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第8話 優しいβ

 翌朝の事務所には、妙な沈黙があった。 「おはようございます」 「ああ」  梓は返事をしたものの、星愛の顔を見ようとしない。  昨夜、営業スマイルを向けられたくないと伝えた。作った表情をやめてほしいとは言ったが、目まで合わせないでほしいとは頼んでいない。 「梓さん」 「何だ」 「昨日のこと、気にしていますか?」 「してない」 「では、こちらを見てください」 「今は仕事中だ」 「僕もです」 「朝から何してるの、二人とも」  出社した直が、不思議そうに二人を見比べる。 「喧嘩?」 「していません」 「してない」 「そこだけは息が合うんだね」  直が笑うと、梓はようやく星愛へ顔を向けた。不機嫌そうに寄せられた眉を見て、なぜか安心する。 「おはようございます、梓さん」 「二回目だ」 「一回目は顔を見てもらえなかったので」 「面倒なやつだな」 「今の顔も、悪くありません」 「簡単に好きだとか言うな」 「顔の話です」 「分かってる」  梓は机上の書類を持ち上げ、自分の顔を隠した。  紙の向こうから赤くなった耳だけが見える。直が星愛へ何があったのか尋ねるような目を向けたが、星愛にも分からなかった。      ◇  大学の講義を終えると、同じ授業を受けていた学生に呼び止められた。 「千影って、大路先輩と仲いいよね」 「会社でもお世話になっています」 「やっぱり優しい?」 「はい」 「βだし、一緒にいて緊張しなくていいよね。誰にでも同じように接してくれそう」  星愛は足を止めた。 「それは、関係ないと思います」 「え?」 「直先輩が優しいのは、βだからではありません。直先輩自身が、人へ優しくしようとしているからです」 「ごめん。悪く言ったつもりじゃなくて」 「分かっています。ただ、属性だけで性格まで決められるのは、僕が嫌なので」  Ωだから守られる側。αだから支配する側。βだから安全で、平凡。  そんな言葉で人間の輪郭まで決められたら、本人が積み重ねてきたものは見えなくなってしまう。 「千影らしいね」  相手は少し困ったように笑い、次の講義へ向かった。  星愛も歩き出そうとしたが、窓の外に強い雨が落ちていることに気づく。朝は晴れていたため、傘を持ってきていない。  屋根のある渡り廊下で雨脚を眺めていると、背後から傘が差し出された。 「使う?」  振り返ると、直が立っていた。 「直先輩はどうするんですか」 「折り畳みがもう一本ある」 「用意がいいですね」 「困ってる人へ貸せるように、二本持ち歩いてるから」 「それは誰にでも?」 「必要な人がいれば」  直は気負うことなく答え、星愛の手へ傘を渡した。 「借りてもいいですか?」 「もちろん。事務所へ戻るなら、一緒に行こう」 「はい」  二人で正門へ向かう。濡れた地面から立ち上る土の匂いと、傘を叩く雨音が周囲を満たしていた。      ◇  雨脚が強まったため、帰り道の喫茶店へ入った。  窓ガラスを流れる雫を眺めながら、星愛は鞄から自分のノートを取り出す。開いたページには、顧客名を書かずに次の接客で確認すべき内容だけをまとめていた。 『水族館』 『手を繋ぐかは当日確認』 『沈黙を急いで埋めない』 「仕事?」 「次の接客について考えています」 「見ても大丈夫?」 「はい」  直は向かい側からノートをのぞく。 「水沢さんとの再指名?」 「そうです。前回できなかったことにも挑戦したいと、ご本人から希望がありました」 「でも、当日になれば怖くなるかもしれない」 「はい。そのときは、前と同じように確認するつもりです。ただ、同じことをしているだけでは満足してもらえないと、梓さんに言われました」 「梓らしいなあ」 「間違っていますか?」 「間違ってない。でも、水沢さんが求めているのは、新しい演出より、前と同じ安心かもしれないよ」  星愛はノートへ書いた『当日確認』の文字を見る。  選んだときの気持ちを、当日まで守らなければいけないわけではない。繋ぐことも、やめることも、その場で本人が決めればいい。 「星愛は、どうしたい?」 「水沢さんが安心して選べるようにしたいです。どちらを選んでも、がっかりしないと伝えたい」 「なら、それが答えだと思う」  直は星愛の代わりに予定を決めなかった。  正解を与えるのではなく、自分で見つけられる場所まで隣を歩いてくれる。その距離が、星愛には心地よかった。 「今日、大学で言われたんです。直先輩は、βだから一緒にいて安心できるんだろうって」 「よく言われるよ」 「嫌ではありませんか?」 「便利ではあるかな。相手が望む答えを出していれば、嫌われずに済むから」 「直先輩は、嫌われるのが怖いんですか?」 「怖いよ」  迷いのない返事だった。 「俺、今まで勝てる恋しかしてこなかったんだ。相手が自分を好きだと分かってから近づいて、断られないと確信してから告白する。それで失敗したことはない」 「ずるいですね」 「うん。傷つかない方法ばかり選んできた」 「今、好きな人にも?」  直は答えず、窓の外を見た。  雨はまだやまない。店内へ流れる穏やかな音楽の間を、カップの触れ合う音が通り過ぎた。 「その人には、好かれている確信がない」 「では、諦めるんですか?」 「そのつもりだった。でも、できなかった」  直はテーブルの上のノートへ視線を戻す。 「水族館での接客、事前に練習してみる?」 「梓さんへお願いするということですか?」 「俺が客役になる」 「直先輩が?」 「業務外の模擬接客として、仕事中じゃない星愛と出かけてみたい」  直は星愛をまっすぐに見た。 「嫌なら断って。俺が社長の息子でも大学の先輩でも、この誘いと仕事の評価は関係ない」 「そこまで言われなくても、嫌なら断ります」 「星愛なら、そう言うと思った」 「練習には、付き合ってほしいです」  星愛が答えると、テーブルに置かれていた直の指先が二人の距離を半分だけ縮めた。 「それは、接客の練習ですか?」 「最初は、そういうことにしておこうか」  雨音に包まれた窓際で、直が微笑む。 「星愛。俺と、恋人ごっこをしよう」

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