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第4話
「にしても面白い依頼でしたね」
「俺もあんなの初めてだよ」
くしゃっと笑う三波の前髪を冬の気配を感じさせる風が攫う。季節はすっかり冬の足音が聞こえるまでになってきている。
枇呂は三波とコインパーキングへ歩きながら、今日一日を思い返した。
今回の依頼はジャンガリアンハムスターの捜索だ。依頼主が二日ほど家の中を探したが一向に出てくる気配がなく、三波の評判を人づてに聞いて頼んだようだ。
動物の捜索は何回か経験があるが、どれも外に逃げ出した猫や犬だ。家の中を捜索するのは三波探偵事務所を設立してから初めてのことらしい。
枇呂の頬は自然と緩まった。
「でも依頼主の女の子、可愛かったですね」
「あぁそうだな。四歳って言ってたか」
「アニメを観て、探偵に頼もうって思ってくれたらしいですよ。『うせもの探偵』ってやつ」
「あ~子ども向け番組のやつか」
「依頼主がなくしたものをなんでも見つけてくれるうさぎ探偵ですよね?」
「そうそう。事前に言ってくれたらうさ耳付けたのに。忍野が」
「なんでですか。三波さんも一緒ですよ」
「おっさんのうさ耳なんて恐怖だろ」
三波は苦い薬を飲んだかのようにげっと舌を出した。
三波の人相は悪いが、笑うと可愛い。それに依頼主の前では爽やかな笑顔なのでうさ耳は合いそうな気がする。
(でも色気がダダ漏れのうさぎってどうなんだろう)
ニヒルな笑みが似合う三波だといかがわしさが出てしまう。でもちょっと見てみたい。
(色は髪色に合わせて黒かな。でもグレーも似合いそう)
じっと見上げていると「なんだよ」と三波は居心地悪そうに眉を寄せた。
「三波さんのうさ耳姿を想像してます」
「やめろ、莫迦」
「似合いそうだけど、色気が問題ですね」
「嬉しくねぇ。忍野の方が可愛い顔してんだから似合うだろ……いや、駄目だな。なんか卑猥っぽい」
「卑猥?」
「俺にコスプレ趣味はないってこと」
「はぁ」
三波は頭を左右に振った。そんなに枇呂のうさ耳姿は変だったということだろうか。自分で想像しようとしたが、気持ち悪くてやめた。
目が合うと三波はふわりとやさしい目元になった。その顔に枇呂の胸が風に揺れる稲穂のようにざわざわする。
「だいぶ笑うの自然になってきたな」
「いままでそんなに変でした?」
「初めて会ったときなんて、糸で引っ張られてるみたいに変な顔してたぞ」
三波が自分の目尻を指で引っ張った。そんな般若みたいな顔をしていたとは心外である。
探偵事務所に来て、三か月が過ぎた。試雇用期間を無事に終えられたので正雇用として雇ってもらっている。
一人でも依頼をこなせるようになり自信になっていた。達成できるたびに太い根が伸び、枇呂という人間の地盤になってくれている手応えを感じている。
お陰で「ホンネ」を覗かなくても不安になる回数が減ってきていた。
「まだまだ危なっかしいけどな」
「師匠には敵いませんよ」
「お、敬ってくれるんだ」
「当然です。三波さんに憧れます」
依頼主の悩みに寄り添い、地道に情報を集めて解決する三波の姿はスーパーヒーローのように眩しい。
悪を拳で殴りつけるような派手さはないものの、心に刺さった棘を抜いて癒してくれるようなやさしさがある。
三波のような探偵になりたいといつしか枇呂は思うようになっていた。
枇呂の返答に三波はぶすっと下唇を出した。照れているのだろう。
だから枇呂はなにも言わずに空を見上げながら歩いた。
住宅街の隙間から覗く空はどんよりとしている。昼間の温かさが嘘のようにびゅんと冷たい風が吹く。
依頼宅周辺にコインパーキングがなく、三波の愛車を駅近くに停めている。歩いて三十分はかかる距離だ。
バスで移動できたら楽だが、三波は電車バスに乗れない。また痴漢免罪として捕まったときの恐怖があるのだろう。
三波がスマートウォッチに視線を落とした。
「これで今日は終わりだし、夕飯は外で食うか」
「今朝、ハンバーグの仕込みしちゃいました」
「まじ? じゃあ早く帰ろう」
三波はかなりのハンバーグ好きらしく、枇呂は週に二度作っているが、それでも飽きないらしい。
「おれのハンバーグ、そんなに美味いですか?」
「美味いね。店出せるよ」
「あんなの誰でも作れますよ」
「噛んだ瞬間、肉汁がぶわって出てくるじゃん。あれはなに?」
「牛脂を入れてます。よく肉コーナーに置いてあるサイコロみたいな白いやつ」
「あれってすき焼きのときだけじゃないんだ」
「結構使えますよ。安いし」
「節約上手じゃん。偉い、偉い」
頭を撫でてもらい、枇呂は猫みたいに擦りつけた。瞬間、三波の手が止まるが、すぐに再開される。
嬉しくてゴロゴロと音が鳴らせそうだ。
「うちみたいな貧乏事務所は節約しとかないとな」
「なら経費管理は三波さんがした方がいいんじゃないですか?」
正雇用となった枇呂に、一つ大きな仕事を任された。それは月々にかかる食費や洗剤などの日用品代や依頼にかかった経費を管理するのだ。
初めてパソコンに触れたが、三波に教えてもらいどうにかエクセル入力はできるまでになった。
少なくない金を管理する重責はある。
だが三波は口笛を吹くような軽さで「忍野がやりな」と返した。
「おれがくすねるって心配ないんですか?」
「ないだろ」
はっきり言い切ってくれる三波の声音には信頼が混じっていた。
出会って三か月が過ぎ、三波との関係が上司と部下としてしっかり築けている証拠なのだろうか。
けれど三波を見ているとやさしい気持ちになるのに、時々無性に悲しくなるときがある。ジェットコースターのように感情がいったりきたりと忙しく、どう対処すればいいのかわからない。
「あ、雨」
ぽつんと枇呂の鼻先に雨粒が落ち、瞬く間にバケツをひっくり返したような土砂降りに変わる。歩いていた人たちが蜘蛛の子を散らすように走って行った。
「俺たちも急ごう」
三波が走り出したので枇呂も後を追った。雨は勢いを増し、顔面に雨粒が当たる。氷のように冷たく、体温がどんどん奪われていく。
駅までまだ距離はあるはずだ。土地勘がない地域なので周辺になにがあるかわからない。来る途中になにがあったか思いだそうとしたが、暗くていまどこなのかわからない。
「こっち」
