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第三章 裏切りの設計図

 フェリクスは、リュシアンを捕まえる前から知っていた。  それは「知っていた」というより、「見ていた」に近い。  敵国の片隅で、年若い工作員があまりに鮮やかに任務を片づけるという報告を最初に目にした時から、フェリクスはその記録を捨てなかった。名前は毎回違い、顔写真も一致しない。だが侵入経路の選び方、逃走時に捨てるものの順番、死体の見せ方、情報の取り方に癖がある。  同じ人間だ、とフェリクスは考えた。  その仮説を彼は何年も手放さなかった。  だから捕縛は偶然ではない。長い観察の末に、ようやく手を伸ばせる距離まで来た獲物を掴んだのだった。  そのことを、リュシアンは知らない。  知らないまま、彼は仕事をこなし、軽口を叩き、金を受け取り、時に命令に従い、時にぎりぎりの範囲で噛みついた。  フェリクスはそれを咎めなかった。  噛む犬であることも含めて価値だと知っていたからだ。  だが、見られているという感覚は、いつか痕跡を残す。  リュシアンがそれに気づいたのは、任務帰りの報告の最中だった。  怪我は小さかった。右腕に浅い裂傷が一本増えただけだ。本人はすぐ縫って忘れるつもりでいたし、報告書にも「軽傷」としか記さなかった。  その夜、書類から目を上げたフェリクスが、不意に言った。 「傷が増えた」  それだけだった。  責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ事実を確認するように。  リュシアンは一瞬だけ間を空けたが、すぐに肩をすくめる。 「軽い傷だ、痕も残らない」 「珍しい」 「あんたの基準だとそうかもな」 「いつもなら避けるだろう」  無表情のまま、フェリクスはまじまじと彼の腕を見た。 「……今回の相手は違ったか」  その視線に、リュシアンは妙に落ち着かないものを覚えた。 「随分よく見てる」 「見る必要がある」 「熱心だな、穴が空きそうだ」  皮肉のつもりで言ったのに、フェリクスは返さない。  ただ静かに、納得したように言う。 「……お前の事は、全て把握したい」  その瞬間、リュシアンの背筋を冷たいものが走った。  ああ、この男は見ている。  任務の成否だけではない。怪我の増え方、呼吸の癖、嘘をつく時の間、疲労の匂い、目線の置き方。  いつか全部繋がる。自分が隠し続けてきた曖昧さの輪郭まで、この男は当然のように掴みに来る。  リュシアンにとって、それは最も原始的な恐怖だった。  死よりも、拷問よりも、正体を一枚ずつ剥がされること。  名前が曖昧で、出自が曖昧で、過去が曖昧であることこそが彼の防御だった。そこに触れてくる人間は、敵としても危険だ。  フェリクスはその夜、それ以上何も言わなかった。  だがリュシアンには、それで十分だった。  逃げるべきだ、と彼は思った。  この男が本気で全部を見に来る前に。  リュシアンが即座に逃げなかったのは、臆病だったからではない。  むしろ逆だ。彼は自分が生き延びるために、衝動で動くことの危険をよく知っていた。  フェリクスの監視下から消えるなら、ただ姿をくらませるだけでは足りない。軍という巨大な組織そのものが持つ鎖を一度切る必要がある。さもなければ、何度国境を越えようと、何度名前を変えようと、組織の力が自分を追ってくる。  そしてリュシアンは理解していた。  その鎖の結び目の中心にいるのが、フェリクス・ハルトマンだということを。  だから彼は、逃亡ではなく設計を始めた。  軍内部の腐敗、補給線の改ざん、ある将官の汚職、ある作戦の失敗、責任の押し付け合い。諜報員として拾い集めてきた断片は、単独ではただの薄汚れた事実に過ぎない。  だが並べ方を変えれば爆弾になる。  リュシアンはそのことをよく知っていた。  誰を生かし、誰を沈めるか。どの証拠を本物のまま流し、どの証拠にわずかな歪みを加えるか。噂を投げる順番、証言が出る時間差、告発文書が届く部署、上層部がもっとも切り捨てやすい人間。  そうしたものを丁寧に組み上げていく。  目的は一つだった。  フェリクスを殺すことではない。  軍にいられなくすること。  地位を奪い、制度の中から押し出し、組織の鎖を断つこと。  それが最も静かで、最も彼らしい裏切りだった。  そこには計算だけでなく、わずかな感情も混ざっていた。  リュシアンはフェリクスを憎んでいない。恐ろしくはある。面倒でもある。だが純粋な憎悪はない。  もし完全に冷酷なら、暗殺の方が早かっただろう。だが彼はそうしなかった。  殺せば軍も国家も本気で追ってくる。自分にとって危険だという打算はもちろんある。  同時に、フェリクスをただ死体にするのは少し違う、とどこかで感じてもいた。  居場所を奪う。  権力を剥ぐ。  それで十分だ。  そう考えられる程度には、奇妙な情があったのだと後で彼は認めざるを得なくなる。  それでも決断は合理的だった。  リュシアンは国のために働いていない。昔からそうだった。十代半ばより前から、子どもの身軽さを利用され、伝令や窃盗や尾行を仕込まれ、やがて正式な工作員になった。国家への忠誠心など持ったことがない。  あるのは今日のパンと、明日の自分の命だ。  今も変わらない。  金と脅しで従っているだけなら、逃げられる時に逃げる。それだけだった。  そしてある日、設計図は現実になった。  補給線の虚偽報告が露見し、関連する作戦失敗が表に出て、将官の汚職が告発される。責任の所在を巡る内部資料が流れ、上層部は保身のために一斉に切る相手を探し始める。  フェリクスの判断そのものは正しかった。  だが正しいことと、生き残ることは軍の中では別だ。  彼は責任者として矢面に立たされ、最終的に自らの名で責任を引き受ける形を取るしかなかった。  帝都はざわめいた。  諜報部は混乱し、軍上層は醜く蓋をしようとし、現場は火消しに走った。  その渦の中心から、リュシアンは静かに姿を消した。

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