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第9話 恋人ごっこ

「水族館?」  週末の朝、模擬接客届へ目を通した梓が眉を寄せた。 「水沢さんとの次回接客に備えた練習です」 「それなら俺が客役をやればいい」 「梓さんは教育担当なので、途中で正解を教えるでしょう」 「教えて何が悪い」 「自分で考える練習になりません」 「だから俺が誘ったんだよ」  背後から直が現れ、星愛の隣へ並んだ。仕事では見慣れない淡い色のシャツに、細身のパンツを合わせている。 「梓が相手だと、いつもの研修と変わらないからね」 「お前は客じゃないだろ」 「今日は客役。必要な申請も出したし、星愛から同意ももらった」 「はい。僕がお願いしました」  梓が星愛と直を交互に見る。 「手を繋ぐ練習もするのか」 「必要なら」 「直先輩の希望を確認して決めます」 「……勝手にしろ」  梓は模擬接客届へ承認印を押した。  強く押しすぎたのか、赤い印影の縁が滲んでいる。 「行こう、星愛」 「はい。行ってきます」  梓から返事はなかった。      ◇  水族館へ到着すると、入口前には家族連れや恋人たちの列ができていた。 「本日はご指名いただき、ありがとうございます」  星愛が頭を下げると、直は困ったように笑う。 「そこから始めるの?」 「模擬接客ですから」 「じゃあ今日は、星愛って呼んでもいい?」 「いつも呼んでいるでしょう」 「仕事では、千影さんと呼ぶべきかなと思って」 「直先輩は直先輩のままでいてください。そのほうが練習になります」 「分かった。星愛も、いつもどおりでいいよ」 「それでは接客になりません」 「お互い、難しいね」  チケットを見せて館内へ入る。薄暗い通路の先で、天井まで届く青い水槽が二人を迎えた。  銀色の魚の群れが、光を反射しながら一斉に向きを変える。床へ落ちた水の揺らめきが、直の横顔を淡く染めていた。 「綺麗ですね」 「うん」 「直先輩は、水族館が好きなんですか?」 「好きだよ。言ってなかった?」 「初めて聞きました」 「星愛は梓のことばかり知ろうとして、俺にはあまり聞かないから」 「そんなつもりはありません」 「少し妬いただけ。気にしないで」  冗談のように笑われたが、完全な冗談ではない気がした。  混雑した通路へ進むと、肩が何度も触れそうになる。前方から走ってきた子どもを避けた拍子に、直の指先が星愛の手へ触れた。 「星愛。手を繋いでみる?」 「お客様役は直先輩です。直先輩が望むなら」 「俺は繋ぎたい。でも、今聞いてるのは星愛の気持ち」  水沢へ尋ねた言葉を思い出す。  触れるかどうかを選べるのは、顧客だけではない。恋人を演じる側にも、自分の身体をどう扱うか決める権利がある。 「僕も、繋いでみたいです」 「ありがとう」  直が掌を差し出す。  星愛は自分から、その手へ指を重ねた。  梓と初めて触れたときのような、身体の奥まで揺さぶられる熱はない。代わりに、隣を歩いても大丈夫だと思える穏やかな温度があった。      ◇  直が足を止めたのは、青い光に満たされたクラゲの展示室だった。  透き通った傘がゆっくりと開き、閉じる。水の流れへ逆らわず漂う姿を、直は長いあいだ見つめていた。 「好きなんですか?」 「ここへ来ると、急がなくていい気がするんだ。クラゲは誰かに勝とうとしないから」 「直先輩にも、競争を気にすることがあるんですね」 「社長の息子だと、何でもできて当然だと思われるからね。大学でも会社でも、失敗しないように先回りしてきた」 「恋愛でも?」 「それは昨日話したとおり」  勝てる恋だけを選んできた。  何でも簡単にこなしているように見えた直も、傷つかないために準備を重ねてきたのだ。 「今日は、先回りしていないんですか?」 「してないよ。星愛が楽しんでくれる自信もなかった」 「僕は楽しいです」 「接客として?」 「違います。僕自身が、楽しいと思っています」  直がわずかに目を見開き、それから笑った。 「なら、誘ってよかった」  繋いでいた手へ、少しだけ力が加わる。      ◇  展示を見終え、二人は出口近くのショップへ入った。  星愛が棚に並ぶ小さなクラゲのキーホルダーを手に取ると、直も隣から同じものを選ぶ。星愛は青、直は白だった。 「お揃いにするんですか?」 「恋人ごっこらしいかなと思って」 「水沢さんへ、お揃いのものを求めるつもりはありませんよ」 「これは俺が欲しいだけ」 「では、練習ではないんですね」 「星愛が嫌なら戻すよ」  星愛は青いクラゲを見つめた。透明な素材の内側で、細かな光が揺れている。 「嫌ではありません」 「よかった」  会計は別々に済ませ、互いの鞄へ色違いのクラゲをつけた。  店を出るとき、ガラス扉に並んだ二人の姿が映る。知らない人が見れば、本当の恋人同士に見えるのかもしれない。 「星愛」 「何ですか?」 「今日が終わっても、外さないでくれる?」 「直先輩も外さないなら」 「約束する」  星愛は鞄で揺れる青いクラゲへ、そっと指先を触れた。      ◇  夕方、事務所へ戻ると、梓が一人で待っていた。  勤務時間は終わっている。パソコンの電源も落ち、帰り支度を済ませた鞄が足元に置かれているのに、梓は自分の席へ座ったままだった。 「ただいま戻りました」 「遅い」 「終了予定時刻の十分前です」 「水族館が混んでたからね」  直が星愛の後ろから答える。  梓は二人の鞄についたキーホルダーを見ると、露骨に眉を寄せた。 「練習に土産が必要なのか」 「俺が欲しかったんだ。星愛も付き合ってくれた」 「楽しかったか」  質問を向けられ、星愛は頷く。 「はい」 「そうか」  梓は机上の書類へ視線を落とした。もう片づけられているため、見るべきものは何もない。 「じゃあ、俺は大学へ寄って帰るね」 「今日はありがとうございました」 「こちらこそ。またデートしよう」 「次も練習ですか?」 「それは、次に決めようか」  直は自分の白いクラゲを指先で弾いた。 「またね、星愛」 「はい。直先輩」  扉が閉じる。  事務所に残った梓は、しばらく何も言わなかった。 「手は」 「何ですか?」 「直と、手を繋いだのか」 「はい。お互いに確認してから」 「嫌じゃなかったのか」 「嫌ではありませんでした」  梓の指が、書類の端を強く押さえる。 「梓さん?」 「……お前、パッチが剥がれかけてる」  星愛が首筋へ触れると、たしかに端が浮いていた。 「予備へ替えます」  鞄へ手を伸ばした瞬間、浮いていたパッチが首筋から剥がれ、床へ落ちた。  常時作動している中和装置の音が一段強まる。  梓の手から、ペンが落ちた。  星愛の匂いに応えるように、梓からも抑え込まれていた香りが溢れる。それが胸の奥へ流れ込んだ途端、心臓が大きく脈打った。  初めて嗅いだはずなのに、ずっと探していたような匂いだった。

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