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第12話 思い出せない
「俺は、この夏のことを何も思い出せない」
机の上の写真へ、三人の視線が落ちた。
中央にいるのは、十歳の星愛と梓だ。肩が触れそうな距離で並び、同じ方向を見て笑っている。
「この写真だけじゃなくて、夏休み全部ですか」
「ああ。青葉小学校に通っていたことは覚えてる。五年の春に遠足へ行ったことも、二学期から別の学校へ移ったことも」
「その間だけ、ない?」
直に聞かれ、梓は頷いた。
「気づいてなかった。思い出そうとしたこともなかったからな」
星愛は写真を持ち上げた。表面に残った指の跡を袖で拭う。そこにいる梓は、今よりずっと無防備に笑っていた。
「僕のことだけではないんですね」
「だからといって、お前を忘れてた事実は変わらない」
「忘れようとしたわけではないでしょう」
「同じだ」
「違います」
星愛が顔を上げても、梓は目を逸らさなかった。
「僕が勝手に思い出しただけです。梓さんにまで同じ記憶を求めるつもりはありません」
「お前は、それで納得できるのか」
「できませんよ」
迷わず返すと、梓の眉がわずかに動いた。
「でも、思い出せない人を責めたところで、記憶は戻りません」
机の端で、小型の中和装置が動いている。首には病院から指定された遮断性の高いパッチが貼られ、二人の席も普段より離されていた。
それでも梓が苛立っているのは分かる。匂いのせいではない。拳を握り、写真の中の自分を睨んでいるからだ。
「今日は帰ったほうがいいよ」
直が梓の前から業務用のタブレットを取り上げた。
「仕事はできる」
「できるかどうかじゃなくて、させない。お客様の前で考え事をしないって、いつも言ってるだろ」
「お前に指示されたくない」
「今日は社長代理として言ってる」
「都合のいいときだけ肩書を使うな」
「使わないと帰らないでしょ」
直は梓の返事を待たず、午後の予約を別日に移し始めた。
「この写真、借りてもいいか」
梓が星愛へ手を伸ばす。
「母から預かったものなので、なくさないでください」
「なくさない」
写真を渡す瞬間、触れないように気をつけたはずの指先が、わずかに重なった。
先日のような強い反応はない。けれど梓の手が止まり、星愛もすぐには引けなかった。
「千影」
「はい」
梓は何かを言いかけ、そのまま写真を封筒へ戻した。
「……いや」
それ以上は残さず、事務所を出ていった。
◇
梓の部屋には、昔のものがほとんどなかった。
ベッドと机、必要な数だけの食器。壁には時計しか掛かっていない。客の好みに合わせるための服は何着もあるのに、梓自身が好きで選んだと分かるものは見当たらなかった。
机に写真を置く。
窓から差し込んだ夕日が、写真の端を橙色に染めた。
目を閉じると、校庭の土と、うるさいほどの蝉の声までは浮かぶ。そこへ星愛を立たせようとした途端、景色が途切れた。
「千影星愛」
名前を口にしても、何も戻ってこない。
梓はクローゼットの奥から、転居したときのままになっていた段ボールを引き出した。叔母の家を出る際に渡されたもので、中には古い通知表や転校書類が詰め込まれている。
乾いた紙と、防虫剤の匂いが混ざっていた。
青葉小学校、五年二組。七月までの出席記録。
その下に、転校手続きの書類がある。日付は八月三十一日。保護者欄に記された母親の名前には二重線が引かれ、代わりに叔母の名前が書き足されていた。
さらに底を探ると、小さな封筒が出てきた。
『梓へ』
見覚えのある字だった。
『しばらく美帆叔母さんの家にいてください。落ち着いたら、必ず迎えに行きます』
それだけだった。
一度読んで、紙を伏せた。すぐにまた裏返す。書かれている言葉が変わるはずもないのに、二度、三度と目で追った。
「何だよ、これ」
母親がいなくなったことは覚えている。叔母の家の玄関で迎えを待ち、知らない学校へ通い、誰にも馴染めないまま冬になったことも。
なのに、この手紙を受け取った日は出てこない。
胸の奥に吐き気に似たものがせり上がり、梓は封筒ごと机から払い落とした。床へ散った書類の中で、転校届だけが裏返る。
