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第六章 捕食者の目
数秒、書庫は完全に静まり返った。
リュシアンはまじまじとフェリクスを見た。
怒っていない。
怒っていないどころか、どこか満足そうですらある。
この男は、自分が仕掛けた失脚劇を、侮辱でも敗北でもなく、ひとつの答えとして受け取っている。
やはりおかしい。
「褒められても嬉しくありませんよ、長官殿」
「もう長官ではない」
「そうでしたね。俺が壊しましたから」
「鎖を外したのはお前だ」
フェリクスの声は、静かなのに妙に確信に満ちていた。
「軍も国家も、俺を縛っていたものはなくなった。今の俺は俺の意思だけで動ける」
「光栄ですね。解放者扱いとは」
「実際そうだ」
リュシアンは本気でうんざりした顔をした。
「その解釈、気持ち悪いんですが」
「そうかもしれん」
「そこは否定しろよ……」
フェリクスは少し身を低くした。
押さえ込まれたままの距離で、視線だけが真っ直ぐ刺さる。
「お前は逃げたかった」
「そうですね」
「俺から」
「そうですね」
「だから俺の立場を壊した」
「その通りです」
「なら、これはお前の選択だ」
フェリクスの声は低いまま、妙に柔らかかった。
「これがお前の選択だ、リュシアン」
その名を聞いた瞬間、リュシアンの喉がわずかに動く。
リュシアン・モロー。
最初に名乗った偽名。
今ではもう使っていない名前。
他の誰に呼ばれても意味を持たない、ただの古いラベル。
それを、この男だけが未だに当然のように使う。
「……まだその名前を使うんですか」
「当然だ」
「もう、使っていないんだが」
「知っている」
「なら――」
「俺が最初に受け取った名前だ」
リュシアンは目を閉じたくなった。
こういうところだ。
情報としてではなく、認識として固定してくる。名前を、癖を、反応を、全部ひっくるめて「お前」と見なしてくる。
理解される前に逃げたかった。
その理由を、自分は間違っていなかったのだと改めて思う。
けれど。
もう捕まっている。
フェリクスの体重は微動だにせず、逃げ道は一つも残っていない。
頭の中ではまだ、床に落ちたペーパーナイフ、棚の角、左膝の使い方、体の捻り方、ありとあらゆる手段がフルスロットルで走っている。だが、フェリクスはその全部を理解した上で押さえ込んでいるのが分かる。
おもちゃ箱をひっくり返すみたいに、目の前で全部捨てられていく。
リュシアンは長く息を吐いた。
「……やられた」
「そうだな」
「楽しいですか」
「かなり」
あっさりと返される。
それがもう、恐怖を通り越して本当に嫌になる。
「こっちとしては不愉快極まりないんですが」
「知っている」
「性格が悪い」
「もちろんだ」
喉の奥で、フェリクスが小さく笑う。
それは軍にいた頃には見せなかった笑い方だった。
冷静な長官の仮面の下に隠れていたものが、今はもう隠す必要がないのだと、その笑みが告げている。
リュシアンは天井を見上げたまま、心底嫌そうに呟いた。
「……最悪だ、本当に」
フェリクスはその一言を聞いて、わずかに肩を揺らした。
どうやらそれがまた面白かったらしい。
「今さらか」
「今さらですよ、誰のせいだと……」
「俺だろうな」
同じ返答を、また同じ顔で返される。
リュシアンは数秒黙ったあと、ようやく観念したように言った。
「で。捕まえた犬をどうするつもりです、長官…じゃないか、ハルトマンとお呼びしても?」
「構わん。……回収するさ、勿論」
「首輪でもつけますか」
「必要なら」
「冗談で言ったんだが」
「俺は本気だ」
リュシアンはまた息をのんだ。
短く、鋭く。
その反応を見たフェリクスの目が、さらに満足そうに細まる。
この男は本当に、復讐者ではなく捕食者なのだ。怒りで追ってきたのではない。見つけ、捕まえ、手元へ置くために来た。
その理解が、何よりもぞっとする。
けれど同時に、ひどく妙な納得もあった。
そうでなければ、この男がここまで来る理由にならない。
フェリクスはリュシアンの両手首を片手でまとめて押さえたまま、もう片方の手で彼の顎を軽く持ち上げた。
「人を噛む犬は殺処分、だったか」
リュシアンは目を細める。
「ええ。一般論としては」
「……あの時は、軍紀があったから見逃した」
低い声が、やけに近い。
「今の俺たちに縛りはない」
そう言われて、リュシアンは反射で何か返そうとした。
皮肉でも、軽口でも、いつものように。
だがその一瞬早く、フェリクスが身を屈める。
距離が消えた。
次の瞬間には、もう何も言えなかった。
数秒。
それだけの短い時間だったはずなのに、頭の中では妙に長く引き延ばされる。
押さえ込まれた体勢、逃げ場のない腕、そして目の前の男がまるで当然のようにそれを実行したという事実。
フェリクス・ハルトマンは、まるで予定していた手順を終えたかのように静かに体を起こした。
リュシアンは床に押さえつけられたまま、完全に沈黙していた。
「……長官殿」
ようやく出た言葉は、呆れと困惑と、ほんのわずかな怒りが混ざった声だった。
フェリクスは肩をすくめる。
「もう長官ではないと言ったはずだ」
「……ハルトマン」
リュシアンは天井を見つめたまま小さく笑った。
「冗談でしょう」
「そう見えるか?」
「全然」
また、沈黙が落ちる。
リュシアンはゆっくり息を吐いた。
「……なるほど」
「理解したか」
「ええ。ひとつだけ」
フェリクスは視線を落とす。
リュシアンは静かに言った。
「逃げきれないやつだ」
フェリクスはわずかに笑う。
「今さらだな」
「本当に今さらですよ」
まるで恋人同士の戯れのように、フェリクスの親指の腹がリュシアンの唇を軽く押す。
「本当に気持ち悪い男ですね」
「よく言われる」
「俺にだけでしょう」
フェリクスは少しだけ考えるような顔をした。
「そうかもしれんな」
リュシアンはもう一度笑った。
その笑いは諦め半分、呆れ半分だった。
「で?」
「何だ」
「この後どうするんです」
「言っただろう」
フェリクスはポケットから細い革紐を取り出した。
それは首輪というほど大げさなものではない。
だが、意味は十分すぎるほど分かる形だった。
リュシアンはそれを見て、しばらく無言で天井を見ていた。
そして言う。
「……冗談だと思ってたんですが」
「俺は本気だと言った」
「冗談であってほしかった」
「残念だな」
フェリクスは体勢を少しだけ緩めた。
完全に解放したわけではない。
逃げられる距離でもない。
ただ、選ばせている。
リュシアンはその意味を理解した。
数秒考えてから、ゆっくり肩をすくめる。
「条件がある」
「聞こう」
「餌はいいものを」
「具体的には?」
「半月に一度は肉が食べたい。ブラックペッパーを強めにきかせた上ランクの品じゃないと納得しない」
フェリクスは短く喉を鳴らす。
「安いな」
リュシアンは目を細めた。
そしてぼそりと呟く。
「……隙を見て逃げ出してやるから、せいぜい気を付けて」
フェリクスはその言葉を聞いて、今度こそはっきり笑った。
その笑みは、捕まえた獲物を手放す気がまったくない捕食者のものだった。
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