3 / 4
第3話
夏が過ぎて秋の気配を感じる九月下旬になると、からっとした風が事務所の中に入る。机の上の書類がパタパタとはためき、枇呂は慌てて窓を閉めた。
掃除機をかけたので空気の入れ替えをしたかったが、今日は風が強いらしい。雲が短距離走の選手のようなスピードで流れている。
枇呂が三波探偵事務所で働き始め、一ヶ月が過ぎた。お陰で仕事にだいぶ慣れてきている。といってもほとんど家事などの雑用ばかりで、たまに三波のサポートをする程度だ。
それでもしっかり給料をもらえ、家賃、電気、ガス、水道、食費諸々の諸経費も三分の一程度引き落とされるだけで済んでいる。
もっと払うと三波に申し立てたが「経費で落とせるんだよ」と受け取ってくれなかった。
こんな高待遇でいいのだろうか。朝、目が覚めたときに今日までの日がすべて夢だと言われても納得してしまいそうだ。
それほどまでに現状がいままでの人生とかけ離れている。
バラバラになった書類をまとめていると、自室から三波が事務所に入ってきた。
「そろそろ依頼人が来るな」
三波は珍しくシャツにスラックスときちんとした服装をしている。黒い髪もクシを通したのか艶が帯びていた。
いつも白シャツにデニムという風来坊な三波が珍しい。自分の容姿にかこつけて、彼は服装や髪型に一切のこだわりがなかった。
きちんと整えるとモデルのような男だ。枇呂の視線は釘付けになってしまう。
じっと凝視していると三波は片眉を跳ねさせた。
「んだよ」
「今日はどうしていつもと違うんですか?」
「依頼人が少しお年を召してるからな。信用は大事だろ?」
「はぁ」
「いつも俺がだらしがないと思ったら大間違いだからな。TPOくらい弁えてる」
「だらしがない自覚があったんですね」
三波は風呂から出ればパンツ一丁で過ごすし、シャツは考えるのが面倒だからと同じ色柄を三枚持っていたりする。
それに脱ぎっぱなし、出しっぱなしは当たり前で、洗っていない靴下を履いても平気なタイプだ。
「忍野も嫌味を言うようになったんだな」
「事実を言っただけです」
「そういうのを嫌味って言うんだよ」
三波は口角をわずかに上げた。相変わらず悪役のような笑みだが、これが彼の素の顔なのだろう。
三波が依頼人と対面するとき、張りつけたような笑顔になる。口角は上がっているのに目は笑っていない。
毎日観察しているお陰か枇呂でも違いがわかるようになってきた。
十二時ちょうどにインターホンが鳴り、三波は扉を開けて依頼人を招き入れた。
「この度はお忙しいなか、お時間をとってくださりありがとうございます」
上がり框で和服の女性が丁寧なお辞儀をした。白髪を後ろで一つにまとめ、目を細めると笑い皺ができる。鶯色の着物の裾には牡丹が描かれていた。夏物の着物だろうが、この暑さで堪えるはずなのに汗一つかいていない。
枇呂は事前に三波から教えてもらったプロフィールを頭に思い浮かべた。
小野寺紗英、六十五歳、武家出身のいまどき珍しい生粋のお嬢様だ。同い年の夫が保険会社に勤めている。
だが依頼内容は直接会ってからということなので、まだ詳細は知らない。
三波がにっと笑顔を浮かべた。
「暑い中、ご足労ありがとうございます。着物とてもお似合いですね」
「主人がプレゼントしてくれたものなんです」
三波がさらりと褒めると紗英はどこか寂しげに笑い、目を伏せた。
三波と紗英がソファに座るタイミングで枇呂は近寄った。
「アイスコーヒー、緑茶、麦茶、あと紅茶もあります。なににされますか?」
「ではアイスコーヒーをお願いします」
紗英は枇呂にも微笑みかけてくれた。とても礼儀正しくて、素敵な女性だ。
枇呂が台所でお茶を準備している間に二人の会話に耳をすませた。
三波は口火を切る。
「で、どのようなご要件でしょう? 直接お話したいとのことでしたが……」
「主人を助けて欲しいのです」
「詳しくお願いできますか?」
「……主人が痴漢の現行犯で捕まりました。もちろん無実です。主人は真面目を絵に描いたような人で、そんなこと絶対にしません」
興奮を抑えるように紗英は一度言葉を区切り、呼吸を整えた。
「でも取り調べのとき、なにを言っても言葉尻を取られて、悪いように調書を書かれてしまうそうです。どんどん追い詰められ、主人は精神的に参っています」
「……警察は一刻も早く事件を解決したいですから、強引な調書をつくるのも無理はないですね」
「どうか主人の無実の証拠を集めてくださいませんか?」
切実な紗英の声は枇呂の胸に痛みをもたらした。きっと仲の良いご夫婦だったのだろう。愛する旦那が免罪で捕まったら黙っていられるはずがない。
だが三波の声音は冷静だ。
「それは弁護士の仕事ではないでしょうか?」
「もちろん弁護士さんにも頼んでいますが、痴漢を目撃した人がいるのです。だから難しいようで……お願いします。絶対に主人は痴漢なんてしてないんです」
声を震わせる紗英に、三波は言葉がでないようだ。
知識がない枇呂でもわかる。目撃者がいる状況を覆すのは難しい。
それに痴漢は現行犯で捕まれば、ほぼ確実に処分されるものだとテレビで観たことがある。
例え免罪だとしても覆すのはかなりの労力がいるのだ。
「申し訳ありませんが、うちではどうすることもできません」
「……わかりました。お時間を取らせてしまって申し訳ありません」
紗英が立ち上がる気配を察知し、枇呂は慌てて事務所に戻った。
だがすでに紗英の姿はない。苦虫を噛み潰したような三波がカウチに座ったままだ。
「依頼、受けないんですか?」
「目撃者がいるなら難しいだろ。弁護士も手を焼いている案件を俺がどうすることもできない」
三波の表情は夜の闇がまとわりついているように暗い。なんとなく違和感があった。
どんな依頼も三波は受けてきた。ペットの捜索から人探し、依頼主を尾行して欲しいという珍しい案件まで三波は手広くやってきている。
常に依頼主の悩みに寄り添っていた。
だから痴漢の免罪、という心痛むケースを三波が放っておくのが不自然に映る。
それとも紗英との会話の中で、なにか違和感に気づいたのだろうか。
枇呂はじっと三波を見るが心の内まで探れない。彼の動向を観察してもやはり未熟者の枇呂にはわからなかった。
でもなんとなく違う、という違和感が小骨のように喉に突き刺さって気持ちが悪い。
「ちょっと出てきます!」
枇呂は三波の返事も待たず、外に飛び出した。
(まだそう遠くへは行っていないはずだ)
駅に向かってひた走っていると鶯色の着物が目に入った。
枇呂はすかさずシャッターボタンを押す。
《ここにも断られてしまった。どうしよう、もうあまり時間がないのに》
紗英の「ホンネ」は旦那を心配するものばかりだ。ぐっとこぶしを握り、枇呂はスピードを上げた。
「あの……っ!」
勢いのまま紗英の前に飛び出したのはいいものの、言葉が出てこない。止まった瞬間、汗がぶわりと噴き出してくる。
枇呂は探偵としてのノウハウも、コミュニケーション能力もない。それなのに力になると言って期待させて、なにもできずに紗英を傷つけたらどう責任をとる?
