4 / 12

第4話 骨箱への祈り

フロアに到着し、エレベーターの扉が開く。 俺は蓮水さんを抱き直し、ふかふかの絨毯が敷かれた内廊下を進む。 「……蓮水さん、着きましたよ」 声をかけるが、返事はない。 首筋に当たる微かな吐息と、かすかな熱。 このまま、死の気配が残る冷え切った部屋に、本当に彼を一人で置いて行っていいのだろうか。 「……蓮水さん……今日だけは、俺のところにきませんか。何かあっても、大変だし。色々不便だと思いますし」 なるべく事務的な、隣人としての親切心を装って提案した。 それでも案の定、蓮水さんは弱々しく首を振った。 俺の胸元に添えられた指先が俺の部屋着を握りしめる。 「……いえ……、自分の、部屋に、帰ります……」 「でも、この手と足じゃ着替えもままならないでしょう」 「大丈夫、です……あの人が、待ってるから」 あの人。 そう呟いた彼の瞳に、一瞬だけ、現実を拒絶するような光が宿る。 病院で『あの人を一人にできない』と泣いた、その続きだ。 彼は今、怪我の痛み以上に、あの四角くて白い箱を一人きりにしていることに耐えられないのだ。 「……事情はわかるんです。でも、今夜は」 「おねがい、します。帰らせてください」 泣き出しそうで、頑なな拒絶。 「……わかりました。鍵、出せますか」 蓮水さんは小さく頷くと、震える手で自分のバッグから鍵を取り出した。 解錠されたドアを押し開けると、そこには、先ほど救急車を呼んだ時のままの、色を失った光景が広がっていた。 散らばったガラス片。 時間がたって黒ずんだ血痕。そして、その奥で冷たく静まり返るリビング。 俺は彼を抱いたままその惨状を横切った。 リビングのソファへ慎重に彼を下ろす。 「……あの、部屋……片付けるの、手伝っていいですか。ガラスとか、危ないですし」 「いえ……大丈夫です……自分で、やります……」 蓮水さんは、ソファの端に身を縮めるように座り、力なく首を振った。 今にも消えてしまいそうなその横顔は、やはりあの遺影の方向——あの人の視線を探している。 このまま彼を一人にすれば、彼は折れた足の痛みも、腕の傷も、部屋の汚れも全て放置して、ただ骨箱の前でうずくまって夜を明かすだろう。 その姿が、容易に想像できてしまって。 「蓮水さん」 蓮水さんが微かに肩を震わせ、俺を見上げる。 「今日、旦那さんを亡くされたことを知ったばかりの俺が言うのもなんですけど……旦那さんはきっと今の蓮水さんを見て、悲しいと思ってるはずです」 その場に、冷たい沈黙が落ちた。 蓮水さんの瞳が、大きく見開かれる。 お前に何が分かるんだ。 そんな怒号が飛んできてもおかしくない。 あるいは、そのまま彼を深く傷つけ、心を閉ざさせてしまうかもしれない。 「……そんなの」 蓮水さんの唇が、震える。 怒りか、悲しみか。 あるいはその両方か。 「……こんなにボロボロになって、暗い部屋で一人で泣いてる姿、旦那さんに見せたいですか」 残酷なのはわかっている。 だが、今の彼には自分を大切にする理由がきっともう何も残ってないだろう。 ならば、あえて死んだ旦那という存在を利用してでも、彼を少しでも生きた人間に戻さないといけない。 それがまだ名前もつけられない俺の複雑な感情と、酷く傲慢なエゴだったとしても。 俺は、蓮水さんの視線の先にあるサイドテーブルへと歩み寄った。 白い箱の前には、小さな一輪挿し。 そこにある小さな花だけが、この死んだように静まり返った部屋の中で唯一、鮮やかな生の色を持っている。 きっと毎日、どんなに心が折れそうでも、これだけは欠かさずに替えていたんだろう。 きっと亡くなった旦那さんは植物が好きだったんだろう。 バルコニーのライム、ここにある小さな一輪挿し。 俺は、その旦那さんがいる小さな箱の前で静かに膝をつき、手を合わせた。 眼を閉じると、廊下で見かけたあの人の姿が浮かぶ。 心の中で、俺は彼に、あるいは彼だったものに、静かに問いかけた。 (蓮水さん……俺、この人が心配です。きっとこのままだと、あなたの後をすぐに追ってしまいそうだ。あなたが大切にしていたライムも、バルコニーで枯れそうになっている) 掌を合わせる指先に、力がこもる。 これは祈りではなく、俺の身勝手な宣誓。 (……俺が、どっちも救っていいですか) 救う、という言葉が自分の内側でひどく傲慢に響いた。 彼を現世に繋ぎ止めることは、彼から旦那さんの影を奪うことと同義かもしれない。 それでも、隣で震えているこの体温を、冷たい骨箱と同じ場所へ行かせるわけにはいかない。 目を開けると、背後で蓮水さんが息を呑む音が聞こえた。 「……きりしま、さん……」 俺は立ち上がり、ゆっくりと彼の方を振り返る。 その瞳には今までのような拒絶ではなく、正体不明の熱を恐れるような、複雑な色が混じっている。 「蓮水さん。今日は、部屋の片付けだけさせてください。それが終わったら帰ります」 俺は努めて穏やかに言った。 旦那さんに許可を求めた俺の背中は、今の蓮水さんにどう映っているのだろうか。

ともだちにシェアしよう!