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第6話 水を得たライム
翌朝。
俺はいつものアラームより早く起きてしまい、自分の支度を早々に済ませていた。
予約していたタクシーの到着を知らせる通知が届くと同時に隣のインターホンを鳴らした。
「おはようございます」
少しだけ、昨日より悲壮感の薄くなった顔。
血色はまだ良いとは言えないけど、深い海の底に沈んでいたような表情は少し穏やかに見えた気がした。
「何か食べました?」
「あ、いえ……」
「食べないと駄目ですよ。バルコニーのライムみたいになりますよ」
蓮水さんを横抱きにして、静かな廊下を進む。
昨日よりは少しだけ慣れた重み。
エレベーターでエントランスまで降り、タクシーへと彼を運び入れる。
「……よく考えれば、コンシェルジュ使えばよかったですよね……咄嗟に頭が回らなくて桐嶋さんに迷惑かけちゃった……」
シートに身体を落ち着かせた蓮水さんが、ふとそんなことを口にした。
確かに、このマンションのコンシェルジュに頼めば、車椅子の手配もタクシーの呼び出しもスムーズだった。
「そう言えばそう言う人が居ましたね……まあ、咄嗟の時なんてそんなもんですよ」
俺はあえて視線を窓の外へ向けながら、短く答えた。
普段から使わないとなかなかあのエントランスの置物みたいな人たちを咄嗟に思い出すのは難しいだろう。
蓮水さんは、少しは眠れたのだろうか。
「そういえば、あのライム、今朝、少しだけ、葉が開いた気がします」
「……そう見えるなら良かった」
「……昨日よりは苦しそうじゃない気がして」
力なく笑う彼の表情を見て、俺は小さく息を吐いた。
植物が一日で劇的に復活することなんてない。
丸まった葉が元に戻るには、じっくりと時間をかけて水を吸い上げる必要がある。
それでも彼がそう感じられたのなら、それでいい。
死んだように丸まっていたのは、ライムの葉だけじゃなかったはずだから。
タクシーが病院のロータリーへと滑り込む。
俺のスマホには、会社から会議の最終確認の通知がひっきりなしに届き始めていた。
「じゃあ、俺はここで。会議が終わったらすぐに戻って来ますから。勝手に帰らないでくださいね」
俺の過剰な念押しに、蓮水さんがまた弱弱しく笑った。
「……はい。頑張ってください、お仕事」
「……うん……行ってきます」
タクシーのドアが閉まる。
看護師に付き添われて遠ざかっていく背中を見送りながら、俺は運転手に行き先を告げる。
窓の外を流れる景色が、昨夜のそれとは違う、冬の鋭い突き刺さるような朝の光に満ちている。
誰かに「お仕事頑張ってください」なんて言われることが、こんなにも胸の奥を突き動かし、高揚させるものだとは知らなかった。
心がほんのりと暖かい感じがする。
蓮水さんを見て、ふと自分が忘れかけていた結婚について考える。
結婚なんて、今まで自分の人生には不要なコストだとさえ思っていた。
——けれど、もしも。
毎日同じ飯を食べて、バルコニーでタバコ吸いながら見えない都会の星を眺めて、休日にゆっくりコーヒーを飲む。
コンビニの袋と読み終わった資料が積み上がったダイニングテーブルを見て、「ちゃんと捨てて」なんて呆れられながらも一緒に片づける人がいたら。
そんな誰かのいる日常が、少し愛おしく思える気がした。
俺は一度目を閉じ、浮ついた思考をリセットする。
今はそれどころじゃないんだった。
スマホの画面に並ぶ、プロジェクトメンバーからの進捗報告と、上司からの期待に満ちたプレッシャー。
タクシーを降り、ビルのエントランスを抜けてセキュリティゲートにカードをかざす。
電子音と共に、社員としての役割が戻ってくる。
「おはようございます。桐嶋さん、最終プレゼンの資料、昨夜修正していただいた分で確定しています」
「ありがと。プロジェクターも大丈夫?」
「万全です。部長も、今日は期待してるって言ってましたよ」
「やだなぁ俺プレッシャーにあんまり強くないのに」
「机の上の整理も苦手ですもんね」
チームに少しだけリラックスした空気が流れる。
それでも、会議室の重厚な扉が閉まった瞬間、俺の意識は研ぎ澄まされた。
昨夜、バタつきながらも完璧に作り上げた資料。
淀みないプレゼン、予測していた質問への回答。
上司の満足げな頷きと共に、プロジェクトの承認が下りる。
「桐嶋、この後、役員とランチに——」
「あぁぁすみません! 外せない用事があって。今日はこれ以降リモートで対応します!お疲れ様でした!!」
驚く周囲を背に、俺はノートPCを鞄に放り込み、オフィスを飛び出した。
エレベーターを待つ時間さえもどかしく、大通りで空車のタクシーを捕まえる。
あの人が待っているであろう病院へ。
自動ドアを抜けて、広い待合室を見渡すと、そこだけ真っ暗になったみたいに不自然なほど静かに座る彼を見つけた。
その横には、無機質なアルミの松葉杖。
蓮水さんは窓の外の揺れる木の枝をぼんやりと眺めている。
「蓮水さん」
「あ……桐嶋さん」
「……遅くなってすみません。どうでした?」
穏やかな笑顔を貼り付けて問いかけると、蓮水さんは自分の足元に視線を落とした。
真新しい包帯と、がっしりと固められたギプス。
「手術までは、しなくていいって……。骨が、綺麗に折れてるから、このまま固定して様子を見ましょうって言われました」
「……そっかぁ……よかったぁ」
自分が思っていた以上に、俺は彼の身を案じていたようだ。
その俺を見て、蓮水さんは少しだけ目を丸くした。
それから、俺の額に浮かんだ汗を申し訳なさそうに見つめてから、ふにゃりと弱々しく笑った。
「桐嶋さん、……汗、すごい。そんなに急いでくれたんですか」
「いえいえ。ほら、手も足も怪我だと何かと不便だろうなって思って」
俺は彼の隣に腰を下ろし、膝に手をついて呼吸を整えた。
蓮水さんが会計を済ませ、薬局で薬を受け取って、一緒に外に出る。
「蓮水さん、この後よかったら、一緒にお昼食べませんか?」
「え、でも……桐嶋さん、お仕事……」
「午後はリモートなんで……それより、俺、朝から何も食べてなくて。腹減っちゃって」
「……あ、そうですよね。お忙しかったんですもんね。でも、俺、あんまり食欲なくて……」
案の定、蓮水さんは申し訳なさそうに視線を落とした。
昨日からの衰弱ぶりを見れば当然だ。
重い食事どころかまともな食事すらしていなかったのだろうから。
「じゃあ、俺の食事に付き合ってもらっていいですか?家の近くの新しくできたカフェ、知ってますか?コンソメスープがめちゃくちゃ美味しいんですよ」
「スープ……」
「ええ。蓮水さんは、コーヒーだけでも、一口スープを啜るだけでもいい……このまま帰っても、一人で何か作る元気ないでしょ?」
「……それは、そうですけど……」
腹が減った男が、昼食にわざわざスープが売りの店を選ぶわけがないのにまぁ自分の口からぺらぺらと言葉が出てくる。
独り身で食事を作る能力が無い事が幸いした。
デリバリーで食べる飯と、家の近くの店には詳しいんだ俺は。
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