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第5話
十歳の誕生日に両親からキッズカメラを貰った。写真に興味があったわけではない枇呂は、クラスで流行っているゲームを強請っていた。
けれど両親はさも枇呂が頼んだかのように「よかったな」と笑っていたので言えるはずもない。
それでも両親から貰えたものは素直に嬉しかった。いそいそと箱から取り出し、液晶画面のついたカメラは本物のデジタルカメラのようで、少しテンションが上がる。
『じゃあパパとママを撮ってあげる』
『イケメンに撮れよ』
『うん』
せっかくならと庭に植えてある桜の木の前で両親に並んでもらう。青葉が夏空に向かってぴんと伸びていて凛々しく見え、一緒に撮ったらきれいだと思った。
『撮るよ』
パシャと電子音のあと、枇呂はすかさず再生ボタンを押した。
両親の笑顔の上に文字が浮かんでいる。
《早くノンちゃんのとこ行きたい》
《この人の隣なんて嫌》
枇呂が浮かんだ文字を読み上げると両親は笑顔のまま固まった。
『枇呂ちゃん、どうしたの?』
『壊れてるのかな? ここに変な文字があるんだよ』
枇呂は母親に液晶画面を見せた。両親の頭上にはっきりと文字が書かれている。
だが母親には見えないらしい。同じように画面を覗いた父親も首を傾げている。
『ねぇ、ノンちゃんって誰?』
枇呂が問いかけると父親の眼光が鋭いものに変わった。まるでいままで隠していた武器を手にしたような殺気にひゅうと喉が鳴る。
『あんた、まだあの女と繋がってたの!』
『ちげぇよ! こいつが嘘言ってるんだ』
『枇呂ちゃんは知らないわよ! どういうこと!?』
笑顔の絶えなかった家が一気に修羅場と化した。
それから母は父を罵り、そして父も母を罵倒した。それでも怒りは治まらないのか、二人は家具や食器を投げつけあった。
呆然と立ち尽くす枇呂の横でがしゃんと大皿が割れる。
騒ぎをききつけた近所の人が来てくれるまで、二人の乱闘は続いた。
(なんで、こんなことに)
枇呂は首から下げたカメラをぎゅっと握った。
それから何度も二人の写真を撮った。両親からはお互いを罵る言葉ばかり浮かんでくる。
枇呂が口にするたびに燃料を投下された焚火のように喧嘩は燃え上がっていく。
もしかしてと一つの可能性が浮かび、レンズを自分に向ける。
《昔のパパとママに戻って欲しい》
いままさに自分が思っていたことが文字として浮かんだ。
これは「ホンネ」を映すカメラだ。
枇呂は母親から嘘はいけないことだと教わっていた。
幼稚園生のとき、友だちのおもちゃを持って帰り、気づいた母親に問い詰められたが「知らない」と嘘を吐いたのだ。
あのときの母親の痛みを堪えるような顔はよく覚えている。嘘は大切な人を傷つけるのだと気づいた。
このカメラは嘘を吐く人を成敗するものなのではないか。
その日以来、枇呂は写真を撮った。両親や友だち、近所の人など所かまわず撮りまくり、嘘を吐く人には断罪してきた。
それが正しいことなのだと信じて
『いい加減にして!』
ある日の晩、母親はテーブルを強く叩いた。もうそのころには料理をする気力もなかったようで、毎日のように総菜やカップラーメンばかりだった。器に入ったスープが波紋をつくる。
『どうしてそんなにトラブルばかり起こすの? 写真ばかり撮るの? ママが近所でなんて言われてるか知ってる?』
枇呂は絹のように美しかった黒髪が艶をなくした母親を見返した。随分と痩せている。一体どうしたのだ。
枇呂がカメラに手を伸ばそうとするとストラップを引っ張られた。
『このカメラのせいね』
『やめて!』
『こんなもの、買うんじゃなかった!!』
母親はカメラを庭に放り、枇呂は裸足のまま庭に飛び出した。
土で汚れてしまったけれどボタンを押せばちゃんと電源がつく。再生ボタンを押し、カメラロールを見返した。
中身は虚言で溢れている。
