出したことはない。しかしだからこそなおさら紀一とふたりきりの食卓は味気なかったのかもしれない。
(やっぱ、独身男じゃ目が届かないな……)
沈みそうになる自分に気付いて、振り切るように紀一はパエリヤを口の中に押し込んだ。
「そういや、海外が長いって」
「ええ、父の仕事の関係でずっとスペインに」
「へー、いいなー」
紀一の貧困な想像力では、闘牛士やサグラダファミリアなどの有名なイメージしか出てこない。
「日本もいいところですよ。海外にいると尚更そう思います。ご飯もおいしいですし」
若山の真っ黒な目が懐かしむように撓 んだ。海外に行ったことのない紀一が経験したことのない感慨である。
「今度は俺がなんか日本食っぽいものご馳走するからね」
「楽しみにします」
相原に聞いたところによると、大学生ということだから家族と離れての一人暮らしなのだろう。もしかしたら初めての一人暮らしなら心細いこともあるだろう。助けられた恩返しとかではなくて、なにか手助けできることがあるといいと紀一は思った。
「本当に、こうやって食卓を囲むのはいいものですね」
優しく笑みを浮かべる若山の声が、なんとなくしみじみしている。また近いうちに一緒に食事をしようと紀一は決めた。
紀一は冷たいグラスに唇を押し当てる。酔いが回ってきたのか、頬が熱くなっていた。
ますます似てきた気がする。
紀保のお腹にシーツをかけてやりながら、紀一はかわいらしい寝顔を眺めている。
お腹が満たされた紀保は食卓でうつらうつらし始めた。哲史にはそのまま寛いでもらうようお願いして、紀一は紀保を寝かしつけることにした。
紀一の指をしっかりと握り締める手をやんわりと解く。閉じられた薄茶色の目は夢見ているのか、瞼が小さく震えた。柔らかな幼い頬の曲線が、成長するたびに削れていって、紀保はいつか妹そっくりの女性に成長しそうだった。
両親のいない子どもだけれど、そのぶん紀一が愛情を注いでやればいい。自分には紀保しかいない。なんの心配もさせず、できるだけ不自由をさせない。そのためにはもっと頼りがいのある人間になりたい。
栗 色の髪の毛を撫で上げると、幼いおでこが現れて、紀一はそれだけで胸が穏やかさにあふれる。こんな気持ちを感じさせてくれるのも紀保だけだった。
(かわいいなぁ。おやすみ、紀保。傍にいてくれてありがとな)
胸の中で何度もかわいいかわいいと囁いて、紀一は寝室を後にした。
暗いリビングを抜けると、明るいキッチンのほうで水の音がする。
すっきりとした後姿の若山がシンクの前に立っている。高すぎる背を持て余したように身を屈めているのが健気だ。紀保を寝かしつけるから寝室にこもる際、ゆっくりしていて欲しいと言い置いてあったが、気の利く青年はじっとしていられなかったらしい。
「若山くん、そんなことしなくてよかったのに……」
手元を覗き込むと、もうほとんど洗い物は終わっていた。
「シンクに汚れた食器が残っているのって、なんか疲れるじゃないですか。皿洗いは苦になりませんし」
「……ありがとう」
視線も上げずに微笑む若山の横顔に、感謝で胸がいっぱいになった。さりげない言葉の節々に、若山の優しさが感じられた。
紀一が負担に思わないような絶妙な思いやりがうまいのだ。まるで母親の隣にならぶ子どものように、何もしないで横に立っていることを許されている。
「うち、母親が皿洗い嫌いなんですよ。昔から俺たち順番でやってました」
「兄弟がいるの?」
「ええ、姉と兄と弟が」
「兄弟多いんだ。いいなぁ。家族が多いって……」
一つ屋根の下に、血を分けた何人もの人が一緒に暮らしている。想像はできるけれど経験のない紀一には、温かな切なさを呼び起こされる憧憬がつまっていた。
「稲葉さん、ご兄弟は……」
若山が水道のタップを止めた。いつのまにか食器はすべて綺麗になっていた。
「いたよ。妹が」
