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第2話
三波探偵事務所は吉祥寺駅から徒歩十分だ。
都内からのアクセスがよく人気なエリアではあるが、事務所兼居住地であるアパートは築年数もあるため格安で借りられる。内装はフルリフォームされ、玄関すぐに事務所、左の扉には寝室が二部屋、右の扉は台所、洗面所、風呂、トイレがある3LDKだ。
二部屋ぶち抜いているのでこの広さらしい。
枇呂は三波の隣にある空き部屋をあてがわれた。どうやら一度も使ったことがないらしく、フローリングの上には薄っすらと埃が積もっている。
三波が前もって用意してくれていたのか、新品の寝具だけが居心地悪そうに置かれていた。
(今日からここがおれの部屋か)
以前はもっと酷いボロアパートだった。窓を閉め切ってもどこからかすきま風が入り、外よりも寒かった。夏はクーラーの冷風が逃げてしまい、暑さで死にかけた。
劣悪な環境に長くいたので、この部屋は極上の部類に入るだろう。
枇呂はトートバックを開けた。下着とパジャマにしているシャツと短パン、歯ブラシ、通帳を床に並べる。
それ以外のものはない。
(貯金も底が尽きそうだったし、住み込みで働かせてもらえてよかったな)
荷物をすべて出し終え、枇呂は換気するために窓を開けた。夏特有の湿った空気が部屋に入り、一瞬で蒸し器のようにジメジメとしてくる。
でもここから見える風景はどこか懐かしい。
三波探偵事務所は住宅街の中にあるため、都会の喧騒から離れている。夕飯なのだろうか風に乗ってカレーの匂いがしてきた。
あまりにも穏やかな風景に自然と目尻が下がる。
(ちょっと実家に似てるかも)
桜の木が植えてあった大きな庭と両親の顔を思い出してしまい、毛穴という毛穴から嫌な汗が噴き出してきた。
それ以上の記憶は深追いしてはいけない。頭の中で警報音が鳴り、枇呂は頭を横に振って追い出した。
ーートンッ
枇呂が振り返ると開けっ放しの扉に三波が寄りかかっていた。
「荷解き終わったか?」
「はい」
床に並べられた荷物を見て、三波は「は?」と首を傾げた。
「これだけ?」
「そうですけど」
「おまえ、誰かに追われてるんの? 着の身着のまま逃げてきたみたいだぞ」
「先月までコンビニで働いて、アパートも借りてました。そのときにほとんどのものは処分したんです。履歴書にも書いてありますよ」
履歴書には枇呂の人生を洗いざらい書いてある。
高校を卒業後、ガソリンスタンドで非正規雇用者となり、そのあとはファミレス、工事現場、清掃業、先月クビになったコンビニの名前も書いてある。今日までは単発のアルバイトで食いつなぎ、ネットカフェに住んでいた。
四年の間に転職を繰り返している枇呂は印象が悪いだろう。
だが三波が着目したのはそこではなかったらしい。
「親いないんだっけ」
本人希望記入欄に親とは絶縁状態にあり、身よりがないことを包み隠さず書いている。
あまりにストレートな物言いに枇呂は瞬きを忘れた。かなりデリケートな部分なのに、三波には気遣いという細やかさがないのだろう。
でもその構えていない感じがラクだ。
だから自然と口が軽くなる。
「はい。おれが死んでも困る人はいませんよ。命を狙われそうになったら盾にしてくださっても大丈夫です」
「そんなことしねぇけど」
「うっかり殺しちゃっても誰も捜索願を出しませんよ」
「おまえは俺をどういう人間だと思ってるんだ」
三波は呆れたように肩を落とした。長い前髪を掻き上げ、ちらりと枇呂を見下ろした。
「まぁいいや。それより飯食いに行こうぜ。近くに美味いタイ飯屋があるんだよ」
「金がないので行けません。三波さんだけどうぞ」
「そんなに金ないのか?」
「はい」
「俺のところがダメだったらどうしてたわけ?」
「身体を売ってたと思います」
枇呂は最終手段として売春は考えていた。できることならやりたくないし、そうならないように単発でどうにかしてきた。
でも一時的に住処にしていたネットカフェは大勢の人間がいるし、プライバシーがあってないようなものだ。半個室の部屋に見知らぬ男が入ってくるなんてしょっちゅうで、深く眠れたためしがない。
お陰でずっと寝不足だ。
だが、そんな日々も今日で終わる。雨上がりに虹を見つけたように気分がいい。
「雇っていただけてよかったです。これでおれの寿命が一日延びました」
「そんな危なっかしい生活してたわけ?」
「普通だと思いますけど」
「普通はネカフェに住まねぇよ。てかなんでそんな金がないわけ? 借金でもしてるのか?」
「お世話になった親戚の家にお金を返しているんです」
「は?」
意味が分からないとばかりに三波は大口を開けている。枇呂は頭の中で整理しながら、慎重に言葉を選んだ。
「両親が離婚して、父に引き取られたんですけど、色々あって十二歳で親戚の家に行きました。そのとき色んな家を回っていたので。でも最後は花島家でした」
十四歳から成人するまで一番長く世話になったのが花島家だ。他の家は長くて半年程度だったが、枇呂を預かってくれただけ感謝している。その印に金を送っているのだ。
三波は神妙な顔で頷いた。枇呂の生い立ちに同情したのかもしれない。
「おまえの人生はよくわかった」
「はぁ」
「なら俺も半端なことはできねぇな。おまえに探偵のなんたるかと教えてやる。でも腹が減っては戦はできぬって言うだろ。飯は奢ってやるから付き合え」
「……いいんですか?」
「隣でずっとグーグー腹鳴らされてるのも気が散りそうだしな」
「ありがとうございます」
枇呂が頭を下げると三波は後頭部を掻いた。
