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第1話

 築三十年はありそうな二階建てアパートを飲み込むように蔓草が生えていた。階段や柵は元の色がわからないほど錆び、少しの振動で崩れ落ちそうな危うさを孕んでいる。 (本当にここか)  忍野枇呂はスマートフォンの画面に表示されている地図に視線を落とした。  「目的地」と無機質な文字と枇呂を示す青い丸が点滅している。やはりこのおんぼろアパートで間違いないようだ。  なるべく体重をかけないように階段を登り、枇呂は角部屋の前に立った。錆びた鉄扉に「三波探偵事務所」と真新しい看板がかかっている。  扉の前に立ち、枇呂は汗で湿った髪を撫でた。  ミルティー色に染めたばかりの髪はごわごわと触り心地が悪く、文房具のハサミで切ったせいで不揃いな部分も多い。吊り目がちな目尻を指の腹で下げてみた。だがいまさらあがいても人相の悪さは隠せないだろう。  次にシャツに視線を向け、汚れがないか確認しなんとなしに手で払った。  身なりを気にする枇呂を嘲笑うかのように真夏の日差しがジリジリと背中を焦がす。 (これが最後のチャンスだ)  枇呂は首から下げているスマートフォンをぎゅっと握り、インターホンを押すと扉が開いた。  艷やかな黒髪と卵型の輪郭ですっきりした顔立ちのイケメンが出てきて、挨拶が吹っ飛んだ。目は理知的さのある切れ長で、センターパーツに分かれた前髪から覗かれるとより鋭さが増す。。  飾り気のない無地の白シャツにデニムというラフな服装が、男の野獣じみた雰囲気に合っている。枇呂より五、六個上だろうか。  近寄りがたいオーラはあるものの、口元は笑みを浮かべている。だがそれは男が無理やり口角を上げているのだとするわかった。  作られた笑顔ほど怖いものはない。  枇呂は反射で握っているスマートフォンのシャッターボタンを押した。そろそろと視線を下げると、男の写真に「誰だこいつ?」と文字が浮かんでいる。  枇呂はすぐ頭を下げた。 「にいちゃ……花島さんに紹介された忍野批呂ですけど」 「あ〜住み込み希望のバイトか」 「はい」 「俺は三波。ここの代表な。中入れよ」  三波は後頭部を乱暴に掻いてから、扉を大きく開けてくれた。ふわりと香る新築の匂いに驚いた。  外観からは想像できないほど現代的で清潔感のある内装だ。フローリングはピカピカに磨きあげられ、壁もくすみ一つない白で統一されている。玄関正面にはコの字型の革張りのカウチがあり、その奥にはデスクとパソコンが見えた。  枇呂の背丈より大きな窓には夏の日差しが柔らかく差し込み、観葉植物が生き生きしている。左右に一つずつ扉があり、かなり広いのかもしれない。  脳のバグが起きたのかと思うほど外観からのイメージとはかけ離れている。処理が追いつかない枇呂が固まっていると、「ぼけっとするな」と三波に背中を押されて、慌てて靴を脱いだ。  三波は枇呂を避け、カウチに座った。長い足を優雅に組んでいる。 「面接するか。履歴書持って来てるよな?」 「はい」 「じゃあ見せて」  三波が顎でカウチをさしたので枇呂は正面に腰を下ろし、履歴書を渡した。三波は真剣な表情で読み始めている。彼の興味は履歴書に移っていた。 (チャンスだ)  枇呂は握ったままのスマートフォンのシャッターボタンを押した。すぐ画面を確認する。だが履歴書で顔の半分が隠れてしまい、文字が浮かんでこない。  もう一度、とスマートフォンを握り直すと画面越しに三波がこちらを睨みつけている。 「こっちは客のプライバシー扱ってるんだから盗撮とか論外。おまえ、働きに来たんじゃないの?」 「……すいません」  枇呂は頭を下げた。