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第3話 夜景と孤独
「所轄の者です。……現場の状況が状況でしたので、念のためお話を伺えますか。蓮水さんとのご関係は」
「……隣人です」
俺は何度目かわからないその肩書きを口にした。
少し離れた場所に移動し、警察は俺が見つけた時の状況、部屋の荒れ具合、ライトの割れ方なんかを確認していく。
それから、普段から交流はあったのか、最後に会ったのはいつか、金銭トラブルや男女関係のもつれはなかったか、という話まで。
「随分親しくされていたんですね」
親しくしていたなら、もしかしたらこんなふうにならなかったかも知れないのに。
普段の自分なら考えもしないネガティブな思考に囚われるのは今日という日のタイミングの悪さなのかも知れない。
「……わかりました。ご本人からも自失による転倒との証言を得ています。事件性なしと判断します」
舌打ちしたいのを堪え、俺は小さく頭を下げた。
処置室の前に戻ると、そこには車椅子にぼんやりと座る蓮水さんの姿があった。
俺に気づくと、彼は怯えたような瞳を向け、それから縋るように名前を呼んだ。
「……きりしま、さん……」
「帰りましょう、蓮水さん……お部屋まで送りますから」
看護師たちの困惑したような視線も、警察の疑念ももうどうでも良い。
今の俺にとっての正義は、この人を一刻も早くあの白い箱が待つ日常へ連れ戻してあげる事だ。
病院側は俺が自宅まで付き添うことに難色を示したけれど、最終的には自己責任での帰宅という承諾書に、俺が立会人としてサインすることで妥協した。
「……きりしま、さん…ごめんなさい……巻き込んでしまって」
「いいんです。隣人がお節介で困りますね」
わざとそう言うと、蓮水さんは少しだけふ、と表情を和らげた。
病院の自動ドアが開くと、冷たい夜気が俺たちを包む。
タクシーを待つ間、特に会話はなかった。
街灯に照らされた蓮水さんの肌は、病院の蛍光灯の下で見たときよりもさらに白く、蛍光灯を反射して光っているようにすら見える。
時折、思い出したように「……本当にすみません」と小さく呟く。
——謝らなくていい。
そう言いたいのに、俺にはそれさえも傲慢な気がして、ただ夜の闇を見つめることしかできない。
タクシーがロータリーに入ってくる。俺は車椅子から彼を抱き上げるようにして、後部座席へと慎重に身体を滑り込ませた。
「い……っ」
足を動かした衝撃で、蓮水さんが短く、苦しげな声を漏らす。
その吐息が俺の耳元を掠め、一瞬だけ、ドクンと心臓が跳ねた。
——怪我人を前にして何を考えているんだ俺は。
タクシーが静かに走り出し、蓮水さんはぼんやりと外を眺めていた。
流れていく夜景を眺めているのか、それとも何も見ていないのか。
窓の外を見つめたまま、時折、痛みを堪えるように自分の膝の上で指をぎゅっと組み直している。
「……蓮水さん、少し眠ったほうがいい。マンションに着いたら起こしますから」
「……いえ、大丈夫です……すみません……」
また、謝罪。
彼は、旦那さんがいなくなってから、ずっとこうして世界に謝りながら生きてきたんだろうか。
俺はかける言葉が見つからず、ただ、窓の外を流れる無機質な街灯の光を追った。
不意に、蓮水さんの身体が重力に抗いきれなくなったように、ゆっくりと傾く。
肩が触れそうになる直前、蓮水さんははっとして姿勢を戻す。
薬のせいで睡魔が襲っているのだろうが、彼は頑なに俺に寄りかかることを拒んでいる。
「……今は、ゆっくりしてください」
俺の言葉に、彼は微かに頷いただけだった。
眠りに落ちる瞬間まで自分を律しようとするその姿は、痛々しいほどに孤独だ。
やがて、うつむいたまま静かな寝息を立て始めた彼の、淡い色の髪が視界に揺れる。
タクシーのメーターを刻むライト。
マンションにつけば、俺たちはまた、壁一枚を隔てた隣人に戻る。
ただ、小さな事件に巻き込まれただけ、なのに。
マンションにつき、タクシーの会計を済ませて、俺は蓮水さんを横抱きにした。
抱きかかえた瞬間、案の定彼は驚いたように目を覚まし、俺の肩を弱々しく押し返そうとした。
「……っ、きりしま、さん……いいです、歩けま——」
「無理ですよ。いいから、掴まっててください」
オートロックを抜け、静まり返ったエントランスを横切ってエレベーターのボタンを押す。
鏡張りの壁に、ボロボロの蓮水さんを抱きかかえた血塗れの俺が映り込んだ。
不謹慎とは思うけれど、その姿はどこか異質で、完成された映画の一幕のようにも見えた。
馬鹿みたいに高いタワマンの高層階へ向かって、箱は静かに加速する。
透明なガラスの向こうには、宝石を撒き散らしたような都内の夜景が広がっている。
夜になっても眠らない、無数の人工的なライト。
この眩しすぎる光も、今のこの人には、ただ滲んで見えるだけなのだろうか。
こんなに、綺麗なのに。
なんて。
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