事務所から歩いて五分とのころに三波おすすめのタイ料理屋がある。アジアンテイストな店構えで、よくわからない木像や像の置物が並べられていた。エキゾチックな曲が流れ、店内も照明が落とされている。夜はバーとして営業しているのか異国の酒の匂いがした。
ちょうど席が空いていたのかすぐに案内してもらえた。
ソファ席には色鮮やかな花のような模様のクッションが置いてあり、エキゾチックな雰囲気を演出している。
三波な慣れた様子でメニュー表を広げているのを眺め、枇呂はおしぼりで手を拭いた。
「兄ちゃ……花島さん帰っちゃいましたね」
枇呂が荷解きをしている間に花島は帰ってしまったらしい。ちゃんとお礼を言えなかったのが心残りだ。
三波はちらりと枇呂を見る。
「あいつはこれから仕事だろ」
「新宿のバーですよね。一度だけ飲みに行ったことあります」
「よくその顔で入れたな」
三波が莫迦にするように笑うので枇呂は両頬を膨らませた。年齢より幼く見えるのは自覚している。
「兄ちゃんと付き合い長いんですか?」
「五年くらいだな」
「学生時代の友人ですか?」
「ちょっと違うけど、まぁ似たようなものだ」
三波が曖昧に濁すので花島との関係は語りたくないのだろう。人には触れられたくないものの一つや二つはあるものだ。
「兄ちゃんに友だちがいたことに驚きました」
「それって失礼じゃね」
「なんていうか、兄ちゃんは一人でも平気なタイプだから友だちといるっていうイメージがつかなくて」
花島は春風のように飄々としていて、同じところに長く留まることを嫌うイメージがあった。とはいえ、花島家に住んでいたのは四年間だけだ。彼の交友関係には明るくなく、あくまで枇呂の想像だ。
三波は口元をわずかに上げた。
「よくわかってるじゃん。あいつに友だちってものはいないと思うぜ」
「そんなこと言っていいんですか」
「構わねぇだろ。この場にあいつはいないんだから」
三波は再びメニュー表に視線を戻した。
「ビールは飲めるか?」
「はい」
「嫌いなものは?」
「特にないです」
「じゃあ適当につまめるもの頼むわ」
三波は店員を呼ぶとメニュー表を見ながら注文してくれた。タイ料理なんて初めてだからなにが出るのか楽しみだ。
数秒と置かずにジョッキが運ばれてきて、なんとなく乾杯をした。遠慮がちにガラスがぶつかる音が店内の喧騒にかき消されてしまう。
「やっぱ最初はビールだよ」
美味しいそうにビールを煽る三波の喉仏をじっとみつめた。
(いまなら気づかれないかな)
枇呂が首から下げたスマートフォンを触るとだんとジョッキがテーブルに叩きつけられた。
目が据わった三波の表情は怒気を孕んでいる。
「それクセなの?」
スマートフォンを握っている手を顎で指され、枇呂は小さく頷いた。
「携帯依存症?」
「違います」
「じゃあ盗撮が趣味?」
「違います」
「よくわからねぇヤツだな」
三波はそれ以上質問しても無駄だと思ったのか、もう一度ジョッキを煽りすぐに空にして二杯目をおかわりした。
それも半分ほど飲み干したのを見計らい、枇呂は口を開いた。
「おれにとってスマホは精神安定剤なんです」
「でもだからって盗撮はだめだろ。事務所の信用に関わる」
「……はい」
「でもそうだな……」
三波は腕を組んで、うんうんと唸った。まるでとんちを考える一休さんみたいだ。
数秒待っていると三波はぱっと顔を上げた。
「不安になったら俺を見ろ。不安で心細くなって、縋りたくなったら俺を探せ」
「は?」
なにを言っているんだ、と三波を見上げると彼は至って真面目な顔をしている。
三波の考えがわからず、枇呂は写真を撮りたい衝動に駆られた。
いま三波が考えていることを知りたい。
枇呂にとって写真を撮ることは相手の「ホンネ」を探る手っ取り早いコミュニケーションだ。煩わしい駆け引きや気遣いが必要ない。ドリルの答えを見ながら問題を解くように楽なのだ。
でも事情を知らない三波は北極星のように枇呂を導こうとしてくれているのだろうか。
枇呂が写真を撮るたびに周りは嫌な顔をされ、病気だな、と言われてきた。それでもやめようとは思えない。
嘘は大切な人を傷つけるから。
それを見抜くために自分はこの能力を授かったのだ。
だから嘘を見破れる枇呂には断罪する権利がある。
そうやって生きてきた枇呂の根底を揺るがすような強い瞳に、射竦められた。
だがそう簡単に引き下がれない。枇呂も負けじと三波をみつめていた。
次の日に来た依頼者は瀧涼花、二十一歳の女子大生だ。長い亜麻色の髪は乾麺のようにまっすぐで、目元がぱっちりとした可愛らしい女の子である。
事務所のカウチに座った瀧はそわそわと室内を見渡し、枇呂がアイスコーヒーをテーブルに置くと「ありがとうございます」とぎこちない笑みでお礼を言ってくれた。
単身で探偵事務所に乗り込んで不安があるのだろうか。それとも依頼した三波が、モデル顔負けの好青年で恥ずかしがっている可能性もある。
(考えてもわかんないや)
写真を撮れば一発でわかるが、三波にしつこく止められている。スマートフォンを取り上げられなかっただけマシかもしれない。
枇呂はお盆を持って部屋の隅に立ち、三波は瀧の正面に座り、メールに送られた依頼書を読んでいた。
タブレットに向いていた視線が多岐に向けられる。
「ストーカー、ですか?」
「確信はないんですけど」
「追いかけ回されたり、無言電話をかけられたり、という実害はないということですが、どうしてストーカーだと思ったんですか?」
「同じ時間にいつもアパートの前にいるんです」
一人暮らしをしている女性の家に連日誰かが待ち伏せしていたら怖いだろう。じっと瀧の部屋を見上げ、数分したら帰っていくらしい。
三波は痛ましげに眉間に皺をつくった。
「警察に通報は?」
「相談はしたんですけど、実害がないから捜査は難しいと言われました。ただパトロールは強化してくれるそうです」
