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第2話 血塗れの近隣住民一名

「……あ」 俺の腕の中で、蓮水さんが小さく身を縮めるのがわかった。 遺影の中で穏やかに微笑んでいるのは、間違いなく、あの爽やかな旦那さんだ。 いない、と言ったのは。 もう、この世のどこを探したっていないのか。 頭の芯が急激に冷えていくのを感じる。 隣人が死んでいた。 そんなことにも気づかず、俺は最近見ないな、死んだのかな、なんて冗談めかしてとんでもないことを考えていた。 数分前に自分が吐いた言葉が、耳の奥で反響する。 本当に、死んでいたなんて。 「……蓮水さん、ごめんなさい。一旦ここに座りましょう」 俺はラグの手前の床に彼を誘導した。 ソファや高級そうなラグが血で汚れてしまえば後々面倒だ。 俺はそれを見ないよう、あえて遺影に背を預ける形で、彼を床に座らせた。 テーブルからボックスティッシュを引き抜き、束にして彼の腕に押し当てる。 「すみません、とりあえずこれで……」 震える細い腕を取り、溢れ続ける血をティッシュで押さえる。 「……っ」 傷が痛むのか、蓮水さんは小さく声を詰まらせた。 真っ白な紙が瞬く間に真っ赤に染まっていくのを見て、先ほど自分が彼に投げかけた言葉が、呪いのように頭の中で反芻された。 “旦那さんは? 連絡つきますか?” 心臓を直に掴まれたような不快な汗が背中を伝う。 “いないんです。……今、誰も” あの消え入りそうな返答の、本当の意味。 無知だったとはいえ、傷口を素手で抉るような真似をした自分に、猛烈な嫌悪感と罪悪感が込み上げる。 「……すみません。俺、何も知らなくて……旦那さん」 絞り出すように言うと、蓮水さんは俺の手の中で小さく肩を揺らし、俯いたまま呟いた。 「……いえ……いいんです。誰にも、言ってないので」 その一言に、彼の孤独の深さが凝縮されている気がした。 都会のマンションで最愛の人を亡くし、その遺骨と一緒に暗闇の中で過ごしていたのだろうか。 「……とりあえず、足は折れてると思います。血の量もすごい。これ以上は素人の手に負えません。救急車、呼びますね」 スマホを取り出し、救急に電話をする。 蓮水さんは「そこまでしていただくのは悪いですから」と拒絶したが、俺はそれを無視して住所を伝えた。 ここまで親切心が芽生えたのは自分なりの贖罪なのかもしれない。 蓮水さんは黙ったままじっと蹲り、俺と目を合わせることなく流れる血をティッシュで押さえていた。 サイレンの音が近づいてくる。 救急隊員が部屋に到着し、蓮水さんがストレッチャーに乗せられる。 彼が部屋から運び出される間際、あの四角い箱を縋るような目で見つめたのを、俺は見逃さなかった。 「搬送先が決まりました。付き添いの方は、ご家族ですか?」 隊員の事務的な問いに、俺は一瞬だけ言葉を詰まらせた。 ——家族。 あの遺影の中で笑っている男。 意識が朦朧としている蓮水さんの視線が、一瞬だけ彷徨い、諦めたように虚空を見つめた。 きっと近くにも親族は居ないんだろう。 もしくは、頼れない。 「……いえ、隣人です。俺が付き添います」 「そうですか。では、こちらへ」 救急車の狭い車内で、隊員が無線で搬送先に状況を伝えている。 「……はい、付き添いは近隣住民一名。ご家族とは連絡取れず……」 近隣住民一名。 事務的なその響きが、なぜか罪悪感を駆り立てるように響く。 本来なら、この手を握るべきなのはあの箱の中の——。 「……きりしま、さん……」 弱々しく名前を呼ばれ、俺は反射的に彼の血の気の引いた指先を握りしめた。 救急隊員がそれを見て、一瞬怪訝そうな顔をした。 「……います。ここにいますよ」 「……すみません……ごめんなさい……」 謝らなくていいのに。 謝らなければならないのは、隣で誰かが死んでいたことにも気づかず、この人が一人で壊れていくのを放置していた俺の方だ。 病院に着けば、俺はただのお節介な隣人として追い出されるかもしれない。 それでも、俺の指を縋るように握り返すこの微かな力を、振り払うことができなかった。 病院の待合室の椅子は、驚くほど硬く冷たい。 深夜の救急外来は、時間が止まったみたいに静かで物悲しい。 俺は、赤黒く汚れた自分の手のひらを見つめながら、ただ処置室の扉が開くのを待っていた。 時折通り過ぎる看護師たちが、部屋着を血で汚したまま座り込む俺を訝しげに見ていくが、今の俺にはそれを気にする事も無かった。 脳裏に焼き付いているのは、あの冷え切った部屋と、バルコニーで丸まっていたライムの葉。 俺の指を握った、蓮水さんの弱々しい力。 一時間が過ぎ、二時間が過ぎた頃、ようやく看護師に呼ばれた。 「……蓮水さんの処置、終わりましたよ」 看護師の表情は冴えない。 「本来なら、このまま入院して経過を観察するのがベストなのですが……ご本人が、どうしても家に帰ると。泣いてしまって、話にならないんです……『あの人を一人にしたくない』って」 あの人——。 あの部屋の隅に置かれた、白い布に包まれた箱のことだろう。 「……俺が、連れて帰っちゃ駄目ですか」 「ですが、あなたはご親族では……」 看護師が言いかけた時、背後から「失礼ですが」と低く硬い声が響いた。 振り返ると、夜の病院にはそぐわない、グレーのジャンパーを着た男が二人立っていた。

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