それでも、なにかしたい。
枇呂は弾む息を抑え、深く息を吐いた。
「お、おれが受けます!」
「……あなたはさっきの」
「忍野枇呂と言います。三波さんの補助をさせてもらっています……お話を聞いてどうしてもなにかしたくて」
枇呂はじっと紗英を見下ろした。
「でもおれは三波さんのようになんでもできるわけじゃない。それでもいいですか?」
なんて情けないんだ。力がないくせに出しゃばるなんてと思われるかもしれない。
だが紗英は目尻の皺を深くさせた。
「嬉しい。あなたのような方は初めてよ」
紗英の花が咲いたような笑顔にこれでよかったのだ、と太鼓判を押されたような気がした。
近くの喫茶店に枇呂と紗英は移動した。昼時を過ぎていたのですぐに席に案内してもらえ、アイスコーヒーを二つ頼んだ。
「そういえばさっき飲みそびれちゃいましたね」
「そうですね」
「せっかく用意してくださったのにごめんなさい」
紗英は孫ほど年の離れている枇呂に丁寧にお辞儀をしてくれた。まさか頭を下げられると思わず、枇呂もテーブルに額を擦りつける勢いでお辞儀をすると紗英はクスクスと笑ってくれる。
(いい人なんだろうな)
枇呂はジーパンに手のひらをこすりつけ、居住まいを正した。
「詳しいお話をお聞かせ願いますか」
枇呂が水を向けると途端に紗英の表情が翳る。はやる心臓を宥めるように紗英は襟元をぎゅっと握った。
「九月二日のことです。主人は通勤のため満員電車に乗っていました。主人は昔から乗る車両は決めていて、その日もいつものように乗っていたそうです」
紗英は眉間に皺を刻ませて数秒ほど黙った。
「もうすぐ駅に着くというタイミングで、前にいた女子高生が振り返り突然、「痴漢です!」と叫んだそうです。近くにいた女子高生も「この人がした!」と旦那を指さし、居合わせたサラリーマンの方たちに押さえられ、無理やり降ろされたそうです」
「そんな……」
複数の男たちに囲まれて、いわれのない罪を呼ばれ、紗英の夫は怖かったに違いない。
誰もが紗英の夫がやったと疑わなかったのだろう。
「そのまま駅長室に連れて行かれ、警察も呼ばれました。被害者と目撃者の証言もあり、主人はその場で逮捕され、いまは留置場にいます」
言葉を詰まらせた紗英の目尻には涙が浮かんでいる。枇呂がオロオロと備えつけのペーパーナプキンを渡すと紗英は微笑んだ。
「忍野さんはとてもやさしい人ね」
「……そんなことありません」
「こんなこと簡単にできることじゃないわ」
紗英はペーパーナフキンを顔の高さに掲げた。いままで褒められることがなかったので、どういう反応を返せばいいのかわからない。
枇呂がテーブルの木目に視線を落とすと暗い影が入った。
「探したぞ」
「……三波さん」
顔を上げると汗でぐっしょりと濡れた三波が立っていた。走り回って探していたのか、肩で息をしいる。
三波と目が合うと眦を吊り上げられた。
「勝手なことをするな」
「で、でも」
「でももだってもなしだ! 帰るぞ!!」
三波に腕を引っ張られ、枇呂はなすすべもなく立ち上がらされた。
「うちではなにもできないです。失礼します」
紗英に深々とお辞儀をした三波はリードを引く飼い主のように枇呂の腕を引っ張って店を出て行こうとする。足裏に力を入れて踏ん張るが、枇呂の力では太刀打ちできない。
だが掴まれた腕が震えていることに気づいた。
(どうしたんだろう)
三波の顔は前を向いてしまっているので表情がわからない。
怖がっているのか。それとも枇呂の勝手な行動に呆れて、怒りに震えているのだろうか。
枇呂が一歩踏み出すと反対の空いた手首を掴まれた。小さな紙を握らされる。
振り返ると紗英はいまにでも泣きだしそうな顔で枇呂たちを見送っていた。
「おまえ、莫迦なのか!」
三波は顔を真っ赤にさせて、唾を吐き散らした。その剣幕に枇呂の肩がびくりと跳ねる。
「こっちは依頼を断ってるんだ。金にもならないことをやるんじゃねぇよ!!」
三波の怒りは事務所に帰ってからも治まらず、室内をぐるぐると回っている。時々テーブルにぶつかると「くそっ!」と悪態を吐き、そのたびに枇呂の背筋がピンと伸びた。
枇呂は壁に背中を預け、ただじっと三波の怒りが小さくなるのを願うしかない。
(この感覚は久しぶりだ)
あの日、激高した父は家の食器を投げつけ、テーブルをひっくり返し、窓ガラスを割ったりと怪獣のように暴れていた。
父の逆鱗に触れないように、枇呂は息を潜めただ部屋の隅でじっとしていた。
怒り狂う三波の姿が父と重なる。
だが怒っているわりに三波の顔色は青白く、怯えているように見えた。
(なにを怖がっているのだろう)
ここで撮影すれば三波の「ホンネ」が一発でわかる。でもそれは違う。三波がやめろと言ったことをわざわざ好き好んでやりたくない。
『困ったら俺を探せ』
枇呂の能力を知った三波はやさしいけれど、少し痛みを伴う言葉をくれた。薔薇のように美しさの中に厳しさもある。
枇呂は三波の瞬きの回数がわかるくらいじっとみつめた。そうすれば三波の気持ちがわかるかもしれない。
枇呂と目が合うと三波ははっと我に返ったようだ。眉を寄せ、気まずそうに視線が揺れた。
「悪い……」
「気は済みましたか?」
「なんかおまえの言い方は腹立つんだよな。でも落ち着いたよ」
深呼吸を二度ほど繰り返した三波は気持ちを切り替えられたらしい。いつもの冷静さが戻ってきている。
獲物を狙う鷹のように三波の眼光が鋭くなった。
「で、さっきなに渡された?」
「……なにもないです」
「おまえ、嘘吐くの下手だな〜。ほらよっと」
三波に左腕を掴まれた反動で握っていたものがポロリと床に転がった。三波が先に拾い、ボールのようにくしゃくしゃになったペーパーナプキンを広げる。
そこには紗英の連絡先が書いてあった。
枇呂が腕を伸ばすと三波はひょいと身を翻す。
「返してください!」