「よくある対応ですね」
警察の立場上、被害が出てからではないと動けない。だがそれだと最悪なケースも起こる可能性はある。
そのため犯人を調べて欲しいという依頼を探偵に求められることは多々ある、と三波が教えてくれた。
三波は続ける。
「念の為お聞きますが、犯人に心当たりは?」
「……ありません」
「わかりました。では一度、ご自宅を確認させてもらってもよろしいですか?」
「はい」
そこから三人で三波の車で移動して瀧の最寄り駅に着いた。コインパーキングに車を停め、駅周辺を探索する。
三波が歩きながら瀧を見下ろした。
「落ち着いたエリアですね」
「近くに大学があるので、この辺は学生街なんです。比較的治安もいいんですよ」
確かに似たような外観の単身アパートが多く建っている。
駅の周りにはスーパーや薬局などの生活に必要な店が一通り揃っていた。瀧は駅前のコンビニでアルバイトをしているらしい。
一通り駅周辺をチェックし、アパートまで歩いた。駅から徒歩十分ほどの距離だ。
「ここが私のアパートです」
「キレイなところですね」
「私が入学するときに建てられたから、ちょうど築三年です」
瀧のアパートの外壁は真っ白で、プレゼントで貰う箱に似ている。オートロック式のエントランスで、ポストは中にあるようだ。監視カメラもいたるところに設置されている。
三波は後ろの土手を指さした。
「アパートの前に川が流れているんですね」
「うちの大学の方が上流で、ここは下流になります。ちょうど向こうにストーカーが立っているんです」
瀧は土手を指さした。フェンスや柵もなにもない野原が広がっている。
茶色く濁った川はとてもキレイとはいえない。流れも速く、泳げそうもないだろう。
道から土手に下りるのには階段が所々にあり、ちょうど柴犬を散歩させているおばあさんが見える。
確かにこんなところに立っていたら嫌でも目立つ。
三波は注意深く川を観察した。
「ストーカーが現れる頻度は週に二、三度でしたね」
「はい。私がバイト終わってしばらくしてから来るので夜の十時くらいかと」
「わかりました。ではその時間を中心に張っておきます」
「よろしくお願いします」
瀧は丁寧にお辞儀をして、三波と最終確認してからアパートに入って行った。
彼女の姿が見えなくなり、三波の視線が枇呂に向けられる。
「おまえ、ずっと黙ってるんだな」
「特に話すことないですし」
「コミュ障かよ」
「はい」
「ま、なんでもいい。警護はしっかりしろよ」
「はい」
本当はなにを話せばいいのかわからないのだ。
「ホンネ」を探れず、瀧の気持ちも三波の考えも読めなくて不安で仕方がない。知りたいけど、なにをどう言えばいいのかわからないのだ。
三波が呆れたように息を吐いた。
「でもおまえも試雇用期間終わったら一人で依頼こなすようになるんだぞ? それまでに業務を覚えておけよ」
「……おれにもできますかね」
「できるように育てるのが俺の仕事だ。とりあえずもう一度周辺を散策するか」
「近所に聞き込みはしないですか?」
「莫迦か」
三波は眉を寄せた。
「聞き込みをやっていいのは警察だけ。ドラマやアニメと違って、実際の探偵はかなり制限がある。勝手に建物内に入れないし」
「なぜですか?」
「だいたいのマンションやアパートは関係者以外、つまり住人やその家族、宅配の人以外は基本立ち入り禁止なんだよ。住居侵入罪として捕まるぞ」
「結構厳しいんですね」
「昔はなぁなぁで許されてたらしいけどな。いまはいろんなことに規制が入ってるから、下手なことできねぇんだよ」
投げやりな三波の口調は苦労が滲み出ていた。乱暴に髪を掻きあげると三波の毛先がふわふわと浮いている。
(たんぽぽみたい)
枇呂がじっと見つめていると三波は片眉を跳ねさせた。
「なに?」
「……なんでもありません」
「ったく。もう一回周辺調べるぞ」
三波は先に歩き出してしまい、枇呂は慌てて追いかけた。
枇呂と三波は瀧のアパートから歩いて五分で大学に着いた。夏休みなので学生の姿はなく、閑散としている。
広大な敷地にサイコロのような建物がいくつもあり、改装工事をしているのか足場を組んでいるものもある。
枇呂は後ろに振り返った。
「ここも入れないってことですよね?」
「わかってんじゃん」
三波はくしゃっと笑った。言葉は偉そうだが一応褒めているつもりらしい。
門の前には守衛の男がいて、枇呂たちに鋭い視線を向けている。男の横の看板には「関係者以外立ち入り禁止」と書かれていた。
こんなものが至るところにあるなんて、三波に指摘されるまで気づかなかった。
「行くぞ」
「はい」
三波は顎をしゃくり歩き出したので、枇呂もあとに続く。
そこから遠回りをして駅へ着いた。
「これで大体周りを把握できたな」
「なにか意味があるんですか?」
三波に言われるがままついてきたが、本来の目的は分からずにいた。こんな炎天下の中、無駄に歩き続けたわけではないはず。
手の甲で汗を拭った三波はゆっくりと口を開いた。
「ストーカーは徒歩で現場に来てるらしいじゃん。となると十中八九この近辺のヤツだ。この地域を頭に入れておけば、逃走ルートが大方予想つくだろ」
「ちゃんと考えてるんですね」
「おまえの一言ってなんでか癪に障るんだよな」
褒めているつもりだったが、三波はお気に召さなかったらしい。枇呂が肩に力を入れて身構えると三波は力なく首を振るに留めた。
「さすがにずっと歩いてたからあちぃな。飲み物でも買うか」
「はい」
「ちょうど依頼主のコンビニもあるし、偵察がてら行くか」
三波は改札口の目の前に全国チェーン店のコンビニを指さした。
昼過ぎに瀧が事務所に来てから、ずっと飲まず食わずで歩き回っている。強い日差しに当たり続けた皮膚はヒリヒリするし、砂漠にいるような喉の渇きを覚えた。