枇呂は三波に腕を引っ張られ、建物の中に押し込まれた。やけに暗い室内だ。奥にあるパネルが枇呂たちを導くように煌々と光っている。そこに吸い寄せられると部屋の写真と値段が書いてあった。
「まさか……」
かあと顔が熱くなる。
ここがなにをする場所なのか、経験がなくてもわかる。
「とりあえず安い部屋でいいか」
三波は慣れた手つきで部屋を選び、受付でカードキーを受け取り、すぐ横にあるエレベーターに乗り込んだ。
「忍野、来い」
「……はい」
三波に手招きされるまま枇呂もエレベーターに乗り込んだ。
やけに古い型のようで上に昇るだけでガタガタと嫌な音がする。
部屋は白で統一され、キングサイズのダブルベットと二人掛けのカウチがある。テレビは壁にかけられ、小型だが冷蔵庫もあり、ビジネスホテルのように普通だ。
ただベッド横と天井に大きな鏡があるのが不自然である。
枇呂はぼんやりと自分の顔を見上げた。
びしょ濡れのダウンを脱いだ三波は前髪を掻き上げているのが見える。
「先、風呂入れ」
「三波さんからどうぞ」
「唇真っ青なくせして気を使うな。そのままだと風邪引くだろ」
「でも」
上司を差し置いて入っていいものだろうか。この辺の匙加減がわからない。
(こういうとき「ホンネ」を探れればいいんだけど)
じっと三波を見つめているとやれやれと言ったように首を振っていた。
「おまえが入ってくれないと、俺まで風邪引いちまう。さっさと行け」
「じゃあ一緒に入りますか? その方が効率いいですよね」
「貞操概念ガバガバかよ」
「男同士だから別にいいじゃないですか」
「はぁ~おまえな」
三波は乱暴に前髪をかき混ぜると水しぶきが飛ぶ。
「上司命令。一人で行け」
手で追い払われてしまい、枇呂は渋々と洗面所に引っ込んだ。
(なら早く出るしかないな)
手早くシャワーを済ませてから部屋に戻ると「早すぎる!」とまた三波に怒られた。
「ちゃんと温まったのか? てか髪ぐらい乾かせよ」
「このくらい放っておいても大丈夫です。それより命令通りにしたんだから三波さん、入ってきてください」
「おまえのドライヤー終わったらな」
「なんでそうなるんですか」
「これも上司命令」
「いいように使ってません?」
三波はにやっと口角を上げた。雨に濡れた髪がぺったりと肌に張りつき、いつもより三波の色気が増している。
どきどきと胸が速くなってきた。
(なんだろう、これ)
まだジェットコースターのように感情の起伏が激しくなる。どうすることもできずに枇呂はただ胸に手を当てた。
ぼんやりしていると三波は洗面所からドライヤーを持って来て、枇呂の髪を乾かしてくれている。
「随分伸びたな」
「勝手に切ってもいいのかわからなくて」
枇呂の髪は襟足まで伸び、毛先がぴょんと外側に跳ねている。
根本は黒く、そろそろミルクティー色に染め直さないと変だろう。
「清潔感ある身なりならうちは問題ないよ」
「切ってもいいですか?」
「好きにしろ」
「……じゃあ切ります。長いと引っ張られるし」
「誰に引っ張られるんだよ」
三波の怒気を孕んだ声に失言だったと口を押えた。
ものの数分で髪は乾き、三波はドライヤーの電源を切った。
「風呂、入るわ」
三波はそそくさと洗面所に行き、すぐシャワーの音が聞こえてくる。
(怒らせちゃったのかな)
枇呂は毛先を指に絡めた。
癖のないまっすぐな黒髪は母親に似ていて、怒ると必ず父親に引っ張られた。だから母とは似ても似つかないミルクティー色に染めている。
黄ばみのあるカウチが実家と重なり、奥底にしまった過去の記憶ががたりと音をたてる。
父親の暴力を受けた痛みや虚しさまで再現され、頬を撫でるだけでヒリヒリした。
(もう何年も会ってないんだ。忘れろ、ここは実家じゃない)
津波のように過去の映像が押し寄せてきて枇呂を飲み込もうとする。
足の裏に力を入れ、どうにか踏ん張った。
いまは違う。
あのときの自分ではない。
ここには枇呂の力を信じてくれる人がいる。
でも父親の顔を思い出すだけで、胃の底がねじれるような痛みを訴えた。
吐き気を堪え、ベッドに座り手を組んだ。鏡に映る自分があまりに情けない。
何年経っても父親から向けられた恐怖はなくならないのだ。
「……どうした?」
いつの間にか三波は風呂から出てきたらしい。毛先はびしょ濡れで、枇呂に文句が言えないくらい三波も烏の行水である。
揶揄ってやろうと口を開くが「ひゅう」と空気が漏れるだけだ。
「顔色が悪いな。やっぱり冷えたんだろ」
枇呂は首を横に振るが、三波の顔は険しい。
「布団にくるまってろ。そのまま寝てもいいから」
三波に腕を引っ張られ、布団の中に入れさせられた。安っぽいノリのついたシーツがごわごわする。肌触りが悪い。
それに布団の中は氷の中に入れられているように寒かった。
枇呂が何度も寝返りを打っていると髪を乾かし終わった三波が近づいた。
「どうした?」
「寒い」
「部屋の温度を上げようか」
「ここ、一緒に入ってください」
枇呂が布団を持ち上げると三波は細長い目を丸くさせた。
「おまえ、意味わかってんの?」
「意味?」
寒くて心細くて温めて欲しいだけだ。
三波は乱暴に前髪をかき混ぜた。
「普通こういうとこでベッドには誘わないんだよ」
「でも三波さんはおれが嫌がることはしないでしょう?」
「……わかってんじゃん」
口は悪くて遠慮がない、でも美しい薔薇みたいな性格をしている三波だが、枇呂を傷つけようとする言動は一度もない。「ホンネ」を撮らなくてもわかっている。
「ほら、もっと端に寄れ」
三波がするりと布団の中に入ってきてくれる。文句を言いつつもやさしいのだ。
枇呂がふふっと笑うと三波は唇をへの字にしている。あまりにいつも通りで安心できた。体温が戻ってくる。
布団の中がポカポカしてくると急激な眠気が襲われた・瞼が重い。
「眠いか?」
「はい……」
「少し寝ろ。雨はまだ止まないし」
「ありがと……ございま、す」
瞼が落ちて意識が底に落ちていく。ふわりと頭を撫でられて、その心地よさを感じながら眠りについた。
久々に二人揃って休日だ。
枇呂が朝から忙しなく事務所や部屋の掃除をしていると昼前に三波がリビングにやって来た。
「……はよ」
「おはようございます。もうすぐ昼ですけど」
「まじか。久々にがっつり寝たわ」