履歴書に集中していると思ったのに三波は視野が広いらしい。それとも探偵故の観察眼だろうか。  無音シャッターのアプリを入れていたので気づかれないと油断していた。  (スマホを取り上げられなかっただけマシか)  枇呂はスマートフォンをバックにしまった。途端に指が震えてくる。手を組んでも震えは治まってくれない。 そわそわと身体を揺らしているとようやく三波が口を開いた。 「その見た目で二十二歳? 年齢偽ってるんじゃなくて?」 「初対面なのに失礼ですね」 「盗撮してたヤツがなに言ってるんだか」  事実なので言い返せない。  枇呂がむっと唇を尖らせると、三波は形の良い眉を跳ねさせた。高圧的な男だ。枇呂がもっとも苦手とするタイプである。  三波は長すぎる足を窮屈そうに組み直し、履歴書をセンターテーブルに放り投げた。壁にかけてある時計を見上げる。 「ちょうどいい。入社テストをする」 「高卒なのであまり勉強はできないんですけど」 「探偵としての素質に学力は関係ねぇよ」  どういう意味だ。枇呂が質問を重ねようとすると運悪くインターホンが鳴った。  三波は小走りに玄関扉に向かっている。 「こんにちは、林さん」 「遅れてしまってすいません」 「いえいえ、ちょうどよかったですよ」  相手は女性のようだ。というか枇呂と話していたときより三波の声のトーンが明らかに違う。低い声は相変わらずだが、清流のように澄んでいる。  客なのだろうか。  枇呂がカウチに座ったままでいると、振り返った三波に指をさされた。 「こいつが代役でもいいですか? 見た目より若く見えますが、二十二歳です」  ドアから顔を覗かせたのは三十代くらいの女性だ。ブラウンのロングヘアーの毛先が内巻きにされ、ネイビーのワンピースを着て落ち着いた雰囲気がある。  枇呂と目が合うとぱっと笑顔になった。 「ちょうどいいです! 三波さんだと大人っぽすぎたので不安でしたが、この子ならぴったり!」 「では時間も押してるから急ぎましょう。ほら、行くぞ」 「おれがですが?」 「おまえ以外に誰がいるんだ。道中に説明してやる」  なにがなんだかわからないまま枇呂は外に連れ出された。  女性は林といい、会社員の三十二歳。婚活アプリで知り合った男  飯島と婚約をしたが、素性を調査して欲しいと三波に依頼したそうだ。  飯島の名前から家族構成、出身地、母校、会社にいたるまで調べた結果、本人の発言とは齟齬がないらしい。  年齢のこともあり、林は結婚に乗り気なのだが飯島がなかなかプロポーズをしてくれないそうだ。  だから弟のふりをして飯島に結婚の意志を持たせるようにして欲しい、という依頼らしい。  本当の弟は盲腸で入院してしまい、他に頼める人がいなかったとのことだ。  歩きながら三波が早口で説明しているのを聞き、枇呂はどうにか頭に詰め込んでいる。 「おれは弟、おれは弟」 「そんな気張らなくていい。あくまで自然にやれ」 「と言われましても」  誰かの代わりを務めるなんて初めてだ。欠員が出たバイトの代打をするのとはわけが違う。  そわそわしているうちに、飯島と待ち合わせをしている喫茶店に着いてしまった。  年月を感じる古い扉の横には立て看板のメニュー表がある。コーヒーが八百円という値段に目を回していると、「おい」と三波に肩を叩かれた。 「段取りは憶えたか?」 「最初におれたちが入って、あとから三波さんが来る」 「そのあとは?」 「林さんの言う通りにする」 「よし。気張れよ」  枇呂は頷いた。ここでうまくやらなければ明日から路頭に迷ってしまう。 (おれにはこの力があるから大丈夫だ)  トートバッグの柄を強く握り、枇呂は林と共に喫茶店に足を踏み入れた。  喫茶店はアンティクー調にまとめられ、控えめにジャズが流れていた。