こんな嘘の世界はだめだ。嘘のない平和な国にするため、自分はこのカメラを授かったのだ。
カメラを握り、枇呂は振り返った。
『ママが嘘はだめって言ったでしょ! 僕は正しいことをしているだけだ』
『枇呂ちゃん……あなた』
『ママも嘘つきだ!』
枇呂の断罪に母親は糸が切れた操り人形のようにその場に座り込んだ。
数日後、母親は離婚届だけを部屋に残して家を出て行った。
仕事から帰ってきた父親は離婚届を見て、かっと顔を赤くした。
『テメエがなにもかも壊したんだよ!』
『違う。父さんが嘘を吐いたからだ!』
『親に逆らうのか!』
父親の拳が鳩尾に食い込んで、枇呂はその場で吐いた。
母がいなくなったあとの家は酷いものだ。父が酒に溺れ、毎日暴力を振るわれた。
母親と三人で暮らしていた戸建てを売り払い、ボロアパートに引っ越した。
だが半年も経たずに父は出て行き、親がいなくなった枇呂は親戚の家に預けられた。
それでもカメラは手放せず、嘘を暴き続けた。新しい学校でもトラブルを起こし、親戚は何度も呼び出された。
気味が悪いとすぐに追い出され、十四歳のとき花島家に辿り着いたのだ。
父方のいとこだという叔父は厳格な人で、叔母もまた厳しい。一人息子である昭仁とは五歳離れており、当時は大学生だった。
花島家の敷居を跨った枇呂に、眼鏡の奥の瞳を鋭くさせた昭仁は言い放つ。
『おれのことはお兄ちゃんと呼べ』
枇呂はすかさず花島を撮った。
『弟が死んじゃったんですね』
『……なぜ、それを』
『写真に書いてますから』
枇呂は自分が写真を撮った対象の「ホンネ」がわかることを伝えた。もう何十回も説明してきたので、滑らかに出てくる。でも、誰も信じてくれなかった。
後から知ったことだが、花島の母は枇呂と同い年の赤子を身籠ったけれど、胎内で亡くなってしまったらしい。
昭仁は誰よりも弟の誕生を楽しみにしていたそうだ。
でも花島家には弟の仏壇はない。親戚の中でもタブーとして扱われ、枇呂が知る術はなかった。
だから花島は枇呂を気味が悪いと思っていたのだろう。
だが、花島はふんと鼻を鳴らすだけに留めてくれた。
枇呂は与えられた部屋に閉じこもり、ただ日常を消化していた。
高校に進学しても「ホンネ」を暴くことはやめられない。そのたびにクラスメイトと揉めた。
トラブルばかり起こす問題児として認定されており、周りから遠巻きにされている。友だちどころか、気軽に話せるクラスメイトもいない。
自分は正しいことをしている。嘘を吐いている人が悪い。
それなのに嘘を暴いている自分がなぜ孤独でなければならないのか。
枇呂は放課後、ふらふらと校内を歩いていると扉の小窓から標本の人骨がみえた。吸い寄せられるように理科室に入る。
薬品の匂いが鼻をつく。暗幕の隙間から日差しが入り込み、床に長い光の線ができていた。
導かれるまま人骨の前に立った。頭から胴体、足まで人間の形をしている。ただ筋肉と皮膚がないだけで、ほとんど人間だ。
枇呂は人骨の腕をとり、自分の背中に回した。そして自分も人骨の背骨部分に手を伸ばす。
目を瞑り、想像した。これが人だったらどれほど温かいのだろう。
けれど目を開けると現実に帰ってくる。真っ黒な洞窟みたいな目は枇呂を嘲るように笑っていた。
だが孤独に喘いでいた枇呂は、もう一度目を瞑り人肌を求めた。
枇呂が話終わると、それまで黙って聞いていた三波はゆっくりと口を開いた。
「初めての人肌はどうだ?」
「いい匂いがします」
「他には?」
「なんだか……胸がポカポカします」
あれほど憧れていたものが、いま目の前にある。嬉しい。三波のスウェットを引っ張って、鼻に擦りつけた。同じ柔軟剤なのに微かに三波ならではの甘い匂いが混じっている。
三波に触れていると、かさぶたで覆われていた心の器に温かいものが流れてきた。
でもどんどんと溢れてくるのになかなか容量がいっぱいにならない。
人間はどこまでも欲張りのようだ。
三波の大きな手が枇呂の頭を撫でてくれる。