三波は一度大きな欠伸をして、後頭部を掻いた。寝起きで、グレーのよれよれのスウェットなのにモデルみたいに整っているからすごい。
年の瀬が近く依頼が急増していて、この数日の三波は多忙を極めていた。調査のほとんどが不倫の証拠集めで、早朝から深夜まで張り込んでいたらしい。
それが一段落ついての休日だから、寝ても無理はない。
「朝食はなににしますか? パンにご飯、時間があればお粥にもできます」
「じゃあご飯で。シャワー入る」
「はい」
三波はまた欠伸を零し、浴室へと向かった。いつもの彼のルーティンだ。
シャワーの音をBGMにしながら朝食の用意をする。炊き立てのご飯に味付け海苔と塩昆布、卵焼きと焼いたウィンナーを皿に盛れば完成だ。
自分の分も用意していると手が滑り、茶碗が床に落ちてしまった。がしゃんという音と共に茶碗の破片が散らばる。
「あ……」
時間が止まったみたいに固まった。脳内でフラッシュバックがする。
母親が出て行き、家事のすべてを父親から押しつけられた。ご飯が不味ければ殴られ、米粒一つでも落としたら髪を引っ張られたのだ。
食器を割ったときは押し入れに閉じ込められ、丸一日なにも飲み食いさせてもらえなかった。
「どうした!?」
半裸のままの三波がキッチンに飛び込んできて、枇呂と割れた茶碗に視線を向けた。
その目が見られない。
枇呂がガタガタと身体を震わせて縮こまっていると、三波のシャンプーの匂いがふわりと香る。
「怪我してないか?」
「……大丈夫です」
「ん。いらないタオルとビニール袋持って来い。破片踏まないようにな」
「はい」
指示されると身体は自然に動く。枇呂は押し入れから雑巾とビニール袋を持りキッチンに戻ると、三波が素手で破片を集めていた。
「細かいのは掃除機で吸えばいっか。デカいのは集めておくから掃除機持ってこい」
言われるがまま掃除機をかけた。念のためキッチンとリビング、事務所も丁寧にかけて戻ると三波はちょうどビニール袋の口を閉めているところだ。
「ちょうど明日ゴミの日か。運がよかったな」
「あの……怒らないんですか?」
「怒る?」
三波はきょとんと首を傾げている。
「食器を割ってしまったので弁償とか罰を与えるのか」
「ないない。この茶碗、百均だぞ? そんな大層なもんじゃねぇよ」
「でも」
震えるこぶしを隠すように手をぎゅっと握った。枇呂が悪いことをすると罰を与えられる。そうやって育ってきたのだ。
歯の根が合わなくなりガタガタと鳴らしていると三波の手が枇呂の肩に触れた。
「俺を見ろ」
「あ……」
「ゆっくり息を吐いて。そう、上手だ。俺だけ見てろ」
間近に迫る三波に視線を定めた。黒曜石の瞳が自分を捉えている。逸らすことができず、縫いつけられるようにみつめていた。
段々と身体の震えが治まり、ほっと息を吐くと三波の手が離れた。
「せっかくだし、買い物に行くか。帰りにドーナツでも食おうぜ」
あまりにも明るい言葉に拍子抜けしそうだった。
でも普段と変わりないからこそすっと枇呂の心にすんなりと入ってくれる。傷つき膿が出ていたところに絆創膏を貼ってくれるような気遣いだ。
(三波さんはやさしいな)
この人と出会えてよかった。
いま心から叫びたいと思った。
三波にとっては朝食、枇呂にとっては昼食を食べて二人は駅前へと出かけた。
駅前にはハーモニカ横丁という飲食街や商業ビル、SNS映えするカフェなどがあり、生活するのにかなり便利である。
だがその分人も多く、かなり騒がしい。
枇呂と三波は吉祥寺駅から少し離れた百円均一ショップへと足を運んだ。
陽気な音楽が流れる店内と圧倒する商品の数に目を回しそうになる。
入口横にあるガコを手に持って、三波はずんずんと奥へと進んだ。
「まず茶碗を買わないとだな」
「いいんですか?」
「ないと不便だろ」
三波は口の端を上げて食器コーナーへと向かった。その足取りが少し軽いように見える。
(そういえば一緒に買い物って初めてかも)
食糧や日用品の買い出しは枇呂一人で行っていた。
「この茶碗とかいいんじゃね?」
三波が指さしたのは子ども用の茶碗だ。戦隊ものの絵柄が描かれていて可愛らしい。
「いいですね。プラスチックだし落としても割らないからいいかも」
「いやいや冗談だよ。マジで受けとるな」
「……冗談?」
「ジョークってこと!」
三波が慌てて言うので、ようやくいま自分は揶揄われていたのだと気がついた。
「すいません、本気にしちゃってました」
「忍野は結構素直だよな。というか会話の裏を読み取れないというか」
「これがありますからね」
枇呂は首からぶら下げたままのスマートフォンを手に取った。
写真を撮れば一発で「ホンネ」がわかる。そのせいで人の真意を探るという行為が苦手だ。こういう失敗はどうしてもしてしまう。
恥ずかしくて俯くとぽんと頭を撫でられた。
「これから覚えていけばいいんだから、気にすんなよ」
「はい」
三波はやさしい言葉を惜しげもなくくれる。そのお陰でまた自分の根っこが太くなる気配があった。
「あ、この茶碗もいいな」
枇呂が手に取ったのはベージュのシンプルな茶碗だ。大きさも枇呂にぴったりである。
「ん。忍野らしくていいんじゃね」
「これ、三波さんとの色違いみたいです」
ベージュの茶碗の隣には見慣れたアイスブルーの茶碗がある。三波がいつも使っているものだ。
どうやら夫婦茶碗のようで、アイスブルーの茶碗の方が一回り大きい。
「これだと重ねられてすっきり収納できますね」
枇呂が二つの茶碗を重ねて見せると、三波は顎に皺を寄せている。なにか変なことを言っただろうか。
「三波さん?」
「天然って怖いのな」
「この茶碗って天然素材なんですか?」
枇呂が底に貼ってあるシールを見たが、どこにもそんなことは書いていない。首を傾げると三波は「なんでもねぇよ」とさらに店の奥へと行ってしまった。
「どうしたんだろう?」
残された枇呂は茶碗を見下ろして首を傾げた。
良いことがあれば、悪いこともある。幸せと不幸は同じ分量だということを忘れていた。
枇呂は書類に落としていた視線を正面のソファに座る女性に向けた。
一度も染めたことのないだろう黒髪はうなじが見えるほど短く切り揃えられ、大ぶりなエメラルドグリーンのイヤリングが目を引く。皺のある目尻は垂れ下がっているが、黒豹のような鋭さを内包している。
女ーー虻川可奈子は隣に座る二歳の娘の髪を愛おしそうに撫でていた。