自動ドアを潜ると冷たい風に迎えられ、かいた汗がすっとして気持ちがいい。
三波はドア横にあるカゴを手に取った。
「欲しいもんあったらカゴに入れろ」
「金ないです」
「経費で落ちるから心配すんな。ついでにパンとか摘まめるもん買っとけよ。ここから長丁場だから」
「ありがとうございます」
枇呂が礼を言うと、三波は「ん」と下唇を突き出して雑誌コーナーへと向かった。
(お礼言っただけなのに怒らせたかな)
三波の「ホンネ」が知りたい。ちょっとだけなら、と魔が差し、首に下げているスマートフォンに手が伸びる。
だがどうにか直前で押しとどめた。
(きっとお腹が減ってイライラしてるだけだ。おれもなにか飲んで落ち着かせよう)
枇呂は店の奥へと進んだ。帰宅ラッシュ前なので客は少ない。
コンビニの制服を着た従業員がちょうどパン棚の品出しをしていた。通りがかった枇呂に気がつき、作業の手を止めて顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
枇呂と同じ年くらいの男だ。太い眉が特徴的だが、野暮ったい印象がないのは愛嬌のあるくりっとした瞳だからだろう。自分とは違い一度も染めたことのなさそうな黒髪はツヤツヤしている。
胸元についているバッチには「可世木」と書いてあった。珍しい苗字だ。
枇呂はパン棚を物色した。食べられるものならなんでもいい。好き嫌いもなく、もらえるものならなんでも貰う主義だ。
だからこうして選んでいいと言われると困ってしまう。
枇呂が棚の前でじっとしていると可世木は「あの」と声をかけてきた。
「もしどれにするかお悩みでしたら、こちらがオススメです。夏限定のカレーパンなんですけど、辛味の効いたスパイスとゆで卵の相性が抜群なんですよ」
可世木が手にしたパンには「夏限定! スパイシーカレーパン」と書かれている。こんがりきつね色に焼かれた衣が美味しそうだ。
「じゃあそれにします」
「やったー! 嬉しいです。僕、それお気に入りで、いまバイト仲間たちにも普及活動しているんですよ」
可世木はニコニコと笑みを絶やさない。あまりに眩しくて枇呂は目を細めた。
可世木はぺこっとお辞儀をして、コンテナを持って奥に引っ込んだ。
(随分積極的な店員だな)
枇呂の前職はコンビニだったが、自ら率先して客に声をかけようと思ったことがない。言われたことただ機械的にやるだけだ。
パン一つ売れたところで給料は変わらない。それなのに自分が好きだからという理由で、客に勧められる可世木のコミュ力に圧倒された。
(きっとたくさんの愛情を受けてまっすぐ育った人なんだろうな)
自分の意見を否定されない家庭環境だったのだろう。愛情という名の水で、つくしのようにすくすく育ったのが手の取るようにわかる。
枇呂はスマートフォンをぎゅっと握り、痛みに耐えた。
「決まったか? てか、パンだけかよ」
「すいません」
「へぇ〜新作カレーパン。美味そうじゃん」
「店員さんに勧めてもらいました」
「なら絶対美味いやつじゃん。俺もそれにしよう」
三波は棚に並んでいるカレーパンをがしっと掴み、カゴに放り投げた。
「それだけじゃ足りねえだろ。おまえ、案外食うし」
三波の言葉にむうと唇を尖らせる。
「いつ家を失ってもいいように無理やり詰め込んでるんです」
「うちが燃えてなくなるような言い方はやめろ」
「いや、そうじゃなくて」
三波にいつ追い出されるか、という意味で言ったのだが伝わらなかったのだろうか。
じっと見つめていると三波は「ん?」と首を傾げた。
「……なんでもないです」
「ほら、他にも買っけよ。飲みものとおやつも。三百円までな」
「遠足じゃないんですよ」
枇呂がツッコむと三波は目尻を下げた。
車に戻り、早めの夕食をとった。可世木のおすすめ通りカレーパンは美味しく、三波は「絶対にまた買う」と喜んでいる。
交互に仮眠をとり、時刻は夜の九時を回った。
「そろそろだな」
三波とアパートへ向かい、事前に決めていた場所で張り込んだ。
三波はアパート近くの電信柱、枇呂はアパートとは反対側にある戸建ての影に隠れるように潜んでいる。
(張り込みなんて初めてだからドキドキする)
コンクリート壁に背中を預けると、まだ日中の暑さを残した熱を感じる。岩盤浴にいるようなじっとりとした汗が出てきた。
はやる胸を押さえ、枇呂は土手を睨みつける。
失敗は許されない。大事なのは相手に姿を見られないことだ、と三波が教えてくれた。
慌てず、騒がずにいればいい。この暗さだからそう顔はわかりやしないはず。
枇呂が何度も念じているとイヤホンが「ジジッ」と音を出した。
『緊張してるか』
「デビュー戦で緊張しない選手はいません」
『そんだけ喋れるなら大丈夫だな』
「なんですか、それ」
三波が声も出さずに笑っている姿が浮かんだ。なんだか玩具のように揶揄われているような気がする。
九時半を回ると瀧が帰って来た。枇呂たちが張り込んでいるのは知っている。見かけても気づかないふりをしておくように頼んでいるので、彼女は淡々とアパートに入って行った。
耳に付けたイヤホンがガガっと音がした。
『気を抜くなよ』
「はい」
そのまま息を潜め、枇呂は土手の方に視線を向けた。
十時近くになるとまばらにいた人がぱたりとなくなる。車も通らないので川の流れる音だけが聞こえた。
だからがさり、と砂利を踏む音は嫌でも響く。
『来たぞ』
街灯が届かない土手なので人影がうっすらと浮かんでいるのが目視できた。だが性別までは判断できない。
背丈からして男だろうか。けれど背の高い女という可能性もある。女が女をストーカーする事例は少ないものの、可能性は否定できない。