「どうしてそこまで首を突っ込むんだ?」
「それは……」
いままで他人は枇呂に嘘を吐く悪人だと思っていた。
けれど紗英は違う。
言葉の端々や表情から旦那を信じているのが伝わる。人の機微に疎い枇呂でもわかるほど澄んだ清らかさだ。
枇呂は首から下げているスマートフォンを握った。
「小野寺さんを信じているからです」
「また撮ったのか?」
「いいえ。ただ話を聞いて、小野寺さんの愛情の深さを見たような気がしたんです。だから……」
バラバラな単語を繋ぎ合わせようと脳の歯車がものすごいスピードで回っていき、形をつくる。
枇呂はゆっくりと続けた。
「こんなおれでも力になりたいんです」
頭一つ分高い三波を見上げた。密度の濃い睫毛が大きく開かれ、黒曜石の瞳に自分の顔が映る。
三波は絶景を見たときのように息を飲んだ。
「……わかった」
紗英から託されたペーパナプキンをぽんと頭上に乗せられた。
「忍野がいてくれたら俺も違ったのかもな」
「どういう意味ですか?」
「なんでもねぇよ。じゃあ俺も本腰入れるわ」
「手伝ってくれるんですか?」
「しっかり依頼料取らないと、忍野はタダでやりそうだからな」
「うっ」
「慈善事業じゃねぇんだよ。そこは覚えとけ」
「はい」
三波も入ってくれるなら頼もしい。小野寺も喜んでくれるに違いない。
「三波さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
枇呂がお礼を言うと三波は歯に挟まった食べ物を取るような変な顔をしていた。
枇呂が電話口で依頼を受けることを伝えると紗英は大いに喜んでくれた。どこの探偵事務所にも断られ、藁にもすがる思いで三波の元にまで来てくれたらしい。
俄然、枇呂の気合も入る。
次の日、枇呂と三波は紗英と共に夫の伝次が拘留されている留置場へ三波の車で出向いた。
留置場は警察署の中にあり、刑務所のように独立した施設ではないらしい。
留置場にいられるのは最大二十三日と決められている。伝次は半月が過ぎようとしていた。このままでは最悪起訴されて前科がつくか、多額の保釈金を払って解放してもらうしか道がなくなる。
だがどちらを選んでも、伝次が罪を認めたということになってしまう。
それだけは阻止しなければならない。
頻繁に面会に来ている紗英は慣れた様子で受付を済ませ、待合室に三人で並んで座り、枇呂は視線を彷徨わせた。
待合室は病院のような白い壁とリノリウムの床で、くたびれたソファがあるだけだ。
室内の空気は緊張感に包まれ、一歩間違えばドアの向こうに押し込めるんだぞと言われている気がする。手のひらにじっとりと汗が浮かぶ。
同じように面会に来た家族らしい人と、弁護士なのかスーツをかっちり着ている人もどこか張りつめた顔をして、余計に落ち着かなくさせられる。
枇呂がそわそわとしていると三波に膝を叩かれた。
「子どもじゃないんだ。大人しくしてろ」
「静かにしてるじゃないですか」
「行動がうるせぇんだよ」
どういう意味だ。
枇呂が鼻白んでいると紗英は小さく笑った。
「慣れないと緊張しますよね。私も最初はそうでしたよ」
「ほら、紗英さんも言ってます」
心強い援護に枇呂が強気に出ると、分が悪いと思ったのか三波は口を閉じた。そういう彼も座ったときから貧乏揺すりをしている。
『二十五番でお待ちの方、三番にお入りください』
アナウンスがされて、枇呂たちは三番の扉を開けた。中仕切りの向こうには白髪に太い黒縁の眼鏡をかけた伝次がすでに座っている。真横には警察が会話を記録するために控えていた。
面会は二十分しかない。話す内容は事前に決めている。
紗英は挨拶もそこそこにパイプ椅子に座った。
「今日は探偵さんが来てくれたんですよ。あなたの無実を証明するためにお願いしたんです」
「そうか」
「だから諦めないで。気をしっかりもってください」
「わかっている」
伝次の声はパネル越しのせいか声に覇気がない。目の下には濃いクマができていた。何日も風呂に入っていないのか白髪は脂が浮かび、汗が発酵したすっぱい匂いがする。
留置場は刑務所と同様に規則正しく生活するように決められている。だが風呂は夏場でも週に二回程度で、食事は菓子パンのような総菜ばかりらしく、高齢者の伝次には堪えるようだ。
留置場に収容されている人は被疑者という立場で、裁判などで有罪と決まったわけではない。だからこれでも刑務所よりはマシな生活なのだと紗英が教えてくれた。
だがそんな過酷な状況下でありながら、伝次の意志は屈していない。目は鋭く枇呂たちを値踏みしている。本当に頼れるのか、とその瞳が訴えかけていた。
三波が名刺を取り出して、パネル越しに見せる。
「初めまして、三波探偵事務所の三波と申します」
三波はいつもの営業スマイルを浮かべた。その顔がわずかに青くなっているのが気になったが、壁が白いからそう見えたのかもしれない。
「助手の忍野です。よろしくお願いします」
枇呂が頭を下げた。
三波が続ける。
「事件の概要は奥様から訊いています。一つどうしても確認したいのですが、通勤電車はいつも同じ車両ということでしたが、扉も同じですか?」
「はい。五両目の前から三番目です。そこだと最寄り駅のエスカレーター前で停車するんです」
「わかりました。ありがとうございます」
三波の質問は終わり、待ちきれんばかりに紗英が身を乗り出した。
「お金、警察の方に預けておくからしっかり食べてね。宅下げはある?」
「着替えをいくつか預けている」
「わかった。洗濯して、今度持ってくるわね」
「すまない」
「これくらいしかできないもの」
紗英と伝次が目を合わせるだけで、二人がお互いを想い合っているのがわかる。まるでロミオとジュリエットのようだ。
「お時間です。退室をお願いします」
もうニ十分経ってしまったらしい、警察官に促されて枇呂たちは立ち上がった。
