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第15話 そこに在る三人
「……今日、ですね」
テーブルの上に置かれた白い骨箱。
あの冬から一年、俺たちが食事をするときも、ソファで肩を並べて本を読むときも、ずっとそこにあった彼の居場所。
「……はい」
蓮水さんは、丁寧に包まれたその箱を、もう震えることのない手で抱き上げた。
そこにはもう、かつての痛々しいほどの執着はない。
彼を骨として手放し、自分の中の記憶として生きていく。
その整理がつくまで、俺はこの一年間、彼の隣でひたすら今を更新し続けてきた。
「……桐嶋さん、タクシー、下に来たみたいです」
蓮水さんの声に、俺は手早くジャケットを羽織った。
「行きましょうか」
蓮水さんは、白い布に包まれた骨箱を、赤ん坊を抱くように大切に胸に抱えた。
玄関を出て、エレベーターで下へ向かう。
一年という月日が、彼の背負っていた悲劇を、少しずつ生活という名の柔らかな皮膚で覆ってくれていた。
マンションのロータリーにタクシーが静かに待機していた。
運転手に目的地を告げ、俺たちは後部座席に乗り込む。
狭い車内。
俺と蓮水さんの間には、あの白い骨箱が鎮座している。
かつては、俺と彼の間にあった、絶対に越えられない断絶の象徴だった。
けれど今は、その冷たい箱越しに、俺の指先が彼の膝にそっと触れている。
俺はただの隣人。
けれど、誰よりも彼に近い場所にいる。
「……桐嶋さん」
「なんですか」
「帰りに、何か美味しいもの、食べて帰りませんか……お腹、空きそうです」
そう言って少しだけ笑った蓮水さんの表情に、俺は胸の奥が熱くなるのを感じる。
悲しみも、罪悪感も、全部消えたわけじゃない。
けれど彼は、たしかにお腹が空くという生の営みを、俺と一緒に過ごそうとしている。
そんな話をしながらふと思い出す。
「蓮水さん」
「はい」
「季節外れのタルト、覚えてますか?あのお店、近くにあるんですよ。買って帰りましょう。今度は、形を崩さないように」
「そうですね」
納骨を終えて、食事を終えた帰り道、タルトを三つ買った。
部屋に戻ると、リビングはなぜか驚くほど広く感じられた。
一年の間、そこにあるのが当たり前だった白い箱がない。
その代わりに、俺たちは三つのタルトを並べた。
一つは俺、一つは蓮水さん。
そしてもう一つは、遺影の前に。
何のお祝いでもない。けれど、三人で囲む最後の食卓のような、そんな不思議な儀式だった。
「……あ」
蓮水さんが、ふと部屋の隅に視線を向けた。
寒さをしのぐためにリビングに戻されたライムの鉢植え。
「ライム……彼が、“理玖みたい”って、よく言ってたんです。意味は、教えてくれなかったんですけど」
蓮水さんが、愛おしそうにその葉を見る。
その表情には、もう自分を刺すような鋭い痛みは無く、俺に旦那さんの話をするときも穏やかな顔をしている。
「世話が焼けるってことですかね?」
俺がそう言うと、蓮水さんは「ひどいなぁ」と、力なく、けれどどこか嬉しそうに笑った。
彼は知らないだろう。
この部屋の隅で、凛として立っているこの木が、本当はどれほど脆く、手のかかる生き物なのかを。
ライムの木は、放っておけばすぐに害虫がつく。
ライムは実をつけるために、驚くほどたくさんの体力を使う。
花を咲かせ、小さな実を育て、そのいくつかを自分で落として、残った実に栄養を集める。
生き残るために、自分で手放すものを選ぶ植物。
……世話が焼ける。
本当に、その通りだ。
一度立ち止まれば、そのまま腐り落ちてしまいそうな危うさ。
……本当に、蓮水さんみたい。
俺は心の中で、遺影の中の男にそっと毒づいた。
この木が「理玖みたいだ」と言った彼の真意は、結局のところ誰にも分からない。
けれど、彼がこの木を遺した理由は、今なら痛いほどよく分かる。
一人では冬を越せない。
目を離せば、すぐに何かに蝕まれてしまう。
だから、誰かがそばにいて、土を耕し、水をやり、その小さな変化に気づき続けなければならないのだ。
「……これからは、俺も一緒に育てますから。一人じゃ、水やり忘れるかもしれないし」
俺がそう言うと、蓮水さんは「そうですね」と、笑った。
待てよ、ライムの害虫のつきやすさ。
もしかして。
「……害虫がつきやすいって、要はモテモテってことですかね?」
俺がわざと意地悪くそう言うと、蓮水さんは「そんな事無いと思いますよ」と、笑った。
冗談めかして言ったものの、案外、的を射ているのかもしれない。
この男は、放っておいても人の目を引く。
その見た目や中身の純粋さに惹かれて、有象無象の虫たちが寄ってくるのを、あの旦那さんはずっとハラハラしながら追い払っていたんじゃないか。
一度味を占めたら離れられない、刺激的な香り。
でも、寄ってくるのは蝶や蜂のような綺麗なものばかりじゃない。
弱ったところを食い物にしようとする、質の悪い連中だっていただろう。
「……何をそんなに、真剣な顔して考えてるんですか?」
蓮水さんが、フォークを止めて不思議そうに俺を覗き込んでくる。
「いや。……これからも、俺がしっかり虫除けしてやらないとなって思ってただけです」
「……? ライム、ですか?」
「色々」
首を傾げる蓮水さんの、その無防備な表情と重力に揺れる淡い色の髪。
旦那さんが守り、育てた、このあまりに世話の焼けるライム。
今度こそ、ライムも、蓮水さんも、俺が守って良いですかね?
俺は心の中で遺影の男に短く告げると、自分の分のタルトを思い切りよく口に運んだ。
酸っぱくて、甘い。
最高に複雑で、愛おしい味がした。
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