「どうして「ホンネ」が見えなくなっちゃったんでしょう」
「さあな」
「この力がないとおれは……」
ぎゅっと三波のスウェットを掴んだ。人の「ホンネ」が見えないまま会話するのは、腹をすかせたライオンの檻に放り込まれる餌の気分と似ている。
嘘を吐かれて裏切られるのが、怖い。
きつく握っている手に三波のものが添えられた。
「みんなそうだよ。人の心が読めなくて怖い」
「三波さんはどうしてるんですか?」
「表情を見たり、会話をしたりだな。あとなんとなく雰囲気を察したり」
「それができないから困るんです」
空気を読む、というのは枇呂が一番苦手なものだ。見えないものをどうやって読めばいいのかさっぱりわからない。
三波は声もあげずにクスクスと笑っている。
「そうやって悩むのも成長だろ」
「そうなんですか?」
「人生に無駄なことなんてねぇんだよ。その小さい頭で考えてろ」
こつんと額にデコピンをされた。いつもの三波との会話ができてほっとする。
三波の指が伸びてきて、枇呂の唇をなぞった。まだそこは湿り気を帯びている。
「どうしたんですか?」
「ファーストキスだっただろ? 奪ってわるかったな」
「あれは人工呼吸のようなものなので、ノーカンです」
「は?」
「三波さんもすいません。男のおれと……嫌でしたよね?」
「別にそれは構わないというか」
「すいません。もうならないように気をつけます」
緊急事態だったとはいえ、男の自分に人工呼吸をしただなんて、三波にとって一生の汚点かもしれない。
「それわざと言ってるわけじゃないんだよな?」
「わざとってなにがですか?」
「いや、いい。やっぱ天然怖いな」
「意味はわからないけど、莫迦にされているのはわかります」
「莫迦になんてしてねぇよ」
「どうですかね」
枇呂がぷすっと頬を膨らませると三波はそっと頭を撫でてくれた。
「明日は俺が調査に行くから、忍野は少し休め」
「大丈夫です。できます」
「顔割れしたから無理だ」
「おれがやらなくちゃいけないんです」
「……なんでこう、真面目かな」
三波が小さく息を吐いた。吐息がまだ完全に乾いていない枇呂の髪を揺らしている。
「今日はもう寝ろ」
「……ここで、寝てもいいですか?」
もう少し三波のそばにいたい。目だけを覗かせると三波は目元を手で押さえ、深く息を吐いた。
「はぁ〜……いいよ」
「ダメでした?」
「……理性的な俺に感謝しろよ」
「はい」
「意味わかってないだろ?」
「三波さんはやさしいです」
「……そうかよ」
「また空気を読めてませんか?」
「だいたい合ってるよ」
三波は不満そうに唇を引き結んだ。なにか違っただろうか。
布団は温かくて、三波からはやさしい香りがする。撫でてくれる手のひらは大きいから包まれているようで安心できるのだ。
眠気がじんわりとやってきて、枇呂は目を瞑った。
枇呂が朝目を覚ますと三波の姿はなかった。隣のシーツは冷たく、いなくなってから相当時間が経っているらしい。
起き上がって伸びをするとカーテンの隙間から日の出の淡い光が見える。
事務所に顔を出すが、三波の姿はない。壁にかかった時計は朝の六時を指している。
きっと太一の調査に出かけたのだろう。連れて行ってもらえなかった寂しさが胸に鋭い痛みをもたらす。
(おれじゃ足手まといなんだろうな)
「ホンネ」が見えない枇呂に価値はない。
十歳から十二年間、ずっと「ホンネ」を暴いてきた。
嘘は人を悲しませるものだからと断罪し続けた結果、枇呂の周りに誰もいなくなった。
孤独感ばかりが膨らみ、いつしか枇呂を囲う要塞に変わる。誰も自分を理解してくれない。そんな世界が悪いのだと。
でも三波だけは違う。
彼に拒否されたら、二度と立ち上がれない。
(三波さんに必要とされたい)
なぜか、と鈍い頭で考える。
三波は冤罪で捕まっても抗い続けた。最後は認めたようなものだと言っていたけれど、彼の魂までは穢れていない。