面会室を出る直前に枇呂が振り返ると伝次がちらりと三波を見て、難しい顔をしている。なにか不安があったのだろうか。
車で紗英の最寄り駅まで戻り、枇呂たちは近くのファミレスで腰を落ち着かせた。
三波はアイスコーヒーのグラスを傾けてから、書類に視線を落としている。
「被害者は旭高等学校の高校三年生。で、目撃者は同じく高三。だけど高校が違うから偶然居合わせたんでしょう」
「はい。あの路線には中学、高校、大学まで幅広く通りますから」
「都内にいくものですからね」
紗英の答えに三波は大きく頷いた。
「それにご主人はいつも乗る場所が決まっていた。俺も経験ありますが、通勤や通学のとき決まった車両に乗る人は多いです。だから現場を目撃した方はいると思いますよ」
「情報を募っていますが、誰も出してくださらなくて」
「無理もないです。目撃者がいる中で捕まってますからね。悪あがきだと思われても無理はありません」
伝次は現行犯で逮捕されている。目撃者の有力な証言があるため、それを覆すだけの証拠を揃えなければならない。
三波は細い顎に指をかけた。
「明日、ご主人がいつも乗っている電車を調べてみます。なにかわかったら、またご連絡しますね」
「ありがとうございます」
紗英はテーブルに額がつくほど頭を深く下げた。昨日はきれいにまとめられていた髪が乱れている。彼女の精神もかなりギリギリのところなのだろう。
顔を上げた紗英がくるりと枇呂に視線を向けた。
「枇呂さん、甘いものはお好き?」
「はい」
「じゃあここのパフェ食べてみて。季節限定のマンゴーなんだけど。孫が美味しいって言ってたから」
「ありがとうございます」
紗英はタブレットを操作して注文を済ませてくれた。高齢者なのに電子機器に強いらしい。
「随分と慣れてますね」
「よく娘と孫と来てたから。でもいまは」
言葉を詰まらせる紗英の目尻に涙が浮かんでいた。伝次が痴漢で捕まったことを家族や親戚だけでなく、近所の人にも知れ渡り、気軽に会えなくなっているのだろう。
「おれ、嫌いなものがないのでなんでも食べます」
「やっぱり若い方はたくさん食べないとね。三波さんも遠慮せずに注文して」
「ありがとうございます」
それから紗英はテーブルにのりきらないほど料理を注文し、枇呂と三波がモリモリ食べる姿を見ると満足して帰って行った。
「……さすがに注文し過ぎだろ」
「ですね」
紗英は金を置いて行ってくれたはいいが、二人が食べるには量が多すぎる。でも残すことなんてできるはずがない。
これは紗英からの感謝の気持ちなのだから。
三波はテーブルに肘をつき、ハンバーグを口に入れた。
「でもハンバーグは忍野が作った方が美味いな」
「そんなこと言ったらお店の人に怒られますよ」
「チェーン店だから工場で作ってるだろ。ここの従業員は気にしないさ」
そう言いながら大口を開けて食べる三波をみつめた。腹がいっぱいだと言いながらも箸は止まらない。
三波は細いのによく食べる。しかも大きく口を開けて豪快な食べ方をするので、見ていて気持ちがいい。作り甲斐があり、ついつい多めに用意してしまうこともある。
紗英もこんな気分だったのだろうか。
食後のアイスコーヒーを飲みながら三波は再び書類に目を通した。何度も読み込んでいるので端は折れ、くしゃくしゃになっている。
書類のくたびれ具合いに比例するように、三波の顔は疲労の色が濃くなっている気がした。
他の依頼も受けているので、三波はかなり多忙だ。枇呂はサポートにしか回れず、あまり役に立てていない。
紗英の件は枇呂が受けたが、知識がないので三波にほとんど丸投げしていた。
このまま無理をしたら三波が倒れてしまう。
「明日はおれが現場に行きます」
「俺も確認しておきたいから行くよ」
「おれでもできます」
「だが」
「写真を撮ったらなにかわかるかもしれません」
枇呂の言葉に三波は息を呑んだ。
「おまえ、盗撮はご法度だと言っただろ」
「でもそれが一番手っ取り早いです」
枇呂が乗客の写真を撮って「ホンネ」を探れば、なにかわかるかもしれない。
だが何十人もいる乗客をすべて撮るのは無理だし、写真を撮った瞬間に痴漢のことを考えていなければ「ホンネ」はわからない。
それでも自分ができることはなんでもしたかった。
「おれが写真を撮らないと「ホンネ」は映らないんです。三波さんが撮ったものじゃダメなんです。だからやらせてください」
「おまえな」
「バレないようにします。おれはこの力をちゃんと使いたい」
このままでは伝次は起訴されて前科がついてしまう。謂れのない罪で彼の経歴を汚したくなかった。
なにより伝次を支えている紗英が辛い思いをする。なにもできなかったと自分を責めるような気がした。
やさしい人間は救われるべきだ。
枇呂にはそれができる力がある。
瞬きもせずに三波を見た。彼も枇呂を見返し、枇呂の心の内を探るように黒い瞳が鋭くなる。
三波は背凭れに身体を預けた。
「……わかった。あまり無茶するなよ」
「はい!」
初めて許された大役に、枇呂は心の紐をきつく結んだ。
伝次がいつも乗り換えをする駅は混雑していた。ホームに人が落ちないのが不思議なくらい人が密集している。
ほとんど電車に乗らない枇呂にとって通勤ラッシュは初めての経験だ。どっちが先頭車両なのかすらわからない。ヨロヨロしていると人にぶつかってしまい、三度目の舌打ちを受けてようやく伝次が痴漢で捕まった車両まで来れた。
五両目の前から三列目のドア。七時十二分発。スマートフォンで時間を確認して枇呂はほっと息を吐く。
電車を待っている人はスーツや小綺麗にしたOLや制服を着た中高生が多い。
ホームでこれだけの人数だ。狭い車内に入れば身体同士が触れ合い、場所が悪かったら「痴漢!」と騒がれても無理はない。
先頭に並び、枇呂は電車が来る方向を覗いていると隣の女性と目が合った。マスカラできれいに上を向いた睫毛が驚きで広がる。