照明は暗く、落ち着いた雰囲気がある。 客席はソファ席が主流らしく、カウンター席は五席ほどしかない。昼過ぎているのでほぼ満席だ。 「林さん!」  一番奥のソファ席に座っていた男が手を挙げた。それに気づいた林はぱっと笑顔を浮かべる。  枇呂に気づいた婚約者は目礼をしてくれたので、頭を下げた。  林は小走りで林の元に駆け寄る。 「遅くなってごめんね」 「いま来たところだから大丈夫」  林と飯島がお決まりの文句をやりあい、飯島の視線が枇呂に向いた。 「この子が弟くん?」 「そう、結翔って言うの。挨拶して」 「初めまして、こんにちは」 「思ったよりも若いね。二十七歳でしょ?」 「私に似て若く見られるのよ、ね」  林に同調を求められ、枇呂は三波に指示された通りに頷いた。 「俺は飯島です。よろしくね」 「よろしくお願いします」  飯島は切り揃えられた短髪にダークグレーのポロシャツが似合う好青年だ。林と同い年らしい。  一通り自己紹介が終わると店員が来たので飯島と林はアイスコーヒー、枇呂はメロンクリームソーダーを頼んだ。お金は林が出してくれるらしいので、枇呂は好きなものを飲んでいいと言われている。  しばらく林と飯島が話していると斜め向かいのカウンター席に三波が座った。先ほど被っていなかった黒いキャップをかぶり、テーブルにノートパソコンを置いている。いかにも仕事をしているフリーランスの人だ。 (探偵ってこんな感じなんだ)  三波はカメレオンのように喫茶店に溶け込んでいる。あまりに自然体なので、三波が探偵だと知らなかったら気づかなかったかもしれない。アニメと違ってスーツじゃないんだな、と感心していると「そうだよね」と林に肘で突かれて枇呂は我に返った。 「ごめん、なんです……なに?」 「だから県大会優勝したとき、最後は面だったよねって話」  いつのまにそんな話に飛んだのだろう。というか林の弟は剣道をやっていたのか。  いまは林の弟である枇呂は頷くしかない。「はい」と答えると飯島は目元を綻ばせた。 「そうなんだ。俺も高校まで剣道部だったんだ。ぜひ手合わせを願いたい」 「はい。こちらこそお願いします」 「飯島さんと結翔って気が合いそうじゃない? 結婚しても仲良くできそうよね」  林がナイスパスをしたが、飯島はカップを口につけ曖昧に微笑んでいる。ここは「じゃあ結婚しようか」と言う場面じゃないのか。 けれど林は慣れているようで、笑みを絶やさずに浮かべている。  枇呂の目から見ても飯島はいい男だ。見た目も清潔感があるし、表情から自信に溢れている。だけどオラついていない謙虚さもあり、そのバランスが女性にモテそうだ。  枇呂がメロンソーダーをかき混ぜていると飯島はテーブルの上で指を組んだ。 「結翔くんは僕と林さんの結婚には賛成ってことでいいの?」 「もちろんです」 「……そう」  飯島が肩を落としてしまった。その様子は喜んでいるようには見えない。結婚を渋っているというのは本当のようだ。 (でもどうしてだろう?)  林は美人だし気立てもいい。さっきから話も盛り上がっているし飯島とは気も合うのだろう。  枇呂はメッセージがきたフリをしてスマートフォンを出し、飯島の写真を撮った。 『弟にまで嘘を吐いているのか』  飯島の顔に浮かんだ文字にわけがわからなくなってきた。嘘、という枇呂が最も嫌悪する言葉にこめかみが動く。  ちらりと視線を上げると三波と目が合った。振り払う仕草をしているからスマートフォンをしまえ、と言っているのだろう。ちょうど飯島の後ろにいるので、彼は気づいていない。  だが枇呂は三波の指示を無視した。 「ちょっと急用みたいでメッセージ返してもいいですか?」 「どうぞ」 「すいません」  枇呂はメッセージを打つふりをしながら飯島の写真を撮った。 