手を拭きながら、戸棚の上にある写真に視線がちらりと動いた。そこには妹夫婦と赤ん坊の紀保の写真が飾られている。
「妹さんと似てらっしゃいますね。紀保ちゃんも、稲葉さんと目のところがそっくりですよ」
「そうかな? 妹は美人でしっかりしていたけどね」
胸の下辺りに先ほど飲んだビールの酔いが残っている。紀一は電気ケトルのスイッチを入れた。
「若山くん、お茶淹 れるよ。日本茶でいい?」
「お願いします」
お茶を淹れた湯飲みを両手にふりむくと、若山はベランダに続く窓を眺めていた。
「月が綺麗ですね」
「外で飲もうか」
紀一は若山を連れて真っ暗なリビングを抜け、ベランダに出た。
「今夜は気持ちいいね」
遠くで電車の走る音が響いていた。日が沈むとまだ涼しいが、なんとなく空気が湿り気を帯びていて、夏の訪れがそう遠くないことを教えてくれる。
「いただきます」
律儀に断って、隣に並んだ若山が湯飲みに口をつける。ゆっくりと味わうように口に含む仕草に目を吸い寄せられた。紀一は尖 ったのど仏が上下するのから、慌てて目をそらした。
「若山くんは学校で何を勉強してるの?」
若山が温かい湿った息を吐いた。
「バシリカを」
聞き慣れない単語だったが、記憶の底を掬 い上げるように紀一も思い出した。
「バシリカって……、確かカトリック教会の、あのお堂? とかだっけ……。 ごめん、俺は西洋建築は詳しくないんだけど、外国のお寺もおもしろそうだね。俺は仏閣が専門だったから」
知識のなさを露呈したのが恥かしいが、若山はそんなこと馬鹿にするような男ではない。気を悪くした風もなく、懐かしむように目を細めた。
「ずっとスペインに住んでいて、町のあちこちにある教会は身近な建築物でしたからね。しかもうちの親父教会を作っていたんで、子供のときは仕事場うろちょろしてよく怒られてました」
「へー」
父親も建築関係らしい。教会ならあちらの伝承されてきた技法も目の当たりにしてきたに違いない。そういうふうに若山が魅力されたのも良くわかる。紀一も同じようなものだったから。
「俺は西洋の伝統建築ですが、稲葉さんは日本の伝統建築ですね」
若山が紀一の顔を覗き込むようにして笑みを浮かべた。隣に並ぶ肩が微かに触れ合っている。包み込むような笑顔だった。
なんだか不思議な感情が紀一の体中に甘酸っぱく広がった。だいぶ酔っていると自覚しながら、ふわふわとした気持ちよさに落ち流されるようにして口にしていた。
「……俺さ、孤児だったの」
何故、そんなことを言い出したのか、紀一は自分でもわからなかった。
ただ、この目の前の青年にもっと自分のことを話したかった。
もっと話して、若山のことも話して欲しかった。
「お寺さんがやっている施設で妹と育って……、それで高校までそこにいた」
高校を卒業し、運よく奨学金を受けて県外の大学に入った紀一は建築士を目指し猛勉強した。たまたま講師として短期間招かれていた相原と知り合えたのは、今思い返すとほんとうに僥倖 だった。専攻は違ったのに出身地が近いというだけで、相原は兄貴肌を発揮して、なにくれとなく紀一を気にかけてくれた。
卒業と同時に文化財級の古い建物を扱う建築事務所に就職し、高校を卒業した妹を呼び寄せ同居した。妹は紀一が勤めるのとは別の建築会社の事務の職を得た。
何もかもがうまく行っていた。
仕事は楽しいし、妹も幸せそうでそれだけで紀一は満ち足りていた。
どうにか生活に余裕が出てきた頃、紀一は仁科 という宮大工に出会った。
ついこないだ仕事を任されるようになったばかりの若い棟梁だった。あちらのほうが紀一より年が二三上だったが、先輩風を吹かせることもない気さくで謙虚な男だった。
同性にしか恋愛という意味で惹 かれない、と紀一が自覚したのは十代の終わりの頃だった。どちらかというと大人しい性格だから、女性に興味がわかないのは奥手なのだからだろうと思い込んでいた。いつも勉強やアルバイトで忙しくて恋をする余地もなかったから。
