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第四章 救いの手と、逃げる男
軍本部の執務室には、夕刻の青白い光が落ちていた。
紙の束が山をなし、机の上には封を切られた資料が散らばっている。誰かが急いで持ち込み、誰かがそれを読み、また別の誰かがおそるおそる置いていった結果、部屋全体が後始末の匂いを帯びていた。
フェリクスは一人だった。
帽子を机に置いたまま、最後の報告書に視線を落とす。
その内容は、彼にとって意外ではなかった。むしろ整いすぎているほど整っていた。個々の不正も失敗も、元々そこにあった。だがそれらがもっとも致命的な順番で表に出ている。誰かが組んだのだ。
そして、その誰かに思い当たる男が一人いる。
フェリクスは右手で口元を覆った。
外から見れば、怒りか疲労で言葉を失っているように見えただろう。
だが実際には逆だった。
思考が、あまりにも鮮やかな線で繋がったのだ。
資料の一枚に添えられた細い癖字、目くらましとして置かれた余計な情報の質、直接の証拠は残さずに責任だけを集める手口。
ああ、と彼は思う。
そう来たか。
肩がわずかに震えた。
怒りでではない。
笑いをこらえる時の、ほんの微かな振れだった。
「……これがお前の選択か、リュシアン・モロー」
誰もいない部屋で、フェリクスはその名を口にした。
それは部下に向けた叱責ではなく、独白に近い。だが同時に、狩りの開始を宣言する声でもあった。
リュシアンは殺しに来なかった。
国家と軍という檻を壊し、フェリクスをそこから追い出した。
客観的に見れば裏切りであり、失脚であり、破滅だ。
だがフェリクスの思考は別の形に変換してしまう。
軍という鎖を断った。
国家という檻を壊した。
自分を自由にした。
ならばこれは――救出だ。
お前は俺を奪いに来たのだ。
そこまでして解き放ったなら、最後まで責任を取れ。
そう考える自分が、どこか狂っていることをフェリクスは理解していた。理解した上で訂正しなかった。
むしろ、その歪みの中に一貫した美しさすら感じていた。
ただ、彼はすぐには動かなかった。
衝動で追えば足跡は荒れる。怒りのまま飛び出せば、相手が最も得意とする「混乱の中で姿を消す」という手に付き合うことになる。
だからフェリクスはまず、椅子に深く座り直した。
帽子を手に取り、机の書類を一枚ずつ整え、呼ぶべき者を順番に呼んだ。責任を取るべき場では責任を引き受け、切るべき関係は切り、残すべきものだけを残す。
軍を辞める手続きは煩雑だったが、フェリクスはその煩雑さを誰より正確に処理した。
後顧の憂いを残さない。
組織の顔を捨てるなら、完璧に捨てる。
その準備期間は、単なる整理ではなく変身の時間だった。
軍人フェリクス・ハルトマンから、個人的な執着だけで獲物を追う狩人へ。
猛禽の笑みが表に現れたのは、その変身が終わった後だった。
リュシアンは帝都を離れ、三つの国境を越え、五つの宿を使い捨てた。
紙の身分証は二度燃やし、列車を三回乗り換え、追跡を撹乱するためにわざと雑な痕跡を二つだけ残す。そこまでしてようやく、呼吸が少しだけ楽になる。
組織の追手なら撒ける。
国家の網も、数日あれば薄まる。
彼はそう計算していた。
事実、その計算は大筋で正しかった。帝都の混乱は激しく、軍はまだ自分の足元を固める方で精一杯だろう。
だが、その計算に一人だけ含まれていない男がいる。
フェリクス・ハルトマンだ。
いや、含めたくなかったと言うべきかもしれない。
最初の異変は、小国の安宿に潜り込んだ朝に起きた。
鍵はかけた。窓も内側から留めている。床にも戸口にも、仕掛けた細工は無傷だ。
それなのに机の上に、一枚の紙が置かれていた。
リュシアンは扉から二歩の位置で立ち止まり、しばらくその紙だけを見た。罠の可能性を潰し、匂いと重さを計り、最後に手袋越しで拾い上げる。
書かれていたのは短い一文だった。
『継続せよ』
リュシアンは黙った。
冗談ではなかった。
脅しの文面ならまだ分かる。怒りや復讐の宣言なら、むしろ扱いやすい。だがこの書き方は違う。
「自分の働きに対する賞賛」だ。
少なくとも、そういう質のものが混ざっている。
「……こっわ」
思わず声が漏れた。
恐怖というより、心底のドン引きだった。
紙はすぐに暖炉で燃やした。宿も捨てた。次の町では市場の雑踏に紛れ、第三国語で会話し、行き先を二重に偽装した。
それでも二度目の接触はさらに早い。
夕暮れの市場を抜けたところで、外套のポケットに入っていたはずのない小瓶に指先が触れた。
取り出すと、それは何の変哲もない、粗挽きのブラックペッパーだった。
リュシアンはその場で凍りついた。
周囲には人がいる。夕餉の買い物客、酔客、荷車を押す少年。誰もこちらを見ていない。誰が近づいたかも分からない。
だが分かることが一つだけある。
フェリクスは、もうここまで来ている。
「プレゼントのつもりか?趣味が悪い」
握った小瓶から、微かに辛い香りが立った。
怒りよりも先に、理解不能への嫌悪が来る。
この男は怒っているのではない。追跡を楽しんでいる。それどころか、逃げた自分をすぐに捕らえず弄んでいるのだ。
意味が分からない。
意味が分からないのに、その論理が相手の中では完璧に成立していることだけは、痛いほど分かった。
リュシアンはその夜、列車の中でほとんど眠れなかった。
ふと窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑ってしまう。
敵国の工作員に追われるのではなく、一人の男に追われている。
しかもその男は、自分の思考の癖も、逃げ方も、恐らく休む時間帯まで知っている。
一番追われたくない相手に追われる。
それは妙に滑稽で、そしてひどく現実的だった。
しかし、結局のところ。
それ以降、フェリクスの痕跡がリュシアンに届くことは無く、リュシアンは二年の時を「いつも通り」に過ごすことになった。
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