「あ! たん……じゃなくて弟くん?」
「……林さん、お久しぶりです」
枇呂がぺこりとお辞儀をすると林は気まずそうに頬を掻いた。
枇呂が初めて三波探偵事務所に来た日に、弟のふりをして婚約者に結婚を迫るように 依頼してきた女性だ。だが実際は婚約者に多額の金を要求した上に暴力を振るっていたことが発覚し、破談になった。
枇呂が警戒すると林はぷうと頰を膨らませている。
「なによ、変な顔して。あれ以来、心を入れ替えたのよ」
確かに林をよくよく観察すると垢が落ちたようにさっぱりした顔つきになっている。
滲み出るオーラがトゲトゲしておらず、マシュマロのようなやさしさを孕んでいるような気がした。
「確かに変わった気がします」
「でしょ? いま知り合いから紹介された人といい感じなの。もちろん飯島さんのようなことはしてないよ」
「それは、おめでとうございます」
「ありがと」
丁寧にグロスが塗られた唇がにっと弧を描く。
「弟くんはお出かけ?」
「仕事です」
探偵業は守秘義務がある。個人のプライバシーに関わるので、おいそれとは話せない。事情を察した林は「そっか」と納得してくれた。
でもいいチャンスかもしれない。枇呂は再び口を開いた。
「林さんは、この時間の電車っていつも使ってますか?」
「会社に行くときはこの時間だよ。外回りがあるときは違うけど」
「最近、痴漢現場に遭遇しませんでしたか?」
枇呂が声を潜めて尋ねると均等に上を向いた睫毛がわずかに震えた。
「知ってるわ。それを調べてるの?」
「いえ……はい。あ、いいえ」
「ふふっ、嘘が下手ね。私が見たことを話してあげる」
ちょうど電車が来たので二人で乗り込んだ。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた車内は息苦しい。クーラーが効いているとは思えない暑さだ。
小太りのおじさんの汗ばんだ腕がぶつかり、鳥肌が立った。
「もうやだ、帰りたい」
「なに言ってるのよ。こっち来なさい」
林にスマホショルダーを引っ張られ、どうにか吊り革に掴まることができた。林が隣に立つ。
さすがよく乗るだけあって林は満員電車に慣れているようだ。
電車が動きだすと林は周りに聞こえないように声を潜めた。
「私もよくこの車両に乗るの。白髪のおじさんのことはいつも見かけてたわ。背が高くて、ぴしってした背筋は嫌でも目立つもの。大企業の役員なんだろうなって思ってた」
昨日会った伝次を思い浮かべたが、猫背で目は虚ろだった。あれが本来の姿ではないのだろう。
「その日もいつも通りよ。夏休みが明けたばかりで、学生が多かったわね。私がスマホを弄ってたら、急に女子高生が「やめてください!」て叫んだの。近くにいた女の子も「私見ました!」と加勢して、駅に着いたら白髪のおじさんはサラリーマンたちに連れて行かれてたわ」
紗英から聞いていた通りだ。ここまでは齟齬はないらしい。
「なにか変わったことはありませんか?」
「変わったというか、気になったということはあるんだけど」
「なんですか?」
「加勢した女の子の位置から、痴漢にあっているところは見えづらいと思うのよね」
「どういうことですか?」
林は顔をあげて車内を見回した。
「私はちょうど弟くんのところにいたの。で、被害に遭った子は私の後ろ側のドア。そして加勢した子は私の隣にいたのよ」
「つまり背後で犯行が行われていたということですか?」
「そうだと思う」
枇呂はさっと周りを見た。吊り革に掴まっている人はみんな窓の方を向いている。車内側を向いている人は一人もいない。
こんな密集した車内で、吊り革ではない方に身体を向けるのは不自然だ。近距離で他人と向かい合ってしまう。
「二人ともどういった子でしたか?」
「加勢した子は今時の子って感じ。メイクもばっちりして、髪色も明るくて派手そう。爪が長かったからよく覚えてる。被害に遭った子は大人しそうな子よ。まぁあそこは私立だから髪、染められないしね」
「かなり詳細に覚えてますね」
「そりゃそうでしょ。女性なら一度は痴漢を経験してるから、周りを警戒するし」
「そうなんですか?」
寝耳に水だ。それほど痴漢という犯罪は女性にとってよく遭う犯罪らしい。
大勢いる車内で声をあげる勇気もいる。もし下手なことをして、逆上される方が怖いと林は付け加えた。
なんだか男として恥ずかしい。
「だから私はいつも周りを観察して電車に乗るの。女性の近くにいたりね」
林は電車に乗るときはドア側には立たないとか、鞄で前を隠すなどの防犯知識を披露してくれた。
もっと話を聞きたかったが、二駅ほどで林は降りていった。
枇呂は一人になってから車内を見回した。顔ぶれはまちまちと変わっている。
伝次が乗り換える駅まであとわずかだ。
(ちょっと撮ってみるか)
枇呂はスマートフォンを耳に当てるふりをしたり、操作するふりをしながらシャッターボタンを押した。一歩間違えば盗撮として訴えられる。
だが伝次の無実を証明するためには、この手段しかない。
数枚撮って正面に向き直ると、枇呂の目の前で座っている女子高生が顔を上げた。
グレーのセーラー服は被害者と同じ旭高等学校のものだ。眉間に皺を寄せ、枇呂に敵意を向けている。
林が言っていた通り、女性は周りを気にしているのかもしれない。
枇呂は慌ててスマートフォンをトートバックにしまい、伝次が降りる駅までじっとしていた。
事務所に戻ってくると三波はデスクワークをしていた。最近依頼を受けた浮気調査をまとめているのだろう。
「ただいま戻りました」
「おかえり、どうだった?」
「林さんに会いました」
「すげぇ偶然だな」
林から聞いた話を三波にすると小難しい顔をした。被害者と伝次の立ち位置は聞いていなかったらしい。「確かに妙だな」と唸っている。
「写真は撮ったのか?」
「はい。でもあまり有益なものはありませんでした」