枇呂が口を開く。
「浮気調査、ということでいいでしょうか」
「はい。夫の名前は虻川太一です」
可奈子は家族写真をローテーブルに置いた。遊園地の城の前で可奈子と娘のくるみと夫の三人が笑っている。
絵に描いたような幸せな家庭だ。
どうにか唾を飲み、枇呂は可奈子に視線を戻した。
「浮気に気づいたきっかけを伺ってもいいですか?」
「私も最初浮気相手だったので。浮気をする人は止められないと言うじゃないですか」
「はぁ」
答えになっているような、なっていないような返答だ。
可奈子は冷静に見えるが、腸が煮えくり返っているのかもしれない。そもそも事務所に連絡もなく飛び込んで来るほどだから、衝動的なのだろう。
基本的に三波探偵事務所は予約制だ。稀に飛び込みの依頼主はいるが、日を改めてもらうことの方が多い。
今回はちょうど枇呂の手が空いていたから受けたまでだ。
(いや、でもこれが運命なのだろう)
枇呂が納得している間に可奈子は続けた。
「あの人は、主人は浮気のプロです。隠すのが上手く、証拠を絶対に残しません。だから私だけではどうすることもできなくて……証拠を集めて欲しいのです」
「離婚されるためということですね」
「はい。浮気をしている証拠を掴んで、慰謝料と養育費を払ってもらいたいです」
可奈子の意志の強い瞳がギリギリと枇呂の首を絞める。まるで枇呂のことを責めているような気がしてしまう。
(まさか、おれのことを知ってこの事務所に?)
いや、そんなわけない。
冷や汗が背中に噴き出したが、枇呂は小さくかぶりを振った。
可奈子の夫である太一は枇呂の実父だ。もう十年も会っていない。
枇呂と名字が違うのは、太一が可奈子の家に婿養子に入ったからだろう。
可奈子は太一の旧姓は知っているだろうが、まさか目の間に息子がいるなんて夢にも思わないはずだ。
枇呂はカウチでぬりえをしているくるみに視線を向けた。ふっくらとした頬が動く度に上下している。短い髪をいちごのヘアゴムで二つに結わかれ、ピンクのワンピースがよく似合っている。
あどけない姿に一時でも慰められた。
「念のために聞きますが、旦那さんから暴力を振るわれたりとかは?」
「それはないです。娘にとっていい父親で、休みの日は公園に連れて行ってくれますし」
「……そうですか」
くるみが暴力に晒されていなくてよかったと思う反面、やはり自分は異質だったのだなと思い知らされる。
「ホンネ」が見える能力がなければ、普通の家族でいられたのだろうか。
「調査をお願いできますか」
「えっと、はい。やってみます」
「よかった! よろしくお願いします」
可奈子が深々とお辞儀をしてくれるので、枇呂も慌てて頭を下げた。慣れない様子に可奈子がクスクスと笑っている。
「衝動的に来てしまったんですが、受けてもらえてよかったです」
「なにかあったんですか?」
「あの人が今夜も残業だって連絡がきたんです。今月に入って五回目ですよ。絶対浮気してますよね?」
可奈子がローテーブルを乗り出す勢いだったので、枇呂は苦笑いを浮かべた。
「それは断言できません。調査してみないと」
「……そうですか」
最初の勢いが段々と失速していき、可奈子はカウチに深く腰掛けた。
その様子を枇呂はじっと観察する。
(もしかして本当は旦那を信じたいのだろうか)
仲良く三人で映っている写真に視線を戻す。ごくごく一般的で、ありふれた幸せな光景だ。
きっとその幸福がずっと続くと信じていたのだろう。
だが枇呂の経験から太一は絶対に浮気をしている。現に母親と離婚したのも太一の浮気が原因なのだ。
けれどそんなことを言えるはずもない。それに腹違いとはいえ妹がいま枇呂の目の前にいるのだ。
あれほど父親に対して恐怖の念を抱いていたというのに、その遺伝子を継いだくるみは可愛く思える。
もし正体を明かせたら仲良くできるのだろうか。
(そんなことできるわけないか)
父が、太一が許すはずがない。彼は枇呂を心から憎んでいたのだ。きっと可奈子たちに会ったことを知られたら、なにをされるかわからない。
だから本来ならこの調査も受けるべきではないのだろう。
でも可奈子の切実な願いとなにより可愛い妹のためにもなにかしたい。
もう自分のような悲劇は繰り返したくないのだ。
「ママ?」
「あ、ごめんね。お話長かったよね。もう終わったから帰ろうか」
「うん」
くるみはソファからぴょんと立ち上がった。その危なっかしい仕草に可奈子の手がさっと伸びる。
愛情を存分に注いでいるのだろう。
可奈子と手を繋いだくるみは枇呂に振り返った。
「おにいちゃん、バイバイ」
紅葉みたいな小さな手を振ってくれ、枇呂はぎこちない笑みで手を振り返した。
「バイバイ。また遊びに来てね」
どうにかそれだけを返して、二人を見送った。
鉄扉ががしゃんと閉まる音に安堵する。やっと解放された、という気持ちが強い。
「疲れた」
カウチの背もたれに頭を預け、枇呂は天井を見上げた。一人でやるのは不安ではあるが、三波に相談したらやめろと言われるに決まっている。
(しっかりしなくちゃ)
ぐるぐる考えていると可奈子の写真を撮らなかったことを思い出した。
ここのところ「ホンネ」を覗かないで仕事をしていることが多い。
三波から教えてもらったノウハウを生かしているお陰で、特に必要を感じていなかった。
けれど不倫の証拠は写真が不可欠だ。浮気相手とのツーショットを撮って、確固たる証拠を突きつけるためである。
デカい仕事だ。失敗はできない。
(でも一つだけ確認しておこう)
枇呂はスマートフォンをタップし、花島に電話をかけた。
『……枇呂が電話かけてくるなんて珍しいね』
「ごめん。寝てた?」
『そろそろ起きる時間だから大丈夫』
壁にかかっている時計は夕方の六時を指している。花島はバーテンダーをしているので夜型の生活をしていた。
「父親におれの仕事のことを言った?」
『叔父さんとはもう何年も会ってないよ』
「だよね……」
『まさか事務所に来たの?』
「いまの奥さんが浮気調査に来て」
『あの人も懲りないな』
花島はケタケタと笑った。父親の浮気性は親族でも有名である。
花島が知らないということなら、可奈子が来たのはやはり偶然なのだろう。三波探偵事務所は業界最安値を謳っているので、ネットの広告を見て来てくれたのかもしれない。