ストーカーはじっとアパートを見上げた。その視線が瀧の部屋である二階の角部屋に向けられているようにも見える。
だが暗くてよくわからない。
ストーカーはなにをするでもなくその場に佇み、数分もしたら歩き出した。気が済んだらしい。
『追うぞ。充分距離をとれ』
「はい」
ストーカーは坂を上り、車道側に出てきた。どうやら駅方面へと向かっているようだ。
街灯の明かりでようやく姿を認識できる。黒いTシャツを着た男のようで、背は一七〇センチぐらいだろう。年齢は二十代から三十代というところか。
枇呂は五十メートルほど距離をあけ、足音をたてないよう慎重に男をつける。
(このぐらいの距離ならいけるかもしれない)
枇呂は首に下げたままのスマートフォンを男に向け、シャッターボタンを押した。
ズームを限界まで伸ばしたので画像は荒い。けれど男の全身を捉えているので、文字が浮かんできた。
《また瀧さん、出てこなかった》
やはり瀧をストーカーしていたのだ、と確信が得られ足取りに力が入る。
男は駅を通り過ぎて西口へと向かった。このエリアはファミリー向けなのか戸建てが目立つ。どれも築年数はありそうな家ばかりで、昔から住んでいるのかもしれない。
男は慣れた様子で右に左と曲がり、ようやく一軒家に入った。どうやら自宅に着いたらしい。
男が家に入ってからしっかり六十秒数え、枇呂と三波は門の前で落ち合った。
「ここがストーカーの家か」
「結構普通ですね」
広い庭がある立派な戸建てだ。駐車場に車はないが、自転車の数が多い。大人用が四台に子ども用二台に色褪せた三輪車もある。かなり大家族のようだ。
壁にかかっている表札を見て、枇呂は言葉を失った。
「可世木……」
コンビニで新作カレーパンを勧めてくれた男の顔が浮かんだ。
ストーカーの名前は可世木孝則、二十二歳。都内の大学に通う四年生だ。アルバイト先は駅前のコンビニ。高校生から働いているので六年目になるベテランだ。
四人兄弟の長男で、父親は保険の営業、母親は近所のスーパーでレジ打ちのパート、可世木の下には中学生と小学生の弟妹がいる。
家族仲はかなりいいようで、二年に一度海外旅行に出かけ、年に一度は有名なテーマパークに行くのが恒例らしい。
たった一晩でこれだけのことを調べあげた三波に枇呂は舌を巻いた。
可世木についてまとめてある書類から視線をあげると、事務所のソファに座る三波はコーヒーを啜っていた。だが目の下には酷いくまができている。
昨晩、事務所に戻ってから三波は仮眠も取らずに調べていたらしい。一体どんなコネを使ったのだ。
三波は髭が生え始めた顎をそっと撫でた。
「まだ犯人って確定ってわけじゃねぇけど、念のためな。頭にいれとけ」
「可世木さんがストーカーだと思います」
「根拠は?」
カップから立ち上る湯気の隙間から三波の鋭い眼光を向けられる。枇呂はごくんと唾を飲み込んでから口を開いた。
「依頼主の証言と同じ行動をしています。それに二人は同じアルバイトで面識もある。ここで違うと考えるのは難しいかと」
「なるほどな」
本当は写真を撮って「ホンネ」を見たからだとは言えない。
でも可世木が土手にいたのは事実だ。それは三波も目撃している。
だがなんとなく釈然としない。
枇呂にカレーパンを勧めてくれた可世木は好青年だった。愛されてきた人特有の穏やかなオーラがある。
ストーカーという粘着質なことをやるようには見えない。
(でも表面上はいい人に見られるように取り繕っているのかもしれない)
人は笑顔で平然と嘘を吐く。何度も見てきたことではないか。
この世に嘘が根絶しない限り、人の「ホンネ」はわかりやしない。
三波は大きな欠伸を一つこぼした。涙が浮かんだ目尻を猫のように擦っている。
「とりあえず今日も夜出かけるぞ」
「はい」
「昼に別件あるから俺はそれまで寝る。あと片付けておいて」
「わかりました」
三波は覚束ない足取りで自室へ向かった。よほど疲れているのだろう。
残された枇呂は、カップを洗いにキッチンへ行く。
先日ようやくシンクを磨き上げ、あとはコンロの焦げを落とせば料理ができる。キッチンは長年のカビや焦げで酷い状態だった。枇呂が毎日少しずつ掃除をしたお陰でピカピカに生まれ変わっている。
三波事務所に来た次の日から、枇呂はこの事務所兼自宅の掃除を一切引き受けた。
事務所が小綺麗だったので楽勝だと思っていたが、風呂場は赤カビだらけ、便器は黒ずみ、異臭を放っていた。
しかもこの事務所には、掃除用具や洗剤の類が一切ない。事務所のきれいさが嘘のような酷さだった。
事務所は毎日のように依頼者が来るので三波はマメに掃除をしていたらしい。だがそれも着られなくなったシャツを雑巾にして拭いていただけと聞いて、枇呂は目を回した。
三波はかなりだらしがない人らしい。
まず枇呂は掃除用具や洗剤を集めることから始まり、毎日使うトイレ、風呂を最優先に掃除し、ようやくキッチンにまで手を伸ばせたのだ。
(この調子なら昼ごはんは作れるかもしれない)
枇呂はゴム手袋をはめて、コンロの焦げつきと対峙した。
夜の七時過ぎに三波の運転で、昨日と同じパーキングに停めた。
三波は運転席を下りるとうんと背筋を伸ばしているのを枇呂はぼんやりと見上げた。
「コンビニ寄るか」
「食事足りませんでしたか?」
早めの夕飯に枇呂はハンバーグを作り、三波は大喜びで食べてくれた。久しぶりに料理をしたが、腕は鈍っていなかったらしく、三波は「美味い!」と言いながらおかわりもしてくれた。
「ちげぇよ。可世木の動向を探る。人づてに聞くのと自分の目で見るのでは違った印象になるだろ」
「でも危険じゃないですか?」
「誰も俺たちが探偵だって思わねぇよ」
「そういうもんですか?」