たった一人で荒波に立ち向かう姿にどれほど勇気を貰えただろうか。
枇呂の能力を知っても疑わず、受け入れてくれた度量は海より広く、支えてくれるやさしさはどんな大木よりも芯がある。
そんな三波のそばにいたい理由は一つだ。
「おれは……三波さんが好きなんだ」
欲しがってばかりだった愛情を分け与えたいと初めて思えた。
雨に濡れても人に傘を貸してしまうような三波に、今度は自分が彼の傘になりたい。
人工呼吸として触れた唇がじんわりと熱を帯びる。
なんて大胆なことをしていたんだ。
同じ布団に入ったり、風呂に入ったり、頭を撫でてもらったり。その度に三波は難しい顔をしていた。
三波の気持ちを一切考えていなかった自分が恥ずかしい。
でもその前にやらなければいけないことがある。
居ても立ってもいられず枇呂は外に飛び出した。考え込んでいる間にすっかり日が沈んでいる。橙色に染まる空にはカラスの番が仲良く飛んでいた。
電車を乗り継ぎ、枇呂は北千住まで来た。
工場までの道を走っていると従業員と思しき人たちとすれ違う。
(きっと三波さんのことだから、少し離れたところにいるはずだ)
いままで教えてもらったことを思い出し、枇呂は工場を通り過ぎて反対側に向かう。
門から二十メートルほど離れると、住宅街に入る。駅とは反対方向なので歩行者はほとんどいない。
辺りを見回しているとぐいっと腕を引っ張られ、電柱の影に引きずりこまれた。
「なにやってるんだ!」
焦りと怒りが混ざったような三波は眉を吊り上げている。ほんの数時間ぶりなのに何日も会っていなかったような懐かしさが枇呂の胸に広がった。
「戻れ。マル対に見つかるだろ」
「もう逃げないって決めたんです」
「なにが?」
「父親とちゃんと向き合いたいです。探偵としてではなく、おれ個人として」
「昨日殴られたばかりだろ。話しが通じる相手じゃない」
「それでも……父親なんです」
そう訴えると三波は目を丸くさせた。
「ホンネ」を見ることを受け止めてもらえないと両親を悪者にしてきた。
でもそうじゃない。
相手の気持ちを受け入れることが大事なのだ。
自分の気持ちばかり押しつけるのは相手を理解することにはならない。
一度自分の中に落とし込み、相手の気持ちを理解してから自分の気持ちを伝える。
対話とはそういうことなのだ。
「おれは「ホンネ」が見えるからって相手の気持ちをおざなりにしてきた。だからダメなんです。おれは変わりたい」
「忍野……」
「三波さんとこれからも一緒にいるために、ここに来ました」
枇呂の決意に三波は驚いている。
守られるだけは嫌なのだ。それでは三波と同じ目線で未来を向く権利がない。
三波はゆっくりと頷いてくれた。
「わかった。ついてこい」
「はい」
枇呂が三波とは反対側の電柱に背中を預けるとすぐに太一の姿が見えた。今日は一人らしい。
周りを警戒しているところから、枇呂が来ると踏んでいるのだろう。
枇呂と三波は充分な距離をとって太一の後をつけた。
太一は昨日と同様に家とは反対方向の電車に乗っている。やはり浮気相手の方に行くのだろう。
可奈子には浮気相手がいたことは話してある。電話口だったが、「そうですか」と言う声はとても沈んでいた。
心のどこかでは浮気をしていないと信じたかったのかもしれない。
商店街を抜けて、太一は寂れたスナックに足を踏み入れる。ドアベルが鳴り止み、数秒してから枇呂は店の前に立った。
太一の、父親の浮気癖は治らないのだろうか。
家庭を壊すとわかっていて、どうして浮気をするのだろう。理解ができない。
だから枇呂は太一の気持ちを知る必要がある。
両足がぶるぶると震えだす。枇呂は太腿を強く叩いて気合いを入れた。
「おれ、行きます」
「莫迦! なにされるかわかんねぇんだぞ。ここで張ってればそのうち二人が出てくる。その写真を撮れればいいんだ」
「父親の気持ちを知りたいんです」
三波に掴まれた肩が痛い。
きっと孤独で戦ってきた辛さを知っているから、三波は枇呂を心配してくれているのだろう。
