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第10話 番の匂い
落ちたパッチへ手を伸ばそうとして、星愛は動けなくなった。
梓から溢れた匂いが、呼吸をするたび身体の内側へ入り込んでくる。甘さの奥に、雨上がりの木々を思わせる湿った青さがあった。
知らないはずなのに、懐かしい。
もう一度近くで確かめたい。その衝動に引かれ、星愛の足が前へ出た。
「動くな」
梓が机の向こうで立ち上がる。
「梓さんもです」
「分かってる」
そう答えながら、梓も一歩近づいた。
普段の彼なら簡単に越えられる距離だ。それなのに、互いへ伸びた数歩が危険なものに思える。
首筋が熱い。脈打つ場所を隠したくても、身体は梓へ晒そうとする。
「千影」
名前を呼ばれただけで、膝から力が抜けそうになった。
梓の指先が、触れられるはずのない距離から星愛の首筋へ向けられる。星愛は机の縁を掴んだ。
「止まってください」
梓の足が止まる。
伸びかけた手も、空中で強く握られた。
「……悪い」
苦しそうに息を吐きながらも、梓はそれ以上近づかなかった。
本能に押されているのは、自分だけではない。それでも梓は、星愛の言葉を選んだ。
天井の警告灯が点滅し、中和装置の出力が上がる。けれど、室内へ広がった互いの匂いは簡単には薄まらない。
入口の扉が開いた。
「二人とも、そこから動かないで」
戻ってきた直が、携帯用の中和剤を噴射する。
「直先輩……どうして」
「濃度警報が端末へ届いた。まだ建物を出たところだったから」
強い誘発反応を受けない直が、迷わず二人の間へ入った。
「星愛、歩ける?」
「はい」
「腕に触れてもいい?」
「お願いします」
直の手が、星愛の腕を支える。
先ほどまで繋いでいたときと同じ温度なのに、今は梓から引き離されることを身体が嫌がった。
「待て」
梓が机を回り込もうとする。
「梓、止まって」
「千影をどこへ連れていく」
「隣の緊急隔離室。今の梓は近づけない」
「俺は何もしない」
「そのつもりでも、身体が反応してる。星愛に止まれと言われただろ」
梓は奥歯を噛みしめ、その場へ踏みとどまった。
直は星愛を隔離室へ連れていき、厚い扉を閉める。匂いが遮断された瞬間、胸の奥を満たしていた熱が急に遠ざかった。
安心するはずなのに、何かを失ったように苦しい。
「新しいパッチを貼れる?」
「大丈夫です」
「ここに置くね。俺は後ろを向いてる」
密封された予備を受け取り、震える指で包装を開く。貼り終えるころには、室内へ流れ込む冷たい中和剤のおかげで呼吸も整い始めていた。
「直先輩」
「何?」
「梓さんの匂いを、前にも知っていた気がします」
「梓と会ったことがあるの?」
「分かりません。でも、初めてではないような……ずっと知っていたような気がするんです」
「梓には、あとで確認しよう。今は身体を休めて」
「梓さんは大丈夫ですか?」
「別室へ移動してもらう。緊急用の抑制剤もあるから大丈夫」
「僕のせいですね」
「パッチが落ちたのは事故だよ。どちらか一人のせいにする話じゃない」
直は振り返らないまま、星愛が落ち着くまで扉の前に立っていた。
◇
一時間後、星愛と梓は別々の個室から、提携医のオンライン診察を受けた。
画面には心拍数とフェロモン濃度の推移が表示されている。二人の数値はほとんど同じ時刻に跳ね上がり、中和剤が効き始めるまで高い状態が続いていた。
「現在、お二人とも発情期への移行は認められません。今回は、互いのフェロモンによって一時的に誘発された相互反応だと考えられます」
医師が測定結果を確認する。
「今回の反応だけで、運命の番だと断定することはできません。ただし、互いの匂いに対する反応は非常に強い。高い番適合がある可能性は考えられます」
「検査を受ければ、分かるんですか?」
「より詳しい適合検査は可能です。ただ、今日は急激な曝露があったため、数日間は身体を休めてください。その後、お二人の同意が揃えば検査を行います」
「僕は受けたいです」
答えたあと、星愛は画面の端に映る梓を見た。
梓はすぐには答えなかった。
「梓さん?」
「運命の番なんて、いるわけない」
「可能性があると言われたばかりです」
「反応が強いだけかもしれないだろ」
「だから調べるんです」
「結果を知って、どうする」
問い返され、星愛は言葉に詰まった。
運命の番を探すために、この会社へ入った。見つかった可能性があるなら、確かめたいと思うのは当然のはずだ。
けれど、もし相手が梓だったら。
嬉しいのか、困るのか、自分でも分からない。
「すぐに結論を出す必要はありません」
医師が二人の間へ入る。
「検査結果は、交際や番契約を義務づけるものではありません。受けるかどうかも、結果をどう扱うかも、それぞれの意思で決めてください」
「……分かりました」
梓はそれだけ答えた。
◇
診察を終え、星愛が個室から出ると、直が廊下で待っていた。
「体調は?」
「もう大丈夫です」
「今日は家まで送るよ」
「一人で帰れます」
「一人で帰れることと、俺が心配することは別」
断る理由を探したが、まだ足元にわずかな頼りなさが残っている。
「では、お願いします」
「うん」
向かいの個室から梓も出てきた。顔色は戻っているが、星愛との間へ十分な距離を残したまま立ち止まる。
「梓さん」
「近づくな。まだ匂いが残ってる」
「分かっています」
「パッチは」
「貼り替えました」
「そうか」
短いやり取りのあと、三人の間へ沈黙が落ちる。
直が梓を見る。
「梓は、どうだった?」
「何が」
「星愛の匂い。前にも知っていたように感じた?」
梓の眉が動く。
「どうして分かる」
「星愛も、隔離室で同じことを言っていたから」
星愛は梓を見た。
「梓さんもですか?」
「ああ」
「どこで嗅いだか、覚えていますか?」
「覚えてない。そもそも、お前とは入社するまで会ったことがないはずだ」
「僕も、そう思っていました」
けれど胸の奥には、匂いと一緒に浮かんだ光景が残っている。
夕暮れの校庭。白く引かれた線。錆びた鉄棒のそばに立つ、小さな誰か。
顔は見えない。
ただ、その子が差し出した手と、途切れた言葉だけが蘇る。
――今度は、俺が見つける。
「星愛?」
直に呼ばれ、記憶の欠片が遠ざかる。
星愛は離れた場所に立つ梓を見つめた。
「梓さん」
「何だ」
「僕たち、本当に初めて会ったんでしょうか」
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