『相手の写真撮れば一発でわかるでしょ? 撮らなかったの?』
「タイミング難しくて」
『昔はTPOも弁えずにあっちこっちパシャパシャ撮ってたくせによく言うよ』
枇呂は下唇を噛んだ。
所構わず撮っていた自覚はあるので決まりが悪い。
枇呂が黙っているとふぅと花島は小さく息を吐いた。
『調査のこと三波に言った?』
「言ってない」
『断ったら?』
「もう受けちゃったから無理だよ。三波さんに負担はかけたくない」
三波は他の案件を何個も抱え、睡眠時間を削って外を走り回っていた。
『まさか枇呂から他人を思いやる言葉が聞けると思わなかった』
「お兄ちゃんの中で僕はどんだけ薄情な人間なの?」
『母さんたち、心配してるぞ』
枇呂は耳に当てたスマートフォンを強く握った。ぎりりと歯ぎしりにも似た音が混ざる。
「……要件はそれだけ。このこと三波さんには言わないでね。教えてくれてありがとう」
枇呂は花島が返答する前に通話を切った。
花島の両親を思い出す。やさしい人たちだった。問題児の枇呂にも尽くしてくれ、そのせいでたくさん傷つけてしまっている。
枇呂が学校で問題を起こすたびに頭を下げてくれた花島夫妻の後ろ姿が鮮明に思いだせた。
「いまさらどの面下げて会えって言うんだよ」
枇呂の独白は誰にも聞かれることなく、空気に混ざって消えた。
三波が帰ってきて、枇呂は夕食の準備をした。寒さも本格的になったので鍋にしたいところだが、三波はハンバーグを所望した。折衷案としてハンバーググラタンにしている。
「そういや飛び込みで一件受けた?」
三波の言葉にひやりと心臓が冷える。枇呂は平静を装って、スプーンでハンバーグを切った。
「はい。おれはいまなにも抱えてなかったので。マズかったですか?」
「できれば相談して欲しかったな。でも忍野ができるって思ったんならいいよ。どんなやつ?」
浮気調査だという話をすると三波は頷いた。
「足つかないようにしろよ」
「わかってます」
「ん。ならいい」
手のひらほどあるハンバーグを一口で頬張った三波は、両頬を膨らませている。風呂上がりのため髪は湿っており、年齢より幼く見えた。
三波はどれだけ忙しくても朝晩は必ず事務所に帰って来て、枇呂と食卓を囲んでくれる。食事のあとすぐ出ていくことの方が多いが、風呂に入ったなら今日は終わりなのだろう。
三波はスプーンを眼前でプラプラとさせた。
「まぁ十中八九クロだろうな。女の勘は鋭いから」
「それは経験談ですか?」
「探偵としての、な。俺は一途だから浮気なんてしない」
そう言い切った三波は副菜のポテトサラダに手を伸ばしていた。その仕草すらうっとりと見惚れてしまう。
依頼人のなかで、明らかに三波に会いに来ている人は何人かいる。ホームページには三波の顔写真は載せていないが、口コミでカッコいいと評判が高いのだ。
そんなのいまに始まったことではない。
でもなぜか枇呂の気持ちがしゅんと沈む。枇呂は茶碗の縁を眺めた。
これを買いに行ったとき、楽しかったな。
そのあと食べたドーナツが美味しかった。
なぜかその思い出までもが黒く塗りつぶされてしまう。
(なんだろう、この感覚)
気持ちが沈んだり上がったり、常に泳いでいるように息苦しい。息継ぎするタイミングを見失ったまま泳いでいるようだ。
小さく喘ぐと三波は眉を寄せた。
「不安か?」
「……そうなのかもしれません」
「おまえならできるよ。なんせ俺の一番弟子なんだから」
三波はテーブルに身を乗り出して、枇呂の頭をひと撫でした。
それだけで視界が薔薇色に染まる。雨上がりの虹を見つけたように気分が晴れ晴れとした。
「はい」
「いい返事だ」
三波の笑った顔に胸の痛みが和らいでいった。
太一は北千住の食品工場で働いている。月曜から金曜の七時から四時の固定で、五時にくるみの保育園のお迎えをするルーティンらしいが、ここ数日残業が続いているらしい。
基本的に工場では残業はない。近所の騒音や匂いの問題もあるため、稼働させる時間は決められ、可奈子の話では深夜まで働くことはあり得ないそうだ。
枇呂は駅からバスに乗り、十分ほど揺られていると工場に着いた。住宅街の中に聳え立つ建物は存在感がある。煙突から白い煙がのぼり、醤油を焦がしたような匂いが充満していた。
工場の前にいたら怪しまれる。場所を確認したあと、近所を散策しながら太一が退勤するまで待った。
時刻は三時を過ぎている。
十年ぶりに父親と再会するせいか朝から寒気が止まらない。
(後をつけて証拠の写真を撮ればいいだけだ)
顔を見られてはいけないならこちらとしても好都合だ。身を隠し、証拠になる写真を撮ればいい。
不倫の調査は何度もやってきている。ノウハウも術もすべて枇呂の頭に入っていた。
そう自分に言い聞かせても落ち着かない。
冬を感じさせる冷たい風が吹いているのに、枇呂の額にはじっとりとした汗が浮かんでいた。
ようやく時間がきて、枇呂は工場付近で張ることにした。
角を曲がった住宅の壁を背にして、隠れるように工場の出入口を覗く。
四時を過ぎると従業員がポツポツと出てきて、蟻の行列のようにみんな揃ってバス停へと向かっている。その中に一際背の高いスキンヘッドの男を見つけた。嫌でもわかる。太一だ。
実際に目の当たりにすると威圧感でしばし呼吸を忘れて見入った。
枇呂の母親が出て行き、太一と二人残されたアパートは悲惨だった。部屋にはビールの空き缶とウイスキーボトルしかなく、換気をしないとアルコールの匂いが充満して気持ちが悪くなる。
でも窓を開けると太一の罵声が外にまで聞こえてしまう。人目を憚るように年中雨戸を閉めっぱなしにさせられていた。
暗闇の中で暴力に怯える日々だった。
嫌な記憶が堰を切ったようにとめどなくあふれてくる。胃液がせり上がってきて、枇呂は咄嗟に口を押さえた。咥内に酸っぱさが広がり、よく殴られた下腹部がずきずきと痛みだす。
「虻川さん、駅まで一緒に帰りましょう」
「おう、いいぜ」
「歩きで行きますよね?」
「バス代ケチらないと嫁に怒られるんだよ」
「ははっ、相変わらず尻に敷かれてるっすね」
「うっせぇよ」
同僚と思われる男に声をかけられた太一は気前よく返事をして、二人連れだって歩き出した。その横顔が見たことのない穏やかな顔をしている。記憶とのあまりの違いに自分の目を疑った。
(あれが本当に……父さん?)