「普通の恰好して、普通にコンビニ入ってる奴を一人一人疑ってたらキリがねぇだろ」
「わかりました」
それも一理あるな、と理解して枇呂たちはコンビニまで歩いた。
夜の八時前ともなると帰宅ピークが過ぎたのか、駅前には人がポツポツとしかいない。
ガラス窓から覗いたコンビニも閑散としている。
三波は親指でコンビニの自動ドアをさした。
「最初におまえが入れ。俺はあとから行く。目、合わせるなよ」
「はい」
緊張感が顔に出てしまったのか三波に両頬を引っ張られた。
「そんな顔してたらなにかあるって思われるだろ。防犯カメラもあるんだから、普通にしてりゃいいんだよ」
「普通ってなんですか」
「あ~そこからかよ」
三波は面倒そうに後頭部を掻いた。
「水でも買ってこい。それならできるだろ?」
子どもにおつかいを頼む母親のようなやさしい言い方に強張っていた枇呂の身体の力が抜けた。
「はい。わかりました」
「行ってこい」
背中をとんと押され、枇呂は店内に足を踏み入れた。
外から覗いた通り、やはり客はいないようだ。人の気配がなく、店内に流れる音楽が虚しさを助長させる。
枇呂はまっすぐと進み、一番奥にある冷蔵庫から水のペットボトルを手に取った。
振り返るとパン棚のところに今日も可世木の姿がある。賞味期限を確認しているのか棚に戻したりコンテナに入れたりをしていた。
他の従業員はバックヤードにいるのか見当たらない。
枇呂は商品棚に隠れて、そっとシャッターボタンを押した。
《これ美味しいのに破棄か。もったいないな》
写真に浮かぶ文字に落胆した。仕事中なのだから瀧のことを考えているはずもない。
(でもチャンスだ)
枇呂は勇み足でパン棚に向かうと「いらっしゃいませ」と可世木は顔をあげた。
「あ、この前の! カレーパン、美味しかったですか?」
どうやら枇呂のことを覚えていたらしい。
ひまわりのような笑顔に気後れしてしまい、枇呂の頰は糸で引っ張られたような笑みを浮かべた。
「はい。すごく美味しかったです」
「じゃあ今夜も買いに来てくれたんですか?」
「えっと……はい」
「よかった。ラスト一個なんですよ。お客さん、ラッキーですね」
「ありがとうございます」
カレーパンを受け取ると可世木は立ち上がった。
「お会計されますか?」
「お願いします」
「はーい、ではこちらどうぞ」
可世木は愛想よくレジまで案内してくれ、慣れた様子でペットボトルとカレーパンの袋をスキャナーに通した。
「二点で三百六十円です」
「あ、財布……すいません」
枇呂がわたわたとポケットを探っているとちょうど三波が店に入ってきた。ばっちり目が合ってしまったが、彼はスルーを決め込み店の奥へと歩いていく。
(変なことするなって言われてたのにどうしよう)
動揺からか財布のチャックを勢いよく開けてしまい、小銭が湧き水のように噴き出した。じゃらじゃらとリノリウムの床に落ちる。
「す、すいません」
「大丈夫ですよ。拾いますね」
可世木は枇呂より先に小銭を拾ってくれた。嫌な顔一つしないのは接客のプロだからだろうか。
枇呂は小銭を拾うふりをして、シャッターボタンを押した。
《結構小銭多いな。全部拾えるといいんだけど》
心の中でも文句一つ言わないらしい。可世木はどれだけ聖人君子なのだ。
ぼんやりしている間に可世木に全部拾ってもらい、枇呂は「すいません」ともう一度頭を下げた。
「僕もよくやっちゃうんですよ。焦っちゃいますよね」
「あの、本当に……すいません」
「気にしないでください。今度僕が落としてたら拾ってくださいね」
可世木は白い歯を覗かせて、手際よく商品にシールを貼った。枇呂が支払いをしていると、バックヤードからエプロンを付けた金髪の男がドタドタとやって来る。
「可世木さん、すいません! 遅くなっちゃって」
「予定ないから大丈夫だよ」
「いや〜本当可世木さんがいてくれて助かります。でももうすぐ辞めちゃうんですよね?」
「就活に本腰いれないとだから。内定決まったら卒業までまた働くよ」
「可世木さんがいないと瀧ちゃんが寂しがっちゃいますもんね!」
「……いま接客中だから、パンの賞味期限チェックやってくれる?」
「はい!」
可世木に促され、金髪の子は枇呂にお辞儀をしてからパン棚に向かった。どうやら可世木は他の従業員にかなり慕われているらしい。
(でも依頼人の名前が出てきたとき変な感じがしたな)
枇呂は再びシャッターボタンを押す。
可世木は金髪の子がきちんと仕事をしているのか目線で確認し、枇呂に頭を下げた。
「すいません、騒がしくって」
「お店辞めちゃうんですか?」
「はい。就活しないといけなくて。でも今月中はいるので、また来てください」
「はい」
パンとペットボットルをトートバックに入れ、枇呂は店を出てからスマートフォンをチェックした。
《瀧さんに振り回されて疲れた。このまま飽きてくれたらいいんだけど》
瀧に振り回されているとはどういうことだ。
可世木の言い方では、彼のほうが被害者のようではないか。
スマートフォンを見ていると肩をがしっと掴まれた。振り返ると般若のような顔をした三波が立っている。
そのまま店から見えないところまでズルズルと引っ張られた。
「おまえ、なにもするなって指示しただろ!」
「向こうから声をかけてきたんです」
「顔を覚えられるって探偵にとっちゃ一番マズイんだよ! おまえ、仕事舐めてんの?」
あまりの言いがかりに枇呂の中でぷつんと糸が切れた。
「じゃあ声かられたとき、どうすればよかったんですか?」
「適当に相槌打ってりゃいいんだよ。依頼主の名前まで出して」
「それはあっちのバイトの子が言ってきたんです!」
「じゃあ会話したことは百歩譲ってやる。でもまた写真撮っただろ? 盗撮は犯罪だって何度言えば理解できんだよ」