(三波さんがいると力が湧いてくる)
だから怖くない。立ち向かう勇気をくれる。
「戻ったら話したいことがあるんです。聞いてくれますか?」
「そういうの死亡フラグだからやめてくれ。いま話せ」
「気が緩んじゃうんであとでお願いします」
枇呂が真剣な目で見返すと三波は乱暴に前髪を掻き上げた。
「……五分な。時間過ぎたら俺も突入する」
「ありがとうございます」
肩から手を離してくれた三波は納得していない様子だった。そんな彼に微笑みかけて、枇呂は古びたスナックの扉を開いた。
リリンとベルがゴングのように鳴り、店の中央に太一の姿がある。
枇呂を認めるとぎりっと眦を吊り上げた。
「テメェ、どの面さげてまた来てんだよ」
「また同じ過ちをするの?」
「はぁ?」
「また家庭を壊すの? 可奈子さんやくるみちゃん……傷つけるとわかって、父さんはどうして浮気をするの?」
太一は虚を突かれたように目を見開いた。まさか枇呂から訊かれるとは想像もしていなかったのだろう。
じっと太一を見た。瞬きもせず、目がどんどんと乾いていき、神経が研ぎ澄まされていく。
太一はわずかに視線を泳がせた。歯を食いしばり、顎を引いている。息子に諭されてプライドが許さないのだろう。
だが同時に、太一が手のひらに汗をかいているような動揺が伝わってくる。
もしかして本人もなぜ浮気を繰り返すのかわからないのだろうか。
セックス依存症、という言葉が枇呂の頭によぎる。
確か幼少期に家族からの虐待や暴力などの体験により、心の平穏を保てなかった人に多い依存症だ。
父方の祖父母は枇呂が生まれる前に死んでいる。だから太一がどんな家庭環境で育ってきたのか知らない。
(この人も被害者なのかもしれない)
虐待は鎖のようにずっと続く連鎖だ。その衝動がいまもなお太一を苦しめているのだろうか。
その鎖を絶たなければ、ずっと太一は同じ過ちをし続ける。
自分たちはだめだった。でも可奈子たちにはまだ可能性がある。
だってくるみの顔は父親を慕っていたのだから。
「父さん、みんなに話してよ」
「おまえ……なに言って」
「病院に行って相談しよう」
「俺が病気だって言いてぇのか!!」
激高した太一はテーブルを蹴り飛ばした。ビールの入っていたジョッキががしゃんと割れる。
太一はずんずんと足を鳴らし、枇呂の胸倉を掴んだ。呼気からはアルコールの匂いがぷんとする。
両目は血走り、長年の酒のせいで黄色く濁っている。だが瞳の奥は不安定に揺れていた。
「病気はおまえだ。おまえが家をめちゃくちゃにしたから、俺がこんなんになっちまったんだよ!」
「そうかもしれない」
枇呂が「ホンネ」を見えるようになるまでは普通の家庭だった。だが母は太一が浮気をしているのを知っていたようだし、遅かれ早かれ離婚していただろう。
ただ最悪な状況で枇呂がバラしたのは事実だ。
「でもいまは違うでしょ。可奈子さんは父さんを大切に想ってるよ」
「うるせぇ!」
こぶしが飛んでくる。でも枇呂は逃げない。
頬に当たる寸前のところでこぶしが不自然に止まった。
「そこまでにしてください」
横を見ると三波の姿があった。後ろには可奈子とくるみがいる。
可奈子の目には涙が浮かび、くるみは状況を理解できていないのかにっこりと笑っていた。
「パパ~!」
くるみは太一を見つけると走って飛びついた。虚空を彷徨っていた太一の腕がくるみに伸びる。
太一はまるで壊れ物のようにくるみを抱いた。小刻みに肩が震え、嗚咽が漏れ聞こえる。
「うっ……オレはどうして、こうなんだ」
「パパ、いたいいたいなの? いーこしてあげゆ」
くるみは小さな手のひらで太一の頬を撫でた。その純粋なまでのやさしさに胸を締めつけられる。
「……ごめんな」
大きくて恐ろしかった背中がいまは酷く小さく見えた。
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