しばらく拾えなかった。
写真の中で星愛と笑っていた夏も、その直後に母親がいなくなった日も、同じところで切れている。
梓は床に座ったまま、叔母へ電話をかけた。
「俺がそっちへ行ったときのこと、覚えてるか」
『覚えてるわよ。急だったから、部屋の用意もできてなくてね』
「俺は何か言ってたか」
返事が止まる。
「母親のことでも、学校のことでもいい」
『梓、あんた……覚えてないの?』
「だから聞いてる」
また、何も返ってこない。
「何かあったんだろ」
『分からないのよ。何を聞いても、覚えてないって言うだけだったから』
「本当に、それだけか」
『……一度だけ、学校へ戻りたいって』
梓の指が、床に落ちた写真の端へ触れる。
「何のために」
『誰かと約束したからって。それ以上は話してくれなかった』
「誰と」
『ごめんね。聞いても答えなかったの』
隣にいる少年の名前は分かる。目の前に立っている今の星愛も知っている。
けれど、その二人の間だけが、どうしてもつながらなかった。
◇
翌朝、梓が事務所へ入ると、星愛と直はすでに来ていた。
机には、病院から送られてきた適合検査の案内が置かれている。
「早いですね」
「お前らのほうが早いだろ」
「今日は検査の返事をする日だから」
直は案内へ目を落とした。鞄についた白いクラゲのキーホルダーを握り、金具が掌へ食い込んでから手を離す。
「急がなくていいとは言われてる。でも、受けるなら日程を押さえたいって」
「直先輩は、僕たちに受けてほしいんですか」
「正直に言えば、受けてほしくない」
直は星愛と梓を順に見た。
「二人が運命の番だと証明されるかもしれない。平気なわけないよ」
「なら、どうして案内を?」
「隠したところで、起きたことは消えないから」
白いクラゲが、鞄の横で小さく揺れている。
「それに、検査結果が星愛の気持ちまで決めるわけじゃない。そうだろ?」
「ああ」
「そこで迷わないんだね」
「千影は、運命の番だから俺を選ぶようなやつじゃない」
「分かってるならいい」
「お前に確認される筋合いはない」
「二人とも」
星愛が止めると、梓と直は同時に口を閉じた。
「梓さん。昨日のこと、何か分かりましたか」
「母親がいなくなったのが、あの夏だった」
星愛の手が、膝の上で動く。それでも梓との距離は詰めなかった。
「写真を撮った少しあとに、俺は叔母の家へ移ってる。だが、その前後だけ記憶がない」
「それが原因なんでしょうか」
「知らない。理由にすれば簡単だが、本当にそうなのかは分からない」
梓は借りていた写真を机へ置いた。
「お前と会ったことも、約束したことも思い出せなかった」
「謝らないでください」
「謝ってない」
「では、自分だけが悪いみたいに言わないでください」
梓は何も返さなかった。
「僕は、梓さんに昔の約束を守ってもらうために検査を受けるわけではありません」
「お前は受けるのか」
「はい。あの反応が何だったのか、知りたいです」
「運命の番だと出たら?」
「それだけです。僕が梓さんをどう思うかは、今の梓さんを知ってから決めます」
「違うと出たら?」
星愛は写真の中の二人を見た。
「昔会っていた事実は消えません。それに僕は、今の梓さんのことを、まだほとんど知らない」
星愛の視線が梓へ戻る。
「どちらの結果でも、そこは同じでしょう」
梓はもう一度、写真を見る。
思い出せないものを理由に、星愛へ近づくことはできない。だからといって、何もなかったふりをして離れるのも違う。
「俺も受ける」
「いいんですか」
「運命を信じるためじゃない」
梓は検査案内を手元へ引き寄せた。
「起きたことを、なかったことにしたくないだけだ」
直が適合検査の申込書を二人の間へ置く。
「結果がどうでも?」
「どうでもよくはない。だが、結果を千影の返事だとは思わない」
梓はペンを取り、隣の席にいる星愛へ差し出した。
先に星愛が署名する。その横へ、梓も自分の名前を書いた。
写真の裏で並んでいた二つの名前が、今度は本人たちの意思で、もう一度隣に並んだ。
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