枇呂はスマートフォンを三波に渡した。
写真に映った人が全身の半分以上あれば枇呂は「ホンネ」を読める。
だが密集した車内で全身の半分以上映すのは難しい。何枚か撮ったが「ホンネ」を覗けたのは二人だけで、「仕事が面倒だ」「テスト嫌だな」というものだった。
画面をスワイプさせていた三波はふと指を止めた。
「おまえ、これは完全にアウトだろ」
画面を見せられて驚いた。枇呂の目の前に座っていた女子高生がこちらを睨みつけている写真だ。電源ボタンを押したつもりだったが、ボタン操作を間違えたらしい。
「すいません……ん?」
よくよく目を凝らすと文字が浮かんできた。
《この人、私たちのこと調べてる? もしかしてバレた?》
バレたってなんのことだろうか。
「どうした?」
「この子……バレたって言ってます」
「なにをバレたって?」
「そこまでは書いてないですけど」
三波は顎に指をかけて、古文を読解するような難しい顔をしている。画面をじっと見たまま固まり、「まさか」とこぼした。
「被害者と目撃者を調べるか」
「なにか思い当たる節があるんですか?」
「……もしかしたらな」
そうこぼした三波の顔色はどんどん青白くなっていく。呼吸も荒く、全力疾走したかのように肩で息をしていた。
「大丈夫ですか?」
「平気だ」
そう言ってスマートフォンを返してくれる手が震えている。
(まただ。この人はなにを怯えているのだろう)
枇呂は咄嗟に三波の手ごと掴んだ。氷に触れたように冷たい。
じっと三波をみつめると黒曜石の瞳が不安定に揺れている。泣き叫ぶのを我慢しているのか強く引き結ばれた唇が白くなっていた。
「三波さん」
枇呂が名前を呼ぶだけで、びくりと肩が跳ねた。
なにをしてあげたらいい?
咄嗟に思い浮かばず、自分の不甲斐なさに胸を掻きむしりたくなった。
でもここで離してはいけないことだけはわかる。
枇呂はさらに手に力を込めると、三波の指先が少しずつ温められていく。
顔色に赤みが戻ってきて、三波の呼吸も落ち着いてきた。
「悪い、動揺した」
「疲れているんですよ」
「そうかも。ちょっと休む」
「ゆっくりしてください」
「おまえも来るんだよ」
「え?」
三波に引っ張られ、カウチに座らせられた。枇呂の太腿に三波の小さな頭を乗せられる。長い足を窮屈そうに折りたたみ、三波はカウチに寝転がった。
膝枕というやつだ。
「このままでいろ」
「業務命令ですか?」
「……そうだよ」
「わかりました」
枇呂は言われるがままじっとした。三波の長い睫毛が伏せられ、規則的な寝息が聞こえてくる。
猛獣を手懐けたられたような満足感が枇呂の胸の中に広がった。とてもいい気分だ。
枇呂はそっと三波の髪に触れた。絹のように柔らかく、触り心地がいい。ふわりとシャンプーの香りがしてくる。
(気持ちいいな)
空調の整えられた部屋は三波の寝息しか聞こえないほど静かだ。白いカーテンが残暑の厳しい日差しを柔らかくしてくれる。
枇呂もうつらうつらとしてしまい、そのまま目を瞑った。
次の日、枇呂は一人で旭高等学校の校門前まで来た。三波が別の調査で出る隙を狙っていたので、なかなかタイミングが掴めず下校時間とモロにかぶってしまったらしく、校門前にはセーラー服の女子で溢れている。
学校の前にはコンビニなどの店もなく、身を隠せる場所はない。だから電信柱に寄りかかる枇呂は嫌でも目立つ。
門を潜る女生徒たちからジロジロ見られてしまい、いつ通報されてもおかしくないだろう。
(出直そうかな)
枇呂はくるりと駅とは逆側へと歩き出した。このまま生徒たちの中に混ざっていく勇気はない。
トボトボ歩き出すと視界の隅に黒髪の子を見つけた。
(写真の子だ!)
枇呂が偶然、写真を撮ってしまい「ホンネ」を読めた子だ。枇呂には気づいていないようで、友人たちと駅へと向かっている。
枇呂は立ち止まり、電話をするフリをしてシャッターボタンを連打した。
(あとで確認するしかないな)
しばらく電話をするふりをしながら逆方面に向かって歩いていると、ぽんと肩を叩かれた。
振り返ると黒髪の少女が枇呂を睨みつけている。
「あなた、昨日も電車にいましたよね」
「いえ……」
「それにいま、写真撮ってましたよね?」
「撮ってないです」
「じゃあ見せてください」
「電話中なので」
「そんなの切ってください!」
大人しそう、とはかけ離れた負けん気の強い瞳に枇呂の喉はぎゅうと締めつけられる。
恐怖が足元から這い上がってきて、コンクリートに縫いつけられてしまいそうだ。
枇呂はぎゅうとスマートフォンを握った。
「本当に知りません!」
「ちょっと……待ちなさい!」
脇目もふらずに走り出すと少女が追いかけてくる。角を二、三回曲がるころには見えなくなった。
それでも枇呂は体力がなくなるまで、走り続けた。
事務所に着き、震える手でドアノブを引いた。ふわりと冷気が頬を撫で、コーヒーの香ばしい匂いに包まれる。
顔を上げるとカウチに座った三波がコーヒーを啜っていた。
「おかえり、出かけてたんだな」
「……す……すいま……ん」
息も切れ切れで枇呂は玄関に座り込んだ。心臓が痛いくらい脈動し、汗がどばっと噴き出してくる。陸にあがった魚のように呼吸がしづらい。
ぜえぜえしている枇呂を見て、三波が駆け寄ってきてくれる。
「なんだ、そんなに息切れして。どうした?」
「あ……すい、ま……」
「あぁもういい喋るな。水持って来てやる」
三波は後頭部を掻き、冷蔵庫から水のペットボトルを渡してくれた。一気に飲むと火照った身体の芯が冷えていく。
呼吸を整えるまで三波はしゃがんで待ってくれた。
(どうしよう、三波さんがいないうちに帰って来ようと思ってたのに)
被害者の写真を撮りに行ったと知られたら怒られるだろう。あれほど口酸っぱく盗撮はご法度だと言われていたのに。
ペットボトルを持つ指先に力が入る。
三波は小さく鼻を鳴らした。