太一は数歩歩くと突然立ち止まり、くるりとこちらを振り向く。枇呂は瞬時に身を隠した。
「どうしたんすか?」
「……いや、なんでもねぇ」
「あ、この前買った馬券が当たってーー」
男が話し始めると太一は相槌を打ちながら再び歩き出した。
五十メートルほどの距離を取って枇呂も歩く。枇呂だと気づかれないように茶髪のウィッグとキャップをかぶっている。
ドラマのようにサングラスやマスクをしたら怪しまれるので、あくまで自然に溶け込めるようにするのが鉄則だと三波は言っていた。
ーー『いいか。距離は取れ。あとすれ違ったら服は変えろ。コートだけでもいい。それだけで印象は変わるからな』
一度の尾行だけでもたくさんの衣服が必要になる。ウィッグや帽子、時間があればズボンも変える。
そうやって相手の印象に残らないよう気配を消して、鷹のようにチャンスを狙うのだ。
枇呂も念のため一度白のダウンから紺色のジャケットに変えている。
太一は駅の改札口で男と別れ、自宅とは反対方向の電車に乗った。
やはり今日も残業だと嘘を吐いているのだろう。
つり革に掴まっている太一はスマートフォンでなにやら熱心にメッセージを打っている。その横顔がだらしがなくニヤけていた。
枇呂は隣の車両に乗り、窓ガラス越しに太一の写真を撮る。
《早くメグちゃんに会いてぇな》
メグちゃん、というのは浮気相手なのだろう。でもこれだけでは証拠にはならない。
太一と浮気相手が一緒にいるところを撮る必要がある。
太一は一度乗り換え、埼玉の方に来た。まさかこんな遠くまで通っているのか。
慣れない土地に困惑しつつも枇呂は太一の背中を追う。彼は足取り軽く改札を出て商店街へと向かう。
ちょうど帰宅時間とかぶっているため、商店街には人が多い。夕飯を買いに来た主婦や学校帰りの中高生などがひしめき合っている。
背の高い太一は目立つものの、どんどん枇呂との距離が空いてしまう。
ーー『深追いし過ぎるな。だめだと思ったら撤退しろ。バレるのが一番ヤバイ』
三波の言葉がお守りのように枇呂を励ましてくれる。大丈夫。まだ太一の姿は見えている。
ーーリンリン
前ばかり気にしていていたせいで、後ろからくる自転車に気づけなかった。ベルを鳴らされてしまい、枇呂は慌てて端に寄る。
(しまった!)
一瞬目を離したすきに太一の姿が見えなくなってしまった。
スキンヘッドの長身なんて嫌でも目立つのに、辺りを見回してもそれらしい人物はいない。
(どこか路地に入ったのかな)
大通りの横には細い路地がいくつもある。そこはバーや居酒屋の提灯が点々と灯っていた。
店に入ってしまったらもう追うことはできない。
でも太一が退勤後に埼玉まで来ていた事実を掴めただけでも大きいだろう。残業はしていなかったと嘘の証拠を掴んだも同然だ。
枇呂が駅へ戻ろうと踵を返すと背後に人が立っていて、ぶつかってしまった。
「すいませ……」
見上げるほどの大男だ。首の後ろがぞわぞわする。殺気を含ませた鋭い眼光に睨みつけられ、枇呂の喉が「きゅう」と鳴った。
「久しぶりだな、枇呂」
太一に連れて来られたのは古びたスナックだ。
看板の文字は長年の雨が日光で色褪せ、辛うじて「スナック メロディ」と読める。
太一がドアベルを響かせて開けると腐った油の匂いの歓迎を受けた。
室内は昭和時代に取り残されたように古い。ブラウン管のテレビにカラオケセット、いくつもある丸テーブルは酒と煙草のせいで黄ばんでいる。
開店前なのかまだ客はおらず、照明が暗い。
太一は慣れた様子で中央のソファに座ると、カウンターからパサついた金髪の女が顔を出した。
「たーくん。いらっしゃい。その子は?」
「俺の息子」
「娘じゃなかったっけ?」
「こいつは最初の嫁との子」
「へぇ」
女は値踏みするように枇呂を見たが、すぐに興味をなくし、いそいそと店の奥へと引っ込んだ。
「まぁ座れ」
太一は正面の丸椅子を顎でさした。おずおずと座るとギシっと嫌な音がする。
ポケットから煙草を出した太一は、煙を吐きながら鋭い眼光を枇呂に向けた。
「で、おまえは俺のとこでなにしてる? いまさらパパに会いたくなった、とかじゃねぇだろ」
腹の底に響く声に枇呂は首から下げたスマートフォンを握った。なにかに縋っていないと地面に突っ伏して丸くなってしまう。
テーブルの黄ばみのように染みついた恐怖はいとも簡単に枇呂を追い詰める。
太一の細眉がぴくりと跳ねた。