『もう限界だ。まだ腕がうまく上がらない』 『金が底を尽きている』 『こんな金遣い荒い女だと思わなかった』 『あぁ腕が痛む。早く終わらせてくれ』  飯島の胸の内が次々と現れてくる。そのどれもが林が飯島に不徳を働いていた証拠ばかりだ。  飯島はかなり林に貢いでいたのだろう。  飯島は広告代理店の課長で、給料はかなりいいはずだ。  なら林はこんな大きな魚を逃したくないに決まっている。  枇呂はちらりと隣を見た。  林が持っているバッグは有名ブランドのものだし、カーテンのようなワンピースも高そうだ。くすみ一つない肌や手入れの行き届いた髪やネイルは、美しい反面かなり自分に金をかけるタイプなのだろう。  飯島の「ホンネ」を知ったいま、嘘を吐くことは枇呂の理念に反する。  枇呂はスマートフォンをしまった。 「うちの姉はかなりの浪費癖があります」  しんと場が静かになる。ジャズと他の客の話し声が遠くになっていく。 「なんてこと言うの!」  林はバンとテーブルを叩いた。顔を真っ赤にする林に対し、飯島は大きく頷いてくれている。まるで神に縋る罪人のように枇呂をみつめていた。  背中を押された気分で枇呂は口を開く。 「結婚したら苦労すると思います」 「飯島さん、ちょっと待っててください」  林に腕を引っ張られ、奥まった場所にある化粧室へと連れて行かれた。あとから三波がついてくる。  ちょうど誰もおらず、枇呂は三波と林に逃げ道を塞がれて見下ろされた。  乱暴に前髪をかきあげた林はぎっと枇呂を睨みつけてくる。 「浪費癖ってどういうことよ!? あなたはただ頷いていればいいと言ったでしょ」 「でも飯島さんは嫌そうでした。それを無視することはできません」 「依頼人は私なのよ! 高い金払ってるんだから、言う通りにしなさい」 「まったくその通りです。この度は申し訳ありません」  三波が間に入り、林に頭を下げた。その態度が癪に触る。枇呂は「ホンネ」を見て伝えただけだ。なにも悪いことをしていない。それなのにどうして謝らなければならないんだ。  枇呂を庇うような三波の背中が、つい先日の出来事を想起させた。  まだ枇呂がコンビニで働いていたとき、客とトラブルを起こしたのだ。そのときも枇呂の代わりに店長が謝ってくれていた。あのときと似ている。  枇呂の胸に鋭い痛みが走った。またやってしまったのだろう。  でもどうしても止められない。止めちゃだめなのだと背中がせっつかれてしまう。  枇呂は三波を押し退けて、一歩前に出た。 「飯島さんになにをしたんですか?」 「なにって」 「貢がせるだけじゃなく、他のこともしてますよね?」  枇呂の言葉に林は顔面を青ざめた。完璧な美貌が見事に崩れ、彼女の動揺を表している。  枇呂はすかさずスマートフォンを取り出して、シャッターボタンを押した。 『まさか私が彼に暴力を振るっているのに気づいているの?』  やっぱり。  他人を卑下する人間は総じて顔が似通っている。外面がよく内面は汚い。コインの表裏のように違う顔を見せるのだ。  だが林は負けじとカンと一歩前に出る。 「あなたに関係ないでしょ!」 「飯島さんが辛い未来になるとわかっていて見過ごすことはできません」 「こっちは金払ってるんだから言う通りにしなさい!」  林は頭で湯が沸けそうなほど顔を真っ赤にさせた。 「……どういうことですか? その子、林さんの弟ではないのですか?」  顔を上げると飯島が立っていた。  なかなか枇呂たちが戻って来ないので様子を見に来たのだろう。状況が飲み込めない飯島は枇呂と林、そして三波を順番に見て首を傾げている。  今度は冷水を浴びせられたように林の顔面は青くなった。 「お、弟よ! ごめんなさい、遅くなって。