「……っ、それは」
枇呂はぐっと唇を噛みしめた。言ったって信じてもらえるわけがない。でもこのまま嘘を吐き通すことは自分の理念に反する。
枇呂は覚悟を決めた。
「……「ホンネ」を知るためです」
「は?」
三波の眉間の皺が深くなる。枇呂の言葉の意味がわからず、困惑しているのだろう。
(これでダメなら新しい仕事を探すまでだ)
枇呂は唇を湿らせた。
「おれは写真で撮った人の「ホンネ」を知ることができます」
「なにその冗談」
「冗談ではありません」
枇呂は先程撮ったばかりの可世木の写真を見せた。
そこには商品をスキャナーで読み込んでいる可世木が映っている。
「これ、可世木さんがなにを考えているかわかりますか?」
「わかるわけねぇじゃん」
「おれにはわかります」
枇呂の目には一語一句はっきりと映っている。
「《瀧さんに振り回されて疲れた。このまま飽きてくれたらいいんだけど》」
頰を叩かれたように三波は目を開いた。枇呂の能力もだが、可世木の「ホンネ」にも驚いたのかもしれない。
三波はもう一度画面を見て、顎に手を置いた。
「それが可世木の「ホンネ」か」
「はい。だから可世木さんはストーカーじゃありません」
「わかった。その線で今日は調べてみるか」
「……信じてくれるんですか?」
三波の納得した様子に枇呂の声が裏っかえりそうになった。
いままで枇呂の能力を信じてもらえたことがない。気味が悪いと弾かれて、ずっと孤独と隣り合わせの生活だったのだ。
それなのに、出会って数日の三波は信じてくれるというのだろうか。
じっとみつめていると三波は後頭部を掻いた。
「どんだけ俺が注意しても、おまえは懲りずに写真撮ってたからなにかあるんだろうと思ってたよ。「ホンネ」がわかるなら、それに頼っちまうな」
それから三波は一度、言葉を区切った。
「信じるよ」
「本当に?」
「信じる。まぁこの状況からみて、おまえが嘘吐くメリットもないし」
なんだ、そっちかと呆れてしまった。枇呂自身を信じてくれたのではなく、状況的に嘘を言っても仕方がない場面だからということなのだろう。
三波は肩越しに振り返った。サラリーマンが一人、コンビニに入っていく。
「それに依頼人のことは調べてて、俺も疑問に思ってたからな」
「依頼人のことも調べるんですか?」
「当然」
三波は悪役みたいな意地の悪い笑みを浮かべた。
教えてもらえなかった疎外感はあるものの、三波の立場なら仕方がない。あれこれと情報を漏らして、どこから話が広まってしまうか、わからないからだ。
でも枇呂に話してくれたということは、僅かでも三波の信頼を勝ち取った証拠なのだろうか。
なら、それに応えたい。
「いい考えがあります」
枇呂の提案に三波の目が刀の切っ先のように鋭くなった。
瀧のアパートへ向かい、枇呂と三波は以前と同じ持ち場で身を潜めた。時刻は夜の十時を過ぎる。二十分ほど前に瀧が帰って来たのは確認済みだ。
しばらく土手の方を睨みつけていると人影がぬらりと現れ、じっとアパートを見上げている。
(きた……っ!)
枇呂は電信柱に背中を預け、腕だけ伸ばして写真を数枚撮った。
《今日も来ない……一体彼女はなにがしたいのだろう》
《瀧さん、なにしてるのかな》
《もうこれで最後にしよう》
確定だ。
「確認取れました」
『よし』
枇呂がマイクで伝えると三波はゆったりとした動作で可世木に近づいた。
「可世木、孝則さんですよね?」
「そうですけど」
静かな住宅街は二人の声がよく通る。可世木は警戒した様子で、三波を見上げていた。
「あなたにストーカーの容疑がかけられています。署までご同行願いますか?」
「僕が……!? なんで!」
「この半月ほどここに通っていますよね? 通報があったんです」
「違います! 僕は彼女に呼び出されているだけで……」
「詳しいことは署で聞きますから」
「僕はなにもやっていない!」
可世木の悲痛な叫びに三波の動きが止まった。一体どうしたのだろう。
遠いので三波の表情がわからない。
枇呂はスマートフォンを掲げた。
ーー『俺のことは撮るなよ』
三波の言葉が蘇り、枇呂はスマートフォンを下ろした。
「ちょっと、待ってください!」
女性の叫び声に枇呂は振り返った。アパートから瀧が出てきて、土手を転がるようにくだっている。枇呂も慌ててついて行った。
土手の草むらに可世木の手首を掴んだ三波、そして肩で息をしている瀧と枇呂の四人が集まる。
だが警官だと思っていた瀧は三波の顔を見て、言葉が出ないようだ。
枇呂はすかさず瀧の写真を撮る。
《どうして探偵さんが……? 私の、計画が……》
瀧の悲壮感を滲んだ表情が画面に残る。
間違いない、と枇呂は三波と視線を合わせて顎を引いた。
三波は眼光を鋭くさせて、瀧と向き合う。
「ストーカーなんて最初からなかったんですよね?」
「なっ……意味がわかりません」
「可世木さんを騙していたんじゃないですか」
三波の言葉に瀧は右上に視線を向け、乱れた前髪をかきあげた。ぐちゃぐちゃだった髪がまっすぐ艶を取り戻す。
その一瞬で冷静になったらしい瀧は、三波と対峙するように腕を組んだ。
「どうして可世木さんが被害者なんですか? 連日、家の前に来られて迷惑なんです」
「それは瀧さんが来いって言うから」
「証拠はあります?」
瀧に詰め寄られた可世木は唾を飲んだ。どうやらメッセージでやりとりしていたわけではないらしい。
バイト帰りに口頭で瀧の家に来るように頼んでいたのだろう。そしてストーカーされているとでっちあげようとした。
でも警察は被害がないと動けない。
それで瀧は三波探偵事務所にまで赴き、ストーカーの犯人を突き止めてもらい、犯人となった可世木を陥れるつもりだったのだ。
二人の間に三波が入った。