「まだ持ってるのかよ。それのせいですべてが壊れたの忘れてねぇだろうな」
「……父さんが浮気するから」
「俺が悪いって言いてぇのか!」
太一は丸椅子を蹴飛ばし、枇呂の胸倉を掴んだ。血走った目は長年の酒のせいで黄色く淀んでいる。呼気は煙草臭く、反射的に眉を寄せると頬を叩かれた。
衝撃に耐えきれずに地面に転がり、枇呂は頭を守るように丸まる。
そんな枇呂を見て、太一の目尻が吊り上げた。
「昔もそうやってダンゴムシになってたな。その姿が心底嫌いなんだよ!」
背中を強く蹴られた。何度も何度も。靴の底についた泥を払うように繰り返される。背中が燃えるように熱い。痛い。
けれど顔をあげたら最後だと身体が覚えている。
カツカツとヒールが鳴る音が響いた。
「お店で喧嘩するのはやめて。やるなら外でして」
「ごめん、メグちゃん。すぐ終わるから」
「ったく。開店前なんだから汚さないでよね」
「はいはい」
女は太一に文句を言うとまた奥へと引っ込んだ。
枇呂は敏感に二人の間はただならぬ関係を感じ取った。
太一の浮気相手だ。
女の様子から、太一のことをすべて知っているのだろう。わかった上で付き合っているのだ。
可奈子とくるみの顔が浮かぶ。いい父親なんですよ、と言っていた。だが目の前の男は昔のままなにも変わっちゃいない。
支配的で短気で、暴力ですべてを解決しようとする。クズ中のクズだ。
そう内心では罵ることはできるのに、震えてしまう唇ではなにも言い返せない。
太一は枇呂の髪を掴んだ。するりと金髪のウィッグは取れ、ミルクティー色の地毛が露わになる。
ウィッグを床に放り、太一は踏みつぶした。
「こんなヅラまでかぶって用意周到だな。いや、違う……誰かに頼まれたのか? そうだろ?」
太一に地毛を掴まれ、顔を上げさせられた。ぶちぶちと毛が抜ける。鋭い痛みに枇呂の目尻に涙が浮かぶ。
「痛い……やめて」
「ちゃんと応えたらな」
正直に答えてやめてくれた試しがない。でも藁にもすがる思いで唇が開きかける。
三波の声が蘇ってきた。
ーー『おまえならできるよ』
(ごめんなさい。駄目みたいです)
犬みたいに撫でてくれる三波の手が心地よかった。あの場所に帰りたい。
その一心で枇呂はスマートフォンに手を伸ばし、シャッターボタンを押した。画面を見なくてもどこをタップすればいいか、指が覚えている。
「テメエ、写真は撮るなと言っただろ!!」
再び頬を叩かれ、地面に転がる。スマートフォンを奪われそうになり、枇呂は両手で必死に守った。
これだけは命に代えても守り抜く。
「もういい加減にしてよ!」
女が再び戻って来て、一瞬太一の気が逸れた。その隙に枇呂はレンズを二人に向ける。画像を確認している暇はない。
枇呂の行動に女は目を丸くしている。
「なにしてるの?」
「こいつは写真を撮ると相手の心が読めるんだよ。いいから奪え!」
「あんた、クスリやってたっけ?」
「ちげぇよ。クソ、おまえのせいで俺まで変人扱いされるじゃねえか!」
枇呂は後退しながら夢中でシャッターボタンを押し続けた。
太一が飛び掛かって来る。だが「ホンネ」を見ている枇呂はひょいと左に避けた。右、後ろ、左と太一の思考を読みながら後退し、扉が背中に触れた。
あと一歩で外に出られる。
だが太一は黄ばんだ歯を剥きだし、いまにでも枇呂の首を噛み切ろうとしていた。
じとりと粘度のある汗がこめかみを伝う。
「可奈子さんたちが家で待ってるんじゃないの?」
「なんだ、あいつらに会ったのか」
納得したように太一は頷いた。
「俺は可奈子におまえのことを話してない。てことは、あいつらに依頼された探偵ってとこか」
「……っ!」
「図星か。証拠は残さないようにしてたんだけどな。やっぱ帰宅時間が遅いとバレるよな」
太一が女に投げかけると、女は呆れたように肩を竦めている。
「だからすぐに帰りなさいって言ってるじゃない」
「だってメグちゃんが魅力的なのが悪いよ」
女に対して猫なで声を出す太一に寒気がした。
可奈子とくるみの前では善人ぶっていたのだろう。もしかして枇呂の母親の前でもそうだったのかもしれない。
確かに枇呂が「ホンネ」の能力を手に入れるまでは、いい父親だったような気がする。
ぐるりと太一の目の色が変わった。
「そうとわかったら逃がさねぇよ。どこの事務所か吐かせてやる」
太一は拳を振り上げた。写真を撮る暇もない。
(やられる!)