大学に入ってやっと少しだけ自分の時間を持つことができるようになり、それから自然と目を惹かれるのは男性のほうだと自覚した。気づくのも遅かったので、やはり恋に積極的な方ではないのだろう。自覚した当初は悩んでしばらく塞ぎ込んだ。
誰かと恋をしたい、その人と付き合いたい、という欲望と寂しさは高まるばかりだったが、実行に移すのはしばらく怖くてできなかった。
社会人になってようやく、勇気を振り絞ってアプリやその手のバーで相手を探した。しかし二、三回やってみて、しっくりこずに自分には合わないと見切りをつけてしまった。
恋愛なんて自分にはできないのだろう。
そう思っていた。
それなのに。
仁科のことをもっと知りたいと思うようになるのに時間はかからなかった。彼にとって紀一はただの仕事相手だ。痛いほどわかっていた。
時折、仕事上がりに飲みに誘われるのをこっそりと楽しみにしていたぐらいで、あっちは紀一を付き合いのいい建築士という認識しかなかっただろう。
もちろん、口にできる類のことではなかったので、紀一はひっそりと気持ちを抱えてやりすごすだけだった。片思いは切ないが、それよりも毎日が充実していた。
ある日、紀一と仕事仲間が飲んでいた店に、紀恵が居合わせたことがあった。付き合いのある棟梁や若い同僚ばかりの、気軽な席だったから折角だからと妹の同席を誘われた。
その夜に出会った妹と仁科はいつのまにか付き合うことになった。
妹が結婚をすると聞いたときは、喜んだと同じくらい、自分を支えるものが抜けたような喪失感も覚えた。
たった一人の妹に去られる寂しさ、始まりも終わりも誰にも知られぬまま恋を失った悲しさ、とがない交ぜになって紀一を苛んだ。大事な妹なのに、羨ましかった。そんな自分が嫌だった。ふたりには知られたくなかった。紀一は必死でそこへ蓋をした。
内心で揺れている紀一を置いてきぼりにして、二人は幸せな夫婦となった。
その相手が、自分がこっそりと好きだった男だったせいかもしれない。淡い片恋はそうやって終わりを告げ、紀一はふたりを見守ってきた。紀一の元を離れた紀恵は地元に戻り、仁科と家族になった。やがてその家に紀保が生まれた。仁科は家族と疎遠で、肉親のいない紀一も同様に家族が増える喜びを語り合った。
穏やかで、小春日和のような日々だった。しかしそんな時間は長くはなかった。暖かな秋の日のようにささやかな時間は駆け足で過ぎていった。
紀一は仁科を、次いで紀恵を不慮の事故で失った。
「稲葉さんの設計って……、あの事務所では特殊っていうか……」
若山は考えながらゆっくりと言葉を紡いだ。
「そうかも。もともと相原さんは近代的なビルとか、モダンな箱物ばっかりだからね」
妹が死んで途方に暮れていたが、残された紀保のこともあって悲しんでばかりいられなかった。
母親を失って情緒不安定になった姪のために、紀一は仁科家から遠かった建築事務所をやめた。それまで仁科一家が住んでいたアパートに紀一が引っ越し、できるだけ環境を変えないようにした。
死んだ母親を求めて夜泣きする紀保をおんぶして、寝かしつけるために夜の散歩なんかしたこともたびたびあった。
やっと紀一にも心を開いてくれるようになるまで数ヶ月かかっただろうか。もともと通っていた保育園の通園も再開し、同情して声をかけてくれた相原の誘いにありがたく乗って、紀一は新しい事務所で働き始めた。
ようやく馴染 み始めた新しい生活。
紀一は恵まれているのだ。
すくなくとも、守るべき存在として紀保が残されている。
「育ったお寺さん、俺が小学生のときにちょうど百年に一度とかの改修があってさ、毎日暇さえあれば、大工さんたちがやっているの覗いてた。すごいんだよ、釘 を一本もつかわなくて、木を組み上げていってさ。特殊技量だよね」
