5 / 6

第五章 再会

 盗みに入るには、あまりに静かすぎる屋敷だった。  リュシアンは二階廊下の手すりに指をかけたまま、ほんの一瞬だけ足を止めた。  古い館特有の軋みはある。風の音もある。壁の向こうで小さく時計が鳴る気配もする。だが、それ以外がなさすぎた。  人の気配が薄い。  いや、薄いというより、整いすぎている。  罠だ、と頭のどこかで思う。  だが、ここまで来て手ぶらで帰るのも癪だった。依頼品は三階書庫の隠し棚。そこまでは確認済みで、警備配置も、巡回経路も、館の古い見取り図も頭に入っている。  今さら引き返す理由を探すには、自分は少しばかり前へ出すぎていた。  リュシアンは息を殺し、廊下を進む。  靴底は音を立てない。  呼吸も乱れない。  視線だけが、壁、床、天井、窓、扉の隙間を舐めるように走る。  昔から、こういう時の勘はよかった。  十にもならぬ頃から人の懐へ手を差し込み、物を盗み、鍵をすり替え、聞くべきでない会話を拾ってきた。生き延びるために必要な感覚は、理屈より先に身体へ染みつく。危険の匂い、視線の重さ、息を潜めた人間の気配。そういうものには、誰よりも敏かった(さとかった)。  それでも今夜は、その感覚が妙にざらつく。  まるで、こちらの警戒そのものを見透かして、さらに一枚外側から囲われているような―― 「……気に入らないな」  ごく小さく呟き、書庫の扉へ手をかける。  鍵は予想通り古い型だった。  針金を差し込み、数秒。  音もなく開く。  書庫は暗かった。  だが完全な闇ではない。分厚いカーテンの隙間から月光が一筋だけ差し込み、机の縁と棚の輪郭を青白く浮かび上がらせている。  依頼品のある棚まで十歩。  罠があるなら、この部屋だ。  リュシアンは入ってすぐには動かなかった。  床板の反り。  机の位置。  本棚の高さ。  視界の死角。  天井梁の太さ。  そこで、わずかに目を細める。  天井。  月光の外れた暗がりに、不自然な影があった。  形が、静かすぎる。  気づいた瞬間、リュシアンは反射で横へ飛ぼうとした。  だが遅い。  上から落ちてきた影が、そのまま体重を乗せて彼を床へ叩き伏せた。  肺から息が一気に押し出される。  背中に古い絨毯の下の硬い板が食い込み、右手首をひねり上げられ、左腕も逃げる間もなく押さえ込まれる。足を使って体勢を返そうとしても、重心のかけ方が妙に正確で、崩れない。  まずい。  そう判断するのに一秒もいらなかった。  ナイフ。右のブーツ。無理。  袖口の細針。角度が足りない。  膝を使って跳ねる。重すぎる。  相手の利き腕。  呼吸。  距離。  喉元。  頭の中はいつものように高速で回る。  選択肢は次々に浮かび、次々に潰される。  その間にも、相手の体重は微動だにしない。  くそ、と心の中だけで吐き捨て、リュシアンはようやく相手の顔を見上げた。  そして。  完全に止まった。  フェリクス・ハルトマンが、そこにいた。  軍帽はない。  制服もない。  黒いコートに、黒い手袋。少しだけ長くなった髪が額へかかり、昔のように隙なく整った軍人の顔ではない。  なのに、目だけは何一つ変わっていなかった。  いいや。  変わっている。  正確には、隠れていたものが剥き出しになっていた。  フェリクスは笑っていた。  声を立ててではない。  口元がほんのわずかに吊り上がり、目の奥に、冷たい愉悦の光がある。獲物を追い詰めた時にだけ見せる、猛禽類の笑みだった。  リュシアンは、ひゅ、と浅く息をのんだ。  何も言えなかった。  それが自分でも信じられなかった。  皮肉は反射だ。挑発も、軽口も、時間を稼ぐための会話も、自分の舌はいつだって先に動く。  なのに、この瞬間だけ、本当に何も出てこない。  頭の中に浮かんだのは、ひどく間の抜けた一言だけだった。  (顔、怖……!)  フェリクスはその沈黙すら見ていた。  見て、そしてさらに面白そうに目を細める。 「久しぶりだな」  低い声は、昔と変わらず落ち着いていた。  怒りも、憎しみもない。  まるで予定していた再会をようやく果たしただけだとでも言うような声音だった。  リュシアンは唇を引き結んだまま、どうにか声を絞り出す。 「……随分と、趣味の悪い歓迎だ」 「お前にはこれくらいでちょうどいい」 「褒め言葉として受け取っておきますよ、元・長官殿」  そこでようやく、いつもの口調が少し戻る。  だが戻ったと言っても、それは表面だけだった。身体の奥ではまだ警戒が尖っている。目の前の男が笑っている、その事実ひとつが、いまだに処理しきれていない。  フェリクスはリュシアンの顔をじっと見た。 「その顔は初めて見るな」 「どういう顔です」 「本気で引いている顔だ」 「誰のせいだと思ってる?」 「俺だろうな」  あまりにあっさり認められて、リュシアンは一瞬だけ黙った。  この男は本当に、こういうところが嫌になる。自分の異常さを、恥じも誤魔化しもせず、ただ当然のように抱えている。 「……軍を辞めたと聞きましたよ」 「そうだな」 「俺のせいで?」 「お前の選択の結果だ」  その言い方に、リュシアンは眉を寄せる。  裏切り。失脚。追放。  普通ならそう呼ぶはずのものを、フェリクスは違う言葉で受け取っている。 「随分と耳当たりのいい表現ですね」 「事実だからな」  フェリクスは少しだけ首を傾けた。 「お前は俺を殺さなかった」 「殺すと面倒だ。組織が本気で追ってくる」 「それだけか」 「……さあ」  リュシアンは視線を逸らした。  それだけではない、と自分でも分かっている。完全に冷酷なら、もっと簡単な方法はいくらでもあった。だが自分は、フェリクスの首ではなく、居場所を奪う方を選んだ。  直接殺すほどの憎しみはなかった。  あるいは、そこまで綺麗に割り切れなかった。  フェリクスはその沈黙を責めなかった。  ただ、わずかに口元を緩めて言う。 「よくやった」  リュシアンは顔をしかめる。 「何がです」 「見事な噛み方だった」

ともだちにシェアしよう!