もう戻るから」  林は笑顔を浮かべているが頬が引き攣っていて酷い顔をしている。耳に髪をかけようとしているが指が震えていた。  枇呂は飯島を視界に捉える。 「飯島さん、ここではっきり言った方がいいですよ。女性からの暴力でもDVは立証されます」 「どうして……それを?」  飯島は薄気味悪そうに枇呂を見下ろした。彼は一見してどこも怪我をしていないから、普通は気づかないだろう。服に隠れている部分に痣があるのかもしれない。  証拠があればより林の罪は重くなる。  嘘は悪だと教え込まれてきた自分にとって、林は悪魔だ。  そしてそれを断罪する力を枇呂は持っている。 「……最悪」  三波がポロッとこぼした言葉に明日の自分がないことに気がついた。  双方が認めたことによりDVは立証され、二度と飯島に接触しないと林に念書を書かせ、その日は解散になった。警察に被害届は出さない方向でいくらしい。  二人と別れ、枇呂は三波と事務所に戻った。道中、三波は何度も舌打ちをし、人の機微に疎い枇呂でも三波が怒っているのを察していた。  カウチにどかりと座った三波は、事務所のすみに縮こまっている枇呂を睨みつけている。 「おまえのせいで大損だ。飯島を調べてきた依頼料と今日の代役料も請求できず、全部パァ!」 「すいません」  タダ働きをさせてしまい三波には申し訳ないとは思うが、自分は間違っていない。  もしあのまま枇呂が結婚を後押ししていたら、飯島はもっと酷い目に遭っていただろう。  DVは精神を囲う檻だ。逃げる気力を失い、死を願うほどの暴力に耐える可能性もあった。  経験者なのでよくわかる。  それに林は嘘を吐いていた。それはどうしても許せない。  枇呂の表面だけの謝罪を見透かしたのか、三波は形のいい眉を寄せた。 「わかってると思うけど、おまえのこと採用しないからな」 「はい」 「他に言うことないわけ?」 「……迷惑かけてすいません」  枇呂は頭を下げるが、三波の溜飲は下がらないようでふんと鼻を鳴らした。  もしかしたら探偵事務所としての評価に響くのだろうか。見たことはないがレストランみたいに探偵事務所の口コミを書けるサイトに、林があることないこと書く可能性はある。  だが枇呂にはどうすることもできない。 (まぁもうおれには関係ないか)  枇呂はバッグの柄を掴み、もう一度頭を下げた。 「では、失礼します」 「……どうして飯島がDV受けてるってわかった?」 急に投げられた変化速球に枇呂は目を見開いた。 「飯島さんの様子がおかしかったからです」  まさか写真を撮った相手の「ホンネ」がわかると言えるはずがない。頭がおかしいヤツだとレッテルを貼られるのが目に見えていた。  だが三波は不満を表すように顎に皺を寄せる。 「俺が調べた限り二人は順調に交際していたはずだ。調べが足りなかったというのか」  細い顎に指をかけた三波はじっとテーブルの木目をみつめている。もしかして調査結果と違うから納得できないのだろうか。 (結構真面目に仕事してるんだな)  白シャツにデニムというコンビニに行きそうなラフな格好だが、三波は探偵という仕事にプライドを持っていたのかもしれない。  きっと林と飯島のことを入念に調べて白と判定をくだしていたのだろう。  それが今日初めて会った枇呂に黒に変えられたのだ。納得できないのは無理もない。  沈黙が続く室内に、ピンポーンと間延びしたインターホンが響く。時間は夜の六時を回っていた。 「やぁこんばんは」  当たり前のように扉が開き、花島昭仁がひょっこりと顔を出した。まさかの人物の登場に枇呂は目をぱちくりとさせる。 「兄ちゃん」 「お、枇呂、ちゃんと来れたんだな」 「うん」 「偉い、偉い」  花島は目尻を下げた。