ぎゅっと目を瞑ると背中の扉が開き、枇呂は後ろに転がった。リリンとドアベルが鳴る。
「やっほ~メグちゃん……ってなんか人が転がってきた」
どうやら客が扉を開けたらしい。すでに出来上がっているスーツを着た中年二人組が転がった枇呂を見て目を丸くしている。
枇呂はすぐに起き上がって走り出した。
「テメエ、待ちやがれ!」
太一の咆哮が背中に届くが、枇呂は夢中になって走り続けた。
どこをどうやって帰ってきたか記憶がない。枇呂が気づいたときには自室にいた。
トレーナーにまで汗が染み込み、砂袋のように重たい。両足はガクガクと震えていて、立っていることもままならず、敷きっぱなしの布団の上に座り込んだ。
忘れていた恐怖が足元から這い上ってきて、枇呂の心を蝕み始める。
震える身体を抱いても治まらない。よく太一と対峙できたものだ。
幸いなことにまだ三波は帰ってきていない。
この状況を見られて太一の調査をしていると知られたらマズイ。
(風呂に入れば気持ちが楽になるかもしれない)
枇呂は震える足を叱咤しながら事務所に通じる扉を開けると、いつのまにか三波が帰っていたようだ。
「忍野の方が早かったな……どうした、その顔」
「顔?」
頬を触るとじんと痛んだ。そういえば太一に殴られていたことを思い出した。アドレナリンが出ていたのか、三波に指摘されるまでいまのいままで痛みすらなかった。
三波の瞳に鋭さが混じる。
「それ殴られたんだろ? 誰にやられた?」
「……」
「マル対か?」
「いえ、その」
「とりあえず冷やそう」
三波は冷蔵庫から保冷剤を取り出し、枇呂の頬に当ててくれた。冷たさが気持ちいい。
目を細めようとすると左頬がギリギリと痛んだ。口の中も切っているのか鉄の味がする。
眉を寄せる三波を見ているだけで枇呂の胸は締めつけられた。
一人で仕事もできないのかと呆れているのかもしれない。
(なんとかしないと。もう失敗しないって決めただろ)
「ホンネ」の能力を使うせいで枇呂は度々トラブルを起こし、仕事を変えてきた。
でも今回ばかりは諦めたくない。
ここにいたい。三波のそばにいたい。
腹の底から熱いものが込み上げてきて、涙となって枇呂の頬を伝った。
「そんだけ腫れればいてぇよな。歯、折れてないか?」
「……すいません」
「病院行くか? いまならまだギリ開いてるかも」
心配してくれるやさしさが辛い。こんな役立たずな枇呂に気なんて使わないでいいのにと思う。
でも三波は誰かを見捨てることなんてできない。
口は悪いのに心根が清らかなのだ。
だからこそ嘘を吐いていた後ろめたさにぐっと喉を締められる。
(これ以上隠しておけないな)
枇呂はゆっくりと口を開いた。
「……マル対が、父親だったんです」
保冷剤を支えてくれている手がぴくりと跳ねた。目をわずかに開いたあと三波は「そうか」とだけこぼして、再び保冷剤を当ててくれる。
「花島から聞いてたよ」
「嘘……言わないでって言ったのに」
「あいつは忍野に関しては口が軽いからな」
「どうしてですか?」
「俺がそう頼んでる」
つまり枇呂を信用していないということなのだろう。
(おれはなんて勘違いをしてたんだ)
三波に信用されている、なんて調子づいて相談もせずに父親の浮気調査をした。しかも失敗に終わり、こうして迷惑をかけている。
なんて劣等生な弟子なのだろう。
「迷惑かけてすいません。もう辞めまーー」
最後の言葉を紡ぐ前に喉がきゅうと苦しくなった。
どんなに罵詈雑言を浴びせられても、殴られてもみっともなく三波に縋ってしまいたい。
目元が熱くなってくる。涙が出てきそうな気配に喉を絞めた。泣いたらだめだ。余計惨めになるだろう。
目元を乱暴に擦っていると三波の手がやさしく制してくれた。
「……忍野のことは花島から事情を聞いてたし、調べてある。もちろん家庭環境も全部把握してる」
「最初から知ってたんですか」
「素性をわからねぇ奴を雇うほどお人好しじゃない」
では父親から暴力を振るわれていたことも知っていたのか。三波はすべて承知の上で雇ってくれていたということになる。
(どうしてそんな厄介者なおれを雇ってくれたのだろう)
理由はこの際もういい。考えてもわからないのだから。
だったらせめて最後まで役立つコマとして働きたい。
「でも写真は撮れました」
首に下げたままのスマートフォンを顔の前に掲げた。
役立たずだけど、この能力だけは本物だ。
枇呂は画面フォルダを開いた。
父親の驚いた顔、浮気相手とのツーショット、逃げながら撮ったもの。
全部が残っている。
だが、一文字も浮かんでこない。
そのどれもがただの写真で、相手の「ホンネ」がなにも映っていない。
枇呂はさらに過去に遡るが、文字が浮かんでくることはなかった。
「どうして……見えない。「ホンネ」が……おれはこれしかないのに。はぁ……ひっ、ひ……」
「忍野?」
頭を押さえつけられたまま、水面に顔を上げられないように息が苦しい。もがけばもがくほど、水底に沈んでいくような恐怖があった。
「ひ、……っ」
「大丈夫だから。ゆっくり息を吐け」
首を振る。だめだ。息が吸えない
喉を押さえて悶えた。苦しい。死ぬ。視界が白で塗り潰される。
「忍野!」
三波に抱き起され、唇が重なった。掴まれた顎を下に引っ張られると熱い吐息が体内に入ってくる。
「ふ……ふぁ……ふ」
「そうだ。ゆっくり吸え。大丈夫だから」
三波は一度励ますとまた唇を重ねた。空気が送られ、段々と視界が明るくなる。
しばらくして三波は唇を離した。
「大丈夫か?」
「はい……すいません」
「過呼吸だな。よくなるのか?」
「初めてです」
「そうか。水、持って来てやる」
「あ」
枇呂は立ち上がろうとする三波のニットを掴んだ。びょんと伸びてしまい、不思議そうに見下ろされる。
「あ、あの」
「一緒に行くか」
「……はい」
手を繋いでもらい、冷蔵庫から水のペットボトルを出してちびちびと飲んだ。
血管を通るように冷たい水が全身に周り、冷静になってくる。
三波はそっと枇呂の頭を撫でた。
「落ち着いてきたか?」
「はい」
「なら風呂に入るぞ」
「え!」
あれよあれよという間に三波と一緒に風呂に入り、夕飯はカップラーメンを食べた。
腹が膨れるとすぐに歯を磨かれ、三波の部屋のベッドに連れて行かれる。
クイーンサイズらしいが、男二人だと狭く、自然と抱き合う形になってしまう。
三波のスウェットから香る柔軟剤が心地よくて枇呂は額を擦りつけた。
風呂で温まり、食欲は満たされ、寝心地のいい布団に包まれている。
ここは天国なのかもしれない。
枇呂はすんと鼻を鳴らした。
「こんなにお世話されたの初めてです」
「たまには従業員を労わってやらねぇとな」
片頬を上げる三波に枇呂の耳が熱くなる。つまり子どもと同じ扱いをされたということだろうか。
(なんか癪に障るけど、いまはいいや)
三波の背中に腕を回すとぎゅっと応えてくれる。生きてる人だ。温かくてがっしりとして、鼓動を感じた。
あのときの冷たい無機物とは全然違う。
「おれ、初めて抱いたのは人骨の標本だったんです」
枇呂は過去を語り出した。
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