1 / 1

第1話 枯れゆくライムと骨壺と

そう言えば最近お隣さんを見ない。 煙草を吸いに、バルコニーに出る。 眼下には首都高の光と、晴海ふ頭の暗い水の流れ。 手摺に寄りかかり、ライターの火を掌で囲って煙草に火を点ける。 ふと、透明なガラス手摺の端、隣との境界を仕切る分厚い板のすぐ向こう側に、影が映り込んでいるのが目に入った。 いやにそれが気になって覗き込むと、置かれたままのライムの木が、視界の端に引っかかった。 蹲るみたいに葉を丸めて、誰にももらえない水を待っているようだ。 休日によくバルコニーに出て鉢植えの手入れをしているお隣夫婦を以前は良く見かけたのに。 あんなに大切に育てられていたのに。 帰りの電車、フロアの廊下、ふとしたことで良く顔を合わせていた、俺より少し年上の爽やかな旦那さん。 その隣には小柄で可愛らしい奥さんがいた。 奥さん、といっても、旦那さんと同じ男性だ。 初めて挨拶を交わした時、その可愛らしさに一瞬言葉を失った事を覚えている。 春の陽だまりに溶けてしまいそうな、淡い栗色に染められた髪。 透き通るような肌に、鼻にかかる甘えたような、よく通る声。 仲の良さそうな二人の姿は、殺風景なモノクロのタワマンの廊下で、そこだけ色を持つ映画のように浮いて見えた。 その姿も、最近ぷつりと気配を消してしまっている。 そう言えばここ最近は仕事から帰ってきてバルコニーに出ても、隣の窓に明かりが灯っているのを見た記憶がないな。 今はただあのライムの木だけが、静かに枯死を待っている。 「死んでるみたいだ」 紫煙を吐き出し、独り言ちる。 まぁ都会のマンションなんてそんなもんだ。 隣が引っ越そうが、いなくなろうが、たとえ亡くなろうが耳には入ってこない。 そんなことを考えているとガシャン、と何かが派手に砕け散る音がした。 続いて、ガタンッ、ドンッという重い衝撃音が、壁を通じてこちらの足元まで伝わってくる。 隣の部屋だ。噂をすれば。 吸い殻を灰皿に押し付け、部屋を飛び出す。 丁度お隣さんの事を考えていたのが、虫の知らせだったような気がしてならなかった。 こういう時の勘は鈍くない方だ。 気付いたらインターホンを力任せに押していた。 中からの返事はない。 「蓮水さん……? 蓮水さん!」 扉越しに声を張り上げると、数秒の空白の後、震えるような声が漏れ聞こえてきた。 「……は、はい」 久しぶりに耳にする、あの甘く通る声。 けれど、今はひどく弱く、まるで今にも消えてしまいそうなほどに声に力がない。 「大きな音がしましたけど、大丈夫ですか?」 「あ、はい……すみません、だいじょうぶ、です…」 到底、大丈夫な声には聞こえないんだけど。 「…蓮水さん。ここ、開けられますか?」 半ば強引な言葉に、沈黙が流れる。 やがて、ず、ず、と何かを引きずるような音が中から聞こえた。 少し間を置いてからドアの解錠音が鳴り、ゆっくりと扉が開いた。 隙間から現れたのは、あの春の陽だまりのような面影を失った、青白い顔の蓮水さんだった。 そして、俺の視線はすぐに彼の腕に釘付けになった。 「っ……蓮水さん、それ……!」 部屋着を染める赤。 服に染みてなおボタボタと赤黒い雫を落としている血。 血まみれの腕を庇うように片方の手で押さえながら、彼はぼんやりとした瞳で俺を見つめている。 「すみません、お騒がせして。照明が、急につかなくなっちゃって……見ようとしたら椅子から落ちちゃって……」 弱々しく、今にも消え入りそうな声。 そんなもの、旦那さんに頼めばいいだろうに。 こんな時間にまだ帰ってないんだろうか。 「……とにかく手当。割れたの、刺さってませんか?」 「あ、でも、悪いですから……」 遠慮する蓮水さんの言葉を遮るように、俺は開いたドアに手をかけた。 都会のマンションで、隣人の部屋に踏み込むなんて非常識もいいところだ。 それでも目の前で相当な血を流している人を置いて、じゃあお気をつけてと自分の部屋に戻れるほど、俺は冷たい人間じゃない。 「入って大丈夫ですか?」 「あ、え……あ、はい……」 半分強引に納得させて、俺は蓮水さんの部屋に足を踏み入れた。 一歩踏み込んだ瞬間、その空気の冷たさに首筋が冷える。 エアコンも入れてなかったのか。 まるで、時が止まった廃墟みたいに静まり返っている。 「っ……、あ……」 リビングへ向かおうとした蓮水さんの身体が、不自然に傾いだ。 咄嗟にその細い肩を抱き留めると、蓮水さんは短く苦しげな吐息を漏らして俺の腕の中に沈み込んだ。 「蓮水さん?」 「すみません……足も、挫いたのかな……」 見れば、血まみれの腕だけじゃない。床についた足が、赤黒く腫れている。 ただの打ち身じゃなさそうだ。 「蓮水さん、これ……足、折れてるんじゃないですか? 旦那さんは? 連絡つきますか?」 俺の問いに、蓮水さんは黙ったまま答えなかった。 ただ、俺の部屋着の袖を血汚れた指先で弱々しく握りしめ、視線を泳がせている。 「……いないんです……今、誰も」 「そうなんですね……とにかく、ソファーまで運びますから掴まっててください」 俺は心の中で旦那さんに謝りながら彼の腰を引き寄せ、慎重に歩を進めた。 床にはおびただしい量の血が滴っている。 腕の中の蓮水さんは驚くほど軽くて、ひどく冷たい。 キッチンの入り口まで来たとき、思わず息を呑んだ。 そこは、さながらホラー映画のワンシーンのようで。 暗がりにひっくり返った椅子、粉々に砕け散ったシーリングライトの欠片。 そして、それらを無残に汚す赤黒い血。 俺はさらに力を込めて彼を支え、事件現場のようなキッチンの脇を抜けてリビングへと足を踏み入れた。 壁のスイッチを肘で押し込み、リビングの照明を点ける。 パッと広がった光の下、整然としたどこか生活感の削ぎ落とされた部屋が露わになった。 俺の部屋と同じ間取りのはずなのに、住んでる人が違うだけでここまで違うのか。 部屋を少し見回して、座れそうな場所を探し、そのまま蓮水さんを座らせようとした俺の視線が部屋の一角で止まった。 「……え?」 そこだけ、周囲の空気と密度が違うような気がした。 リビングの隅、小さなテーブルの上。 モノクロの遺影。 そして、その前に置かれた、白い布に包まれた四角い箱。 ——骨箱だ。

ともだちにシェアしよう!