「で、被害者の写真でも撮りに行ってたってところか?」
「なんでわかるんですか」
「探偵舐めるなよ。てか、忍野はわかりやすすぎ」
「すいません」
頭を下げると三波の大きな手のひらがぽんと撫でてくれた。
「おまえの力に頼るのは嫌だが、今回は時間もないし情報も少ない。なにか言われたら俺が責任とる」
「怒らないんですか?」
「撮っちゃったものはしょうがないだろ。だったらうまく利用するしかない」
にやっと意地の悪い笑みを浮かべる三波に呆気にとられた。それは万引きしたけど、バレなければ食べてもいいと同じ意味ではないか。
だが伝次の勾留期間が残りわずかなのも事実だ。なに振り構っていられるほど猶予はない。
「一応撮ったんですけど……まだ、確認してません」
「よし、見てみよう」
枇呂は画像フォルダをタップした。最初の数枚は手ブレしてボヤけている。
「これでもわかるのか?」
「全身の半分以上入ってて、鮮明に映っていないとわかりません」
画像をスワイプしていくと奇跡的に一枚全身映っているのが撮れている。
ぱっと文字が浮かんできた。
「《こいつ、私らが慰謝料狙いのグルだってわかってんのか》」
「そう書いてあるのか?」
「はい」
「同じだ」
そう零した三波の横顔に暗い影が入る。なにが同じなのだろうか。
枇呂が問いかけるより先に三波が口を開く。
「つまり被害者と目撃者がグルで、痴漢をでっちあげたってとこか」
「痴漢冤罪、ってやつですか?」
枇呂の問いに三波は苦虫を噛み潰したような渋い顔をした。
嘘を断罪しなければと枇呂の中でふつふつと怒りが湧く。
「俺も調査してきたものがある」
三波が見せてくれた資料には、被害者と目撃者の学校名と氏名が記されていた。二人はなんと幼稚園から中学まで一緒の幼馴染らしい。
これで赤の他人と言うには無理がある。
「あの路線は元々痴漢が多いんだが、その分検挙率も高い。そのどれもが女子高生が目撃している」
「そこまで調べたんですか?」
「まぁ、このくらいなら簡単に調べられるさ」
一体どういう情報網なのだろうか。三波の素性が謎である。
「忍野の「ホンネ」のお陰で確信が持てたわ。何人かグルで冤罪をでっちあげてるな」
「でも高校生が本当にそんなことするんですか?」
「やるね。やり方のノウハウとか味方につけやすい弁護士事務所とかの情報網を代々受け継いでるんだろ。示談金もいくらかは被害者に入るからな。小遣い稼ぎにはちょうどいいだろ」
「小遣い稼ぎって」
お金のために一人の人生を歪めてもいいというのだろうか。その神経が枇呂には理解できない。
だが三波の表情も引っかかる。
奥歯を噛み過ぎているせいか三波の細い顎に梅干しみたいな皺が寄っていた。彼らしくない。
枇呂は三波の顎をそっと撫でた。
剃り残しのない肌はゆで卵みたいにつるりとしている。きれいな形をしているのに皺が寄ったら勿体ない。
「な、なんだよ」
「三波さんが変な顔をしていたので」
「……変な顔で悪かったな」
「いつものイケメンが台無しですよ」
「イケメンねぇ」
言われ慣れ過ぎているのが三波にいまいち届いていないようだった。
(そりゃこれだけ容姿が整っていれば耳にタコができるほど言われるよな)
なんとか三波の心に届くものはないか。枇呂は小さな頭で思考を巡らせる。
「三波さんには悪役みたいな顔でいて欲しいです」
「それ褒めてんの? けなしてんの?」
「慰めてる……つもりです」
「なんだよ、それ」
目尻を下げる三波の顎にはもう梅干しはなくなっていた。代わりのように大きな手のひらが枇呂の頭を撫でる。
「でも元気でたわ」
「はい」
「忍野はもう少し語彙力増やした方がいいよ」
「それは自覚しています」
空いた胸になにかが満たされるような感覚を言葉にすることができない。
枇呂は胸の上にそっと手を置いた。
枇呂が暴いた「ホンネ」と三波が調査した結果を参考にし、弁護士が調べ直すと女子高生グループが示談金をせしめているという裏付けが揃った。さすがプロだ。
法の穴をかいくぐるように精巧な計画で、犯罪ギリギリのラインを狙った犯行だった。調べれば警察関係者に親類を持つ子がやり方を伝授していたらしい。
五年で被害者は二十人ほどいて、伝次以外は大事になりたくないと早々に慰謝料を払っていたそうだ。だから今日まで公にならずにいたらしい。
最後まで諦めなかったのは伝次ただ一人だけだ。
女子高生グループを摘発し、未成年は保護観察、すでに成人している人は事情聴取を受けて判決をくだされるらしい。
女子高生たちによる犯罪は、マスコミの格好の餌食となり、連日テレビやインターネットで報道されている。
これで伝次の無実は証明された。
留置場から解放される日、枇呂は三波と共に迎えに行った。紗英の隣で朗らかな笑顔を浮かべる伝次は二人に頭を下げている。
「この度はありがとうございました」
「主人を信じてくださって、ありがとうございます」
「いえいえ、当然のことをしたまでです」
三波はいつものように外面のいい笑みを浮かべた。どこか影さはあるものの、事件が解決するまで眠れない日々が続いていたから疲れているのだろう。
それから別れを惜しむように紗英は何度もお礼を言い、「今度遊びに来てください」と枇呂の手を握ってくれた。
「はい」
「美味しいクッキーをたくさん焼いておくわ」
「楽しみにしています」
枇呂と紗英が話しているのを眺めていた伝次が、重々しく口を開いた。
「あなたは被害を訴えなくていいのですか?」
伝次の視線を追うと三波にまっすぐ向けられている。奇襲に驚いた猫のように三波は肩を跳ねさせた。
「……なんのことでしょう」
「過去に被害が遭った方も被害を訴えれば、示談金を返してくださるそうですよ。三波さん、あなたもその権利がありますよね」
伝次はなにを言っているのだろう。それではまるで三波が痴漢の冤罪に遭ったような口ぶりではないか。