「瀧さんをストーカーしているのが可世木さんだとすぐわかりました。でもいくら調べても彼は善良な人だ。誰からも悪口一つ出ない」
三波の眼光が瀧に照準を合わせる。
「でも瀧さん、あなたは叩けば叩くほど埃が出てくる。バイト先からの評判も悪く、職を転々としているそうですね」
「そんなことない!」
「証拠があるんですよ」
三波はクリアファイルを瀧の目の前にかざした。A4サイズの書類には瀧のいままで働いた悪事が時系列ごとに綴られている。
未成年飲酒や喫煙、万引きやゆすりなどこの世の悪がつまったようなことばかり書かれていた。
それを読んだ瀧の顔面は色をなくしたように白くなる。
「これを警察に突き出してもいいですよ。証拠は揃ってます」
三波の目には自信が溢れていた。彼が今日まで地道に調べてきた嘘偽りない事実が、背中を支えているのだろう。
可世木はようやく口を開いた。
「僕をストーカーに仕立ててどうするつもりだったの?」
やさしく問われた瀧の肩がびくりと跳ねる。両肩を抱き、細かく震えていた。
枇呂はその様子を写真に撮った。
「《可世木さんをストーカーに仕立てて、捕まりそうになったら私が庇って好きになってもらおうと思ってたのに》」
枇呂の言葉に瀧は目の際がわかるほど大きく広げた。
三波は頷く。
「なるほど、ストーカーを庇い、ピンチを助けたヒーローのように好きになってもらおうとしたんですか」
三波が呆れると可世木は同情するように眉を寄せた。
一歩間違えば犯罪者として捕まっていたかもしれないのに、彼は心の底から瀧を憎めないらしい。
「瀧さん、本当なの?」
「私……そんなつもりじゃ……ただ、可世木さんに辞めて欲しくなくて」
大きな目にいっぱいの涙を溜める瀧は子どもみたいにわんわんと泣き出した。その声だけが無情に響き、誰もなにも言えなかった。
後日、三波と瀧、可世木とそれぞれの両親で話し合いをした。実害がなかったこととお互い学生なため事を大きくしたくないという点が一致し、示談で済んだ。
瀧にはもう二度と可世木に関わらないと念書を書かせ、コンビニのアルバイトも辞めさせた。
一件落着し、これで日常に戻ると枇呂は思っていたが
「あーまたタダ働きじゃんかよ」
カウチの背もたれに頭を乗せた三波は天井に向かって大きな溜息を吐いた。
知らなかったとはいえ、瀧の犯罪の加担をしかけたため、三波は自害の意味を込めて依頼料を受け取らなかったのだ。
大きな案件が二回連続で飛んでしまい、さすがの三波も頭を抱えている。
お金が入らなければ生活できない。それは痛いほど枇呂もわかっている。
(慰めるべきだろうけど、なんて言えばいいんだろう)
三波の「ホンネ」を覗けないので、最適な言葉がわからない。
長年、答えを見ながら他者とコミュニケーションをとってきた枇呂は、目の前にいる男が未知の生物のように思えた。
「コーヒーどうぞ」
枇呂がアイスコーヒーを淹れてテーブルに置くと、三波がやっとこちらに顔を向けた。
「さっきからずっとコーヒーばっか淹れてんじゃん。もう腹タプタプなんだけど」
「どうすればいいのかわからなくて」
「ん?」
「依頼料が貰えないと生活できないですもんね。それはわかります。だから、えっと……」
「俺を慰めようとしてんのか」
「……の、つもりです」
出しゃばり過ぎただろうか。お盆で口元を隠し、枇呂はちらっと三波の様子を窺った。
三波は目元を少しだけ緩めている。
「いや、それでいいよ」
不器用な笑顔を初めて見た。
(他はどんな表情をするのかな)
もっと他の顔を知りたくてじっと見つめていると三波はグラスを手に取り、表面に浮いた水滴をなぞった。カラリと氷が鳴る。
「相手の「ホンネ」を知れなくて不安か」
「えっ……あ、はい」
「なら考えろ。よく観察しろ。おまえには頭と目があるんだから」
「考えてもわからなかったら?」
「訊いてみるんだな」
「それで相手を怒らせてしまったら?」
「おまえ、いままでどんな失礼なことしてきたんだよ」
三波はがっくりと肩を落とした。でもすぐに起き上がり、まっすぐに枇呂を見据える。
「もっと注意深く見るんだよ。結構人間ってのは感情が表に出やすい」
そうだな、と三波はアイスコーヒーを一口飲み、テーブルに戻した。
「右上を見ているときは嘘を吐いてることが多いな。瀧がいい例だったろ」
「言われてみればそうでしたね」
瀧は不自然なくらい右上に何度も視線を向けていた。写真にも残っている。
「あとは目が笑ってないのに口元が歪んでると気使ってるのがわかる」
「よく見てるんですね」
「みんなそうして相手の気持ちを考えてるんだよ。おまえがいままでおざなりすぎなんだ」
楽をしている自覚はあった。枇呂にとって会話は結末を知っている映画を観るようなもので、そこに至るまでのプロセスを考えたことがない。
だからみんなが通る「当たり前」をこうして丁寧に教えてくれる三波はやさしいのだとわかる。
随分と口は悪いが、言ってくれていることは正しい。
でも一つどうしても引っかかる。
「どうしておれの能力を信じてくれるんですか?」
「あの状況で嘘吐いても仕方がないだろ」
「それは前に聞きました」
もっとなにか三波の心を動かすことがあったのではないか。
枇呂はじっと三波を見た。瞬きもせず、呼吸もせず、ただ獲物の動向を探る肉食獣のように。
観念したのか三波が小さく息を吐いた。
「昔の俺に似てるから、かな」
「どういう意味ですか?」
「さあな」
三波はまたアイスコーヒーを啜った。その表情からはなにも読み取れない。
「ホンネ」を何重ものベールで包んでいるように色も形も把握させてもらえなかった。
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