複雑に入り組んだ木材を、見る間に組み上げて立派な伽 藍 に仕上げる妙技は魔法のようだった。
次はどうなるのか、どんなものが見られるのか、あの頃感じたわくわくと浮き立つ気持ちが蘇 って、紀一は思わず薄く微笑んでいた。
「いつか自分もああいうことしたいって、ああいう建物を作りたいって思ってた。それで建築士になったんだ」
「宮大工ではなく?」
「……俺、高所恐怖症なの」
「ああ、それは無理だ」
若山が小さく噴き出した。
紀一もくすくす笑い出していた。
こんなふうに軽やかな気持ちで自分の過去に向き合えるなんて、それだけ時が流れたということだろう。
若山の整った顔の真ん中に、アーモンドのような形の良い目があった。そこに星のように夜の町の灯りが映りこんでいた。
綺麗だなあと見惚れながら、紀一は続けた。
「専門から少し方向性は違うけどさ、今の仕事も楽しいよ。夜、こうやって外を眺めると、町の明かりが見えるでしょ? そんでそこにいろんな人が生活して、いろんな家族がいて、その生活を守っているのは家なんだなぁとか、想像するの好きなんだ」
自分たちを捨てたという親が、その灯りの下にいるかもしれない。
感傷でもなく、悲しみでもなく、時折そう思うことがある。
紀一と紀恵を引き取ってくれた年老いた住職も坊守もとても親切だった。他にも事情があって身を寄せている子どもが何人かいて、今でも年賀状ぐらいはやり取りする付き合いがある。
誰かを恨むことなく育つことができたことは幸いだ。
それでも、両親の揃 った子どもが当たり前に享受しているものを手に入れるために、紀一はとても努力をしなければならなかった。理不尽な目にもあった。
だから紀一は妹を守るために必死だった。
不器用だし奥手な性格とあいまって、紀一は恋愛にかまける余裕も勇気もなかった。
自分がしっかりしなければ。
頼られるのは、突き詰めれば自分しかいない。
紀一はこっそりと若山の横顔を盗み見た。
すっと通った鼻筋に淡い月の光が滲んでいる。柔らかそうな唇は、下のほうだけ少し厚みがある。
あの唇で。
(かわいいと、言われた)
……かわいいなんて、今までの人生で言われたことなどない。
すぐ隣に立っている、硬い筋肉の感触。紀一はぶるりと小さく震えた。
自分が求められているもの。
紀一は痛いほどそれはわかっている。家族を守り、誰にも頼らず、甘えず、自立する。 ずっとそうやって背筋を伸ばして歩いてきた。
「お寺とかも大好きなんだけど、やっぱり、俺、家を作ることが好きなんだよね」
哲史は黙って聞いているが、心の中では変なおっさんだなぁと思われているかもしれない。そう思うと、どんどん恥ずかしくなってきて、紀一は誤魔化すようにへらりと頬を緩めた。
「……おじさんの無駄話は長くなっていけないね」
酔っ払ったおじさんにからまれるなんて、申し訳ないことをしでかしてしまった。
「そんなこと」
気持ちの良い青年である若山がすぐさま首を振ったが、紀一は封をするように唇に湯飲みを押し当てた。
(情けない……。若山くんが優しいからって、図々しくなるのは駄目だ)
肩をすぼめるようにして俯く。
と、不意に肩に触れられた。
「聞かせてくださってありがとうございます、稲葉さん」
大きな手だった。
心臓が早くなっている。
夜が綺麗に見える。風が頬を撫でていてく。
隣で微笑む人の、温かい闇色の目。唇が濡れていた。
紀一は動けないまま、頭の中で必死に打ち消した。
これは酒が回っているせいだ。気持ちよく酔っているから、こんなにどきどきしている。
決して胸の高鳴りなんかじゃない。
ときめいてなんていない。
紀一は息苦しさに目をそらした。世界の底に夜の明かりが広がっていた。
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