枇呂がメトロノームのように三波と伝次の交互に視線を向けていると、口の中に砂が入ったような苦々しい顔をした三波と目が合う。
黒曜石のように美しい瞳の光が失われていく。
咄嗟に三波の腕を掴むと可哀想なくらい震えている。
寒さに耐えるような、恐怖に負けてしまいそうな弱々しさになぜだか泣きたくなった。
三波の反応を見て、伝次はまた頭を下げる。
「……すいません、出しゃばりすぎましたね。久しぶりの外に気が高ぶっているのかもしれません。ではまた」
伝次は紗英と共に待たせていたタクシーに乗って行った。ブロロロというエンジン音が遠ざかっても三波は瞬きすらできない様子で、じっと枇呂を見つめている。
枇呂は掴んだ腕に力を込めた。
「帰りましょう」
三波は最後までなにも反応が返ってこなかった。
一言も発しないながらも三波は運転をしてくれ、危ない場面もなく事務所の駐車場に着いた。こういうとき免許を持っていれば変わってあげられたのにと歯痒い。
九月下旬になり、ようやく秋の気配が色濃くなり始めたが半日締め切ったままの事務所は蒸している。
「暑いですね。ご飯はさっぱり系にしましょうか」
枇呂が窓を開けると涼しい風が入ってくる。はらはらとカーテンのレースが天使の羽根のように靡いている。
それを視線で追いかけると玄関に立ったままの三波は靴を脱ごうともしない。
じっと見つめていると貝のように閉ざされた口がようやく開いた。
「俺のフルネームは知ってるか?」
「いえ……三波さん、としか」
「三波琉」
「カッコいい名前ですね」
「ネットで検索されたら一発でバレるから、名刺にも書いてない」
一度言葉を切った三波は決心したように顔をあげた。
「いまから四年前……二十四のときだな。痴漢で捕まった。もちろんやってない。ま、俺の場合は身内も友人も誰も信じてくれなくて示談金を払ったけど」
ーー『忍野がいてくれたら俺も違ったのかもな』
痛みを堪えるような三波の顔を思い出す。伝次を信じると豪語した枇呂を、三波は眩しいものを見るように目を細めていた。
「もしかして今回の女子高生グループと同じですか?」
「だろうな。弁護士から連絡きた。小野寺さんの言う通り示談金は返してもらえるって」
「どうするんですか?」
「どうもしねぇよ。今更、俺の日常は戻ってこない」
「ご家族はどうしたんですか?」
「教師一家だったからな。自分たちの築き上げてきたものに傷がつくのが嫌で、すぐ縁を切られたよ。職場も辞めさせられたし」
周りからの信用や職場をいっぺんに失って、地の底まで落ちた三波の瞳に暗さが滲みだす。手遅れなのだと痛いくらいに伝わってくる。
三波の顔は夕闇よりも暗くなっていく。その表情には見覚えがあった。
(昔のおれと似てる)
繰り返し写真を撮ったからよく覚えている。家族に見放された枇呂は、この世の闇をすべて背負っているかのような顔をしていた。
いまの三波とそっくりだ。
「前職は高校教師やってた。それが女子高生を痴漢したとなれば、マスコミが好みそうなネタだろ?」
「そんな……」
「面白おかしく引っ掻き回されて、飽きたらポイだ」
連日のように痴漢や性犯罪のニュースは流れている。まるで風で捲れる本のページのように高速で過ぎ去ってしまうので、その一つ一つが本当なのか、嘘なのか考えたこともなかった。
「家にも実家にも職場にもマスコミが押し寄せてくるし。怖くて電車は乗れなくなるし、本当しんどかった」
枇呂は三波を慰める言葉一つ思い浮かばない。
当時のことを思い出したのか三波の形のいい眉がきゅっと寄る。泣いてしまうのだろうか。
枇呂が三波の手に触れると氷のように冷たかった。彼の心が死んで、体温をなくしてしまったみたいだ。
「でも忍野が小野寺さんに寄り添ってる姿見たら、なんかスッキリしたよ。ありがとな」
「おれは……なにもしてないです。結局三波さんが証拠を掴んでくれたからで」
「忍野の言葉がなかったら動けなかったよ」
「ズルをしてるだけです」
「でも行動したのは忍野自身だろ?」
「……それは三波さんを支えたいって思ったからで」
「俺を?」
目を丸くする三波は意味が分からない様子だ。
枇呂はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「おれの能力を気持ち悪いと言わなかった人は初めてです。だから助けたい、この人の力になりたいって思ったんです」
昔からなにをやってもトラブルを起こす枇呂を両親は疎んじていた。
だから「嘘を吐くな」という呪詛だけ残して去っていったのだ。
ーーこの口は、嘘を吐けない。
「全部、おれの「ホンネ」です」
「ははっ……おまえ、面白いな」
「そんなこと初めて言われました」
「変わった奴だとは思ってたけど」
「結構失礼ですね」
「そりゃおまえもだろ」
三波の手が枇呂の指を捕らえて、ぎゅっと重ねられる。恋人繋ぎというやつだ。
手のひらに熱が戻り、その温かさにどきどきと心臓が早鐘を打つ。
「緊張してんの?」
「こういうことに慣れてないんです」
「親と手ぐらい繋いだことあるだろ」
「物心ついたときからはないです」
「じゃあ友だちは? 恋人とか」
「そんなのいたように見えますか?」
「……悪い」
「謝らないでくださいよ。余計、惨めになるじゃないですか」
「ごめん、ごめん」
枇呂の顔を覗いてきた三波は意地悪なことを言うくせに春の日差しのようにやさしい。
その顔に見惚れていると足の裏がざわざわとする。胸の内を撫でられたように擽ったい。
(なんだろう、この感じ。でも全然嫌じゃないや)
自分の中に新たなものが芽生える感覚に首を傾げる。
「忍野? まじで怒った?」
「今夜のハンバーグは一つ減らしますね」
「だから悪かったって言ってるじゃん!」
慌てる三波がなんだかおかしい。
枇呂は握られたままの手に力を込めた。
ともだちにシェアしよう!

