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第5話雑巾の置き場所
蓮水さんが何も言わないのをいいことに、俺は立ち上がって部屋の片付けを始めた。
ひっくり返った椅子を戻し、粉々になった欠片を慎重に拾い集める。
シーリングライトの割れたカバーが、無残な骸のように床に散らばっていた。
沈黙だけが流れる部屋で、俺の動く音だけがやけに大きく響く。
「蓮水さん。雑巾、どこにありますか?」
俺がそう尋ねると蓮水さんはハッとしたように顔を上げ、慌ててソファから立ち上がろうとした。
「あ、すみません……、俺が」
「座っててください」
キッチンから手だけで蓮水さんを止めた。
「指示だけしてください。俺が動きますから」
「あ、えと。洗面所の、水道の……一番下の棚に、あると思います」
蓮水さんは、力なくソファに座り直し、申し訳なさそうに視線を伏せた。
俺は言われた通り洗面所に向かい、湿り気のない清潔な洗面台の下を開ける。そこには整然と畳まれた雑巾が並んでいた。
「雑巾の置き場所って、大体みんな同じなんですね。俺の家もそこですよ」
戻りながらそう言うと、蓮水さんの表情がほんのわずかだけ緩んだような気がした。
バケツに水を汲み、床の赤黒い汚れを拭き取る。
一度、二度と絞るたびに、水が濁っていく。
この部屋にこびりついていた絶望を、一つずつ剥がしていくような作業。
背後で、蓮水さんがじっと俺の背中を見ているのがわかった。
「……すみません」
蓮水さんがまた力無く謝罪を口にした。
俺は手を止めずに、濁った雑巾をバケツの中でゆすいだ。
「もう謝らないでください。俺がお節介でやってることです。隣人がお節介だとこういう時大変ですね」
床にこびりついていた赤黒い染みが消え、元のフローリングの色が見えてくる。
一通り拭き上げ、俺は立ち上がってバルコニーに目をやった。
窓越しに見えるライムの木。
暗闇の中で、その葉は力無く丸くなり、しなびている。
「あのライム、水、しばらくやってないですよね」
「……え」
蓮水さんが顔を上げる。
「あ、……そうだ……あの人が、大事にしてたのに……」
「今からでも間に合いますよ。葉が丸まってるだけなら、根はまだ生きてると思うんで」
俺はバケツの水を捨て、新しく水を汲んだ。
窓を開けると、冷たい夜風が部屋の空気を入れ替えて、重苦しさが幾分か軽くなる気がする。
俺はジョウロ代わりに、手近にあったコップに水を汲み、ライムの根元に少しだけ注いだ。
「植物用の栄養剤も見繕います。だから蓮水さんはちゃんと寝て、治すことだけ考えてください」
乾いた土が、音を立てるように水を吸い込んでいく。
その様子を、蓮水さんはリビングのソファから見つめていた。
「少し経てばちゃんとシャキッとしますよ」
——まぁ、俺もそんなに植物に詳しい訳じゃないんだけど。
俺は窓を閉め、部屋の温度が下がらないように鍵をかけた。
部屋は、俺が来た時よりも少し明るく、生活の匂いが戻っている気がする。
「……ありがとうございます、桐嶋さん」
あぁ、やっと“すみません”じゃなくなった。
微かに震える声で紡がれたその言葉に、俺は初めて、自分がこの部屋に踏み込んだことへの許しを得たような気がした。
だが、安堵したのも束の間、俺の脳裏に明日のスケジュールが冷徹に浮かび上がった。
明日は、数ヶ月前から準備してきた大事な会議がある。
俺がプレゼンを仕切って、プロジェクトの命運が決まる日だ。
順調にキャリアを積んできた俺にとって、大事な日だったはずなのに。
それでも。
「蓮水さん。明日、病院の診察が始まる時間に合わせて、迎えに来ます」
「え……でも、桐嶋さん、お仕事が……」
蓮水さんは慌てて首を振った。
これ以上の恩義を重ねることに、彼の理性が警報を鳴らしている。
「……じゃあ、こうしましょう」
俺はスマホを取り出し、画面を操作しながら歩み寄った。
「明日の九時から、実はどうしても外せない会議があるんです。だから、朝は俺が予約したタクシーで一緒に病院まで行きましょう」
「でも、桐嶋さんお仕事に……」
「蓮水さんを降ろした後、俺はそのままそのタクシーで出社します。会議が終われば、すぐに病院に戻ります」
強引なのはわかっている。
それでも、どうしてもこの人が気にかかる。
怪我をした子猫を拾ってしまった感覚に似ているのかもしれない。
明日の事なら、朝の送り出しを自分の目で見届け、会議を最速かつ完璧に終わらせて、タクシーを飛ばせばなんとかなるだろうから。
「そこまでしてもらわなくても……」
「え?駄目ですか?」
「駄目じゃ……ないです……けど」
「じゃあ決まり」
蓮水さんは、降参したように小さく息を吐いた。
俺はタクシーの予約の画面を閉じ、自分のスマホの連絡先画面を差し出した。
「何か困った事があったら、すぐに連絡してください。夜中でも、明日の朝でも」
「あ、……はい……ありがとうございます」
蓮水さんは震える指先で、自分のスマホを取り出した。
これまで、壁一枚を隔てて一年以上も隣り合って暮らしてきたのに。
画面が重なり、デジタルな信号が交換されるだけで、俺たちの関係がただの隣人という曖昧な境界線を越えて、実体を伴ったものに変わっていくような錯覚に陥る。
登録された『理玖』という名前に、胸の奥が微かに熱くなった。
「あ、じゃあ、一度テストで送りますね」
俺が心の中で変な動揺をしている事を押し殺して、適当なスタンプを一つ送ると、彼の手の中でスマホが短く震えた。
蓮水さんはそれを見て今度こそ本当に、少しだけ安心したように眉を下げた。
「……ありがとうございます……本当に、何から何まで…」
「いいんです。じゃあ、俺は部屋に戻ります……本当に、何かあったら遠慮なく」
俺はバケツと汚れた雑巾を片付け、自分の部屋へと戻るために玄関へ向かった。
扉を閉める間際、振り返ると、蓮水さんはソファに座ったまま、俺が水をやったライムの木をじっと見つめていた。
自分の部屋に戻り、静寂の中に放り出される。
俺はすぐさまパソコンを開き、明日のプレゼン資料の最終チェックを始めた。
病院へ駆けつける時間を捻出するために、会議を最短で、かつ完璧な結果で終わらせる必要がある。
数時間前まで、この資料こそが俺のすべてだったはずなのに。
プロジェクトの成功報酬よりも、診察を終え心細そうに待っているであろうあの人が少しでも安心してくれたら。
そんな事を考える自分がいる事に驚きつつ、それでも悪い気はしなかった。
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