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第11話 忘れた記憶

 直の車には、携帯用中和剤の冷たい匂いが残っていた。  助手席へ座った星愛は、鞄についた青いクラゲへ触れる。水族館で過ごした時間が、ずっと前のことみたいだった。 「気分は悪くない?」 「大丈夫です」 「梓の匂いは、もう感じない?」 「はい。感じません」  ほっとするはずだった。  なのに、寂しい。 「星愛」 「何ですか?」 「もし梓が運命の番だったら、嬉しい?」  直は前を見たまま尋ねた。 「分かりません」 「ずっと探してたんだよね」 「はい。でも、見つかったら迷わないと思っていました」 「梓だから迷う?」 「匂いだけで、好きになる相手まで決められるのが怖いんです」  自分から運命を探しに来ておいて、今さら何を言っているのだろう。  梓の不機嫌な顔も、不器用な優しさも知ってしまった。直と手を繋いだときの穏やかな温度だって、まだ掌に残っている。 「だったら、まだ決めなくていいよ」 「直先輩は、それでいいんですか?」 「よくはない」  信号が赤へ変わり、車が止まる。 「梓が運命の相手かもしれないって聞いて、平気なわけない。でも、匂いだけで星愛が梓を選ぶなら――俺にも、まだ選ばれる余地がある」  返す言葉が見つからなかった。  青いクラゲが窓から差し込む光を受け、鞄の金具へ小さくぶつかる。  信号が青へ変わっても、星愛は何も言えなかった。      ◇  その夜、夢を見た。  夕暮れの校庭だった。  白線の消えかけた土の上で、小学生の自分が膝を抱えている。転んだらしく、靴下には砂がつき、膝から薄く血が滲んでいた。 「また泣いてる」  誰かが目の前へしゃがむ。 「泣いてない」 「じゃあ、何してるんだよ」 「帰りたくないだけ」 「帰らなきゃいいだろ」 「無理だよ。明日、お父さんが迎えに来るから」  差し出された手には、小さな傷がいくつもあった。  顔を見ようとしても、夕陽が邪魔をする。 「もう会えないかもしれない」 「会える」 「どうして分かるの?」 「お前が来なくても、俺が見つけるから」  迷いのない言葉だった。  その手を取ろうとした瞬間、目が覚めた。  暗い部屋で、心臓だけが速く動いている。  夢ではない。  根拠なんてない。それでも、夢ではないと思った。  星愛は枕元のスマートフォンを手に取った。      ◇  翌朝、母へ連絡すると、昼過ぎに返信が届いた。 『小学五年生の夏休み、青葉小学校の交流教室へ通っていたでしょう。おばあちゃんの家へ泊まっていた三週間だけ』  言われてみれば、母方の祖母の家で夏を過ごした年があった。  祖母は数年前に亡くなり、家もすでに手放している。交流教室の記憶は、どう探しても出てこなかった。 『おばあちゃんの荷物に、こんな写真が残ってたよ』  続けて二枚の画像が送られてくる。  一枚目は、色の褪せた集合写真だった。青葉小学校の校庭で、十数人の子どもたちが並んでいる。  前列の端に、自分がいた。  その隣には、無愛想な顔をした少年がいる。短い髪。擦り傷の残る腕。笑っていないくせに、自分の肩へ触れそうなほど近い。  もう一枚は、写真の裏側だった。 『夏休み交流教室』  その下に、前列左から順番に参加者の名前が並んでいる。 『千影星愛』 『綺羅梓』  何度見直しても、二つの名前は隣り合ったままだった。  綺羅という姓は、そう簡単に重ならない。少年の目元にも、現在の梓と同じ面影がある。  本当に、会っていた。      ◇  三日後、星愛と梓は医師に指定された高遮断型のパッチをつけ、事務所へ戻った。  中和装置は通常より出力を上げている。二人の席は離され、直が必ず同席することになった。 「これを見てください」  星愛は印刷した写真を、応接机の中央へ置いた。  梓は距離を保ったまま写真を見る。 「小学五年生の夏、僕は祖母の家に泊まり、青葉小学校の交流教室へ通っていました」 「青葉小学校は、俺が通ってた学校だ」 「やはり、これは梓さんですよね」 「ああ」  梓は写真の裏へ並んだ名前を確かめた。 「僕たちは三週間、一緒に過ごしていたようです」 「三週間だけ?」 「母の話では」 「俺は毎日この学校にいた。それなのに、この写真も、お前がいたことも覚えてない」  梓の指先が、少年の顔へ触れる寸前で止まった。 「僕は少し思い出しました」 「何を」 「帰る前の日、校庭で話したことです。僕が転んで、梓さんが手を差し出してくれました」 「俺が?」 「もう会えないかもしれないと言ったら、俺が見つけると」  梓は何も答えない。  写真と星愛を見比べて、また写真へ戻る。その繰り返しだった。 「忘れていても、責めるつもりはありません」 「お前は、どうして思い出せた」 「匂いがきっかけだった気はします。でも、写真を見たから作った記憶かもしれません。僕にも、まだ分かりません」 「運命だから、思い出したんじゃないのか」 「そう決めるのは早いです」  直が二人の間に置かれた写真を見る。 「俺も、その夏に何があったのか知りたい。でも、思い出せない梓を問い詰めても、出てくるものじゃない」 「直先輩の言うとおりです」 「お前まで、簡単に納得するな」 「では、どうしてほしいんですか?」  梓は答えられなかった。  代わりに写真を裏返し、自分の名前をもう一度確かめる。 「俺は、お前を忘れたんじゃない」 「梓さん?」 「お前だけじゃないんだ」  梓は、並んだ二人の名前の間を指でなぞった。 「俺は、この夏のことを何も思い出せない」

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