小さな子どもを褒めるような言い方だ。  だが眼鏡越しの花島の瞳は鋭く細められている。枇呂を値踏みするかのようにじっと向けられると、背中に汗が浮かんできた。  三波探偵事務所の仕事を紹介してくれた花島に不採用だったとは言いづらい。  枇呂の態度に花島は気づいたようだ。 「だめだったんだ?」  いまだカウチから立ち上がろうともしない三波に声をかけた花島は、まるで自宅のように上がりこんだ。当然のように三波の正面に座る。  三波は重たい息を吐いた。 「依頼をめちゃくちゃにされた。デカい案件だったのに最悪」 「あらら。枇呂、なにやったわけ?」  花島は枇呂を見下すように語頬をあげた。腕を組み、まるで女王様のようにふんぞり返っている。  枇呂は首から下げているスマートフォンをぎゅっと握りしめた。  その様子が気に食わなかったのか、三波は汚物を見るかのように口を歪めている。 「こいつ、なんなの?」 「僕のいとこ」 「それは前にも聞いた。じゃなくて……もういいや」  三波は質問するのも莫迦らしくなってきたのか、前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。枇呂が無意識にシャッターを押そうとすると、三波の鋭い眼光に阻まれる。 「だからそれ止めろって言っただろ。なんで撮るわけ? てか飯島のことも撮ってたよな」  三波は立ち上がると枇呂のスマートフォンを奪った。 「か、返してください!」  枇呂より頭一つ分大きい三波はスマートフォンを高く掲げた。背伸びをしてもジャンプをしても届かない。  三波は画面をスライドさせ、眉間の皺を深くさせる。 「なにこれ……全部盗撮じゃん」 「違う!」 「いやいや、こんだけ物的証拠があったら言い逃れはできないだろ」  画面を向けられるとそこには喫茶店での写真が残っている。困ったように笑う飯島ばかりだ。  だがそこに浮かぶ文字までは三波には見えていないのだろう。枇呂以外の人間が見れば、ただの写真だ。  花島はくすっと笑った。 「まだ懲りずにやってたんだ。枇呂、それはだめだって昔から言ってるだろ」 「だって」 「言い訳しない」 「……はい」  花島に強く言い含められてしまえば刃向かえない。悪いのはこの能力に頼ることしかできない弱い自分だ。  花島はゆっくり三波に顔を向けた。 「盗撮したから枇呂は不採用ってこと?」 「他にもいろいろあるけど」 「それは惜しいな。枇呂の作る料理は美味いんだよ。特にハンバーグが」  ハンバーグ、という単語に三波の肩が跳ねる。 「それに家事全般も得意で掃除、洗濯なんでもできるぞ。一家に一人、枇呂と言っても過言じゃない」 「大袈裟だよ」  枇呂が否定すると花島は舞台俳優のように首を振った。いま彼の下にスポットライトが当たっているような名演技だ。  花島の言葉を咀嚼するようにしばらく考え込んでいた三波は枇呂に振り返る。その両目にはわずかな光を見いだせた。 「花島の言うことは本当か?」 「……家事は苦手ではないですけど」 「よし。なら試雇用期間として雇ってやる」 「いいんですか?」 「ただし、俺の写真は撮るな。破ったら即クビだから」 「ありがとうございます!」  まさか雇って貰えるとは思わず、枇呂はジャンプしたい気持ちを抑えるのに必死だった。  口添えをしてくれた花島に頭を下げる。 「兄ちゃん、ありがとう!」 「よかったな」  手厳しいことも言われるけど花島はいつも味方をしてくれる。その支えがあったから今日まで生きてこられたのだ。 (今度こそ迷惑をかけないようにしよう)  枇呂は固く決意をした。

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